太平記/巻第三十二
巻第三十二
266 茨宮御位事
今度吉野殿と将軍と御合体の儀破れて合戦に及剋、持明院の本院・新院・主上・春宮・梶井二品親王まで、皆南方の敵に囚させ給て、或は賀名生の奥、或は金剛山の麓に御座あれば、都には御在位の君も御座さず、山門には時の貫首も渡せ給はず。此平安城と比叡山と同時に始まりて、已に六百余歳、一日も未斯る事をば不承及、是ぞ末法の世に成ぬる験よと、浅猿かりし事共也。されども角ては如何あるべきとて、天台座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤親王を成奉る。此宮は前門主の御振舞に様替て、遊宴奇物をも愛せさせ給はず、行業不退にして只吾山の興隆をのみ御心に懸られたりければ、靡き奉らぬ衆徒も無りけり。さて御位には誰をか即け進らすべきと尋求奉る処に、本院第二の御子、三条の内大臣公秀の御女三位殿の御局、後には陽禄門院と申しゝ御腹に生れさせ給たりしが今年十五に成せ給ふを、日野春宮権大進保光に仰て、南方へ取奉らんとせられけるが、兔角料理に滞て、保光京都に捨置奉りけるを尋出進せて、御位には即進せける也。此宮をば去年御継母宣光門女院の御計ひとして、妙法院の門跡へ御入室有べしとて、已御出家あらんとし給けるを、御外祖母広義門院より、内々北斗堂の実■法印に御占を問せ給たりければ、王位に即せ可給御果報御座す由を勘申たりける間、誠しからずとは乍思召、御出家の儀を止られて、日野右大弁時光に預置進せられける。其翌の年観応三年八月二十七日に俄に践祚有しかば、兆前の勘文更に一事も不違、実■法印忽に若干の叡感の忠賞に預りけり。
267 無剣璽御即位無例事付院御所炎上事
同九月二十七日に改元有て文和と号す。其年の十月に河原の御禊有て、翌の月大嘗会を被遂行。三種の神器をはしまさで、御即位の事は如何有べからんと、諸卿異儀多かりけれ共、武家強て申沙汰しける上は、只兔も角も其儀に随ふべしとて、織部の祭をば致されけるとぞ承る。夫人代百王の始は、鵜羽葺不合尊の第四王子、神日本磐余彦尊、大和国畝火橿原の宮にいまして、朝政をきこしめしたりしより以来、我君の御宇已に九十九代、三種の神器をはしまさで、御位を続せ給ふ事は、未其例を不聞と、有職を立る人々の欺申さぬは無りけり。帝都今静りて御在位安泰なるに付ても、先皇・両院・梶井宮、南山の奥に御座あれば、さこそ御心を悩さるらめと、主上御心苦き事に思召れければ、何にもして南山より盜出し奉らんと方便を被廻けれ共、主上・両上皇は南山の警固の兵密しくて可有御出様も無りけり。遥に程経て梶井宮許をぞ、兔角して盜出し進せける。同年の十月二十八日に国母陽禄門院隠させ給ひければ、天下諒闇の儀にて、洛中に物の音をもならさゞる事三月、禁裏椒庭殊更に物哀なる折節也。同二年二月四日、俄に矢火出来て院御所持明院殿焼にけり。回禄は天災にて尋常有事なれ共、近年打続き京中の堂社・宮殿残少く焼失ぬる事直事とも不覚、只法滅の因縁王城の衰微とぞ見へたりける。元弘・建武の乱より以来回禄に逢ぬる所々を数れば、先内裏・馬場殿・准后の御所・式部卿親王の常盤井殿・兵部卿宮の二条の御所・宣光門女院の御旧宅・城南離宮の鳥羽殿・竹田に近き伏見殿・十楽院・梨本・青蓮院・妙法院の白河殿・大覚寺殿の御旧迹・洞院左府の亭宅・大炊御門内府の亭・吉田内府の北白河・近衛殿の小坂殿・為世卿の和歌所・大覚寺御山庄・三条大納言棲馴し毘沙門堂・頼基が天の橋立跡旧て、塩竃の浦を摸せし河原院・中書王の古を慕て立し花園や、融の大臣の迹を慕千種宰相の新亭、雲客以下の家々は未数るに非遑。