小亞細亞横斷旅行談/第一回


小亞細亞横斷旅行談
工學博士 伊東忠太

小亞細亞の旅行談をする前󠄁に小亞細亞の土地の有樣を一通󠄁り御話した方が、便利だと思ひますから先づ小亞細亞全󠄁體の地形及歷史の一班を御話しゝます

小亞細亞とは元來 Asia Minor の直鐸で、我々は今日小亞細亞と通󠄁稱して居りますが實際其の土地に行つて見ると小亞細亞と云ふ意味の言葉は用ゐられて居りませぬ、土耳其人は小亞細亞のことをアナドールと呼て居る、即ち歐羅巴人の所謂アナトリアのことで、アナドール即ち小亞細亞はどれだけの範圍を包󠄁括して居るかと云ふと、是は非常に漠然として居て一向定つた限界はありませぬ、附圖第三版は小亞細亞の一部分󠄁ですが、御承知の通󠄁り北は黑海、西は希臘の多島海、南は地中海の三方の海から取圍まれて居る一つの半󠄁島であります、こちらの東の奧の方はどこまでを含まれるかと云ふことは一向定つて居りませぬ、それで大凡叙里亞と小亞細亞との此の境にアレキサンドレツト即ちイスケンデルンの灣があります。イスケンデルンの灣から東北の方に斜󠄁に引いて行くと大凡此の邊の所に黒海に臨んでトレビゾンドと云ふ港があります、大凡此の線の以西を通稱アナトリアと云つて居るのであります、

今日土耳其政府に於きまして此のアナドールを幾つかの州に分つて居ります、其の名稱は第一ダーダネルス海峡の邉をビガーと云ひ、其の南多島海に面する地方をアイヂンと稱へて居ります、それからマルマラ海の南の邊から深く内地に入り込んでフダベンヂギアル州があり、マルマラ海の東にイズミツド州があります。イズミツドの東黒海に沿ふた地方をカスタムニ州と云ひ.その南の高地をアンゴラ州と稱へ、それからその又南の高地から一部地十海に出て居る地方をコニア州と云ひ、其の東南の隅に當て地中海の東北隅に臨む地方をアダナ州と云ひ、アンゴラ、コニアの東の方に當るのをシワス州と稱して居ります、シワスの北の一體黒海に面する部分がトレゼゾンド州である、先づ是だけの州を總稱して小亜細亜或はアナドールと名けて居るものと解繹して差支ありません、

小亜細亜の地形は中央の部分が非常な高原で其の高さは平均海抜三千尺を出入して居ります、西北南の三方に向つて急に斜面が海まで延びて、殊に南の斜面はタウルス山脈に由て明瞭に書成されて居りまず、タウルス山脈は殆と地中海に竝行して走り東はアルメニアの高地に行て次第に消えて仕舞ふ。此の山脈は小亜細亜中で一番に目立つ大きな山脈で、地理上にも歴史上にも最も重要なものゝ一つてあります、其最高峰ブルガル岳は直立二萬二千尺に及びます、但し小亜細亜第一の高山はカイザリエの南方エルジエス岳で直立一万四千尺あります、それから北と西は高原と低地との境が明瞭に無くして非常に複雑あ山脈に依つて漸次低地に下つて居ります、さう云ふ地形ですからして小亜細亜には大なる河はありませぬ、稍々大きな河は北の方に流れるキジール、イルマーク河、是は歴史的には有名であるが河としては役を爲して居りませぬ。一向運輸の便にはなりませぬ、之に次てサカリア河も同様無用な河であります、南の方はタウルスの急斜面でありますから大きは河はありませぬ、只だサロス、プロムスの二河は歴史的に有名であります、西海に注く河の中でメアンデル及ヘルモスの二河は古來尤も有名ですが、均しく運輸の便を與へません、小亜細亜の地形は概略右様な鐸です、

斯かる地形ですから南の方より西の海岸の低地の部分は土地が豊饒で氣候も温暖ですから、昔から繁昌した國もありました、此の内地の方は曠漠たる平野で氣候も寒く交通運輸の便の無い爲に、昔から此所に大きな國の出來た例はありませぬ、一時出來ても長くは續きません、それで御承知の通り古代希臘時代からして長く榮へた土地は皆な此の多島海に面した地方で、此地方は一番早くから開けましたから從つて遺物の古い面白い物が、此の海岸及び近海の島嶼に澤山存在して居ります。

