小亞細亞横斷旅行談/第二回


小亞細亞横斷旅行談(承前)
工學博士 伊東忠太

さてエレグリを出發し滊車に由て順路カラマンに行きました、滊車の出來ませぬ中はカラマンを經由せずに、一直線にコニアに行く路がありましたが今は殆と廢道になつてしまいました、エレグリ、カラマン間は茫々たる平野で所々に死火山が點出されて居る。就中カラマンの北に當て黒岳カラダーグ高く聳へ山中にビンビルキリセと名くる故趾があります、即ち百一寺と云ふ意味でビザンチン時代の古建築が残て居るそうですが、遂に訪問を果しませんでした

カラマンはエレグリの西南八十五粁、滊車で二時間半程の處で、今日では非常に荒れ果て、人口一萬未満でありますが、歴史的には頗る有名です、即ち昔はラランダと云つた所であります、中古に回教徒である所のセルヂユークと云ふ土耳其人が這入つて來て所謂ルーム國を建てコニアに都したのでありますが、此のルーム國が十四世紀の初に滅びて其の土地が十に分裂した、其の中で此のカラマンが一番強くつて、其領土を擴げて、遙かに北の方までも行つたことがあります、此の強大なるソルタン國の首府は即ち此處でありました、併し此のカラマン國は千四百七十二年頃でありましたがオスマントルコのスルタン、ムハンマツド第二の爲に併呑されて、今日では引績いて土耳其領になつて居るのでありますが、なほカラマン王國時代の遺物が今に残つて居ります、夫は紀元後三百年から千四百年までの間の遺物であります、即ち最古のものはビザンチン式、後のものはセルヂユーク式であります、此のセルヂユーク式の事に付きましては未だ餘り世の中に紹介されて居ないやうに考へますから今日は特にセルヂユークの藝術の要領を御話して置きたいと思ひます、

それで此所に在ります寫眞はハツニエ、メドレツセーと云ふものです、メドレツセーと云ふのは回教徒の學校のことであります、此のメドレツセーのやり方は中央に中庭を取りまして其の周圍に學生の居る所を取り、正面に一段高い講堂を取り中庭の中央に噴水を置くのが一般の風習でありましたが、此の寫眞は講堂の横の部屋の戸でありまして此の寫眞は入口の門であります、之をよく御覧になると非常に細かな彫刻が施してあります、で此の模樣は亜刺比亜系統でありまして、然かも一層東洋に近い趣味を有して居ります、即ち波斯趣味を非常に持つて居る所が面白い、即ち所謂セルヂユーク式です、是から先きに追ひセルヂユーク式の遺物が出て來ますから尚ほそれに付て追ひ特色を御話しやうと思ひます、此の寫眞も同じくカラマンにあるメドレツセ的の寺でエミル、ムサ、ジヤーミと云ひます、丸い細高い塔が附属して居ます次にイマレツトジヤーミ、これもメドレツセ的で波斯的の装飾紋様がある、それから是はカラマンの古城であります、是はビザンチン時代に出來たのをカラマン時代に修築したのが即ち是であります、所々にビザンチン式の痕跡が見へます、(寫眞略之)

カラマンは海抜四千〇五十尺に達し南にタウルスを負て居るので氣候冱寒です、十二月九日の朝、寒暖計華氏の十四度を示しました、これは私の三年有餘の族行中で經驗しました最低温度です勿論温帯地方のことですから寒いと云つても多寡の知れたものです、

それから今度はカラマンを立つて西北の方コニアに参りました此の間も非常に曠漠たる原野でありまして、唯細かい短い草が一面に生えて居る斗りで、多くの羊や牛の諸處に群居するのを見ましたが耕作したる畑などはありませぬ、此の間は百十粁で、汽車で三時間餘を費します