禁裏・仙洞・竹苑・椒房、三台九卿の曲阜以下都て三百二十余箇所、此時に当て焼にけり。仏閣霊験の地には、法城寺・法勝寺・長楽寺・清水寺六僧房・双林寺・講堂・慶愛寺・北霊山・西福寺・宇治宝蔵・浄住寺・六波羅の地蔵堂・紫野の寺・東福寺・雪村の塔頭大龍庵・夢窓国師の建られし天竜寺に至るまで、禅院・律院・御祈祷所、三十余箇所の仏閣も皆此時に焼にけり。されば東山西郊、京白河在家もつゞかず、寺院も稀なれば、盜賊巷に満て、往来の道も不安、貝鐘の声も幽にして、無明の睡も醒め難し。
268 山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害事
山名右衛門佐師氏は今度八幡の軍に功有て、忠賞我に勝る人非じと被思ける間、先年拝領して未当知行無りける若狭国の斉所今積を如本の可宛給由、佐々木佐渡判官入道々誉に属して申達せん為に、日々に彼の宿所へ行給ひけれ共、「今日は連歌の御会席にて候。」「只今は茶会の最中にて候。」とて一度も対面に不及、数剋立せ、暮るまで待せて、只徒にぞ帰しける。度重なれば右衛門佐大に腹立して、「周公旦は文王の子武王の弟たりしか共、髪を洗ふ時訴人来れば髪を握て合、飯を食する時賓客来れば哺を吐て対面し給けり。才乏しといへ共我大樹の一門に列なる身たり。礼儀を存せば、沓を倒にしても庭に出迎ひ、袴の腰を結び/\も急てこそ対面すべきに、此入道加様に無礼に振舞こそ返々も遺恨なれ。所詮叶はぬ訴詔をすればこそ、諂ふまじき人をも諂へ。今夜の中に都を立て伯耆へ下り、軈て謀叛を起して天下を覆し、無礼なりつる者共に、思知せんずる物を。」と独言して、我宿所へ帰ると均く、郎等共に角共いはず、唯一騎文和元年八月二十六日の夜半に伯耆を差て落て行けば、相順し兵共聞伝て、七百余騎迹を追てぞ下りける。伯耆国に著れければ、師氏先づ親父左京大夫時氏の許に行て、「京都の沙汰の次第、面目を失つる間、将軍に暇をも申さず罷下候。」と語りければ、親父も大に忿て、軈て宮方の御旗を揚げ、先づ道誉が小目代にて、吉田肥前が出雲国に有けるを追出し、事の子細を相触るに、富田判官を始として、伊田・波多野・矢部・小幡に至まで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国即時に打順へてげり。さらば軈て南方へ牒送せよとて、吉野殿へ奏聞を経るに、山陰道より攻上らば、南方よりも官軍を出されて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大に悦て、五月七日伯耆国を立て、但馬・丹後の勢を引具して、三千余騎丹波路を経て攻上る。兼て相図を差ければ、南方より惣大将四条大納言隆俊・法性寺左兵衛督康長・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範・湯浅・貴志・藤波を始として、和泉・河内・大和・紀伊国兵共三千余騎勝り出しければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡、西は梅津・桂の里・谷堂・峯堂・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼つゞけたる篝火の影、幾千万と云数を不知。