次ぎに小亜細亜に往つて居る人種に付てざつと御話しすると、之を三種類に大別することが出來ます、第一は土耳其人種で、是は大多数でありますが、其の中著しいものはオスマン、トルコ即ち今日の土耳其政府を建つたオスマン、それからセルヂユーク、トルコ即ち今のオスマン、トルコの這入る前に此小亜細亜の内部に國を建つて居つたセルヂユーク、トルコ、それからトルコマン、タータルと云ふ風に土耳其人の中にも色々の種類が分れて居り、一見しては殆と別人種かと思ふ位ゐに違つた容貌を持つて居ります、第二はアルメニヤ人で、之は一種特別の文字と言語を有て居ますが、言語は印度語に似て居るのは不思議です。その人口は今日世界中で四百萬と云ふことであります、其の中二萬入以上は此の小亜細亜の内に住つて居る、アルメニア人の根據地は東方の山地ですが併し小亜細亜到る所にそれが分布されて居ります、重もに通商貿易に從事して金を儲けるのは一番上手だと云ふ評判がある、それ故に餘り他の人種からは好く言はれない、第三は希臘入で、主として海岸地に住つて居る、尤も内地にも這入つて居りますが、内地の方は比較的少ない、土耳其人は希臘入をユナンと呼び、希臘國をユナニスタンと呼びます、これはイヲニヤ人と云ふ意味から轉訛したのです、以上三種は重要なる民族であります、其外に露領の高加索地方から這入つて來て居るチエルケス人種それからメソポタミアの北境なるクールヂスタンから這入つて來たクールド入種、是等がずつとアンゴラ邊まで這入つて居ります、シワスにも澤山居ります即ちクールド人は多島海邊の方までは來て居ませぬがチエルケス人の方は到る所に分布して居ります、其外にスラヴ人種に属するブルガリア人は歐州から亜刺比亜人は叙里亜の方から這入つて雑居して居ります、細かいのは此の他にも猶太人を始め澤山ありますが、重もな人種は今御話した通りであります是等の人間の宗教は土耳其人は回教、アルメニヤ人はアルメニア教と云ふ耶蘇教の一種、希臘人は希臘教を信じてをります。

小亜細亜の交通線路は今日の場合では土耳其の首府が君士坦丁堡でありますから、之を中心として國道が其領土内に敷設されて居る、其亜細亜方面の幹線は、今日は叙里亜街道とバクダード街道が一番の幹線になつて居ります、叙里亜街道は君士坦丁堡からボスポラス海峡を渡て對岸のスクタリアに來て、此所からイズミツドを経てエキシエフヰルに至り、更にコニアを経てアダナと云ふ所に出ます、それからイスケンデルンを経てアンツポに至りダマスカス及ベールートに達し、なほ下てジエルサレムに達します其の次はメソポタミア街道であります、それは君士坦丁堡から出てエキシエフヰルまでは前と同じ路を通つて、それから東に折れてアンゴラに行つて、それからシワスに行きます、それからハルプート、ヂアルベ、クルモスルを経てバクダードに達し更に下てバスラに達し終に波斯灣に出るのであります、此の二つが本街道で今一つ其の中間に中街道がある、それは君士坦丁堡からアンゴラまでは同し路を通つて行きアンゴラからカイザリエに出で、それからマラシ、アインタブに出て一方はアレツポを経て叙里亜に行き、一方はウルフアを経てメソポタミアに行く街道であります、それから波斯灣街道と叙里亜街道とを結付ける幾多の横線がある重なるものはアンゴラからカスタムニに出て黒海の海岸に出る線アンゴラから直ちにコニアに出でる線、コニアからカイザリエを経てシワスに行く線、カイザリエからアダナに出る線など横の線が幾つもあります、海岸回りの線は船の交通が便でありますから交通は船に依つて陸路には依らぬから海岸の道路は餘り發達して居りませぬ、是が先づ此の道路の一般の配置の有樣でございます。

序に申上げて置きたいのは波斯灣鐵道である今日は獨逸が一手に引受けて計畵して居りますが、其の計畵は君士坦丁堡からバスラ、即ちチグリス、ユーフレートの河口の附近なるバスラまで行くのが目的であります、今日まで出來て居るのは最前申した叙里亜街道を通つて、コニア、カラマン、エレグリの各地を通過し、今日はエレグリの東北数哩の所で止つて居ります、是から先きは工事が困難です、ドーしてもタウルスを越えなければならないのです、それでタウルスのどの邊を越えて行くかと云ふことは今研究中で一定の成案は無いやうに聞いて居ります、併し恐らくは此のアダナには出ないでアンチタウルスと云ふ方を回つてアレッポに出て、アレッポからユーフレートに沿ふて下るのであらうと云ふことです、併ながら非常な難工事の上に露西亜政府が色々妨害をするので捗々しく行かぬと云ふことであります、兎に角何れの路を通るとしても將來餘り遠くない中に波斯灣まで此の鐵道が延びて行くに相違ない、私が小亜細亜を横斷しましたのは叙里亜、君士坦丁堡の本街道を通つたのであります。