コニアは海抜三千六百尺の高地の上に在る都會の地で、即ちコニア州の首府です。人ロは約四萬五千と云ひます、即ち是は昔のイコニユームであります、イコニユームは非常に古い都であるので、いつから出來たと云ふはつきりした年代は分つて居りませぬ、それで昔希臘羅馬の時に此の地方は丁度リカオニアと云つた土地に當る、さうして此の當時多島海岸にあるエフエソスと云ふ希臘の殖民地の繁昌した頃は此の希臘からして、内地を經てこちらの波斯及東方亜細亜へ旅行するには必ずイコニユームを通つたもので。夫が爲に非常に繁昌を極めました、今日でも僅ながら希臘羅馬時代の遺物が存在して居ります、それから追々と時代が經過して一千〇九十九年に至り、セルヂユークトルコが亜細亜の方からこちらに這入つて來て此所にスルタン國を拵へた、即ちそれがルーム國であります、此のルーム國はイコニウムを以て首府となし、こゝに澤山の建築を起しました、此のセルヂユーク人は不思議にも建築に對しては獨特の創造力を持つて居りまして、終に一種の流派を大成しました。此のルーム國内に於て今日なほ重要なるセルヂユーク式建築の遺物を有する處は第一にコニアを中心とし、東の方ではスルタンハン、アクセライ、ニグデ、カイザリエ、シウアスよりヂヤルベクルまでに及び、西の方はべイシェヒール、アクシェヒールを始として、遠くキュタヤ、エスキシエヒールに及び、南はカラマン北はアンゴラに到つて居る、要するにセルヂユーク式は建築史上慥かに一の特殊なるスタイルとして取扱はれ得べき性質のものであります、

それからイコニウムは十字軍の時になつてフレデリツク、バルバロツサの爲に一時占領されましたが、バルバロツサの死んだ後に之を回復してルーム國が再び起ちました、その後間もなく成吉思汗に併呑せられ、終に元の附庸國となりました、それで千三百〇七年最後の王アラウッヂンの死後國土分裂して前きに御話したカラマンの世の中になつたのであります、でありますからコニアの遺物と云ふものは大凡千百年から千三百年に至る二百年間の遺物であります、其の二百年間に出來た遺物の中で一番に重要な遺物は即ちアクロポリスでありまして市の中央に小高い丘があります、其所が王城であつた所であります、此の寫眞は王城の門の遺跡でありまして、下に獅子の彫刻がある、(第二版)是は王城の中にある寺の寫眞で此の寺は國王の名に因りアラウッヂン寺と呼んで居ります、即ち千二百十九年から千二百九十年の間に出來たのであります、是は其の寺即モスクの周圍の壁の上の彫刻の寫眞です、此の幾何學的の模様のやり方が面白い、それから此のアーチが面白い、是も同じくさうであります、是は此のアーチの輪廓に斯う云ふ風に輪が互にからんだやうな形に石を嵌込んだのであります、是は寺の内部でありまして、御覧の通り柱が澤山列んで居りますが是は一つ違ひます、多分是は希臘羅馬時代の遣物を方々から集めて來て造つたものと思ひます、其特色は斯様なからみ柱、此の柱と隣の柱とからみ附ける、それから一本の柱を斯う捻ぢる、さう云ふ様なやり方が是には見えるので、それが即ちセルヂユーク式の一つの特色であります

此の寫眞(第十九年第一版)は當時のセルヂユークの特色を、遺憾なく現して居る所の一建築でインジエ、ミナレリ、メドレツセと云ひます、即高塔學堂と譯します、それは斯う云ふ高い塔ですが、此の塔が普通の圓いとか四角とか云ふさう云ふ簡單なものでない、四角だと思ふと十六角になり、十六角であるかと思ふと菊の花の形になると云ふ様に非常に變化して行くのでありまして、その表面は彩瓦を張りつけて非常に美しい模様を現はすのであります、それから此の門であります、這入口の門の寫眞は是でありますが、此のアーチが此所で一つ捻ぢれて居ります、それからこゝには紐の襟なモールヂングが此所で結んだやうに彫刻がしてあります、此所にはセルヂユークの文字を装飾紋様の代りに使用して居ります、斯う云ふ様な特色は外のスタイルにはありませぬ、勿論文字を装飾に用ゐること丈けは回教建築の通性です、それからもう一つの特色は此のドームの形であります、ドームの形は埃及、亜刺比亜、印度其の他の地方のドームでも決して是に似たものはありませぬ、全くセルヂユーク特殊の形をして居ります、

それから次の好例はカラタイ、メドレツセと云ふ建築で、その中堂の上には例の特殊のドームが冠せてありますが、その内部は幾何學的の模様を彩瓦で嵌成してあります、是等もセルヂユークの特色を現して居ります、次にシェーク、サドレッヂン寺、シルチエリ、メドレッセ及サヒーブ、アタなどは何れも大同小異の珍奇なる建築ですが、詳細の説明は略して置きます