此時将軍未上洛し給はで、鎌倉にをはせしかば、京都余りに無勢にて、大敵可戦様も無りけり。中々なる軍して敵に気を著ては叶まじとて、土岐・佐々木の者共、頻に江州へ引退て、勢多にて敵を相待んと申けるを、宰相中将義詮朝臣、「敵大勢なればとて、一軍もせでいかゞ聞逃をばすべき。」とて、主上をば先山門の東坂本へ行幸なし進て、仁木・細河・土岐・佐々木三千余騎を一処に集め、鹿谷を後に当て、敵を洛川の西に相待たる。此陣の様、前に川有て後に大山峙たれば、引場の思はなけれ共、韓信が兵書を褊して背水陣を張しに違へり。殊更土岐・佐々木の兵、近江と美濃とを後に於て戦はんに、引て暫気を休めばやと思はぬ事や有べきと、未戦前に敵に心をぞはかられける。去程に文和二年六月九日卯刻に、南方の官軍、吉良・石堂・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範三千余騎、八条九条の在家に火を懸て、相図の烟を上たれば、山陰道の寄手、山名伊豆守時氏子息右衛門佐師氏・伊田・波多野、五千余騎、梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条に火を懸て、先京中へぞ寄たりける。洛中には向ふ敵なければ、南方西国の兵共、一所に打寄て、四条川原に轡を双て引へたり。此より遥に敵の陣を見遣ば、鹿谷・神楽岡の南北に、家々の旗二三百流れ翻て、四つ目結の旗一流真前に進で、真如堂の前に下り合ふたり。敵陣皆山に寄て木陰に引へたり。勢の多少も不見分。和田・楠、法勝寺の西の門を打通て、川原に引へたりけるが、敵を帯き出して勢の程を見んとて、射手の兵五百人馬より下し、持楯畳楯つきしとみ/\、閑に田の畦を歩せて、次第々々に相近付。爰に佐々木惣領氏頼、其の比遁世にて西山辺に隠れ居たりける間、舎弟五郎右衛門尉世務に代て国の権柄を執しが、近江国の地頭・御家人、此手に属して五百余騎有けるが、楠が勢に招れて、胡録を敲き時の声を揚げ喚て懸る。楠が勢陽に開き陰に囲めて散々に射る。射れ共佐々木が勢ひるまず、錣を傾けて袖をかざし、懸入けるを見て、山名が執事小林左京亮、七百余騎にて横合にあふ。佐々木勢余りに手痛く懸られて、叶はじとや思けん、神楽岡へ引上る。宮方手合の軍に打勝て、気を揚げ勇に乗て東の方を見たれば、土岐の桔梗一揆、水色の旗を差上、大鍬形を夕陽に耀し、魚鱗に連りて六七百騎が程控へたり。小林是を見て人馬に息をも継せず、軈て懸合せんとしけるを、山名右衛門佐扇を揚て招止め、荒手の兵千余騎を引勝て相近付。土岐も山名もしづ/\と馬を歩ませて、一矢射違る程こそあれ。互に諸鐙を合せて懸入り、敵御方二千余騎、一度に颯と入乱て、弓手に逢ひ馬手に背き、半時許切合たるに、馬烟虚空に廻て飆微塵を吹立たるに不異。太刀の鍔音・時の音、大山を崩し大地を動して、すはや宮方打勝ぬと見へしかば、鞍の上空しき放れ馬四五百疋、河より西へ走出て、山名が兵の鋒に頚を貫かぬは無りけり。細河相摸守清氏、是程御方の打負たるを見ながら、些も機を不屈、尚勇進でぞ見へたりける。吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮民部少輔・海東・和田・楠、皆荒手なれば細河と懸り合て、鴨川を西へ追渡し、真如堂の前を東へ追立て、時移るまでぞ戦たる。