此の前の叙里亜旅行の御話には埃及の方からバレスタインに上陸し、ジエルサレム、ダマスカス、アレッポを通つてイスケンデルンに達しました所まで御話しましたから、今日はイスケンデルンから君士坦丁堡までの旅行の御話を致さうと思ひます、で元來は陸路を取りまするとイスケンデルン灣から海岸に沿ふてアダナに出るのであります、さうすると大變に時間が掛ります、それ故に私はイスケンデルンから海路を取りメルシナとに上陸しました、此の間が約百六六十粁で六時間を費しました、陸路を參る路は困難の代りに又大變面白い所がある、有名なイッススで御承知の通りアレキサンドル大王がタウルスを越えて叙里トの方に回つて來て波斯の大軍と此所で出會つて殆と波斯軍を全滅せしめたと云ふ大激戦のあつたイツススを通ると、シリシアの平原と申す一つの大平野に出ます、此の平野は即ち今日のアダナ州で、丁度タウルスを北に脊負つて居り、南は地中海に面した豊饒な土地で氣候も大に温暖で物産も随分あります、殊にタウルスからは色々鑛物が産出します、外に野獣も澤山獲れる。或る獨逸人の直話によれば、彼は山中で長さ二間直径四寸もある巨蟒を打ち取たと云ふことです。

それで私は先づイスケンデルンからメルシナに上陸しました。メルシナは人口一万五千斗りの都會です、こゝから日本里数で三里ばかり西南の海岸にポンペイオポリスと云ふ古趾があります是は今はソーリと云ふ村になつて居りますが此所に羅馬時代の建築の遺物があります、是は希臘羅馬時代の大きな市街によく造られたもので、つまり往來の兩側に列柱を建て其の上を蔽ふて雨を防いだもので、市民の集會や市場に用ゐたものです、此處の遺趾には列柱が凡そ百間も續いて居りますが、その柱が餘程面百いので、エンタシスと云ふて輪廓が曲線形をなして上の方がつぼんで居ります、又柱のキヤピタル即ち柱頭が一つ違つて居りまして意匠頗る自在です、傳記に依ると此所に大なる神殿がありましたのをアルメニアの王のチグラネスが來て壊はして仕舞つたと云ふことです、(B.C.91)兎に角羅馬時代の面百い遺物である

それからメルシナから鐵道で二十七、五粁東北に向て行くと今度はタルスースと云ふ所に着きます、此都はキドヌス河畔にあつて人口一万八千斗り、歴史上重要な所であります。曾て歴山大王に属し、叙利亜王國に属し、羅馬に属し、亜刺比亜人に取られ(ハルン、エル、ラシードの時)其の後アルメニア人に占領され、此所にアルメニア王國が出來ました、それが又トルコマン人に奪はれ終りに今日のオスマン人の領土に歸したのであります、其のアルメニア王國の時代のものがタルスースに遺つて居ります城門の壁が少しばかり遺つて居ります、もう一つ珍しいのは此所にヅノックタシユと云ふものがあります、是は直譯すると逆さ石と云ふのであります、是は平地の上に非常な大きな石のブロックが二つあります、其周圍に厚い壁があります。史傳に依るとサルダナパルスの墓である、タルスースはサルダナパルスの造つた都であると言つて居ります。果してどうであるか信ぜられませぬが、此のヅノックタシユは混凝土で造られてあります、それから察すると羅馬時代のものであると云ふことが察せられます、その外市内のキリセジヤミは回教寺ですが、ビザンチン的アルメニア式の面百い建築です、又アルメニア教會堂は波斯風の装飾が施してあります、又市外キドヌス河に壯快な瀑布があります、歴山大王はこの河に水浴して熟病に罹つたと云ふ傅説があります。