それから次に面白い例は墓の一種類で是はチユルベメウラナと云ひます、此の下に墓があります、是は墓の上に建つて居る建物で御覧の通り此の塔のプランは菊花の形をして居ります、さうして此の上にピラミツトのやうな屋根を造つて、表面は非常に美しい青い彩瓦を以て貼りつけてあります、

メクテベ、イ、イダヂと云ふ所には少さい遺物陳列場があつて、此の中に希臘羅馬式の石彫や、セルヂユーク式の物品が蒐集されてあります

夫から茲に特に御報告して置き度いことは回教藝術と動物との關係です、一般に回教藝術に動物は使はないと申しますが、夫は誤です、その證據は此の處に在ります、是はコニアの某古寺の扉であります、是に獅子の形があります、下には翼の生えた獅子の彫刻があります、是れは古代波斯のオリヂンであります、尚ほ他にももう一つ面白い例はヂヤルベクルから出たもので翼の生えた鳥の頭をして獣の形をしたもの、即ちグリフインと稍するものです

此グリフインは大變面白い現象でありまして、セルヂユーク式は亜刺比亜系統ではありますがこの通り動物を使つて居るのです、併し此の動物は後世には澤山は使つて居りませぬが、古い所には此の通り澤山使つてあります。アラビア初期の藝術にも仝様屢々動物の應用を見ます、勿論近頃は所謂アラベスクと稱する線條紋様斗り賞用されて、動物は更に用ゐられないことになりましたセルヂユーク式の藝術に關する詳細のことは枝葉に亘る恐れがありますから今日は省略して置きます

それからコニアを出發しまして又内地の方に進みました、此コニアは海抜三千六百尺ありますが、是から先きは殆と同じ高さで即ち高原の上を行くのです、唯見る一望数十里の鹽漠地、東北は茫々として其の際涯を知らず、西南は物凄いスルタン岳が悪龍の蟠るが如くに聳えて動くかと怪まる、イルギユンを過ぎ、百七十粁にしてアクシェヒール即ち白都に着しました、人口約二萬の都で此所にもセルヂユーク時代の遺物が澤山あります、二三の例を御目にかけましやう

第一にイプリツク、ジヤーミは古の石造の跡に木造を加へたもので、石の部はビザンチン式です

第二にタシユメドレセ即ち石學院は十三世紀の遺物で入口の門は餘程面白いものです、内部の柱は一々その形式が違つて居る、就中このカピタルは實に美しいもので角の花瓶の中から花が出て居る形を彫刻したものです、

第三にチユルベ、サイド、マームツドは十三世紀の遺物で、小なる方形の上に例の菊花形のプランを有するドームを立てたものです、

第四にナスル、エッヂン、ホージヤーの墓は十四世紀のものです、

第五ウールージヤミにはビザンチン式の遺物を混用して居る、

第六シヂ、ムヘツヂンの墓、

第七キユチユツク、ミナレ即ち小塔寺、此の外面には面白いビザンチン式の破片などを寄せ集めて之れを嵌入して居る、

第八アルメニア教の寺これもビザンチン式の痕跡を留めて居ます、

夫から此の外に木造の寺院がわります、その特色は繰形にあるのでありまして、此の柱の上に横木を載せます、此の横木の繰形が一種特別であります、例へば斯んな形をして居るのは是は丁度日本の鎌倉時代に使つたのと同じ物であります、斯う云ふ強い繰形を使つて居ります、是等込外の回教藝術には類が無いセルヂユーク特有のやり方と思ふ、斯う云ふやり方はアクシェヒールに限らず總てのセルヂユークの木造の建築に使はれて居ります。

それからアクシェヒールから又九十七粁ばかり西に向て進むと、今度はアフイオン、カラヒツサルと云ふ所があります、カラヒッサルは即ち黒城の意です、何ぜアフィオンと言つたかと云ふと、此所から阿片が出るからです、アフイオン即ち阿片です、それで此所は小亜細亜の殆んど中心で四通八達の要地であり、高原中でも一番高い所であります、人口は三萬三千、産物は穀物、阿片、羊毛等です、この市街の中央に殆と四方絶壁を成した孤立した丘があります、高さは百五十米しかわりませぬが併し、寄り付けないやうな絶壁でありましてその絶頂にコニアのアラウツヂンが十三世紀に拵へた城壁が遺つてる風景は誠に面白い、まるで畵の樣で到底此の世の菟のとは思へない位です、それから寺としてはイマレツト、ジヤーミ、これは十六世紀の建築でセルヂユーク式の門があり塔には捻れ溝があり、内部にもセルヂユーク的の紋様が見へます、ヨカリ、バザール、メスジツド即ち上市寺は木造の小建築です、チユルベ、サハバレル、スルタンはセルヂユークの遺跡だと云ふこと[1]です