千騎が一騎に成までも引じとこそ戦けれ共、将軍の陣あらけ靡て後の御方あひ遠に成ければ、細河遂に打負て四明の峯へ引上る。赤松弾正少弼氏範は、いつも打ごみの軍を好まぬ者也ければ、手勢計五六十騎引分て、返す敵あれば、追立々々切て落す。名もなき敵共をば、何百人切てもよしなし。哀よからんずる敵に逢ばやと願ひて、北白川を今路へ向て歩ませ行処に、洗ひ皮の鎧の妻取たるに竜頭の甲の緒を縮、五尺許なる太刀二振帯て、歯の亘り八寸計なる大鉞を振かたげて、近付敵あらば只一打に打ひしがんと尻目に敵を睨で閑に落行武者あり。赤松遥に是をみて、是は聞る長山遠江守ごさんめれ。其れならば組で討ばやと思ければ、諸鐙合せて迹に追著、「洗革の鎧は長山殿と見るは僻目か、蓬くも敵に後を見せらるゝ者哉。」と、言を懸て恥しめければ、長山屹とふり返てから/\と打笑ひ、「問ふは誰とよ。」「赤松弾正少弼氏範よ。」「さてはよい敵。但只一打に失はんずるこそかはゆけれ。念仏申て西に向へ。」とて、件の鉞を以て開き、甲の鉢を破よ砕けよと思様に打ける処を、氏範太刀を平めて打背け、鉞の柄を左の小脇に挟て、片手にてえいやとぞ引たりける。引れて二疋の馬あひ近に成ければ、互に太刀にては不切、鉞を奪はん奪れじと引合ける程に、蛭巻したる樫木の柄を、中よりづんと引切て、手本は長山手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留りける。長山今までは我に勝る大力非じと思けるに、赤松に勢力を砕かれて、叶はじとや思けん、馬を早めて落延ぬ。氏範大に牙を嚼て、「無詮力態故に、組で討べかりつる長山を、打漏しつる事の猜さよ。ゝし/\敵は何れも同事、一人も亡すに不如。」とて、奪取たる鉞にて、逃る敵を追攻々々切けるに、甲の鉢を真向まで破付られずと云者なし。流るゝ血には斧の柄も朽る許に成にけり。美濃勢には、土岐七郎を始として、桔梗一揆の衆九十七騎まで討れぬ。近江勢には、伊庭八郎・蒲生将監・川曲三郎・蜂屋将監・多賀中務・平井孫八郎・儀俄五郎知秀以下、三十八騎討れぬ。此外粟飯原下野守・匹田能登守も討死しつ。後藤筑後守貞重も生虜れぬ。打残されたる者とても、或は疵を被り或は矢種射尽して、重て可戦共覚ざりければ、大将義詮朝臣も日暮て東坂本へ落給ふ。是までも猶細河相摸守清氏は元の陣を不引退、人馬に息を継せて、我に同ずる御方あらば、今一度快く挑戦て雌雄を爰に決せんとて、西坂本に引、其夜は遂に落給はず。夜明ければ、宰相中将殿より使者を立て、「重て合戦の評定あるべし。先東坂本へ被打越候へ。」と被仰ければ、此上は清氏一人留ても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本へ被参ける。此時故武蔵守師直が思者の腹に出来たりとて、武蔵将監と云者、片田舎に隠て居たりけるを、阿保肥前守忠実・荻野尾張守朝忠等、俄に取立て大将になし、丹波・丹後・但馬三箇国の勢、三千余騎を集て、宰相中将殿に力を合せん為に、西山の吉峯に陣を取てぞ居たりける。京都の大敵にだに輙く打勝て勇々たる山名が兵共なれば、なじかは少しも可猶予、十一日曙に吉峯へ押寄、矢一も射させず、抜連て切て上る。