それからタルスースからアダナへ行きました。アダナはタルスースの正東四十粁の所でアダナ州の首府であります。サロス河に臨んだ非常に景色の好い所で、人口も三萬からあります、サロス河の向ふには眞つ白に雪を被つたタウルスの連峰が見えますが、寫眞が上手でないのでよく撮れませんでした、これがその眞景です、是れはアダナの市街であります、是れはアダナにある古い回教寺でウールージヤミと申します、寺傳に依るとホラサンから來た土耳其人がこの地を占領し(A.D.1378-1515)後この寺を建てた(A.D.1542)と云ふことで元來は耶蘇教會堂でありました、今でもビザンチウム式の柱か混用されて居ます、それからアダナで尤も古い遣物は橋でありまして、それはサロス河に架けてある橋であります、此の橋は頗る壮大なもので、羅馬のジヤステニアン時代の残片が所々に遺つて居ります、又サロス河の右岸にはハルン、エルラシードの古城の趾(A.D.782)が残つて居ります、それから此のアダナから東北の方に古跡が澤山あるのですが、それは訪問する時間がありませぬから再びタルスースに引返してこゝからタウルス越を試みました、

タルスースから内地に這入るにはタウルス越をするので、大變困難な路でありますが、今日は馬車が通じます、即ちタルスースからエレグリと云ふ處まで馬車で行くので、エレグリから君士坦丁堡までは滊車が全通して居るから樂であります、エレグリ、タルスース間は日本里数で約三十九里、是は馬車を驅て行くと通例三日間、私の行きましたのは日の短い時でありましたので、四日間を費しました、このタウルス越は小亜細亜から叙利亜へ通ずる唯一の道路で昔しサイラス王、歴山大王、シセロ、ハルン、エル、ラシード、十字軍、イブラヒム、パシヤ等皆仝し道を通りました、私は明治三十七年十二月三日にタルスースを出發し一名の護衛兵及從僕と一行三人一輌の馬車を驅て前進しました、それで第一日目にはタルスースを出發しキドヌス河に沿ふて上ぼりました、行くこと三里許で山路にかゝり、古への羅馬街道と離合して登ります、凡そ十里許りも行て此日はメザルオルクに一泊しました、素より完全な宿屋と云ふものはないので、只だ泥と板とで圍つた、アバラ屋へ用意の寝具を敷て寐る丈けでその困難なことは、支那内地の尤もヒドイ處よりも一層ヒドイのです、况や氷點以下の寒風は四方から吹き込んで來るので、終宵夢を結び、兼ねました、翌日またキドヌス河に沿ふて進みギユレク、ボガーヅと云ふ處へ行くとこゝは分水嶺で海抜四千二百尺所謂シリシアン、ゲートと稱せられ、古來重要な關門でイブラヒム、パシヤの築いた要塞が今も残つて居ります、東羅馬では教徒の侵入を防禦する爲、こゝに城堡を築いたことがあるそうです、この分水嶺を越えると今度はサロス河の水界に出ます、一つの谷川を下つてサロス河の本流へ出た所がボザンジと云ふ處です、こゝからカイザリエへ分岐する路があります、又サロス河を溯て高山峻嶺の間を進みアク、ケプリ(白橋)で一泊しました、こゝの宿(即ちハンと稱するもの)は尤もヒドイアバラ屋で土間の上へ藁蓆一枚敷いて寢ましたが夜半氷點以下四度の寒風に包圍され戦慄しながら夜を明しました、尤も盛に火を焚きましたが、野宿仝様ですから一向に効能がありません、翌日は仝し谷川に沿ふて急峻なる阪を登りました、雪は追ひに現はれ來り、終には一面純白の銀世界となりました、此日はチフテハンを過ぎバヤーグに一泊しましたが例の通りの次第で温度は氷點以下六度に降りました、この邊から地勢漸く開いて高原の形となり、先日來の高山峻嶺は多くは眼下に見へますが、獨りブルガル岳は盆々高く、巍々堂々として群山の上に君臨して居ります、この奥にブルガルマデンと云ふ村があり、カイマカムが居て鑛山の監督をして居るそうです、

翌日又進んでウルーキシラと云ふ村を過ぎました、こゝは人家二三十もあり、タルスース以來始ての村らしい村です、今まで通過した村は只一つ或は二三のハンがある許りで住民と云ふてはハンの番人丈けで外には誰も居らない、全く村の体裁はないのでありました、このウルーキシラは古へのフアウスチノボリスであると考へられて居ます、即ちマルクス、アウレリウスの造つた所で女王フアウスチナが此處で死んだ爲にこの名を得たと云ふことです、この邊は山水の景色に富んで居る上に鑛泉と鑛物が多いので、羅馬時代から訪問者があつたそうです、又前進ずると軈てサロス河の流れを究め盡して分水嶺に達します、この處海抜凡五千五百尺許り、嶺上から四方を見渡した風景の偉大なことは實に驚くべきものです、