さて此のカラヒッサルから路は二つに分れます、西に行くと鐵道でスミルナに出ます、北は即ち君士坦丁堡街道です、私は兩方共に通つて見ましたが、今回は北の方の御話を致します、それで此の路を北に行くと路の東側にフリジアの古墳が澤山あります。是が又非常に珍しいものでありまして此カラヒッサルの少し北から、エスキシェヒールの南に至るまで一面に此の邊に擴がつて居ります、私の訪問しましたのは其の中の最も著しい五六ヶ所丈けでありましたが、其の外にも非常に澤山あります、是は時代は誠に能く分りませぬが、要するに新しいフリジアと古いフリジアとあります、或るものは古いフリジアに属して居り、又或るものは新しいフリジアに属して居ります、最も古いのは西暦紀元前千年まで、溯り新しいのは希臘羅馬時代の物であります、夫で其の遺物のある箇所の中で一番有名なものはアヤヂン、ヤプルダーグ、ヤヅルカヤ、アスランカヤ、キュンベツトなどと云ふ所であります、私はヂウェルと云ふ所から這入りまして、山野の間を四日間跋渉しましたが實に困難な旅行でありました、

第一にヂウェルから東へ進むとアスランカヤ即ち獅子岩と稱する所がある、こゝには天然の岩石に龕を堀り込み其側面に巨大な獅子の浮彫を施してある、なほ東南に進んでクンドヅルと云ふ所へ行くと凡そ六七丈立方の巨岩の前面に例の小さい窟を堀り込み、その上に左右から獅子が相對して立ちかゝつて居る姿を刻出してある獅子の丈けは四丈もありましやうか、實に壮大なものです、これは彼の有名な希臘のミケネにある獅子門と殆んと同樣な意匠です、この附近にこれと類似の獅子岩の破壊して地上に落て居るものがありました、これが即ちその寫眞で、獅子の頭がこゝに横つて居ますが凡そ六尺許りの大さです、この窟内に珍奇な薄肉刻の人像があります、又やゝ離れた處に岩の前面を鉛直に削つて建築的手法を刻出したものもありました、

こゝから更に東に進んでアヤジンに至りました、小い丘の半腹に無数の窟が鑿たれて居ります、こゝのものは年代が新しい、多くは窟の前面にクラシック趣味の手法が施され、各種のオーダーを造り、上にはペヂメントを架け立派な建築の体裁を備えて居る、内部は種々に室を作つて棺を入れてある、又こゝに一のビザンチン寺院が全く自然の岩から鑿り出されたものがある、實に珍らしいものです、又路傍の三四間位の丸石の内部を刳り抜いて一つのチヤペルにしたものもありました、實に奇抜な考案ではありませんか、夫からこの邊の山中には澤山に陸龜が住んで居りました、大さは七八寸位で半球体の甲を有し、岩石の間に潜んで、草を食て生て居るのです、

アヤジンから正北に向て険悪なる山路を半日程行くとバクシーシと云ふ所へ出る、こゝには巨岩の面を鉛直に削つて建築的彫刻を施したものがある、古代のフリジア時代に属するものです、古代フリジアは西暦紀元前六百七十五年に亡びたのです、バクシーシから東に向て二時間半進むとヤプルダーグと云ふ所へ行きます、こゝにも一群の古墳がありますが、アヤジンのものと大同小異で、屍室の配置は種々雜多です或ものは一家で一墳を作り一家の者が死ぬと順々に堀り廣げて埋めて行くと云ふのもあります、外面はいづれもクラシック的手法を施してあるのです、こゝから更に東北に向て三時間許り進むとヤヅルカヤと云ふ所へ達します、ヤヅは文字カヤは岩でありまして直譯すると文字岩であります、此所には非常に古いものがあります、これがその寫眞で能くアーケオロジーの書物に出て居りますが、ヤヅルカヤのミダの蟇と云ふので、この地方で最も古い物の一つとしてあります、是は天然の岩を垂直に平に切つて、そこへ建築的のゲーブルを附けて表面に幾何學的の紋様を彫刻したものです、それから文字は斯う云ふゲーブルの上及横の上の部分に彫り込んでありまして其文字が近頃追追と分つて來ましたのでそれに依つて略〻年代も分るやうになりました、それからこの附近にまたこれと同種の遺物がある、これがその寫眞です、實に奇妙な意匠ではありませんか、