阿保・荻野が兵共余りにつよく被攻て、一支も支へず谷底へ懸落されければ、久下五郎を始として討るゝ者四十余人、疵を被る者数を不知。希有にして逃延たる者共も、弓矢・太刀・長刀を取捨て、赤裸にて落て行。見苦しかりし有様也。武蔵将監は、二町許落延たりけるを、阿保と荻野と遥に顧て、「今は叶はぬ所にて候。御自害候へ。」と勧ける間、馬上にて腹掻切り、倒に落て死にけり。此首を取んとて、敵一所に打寄てひしめきけるを、沼田小太郎只一騎返合せて戦けるが、敵は大勢也。御方はつゞかず、叶ふまじとや思けん、同腹掻切て、武蔵将監が死骸を枕にしてぞ臥たりける。其間に阿保と荻野は落延て、無甲斐命を助りけり。
269 主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事
義詮朝臣は、兼て佐々木近江守秀綱を警固に備ふれば、東坂本の事心安かるべし。爰にて国々の勢をも催さんと被議けるが、吉野殿より大慈院の法印を大将の為に山門へ呼寄たりと沙汰しける間、坂本を皇居になされん事可悪とて、同六月十三日、義詮朝臣竜駕を守護し奉て、東近江へ落給ふ。行幸の供奉には、二条前関白左大臣・三条大納言実継・西園寺大納言実俊・裏築地大納言忠秀・松殿大納言忠嗣・大炊御門中納言家信・四条中納言隆持・菊亭中納言公直・花山院中納言兼定・左大弁俊冬・右大弁経方・左中弁時光・勘解由次官行知・梶井二品親王に至らせ給ふまで出世・坊官一人も不残被召具、竜駕の次に御輿を早めらる。武士には足利宰相中将義詮を大将にて、細河相摸守清氏・尾張民部少輔・舎弟左京権大夫・同左近将監・今河駿河守頼貞・同兵部太輔助時・同左近蔵人・土岐大膳大夫頼康・熊谷備中守直鎮・佐々木・山内五郎左衛門信詮、是等を宗との人々として、都合其勢三千余騎、和仁・堅田の浜道に駒を早めてぞ被落ける。爰に故堀口美濃守貞満の子息掃部助貞祐が、此四五年堅田に隠て居たりけるが、其辺の溢者共を語て、五百余人真野の浦に出合て、落行敵を打止んとす。真前には住上を擁護し奉て、梶井二品親王御門徒の大衆、済々と召具して落させ給へば、門主に恕を置奉て弓を不引、矢を不放。此間坂本の警固にて居たりつる佐々木近江守秀綱、三百余騎にて遥の後陣に通りけるを、「是は山門の故敵、時の侍所なれば、是を討留よ。」とて、堀口が兵五百余人東西より引裹で、足軽の射手山にそひ皋を阻て散々に射ける間、佐々木三郎左衛門・箕浦次郎左衛門・寺田八郎左衛門・今村五郎一所にて皆討れにけり。秀綱は憑切たる一族若党共が、跡に蹈止て討死しけるを見て、心憂き事にや思ひけん。高尾四郎左衛門入道と二騎、馬の鼻を引返して、敵の中へ懸て入る。共に歩立の敵に馬の諸膝ながれて、落る処にて討れにければ、遥に落延たる若党共三十七人、返合々々所々にて討れにけり。其夜は塩津に腰輿を舁留奉りて、供奉の人々をも些休め奉らんとせられけるを、塩津・海津の地下人共、軍勢此に一夜も逗留せば、事に触て煩あるべしと思ける間、此道の辻、彼の岡山に取上て、鐘を鳴し時を作りける程に、暫の御逗留叶はで、主上又腰輿に召れたれ共、舁進らすべき駕輿丁も、皆逃失て一人もなければ、細河相摸守清氏、馬より飛で下り徒立になり、鎧の上に主上を負進せて、塩津の山をぞ越られける。子推が股の肉を切り、趙盾が車の片輪を扶しも、此忠には過じとぞ見へし。月卿雲客、或は長汀の月に策をあげ、或は曲浦の浪に棹さし給へば、「巴猿一叫停舟於明月峡之辺、胡馬忽嘶失路於黄沙磧之裏。」と古人の書し征路の篇も、今こそ被思知たれ。是より東は路次の煩も無りしかば、美濃の垂井の宿の長者が家を皇居にして、義詮朝臣以下の官軍皆四辺の在家に宿を取て、皇居を警固し奉りけり。