先つ南はタウルスの連山波濤の如く重疊して動き出さん勢を示して居ります、西北にはカラジヤ岳一帯の火山列を敷きて打て出て、北にはハツサン岳直立八千二百尺)富士山より祐美しい輪廓に雲の化粧を施して立ち、東北にはエルジエス岳儼然としてアンチタウルスの連峰の上にその頂を現はしたる、その間の平地はこれ渺茫たる鹽漠地で、廣袤百里に及びます、嶺を下ればプルガルツク村に出ます、又少しく進めば即ちエレグリに達します、即ち古へのカツパドキアの領土に入つたのです

扨エレグリはコニヤ州に属し、今日の所人口三千もある小都會でタウルス山の麓に位し、所謂山紫水明の景色を備えた所ですが、何分海抜四千尺に達して居るので氣候は寒冷です、古へのキビストラ、ヘラクレアに當るそうで曾てハルン、エル、ラシードに占領されたこと[1]があつたそうです、近頃此處に一軒の墺國人のホテルが出來て居ました、ホテルと云つても歐羅巴のやうに立派なホテルではありませぬが、兎に角歐羅巴人が泊ること[1]の出來るやうに設備をしてあります、何ぜ斯様な邊鄙な山中で戸数も僅か五六百しかない小さい所にホテルがあるかと云ふと、それは理由があります、此のエレグリから三里東南に行くとブルガル岳の麓にイヴリースと云ふ所があつて、そこにヒチツトの古跡があります、それは前世紀に初めて發見されて其の後追々それを寫眞に撮つたり實測をしたり研究して今日は一般に知れ渡るやうになりました、之を見る爲に態〻土耳其の内地から、或は小亜細亜の西海岸の方から歐羅巴人の旅行者が皆な此所まで踏込んで來る、其の爲に近頃斯う云ふホテルが出來ました、イヴリーズのヒチツトの古跡は此の寫眞であります(寫眞略す)岩の上に極く薄肉彫りに彫刻してあるので此所に二人の姿があります、左の大きい方は神で右の小さい方は神に禮拝をして居る坊様であります、此の神はヒチツトの特有なる烏帽子のやうな斯う云ふ形の帽子を被つて、居り、又足には是もヒチツト特有のつま先きの上へ反り上つた靴を穿いて居ります、さうして手に葡萄を持つて居る、それから足の下に鋤のやうな物を置いて居る、それは土地の神様で、即ち農産物を人民に與へると云ふ意味のものであるだらうと云ふ想像であります、此所にヒチツト文字が三ヶ所にありますがそれは未だ十分に讀めないと云ふことであります、兎に角非常に珍しい面白いものでありました。

此邊には例のチエルケス人が多く住んで居ます、彼等は非常に貧慾で足ること[1]を知らないのですタウルス越の山中のハンでは野宿仝様なアバラ家を一夜供給して五ピアストル(我が四十二銭)を取ります、支那内地ならば五十文(七銭位)も要らない處です、然るにこちらでは或は十ピアストルを請求し、その外湯代薪代まで請求する所もあります。或る獨乙人の紀行にも、タウルス山中で例の乞食小屋以下の宿へ泊つて、ホテル並の宿賃を請求され、散々に爭つて大に時間を費したことが書てありました、(未完)


 

Journ. Geogr. Vol. XIX. Pl. I.
地學雜誌第十九年第一版
小亞細亞コニア市インジェ・ミナレリ・メドレッセ(高塔學堂)

小亞細亞コニア市インジェ・ミナレリ・メドレッセ(高塔學堂)

Indjé Minareli Medressé, Konia.

 

Journ. Geogr. Vol. XIX. Pl. II.
地學雜誌第十九年第二版
小亞細亞コニア市アラウッヂン寺

小亞細亞コニア市アラウッヂン寺

Ala-ud-din’s Mesdjid, Konia.

 

Journ. Geogr. Vol. XIX. Pl. III.
地學雜誌第十九年第三版
小亞細亞畧圖

第三版 小亞細亞畧圖

Sketch Map of Asia Minor showing Chūta Itō’s Route of Travel.

  1. 1.0 1.1 1.2 底本では「こと」の合略仮名