ヤズルカヤから西北に向つて四時間餘り行くとキユンベットと云ふ村に來ます、此附近にも無数の古墳が壘々として存在して居ます、村の古城の内に例の獅子の附いたゲーブルを備へた墓窟があります、同所に又セルジユーク式の古寺もありました、キユンベットはヂウェルの東北に當り、順路グルカと云ふ村を經由して一日程です、

ヤズルカヤで珍らしく感じましたのは校倉造りの民家でありました、此の邊は山には皆松が生ひ茂り、大きなものは高さ十間直徑三尺に及びます、土人は盛にこの松を伐採し、谿河の水を利用して水車を仕掛け、松材を製して居りました、夫で民家の多くはこの松の丸太をそのまゝ横に積み重ねて校倉造を作るのです、屋根も板葺ですが、その上に鶴が來て巣を作つて居る有様などは一寸奇です、土人はチュルコマン種でめる様です、我々日本人とよく似て居ります、

このフリジアの古墳建築のことは近頃アーケオロジーの尤も趣味ある好問題として追追研究されて居る様です、何れ尚ほよく調べまして他日再び御清聴を煩はしたいと思つて居ります

今は只だ現場の有様の一斑と所在地とを御紹介する位のことで、なほ之れに關する寫眞が二三十枚ありますから、御覧を願ひます、

それで此のフリジアの古墳地を去つて今度はキュタヤと云ふ所に参りました、こゝは海抜三千百三十尺、人口は二萬三千です、是は昔カラマン領になつた時にカラマンの首府になつた所で其の時分に出來た城壁が今遺つて居ります、この城の中にカレーバラ、ジヤーミと云ふ木造の小建築がありますが、これは千三百七十五年の建立です、又メヂヂエ、メドレッセは千三百四年の建立です、ウールー、ジヤーミは希臘建築の遺物を集めて作つたものです、その外にキュタヤで見るべきものは、絨氈製造です、それから彩瓦も造つて居ります、それで絨氈は土耳其の特産物でありますが特に之をキュタヤで製造して居るので、是は古代模様を其の儘使つて居れば宜いのに愸じに新しい模様を拵るので却つて評別を落して居りますが、併し仕事は熟練したもので巧であります、價は上等品一米四方に付き十圓、普通品五圓位でありました、それから彩瓦は昔のやうに趣味のある物は今日は出來なくなりました、

キュタヤから西南凡そ七十粁参りました所にチヨーヂルヒツサルと云ふ所があります此所は即ち古のアイザニと云ふ所で此所には羅馬のハドリアン皇帝の修繕をしたと云ふジユピターの寺院の廢趾があります、建築はイオニア式ですそれから希臘時代の劇場及びヒッポドロムの廢趾があります、年代は西暦紀元二百年頃と云ふこと[1]でありますから羅馬時代でありますが、スタイルは希臘のスタイルであります。總じて小亜細亜に行はれたクラシック式は、多少歐州本土に於けるものと異なつた點があつて、自ら別種のスタイルを成して居ります。

それからアイザニから再びキュタヤに歸つて更に歩を進めて東北七十七粁に於けるエスキシエヒール即ち古都に行きました、こゝは海抜二千六百尺、人口一萬餘、古へのドリレオンてあると云ふことです。此所には有名な温泉があります、温度は攝氏の五十度で少しく硫黄を含み酸味があります。又メールシヤウムを夥しく産します、市から東方二三十粁の處に最多く出るので二千人もその採掘に從事して居るそうです、土人は之を以てパイプなどを製して居ますが至て不器用な細工です、温泉は市の中に公衆の混浴場があります、この市中には別に古建築の見るべきものはありません。

私はエスキシエヒールを出發して東方二百六十一粁に當るアンゴラ州の首府アンゴラ市まで行つて見ました。途中は一望百里の平野で牧草がよく繁て居る斗り、更に樹林も耕地も見へません山もみな裸です、其の間に牛羊の群が點出されて居る、光景は丸で北清と同しことです、