270 山名伊豆守時氏京落事
去程に山名右衛門佐師氏は、都の敵を輙く攻落して心中の憤一時に解散しぬる心地して、喜悦の眉を開事理也。勢著かばやがて濃州へ発向して、宰相中将殿を攻奉らんと議せられけれ共、降参する敵もなし催促に応ずる兵稀也。剰洛中には吉野殿より四条少将を成敗の体にて置れたりける間、毎事山名が計にも非ず、又知行の所領も近辺に無りければ、出雲・伯耆より上り集たりし勢共も、在京に労れて漸々に落行ける程に、日を経て無勢に成にけり。角ては如何せん、却て敵に寄られなば我も都を落されぬと、内々仰天せられける処に、義詮朝臣、東山・東海・北陸道の勢を率して宇治・勢多より攻上らるとも聞へ、又赤松律師則祐が中国より勢を卒して上洛すとも聞へければ、四方の敵の近付かぬ先に早く引退けとて、数日の大功徒に、天下に時を不得しかば、四条少将は官軍を卒して南方に帰り、山名は父子諸共に道を追払て、伯耆の国へぞ下りける。
271 直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事
翌年の春、新田左兵衛佐義興・脇屋左衛門義治、共に相摸の河村の城を落て、何くに有共不聞しかば、東国心安く成て、将軍尊氏卿上洛し給へば京都又大勢に成にけり。さらば軈山名を可被攻とて、宰相中将義詮朝臣を先播磨国へ下さる。山名伊豆守是を聞て、此度は可然大将を一人取り立て合戦をせずは、我に勢の著事は有まじと被思ける間、足利右兵衛佐直冬の筑紫九国の者共に被背出、安芸・周防の間に漂泊し給ひけるを招請じ奉り、惣大将とぞ仰ぎける。但是も将軍に敵すれば、子として父を譴る咎あり。天子に対すれば臣として君を無し奉る恐あり。さらば吉野殿へ奏聞を経て勅免を蒙り、宣旨に任て都を傾け、将軍を攻奉らんは、天の忿り人の譏りも有まじとて、直冬潜に使を吉野殿へ進せて、「尊氏卿・義詮朝臣以下の逆徒を可退治由の綸旨を下給て、宸襟を休め奉るべし。」とぞ申されける。伝奏洞院右大将頻に被執甲ければ、再往の御沙汰迄もなく直冬が任申請、即綸旨をぞ被成ける。是を聞て遊和軒朴翁難じ申けるは、「天下の治乱興滅皆大の理に不依と云事なし。されば直冬朝臣を以て大将として京都を被攻事、一旦雖似有謀事成就すべからず。其故は昔天竺に師子国と云国あり。此の国の帝他国より后を迎へ給けるに、軽軒香車数百乗、侍衛官兵十万人、前後四五十里に支て道をぞ送り進せける。日暮て或深山を通りける処に、勇猛奮迅の師子共二三百疋走出、追譴々々人を食ける間、軽軒軸折て馳れ共不遁、官軍矢射尽て防げ共不叶、大臣・公卿・武士・僕従、上下三百万人、一人も不残喰殺されにけり。其中に王たる師子、彼后を口にくはへて、深山幽谷の巌の中に置奉て、此師子容顔美麗なる男の形に変じければ、后此妻と成給て、思はぬ山の岩の陰に、年月をぞ送らせ給ける。始の程は后、かゝる荒き獣の中に交りぬれば、我さへ畜類の身と成ぬる事の心憂さ、何に命のながらへて、一日片時も過べしと覚えず、消ぬを露の身の憂さに思召沈ませ給ひけるが、苔深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干は媚て卿相雲客となり、師子は化して万乗の君と成て、玉■の座に粧を堆くして、袞竜の御衣に薫香を散ぜしかば、后早憂かりし御思も消果て、連理の枝の上に、心の花のうつろはん色を悲み、階老の枕の下に、夜の隔つる程をだにかこたれぬべく思召す。角て三年を過させ給ける程に、后たゞならず成給て男子を生給へり。愍みの懐の中に長て歳十五に成ければ、貌形の世に勝たるのみに非ず、筋力人に超て、何なる大山を挟で北海を飛越る共、可容易とぞみへたりける。或時此子母の后に向て申けるは、「適人界の生を受ながら、后は畜類の妻と成せ給ひ、我は子と成て候事、過去の宿業とは申ながら、心憂事にて候はずや。可然隙を求て、后此山を逃出させ給へ。我負奉て師子国の王宮へ逃篭り、母を后妃の位に昇奉り、我も朝烈の臣と仕へて、畜類の果を離れ候はん。」と勧申ければ、母の后無限喜て、師子の他山へ行たりける隙に、后此子に負れて、師子国の王宮へぞ参り給ける。帝不斜喜び思召て、君恩類無りければ、後宮綺羅の三千、為君薫衣裳、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。新き人来旧き人棄られぬ。眼の裏の荊棘掌上の花の如し。去程に師子外の山より帰り来て后を尋求るに、后も座さず、我子もなし。こは何なる事ぞと驚き周章て、ばけたる貌元の容に成て、山を崩し木を堀倒し求れ共不得。さては人の棲む里にぞ御坐らんとて、師子国へ走出て、奮迅の力を出して吠忿るに、何かなる鉄の城なり共破れぬべくぞ聞へける。野人村老懼れ倒、死する者幾千万と云数をしらず。又不近付所も、家を捨財宝を捨逃去ける間、師子国十万里の中には、人一人も無りけり。され共、此師子王位にや恐けん、都の中へは未入、只王宮近き辺に来て、夜々地を揺して吠嗔り、天に飛揚して鳴叫ける間、大臣・公卿・刹利・居士、皆宮中に逃篭る。時に公卿僉議有て、此師子を退治して進せたらんずる者には、大国を一州下さるべしと法を出して、道々に札を書てぞ被立ける。彼師子の子此札を見て、さらば我父の師子を殺して一国を給らんと思ければ、尋常の人ならば、百人しても引はたらかすまじかりける鉄の弓・鉄の矢を拵へ、鏃に毒を塗て、父の師子をぞ相待ける。師子今は王宮へ飛入て、国王大臣を喰殺さんとて、禁門の前を過けるが、我子の毒の矢をはげて立向たるを見て、涙を流し地に臥て申けるは、「我年久相馴し后と、二人ともなき汝を失て、恋悲く思ふ故に、若干の人を失ひ多くの国土を亡しつ。然るに事の様を尋きけば、后は王宮にをはすなれば、今生にて再び相見ん事有がたし。せめて汝をだに一目見たらば、縦我命を失ふ共悲む処にあらずと思き。道々に被立たる札を見れば、我命を以一国の抽賞に被報たり。然れども我を一箭にも射殺さんずる者は、天下に汝より外は有べからず。命を惜むも子の為也。汝一国の主と成て栄花を子孫に及さば、我命全く不可惜。早く其弓を引其矢を放て我を射殺し、報国の賞に預れ。」とて、黄なる涙を流しつゝ、「爰を射よ。」とて自口をあきてぞ臥たりける。師子は畜類なれ共子を思ふ心猶深く、子は人倫の身なれ共親を思ふ道無りければ、飽まで引て放つ矢に、師子喉を射抜れて、地に伏て忽に死けり。子、師子の頚を取て天子に是を奉る。一人万民悦合へる事限なし。已に宣旨を下して其賞を定られし上は子細に不及、師子の子に一国を下し給ふべかりしを、重て公卿僉議有て、勅宣に随ふ処は雖有忠父を殺す罪不軽。