さてアンゴラ市は一の小丘の上に畵の如く建てられた都會で、人口二萬八千、海抜二千七百九十尺です、此の地方は昔のガラチアと云ふ國に當りまして、羅馬のアウグストス帝の時ガラチアの首府であつたのであります、其の後西暦千三百六十年にムーラッド第一、この地を占領しましたが、千四百〇二年に帖木兒が韃靼から來て小亜細亜を襲ふた時にオスマンのスルタンなるベヤヂッド第一が之と此のアンゴラに會戦して大敗し、帖木兒の爲に捕へられたので有名な古戦場となりました、市内に遠跡も澤山あります、第一はアウグステウムと云ひアウグストスが建立した寺であります、今なほ一部残つて居ますが實に珍しい次にアスランハーネ即ち獅舎寺と云ふ回教寺がありますが、是は柱は残らず石造で希臘羅馬時代及びビザンチン時代のものでありますが、柱以上皆な木材です、其の木の繰形及び曲線の工合が總て日本のやり方と同じであります。殊に畵様は鎌倉時代の雲形と寸分違はないと云ふ不思議な現象を此所で見て來ました、その外ハジ、バイラム及メルリハネなど共に見るべき回教建築です、又城寨にはアラウッヂンの寺がありました

アンゴラの特産物は有名なるアンゴラゴートと云ふ一種の羊の毛であります、それは他國に類が無い、絹絲のやうな細い柔かな毛です、是はアンゴラの特産で同時に土耳其の重要なる特産物になつて居ります、又駱駝の毛も多く産出します。

アンゴラから再びエスキシヒールに歸つて北に向て小亜細亜高原を下りました、此間の路は概 ね四十分一の急勾配で中央高地から黒海沿岸の低地に向けて下るのです、ビレヂックを過ぎサカリア河に沿ふてこの斜面を下り終ると此所にアタバザーと云ふ所があります、此所に行く途中に羅馬時代の橋が完全に残つて居ります、それは元來ナカリア河に架けたのでありまして、サカリア河は昔はニコメヂアの灣に注いだものであるそうです。この橋は西暦五百六十一年にジアスチニアン帝の架けたもので、全部大理石を以て造り、下には八の拱を架し、長さ四百二十七米、幅二十三米あります。

鐵道は是より西に折れてイズミッドと云ふ所に出ます、イズミッドはイズミッド灣の奥に位せる市で人口今二萬五千あります。これは西暦紀元前二百六十四年にビチニアの王ニコミデスが創建したのでニコメヂアと稱せられた歴史的の古都である、今なほ當時の遺物があります、即ち街の周圍の壁の一部に古代の残影が遺つて居るのです、尚ほニコメヂア灣の北岸に沿ふて西の方に進んで行とやがてボスポラス海峡に達します、海峡の向側は君士坦丁堡で、こちら側はスクタリであります、エスキシエヒールからスクタリまで鐵路三百十七粁です、

以上は私が叙利亜を去て君士但丁堡に着しました間の順路の概略の御話であります。誠に時間 が不十分なのと、それから調も十分盡して居りませぬので甚だ雜駁な御話でありました、尚ほ私は、土耳其に参りまして暫く君士塩丁堡を調査し、一度ブルツサに遊び、それから小亜細亜の西海岸の昔の希臘の殖民地地方即ちペルガモン、エフエソス、プリエネ、ミレトス、ヂヂモイ等を歴訪しました、何れ又機を見て御話申すことに致します(完結)

 

Journ. Geogr. Vol. XIX. Pl. V.
地學雜誌第十九年第五版第一圖
小亞細亞アヤジン附近󠄁のアスランタッシュ(獅子岩)フリジア時代の墳墓

第一圖 小亞細亞アヤジン附近のアスランタッシュ(獅子岩)フリジア時代の墳墓

Phrygian Tomb (Arslan-Tashe) between Demerli and Hairan-Veli, 8 kilom from the Station, Hamam.

 

第二圖小亞細亞バクシシュ附近󠄁の墳墓(フリジア時代)

第二圖小亞細亞バクシシュ附近の墳墓(フリジア時代)

Phrygian Tomb near Dakshishe, 8 kilom South of Goumbet.

  1. 1.0 1.1 底本では「こと」の合略仮名