但忠賞の事は法を被定しかば、綸言今更変じ難しとて、恩賞に被擬ける一国の正税・官物、百年が間を勘て、天下の鰥寡孤独の施行に引れぬ。以彼思之、縦一旦利を得たり共終には諸天の御とがめあるべし。又漢朝の古、帝尭と申けるいみじき聖徳の帝御坐しけり。天子の位にいます事七十年、御年已に老ぬ。「誰にか天下を可譲る。」と御尋有ければ、大臣皆諛て、「幸に皇太子にて御渡候へば丹朱にこそ御譲り候はめ。」と申けるを、帝尭、「天下は是一人の天下に非ず、何を以てか太子なればとて、天下授るに足ざらん者に位を譲て、四海の民を苦しましむべき。」とて丹朱に世を授給はず。さても何くにか賢人ありと、隠遁の者までも尋求め給ひける処に、箕山と云所に許由と申ける賢人、世を捨光を韜て、只苔深く松痩たる岩の上に一瓢を懸て、瀝々たる風の音に人間迷情の夢を醒してぞ居たりける。帝尭是を聞召て即勅使を立られ、御位を譲べき由を被仰けるに、許由遂に勅答を不申。剰松風渓水の清き音を聞て爽なる耳の、富貴栄花の賎しき事を聞て汚れたる心地しければ、潁川の水に耳を洗ける程に、同じ山中に身を捨隠居したりける巣父と云賢人、牛を引て此川に水を飼んとしけるが、許由が耳を洗ふを見て、「何事に今耳をば洗ふぞ。」と問ければ、許由、「帝尭の我に天下を譲らんと被仰つるを聞て、耳汚たる心地して候間洗ふ也。」とぞ答へける。巣父首を掻て、「さればこそ此水例よりも濁て見へつるを、何故やらんと無覚束思ひたれば、此事にて有けり。左様に汚たる耳を洗たる水の流をば、牛にも飲ふべき様なし。」とて徒に牛を引てぞ帰りける。帝■尭さては誰にか世を可授とて、至らぬ隈もなく尋求給ふに、冀州に虞舜と云賎き人あり。其父瞽叟盲母は頑■也。弟の象驕戻。虞舜は孝行の心深して、父母を養はん為に歴山に行て耕すに、其地の人畔を譲り、雷沢に下て漁るに、其浦の人居を譲る。河浜に陶するに、器苦窪あらず。虞舜の行て居る処、二年あれば邑をなし、三年あれば都をなす。万人其徳を慕て来集し故也。舜年二十にして孝行天下に聞へしかば、帝尭是に天下を譲らんと覚す心あり。先内外に著て其行を御覧ぜんと覚して、娥皇・女英と申ける姫宮を二人舜に妻はせ給ふ。又尭の御子九人を舜の臣となして、其左右にぞ慎み随はせられける。尭の二女己れが高きを以て夫に驕らざれば、舜の母に嬪する事甚不違。九男同く舜に臣として事ること礼敬更に不懈。帝尭弥悦て、舜に又、倉廩・牛羊・■衣・琴一張を給ふ。舜如斯声誉上に達し父母に孝有しか共、継母我子の象を世に立ばやと猜む心深く有しかば、瞽叟と象と三人相謀て舜を殺さんとする事度々也。舜是をしれ共父をも不恨、母をも弟をも不嗔、孝悌の心弥慎て、只父母の意に違へる事をのみ天に仰でぞ悲みける。或時瞽叟舜を廩の上に登せて屋を葺せけるに、母下より火を放て舜を焼殺さんとす。舜始より推したりしかば、兼て持たる二の唐笠を張て、其柄に取付て飛下にけり。瞽叟不安思ければ、又象と相謀て舜に井をぞ堀せける。是は井已に深く成たらん時、上より土を下して舜を乍生埋ん為也。堅牢地神も孝行の子を哀にや覚しけん、井の底より上ける土の中に半ば金ぞ交りたりける。瞽叟・弟の象共に欲心に万事を忘ければ、土を揚ける度毎に是を争ふ事限なし。其間に舜傍に匿穴をぞ堀たりける。井已に深く成ぬる時、瞽叟と象と共に土を下し大石を落して舜を埋ければ、舜潜に兼て堀し匿穴より逋出て己れが宮へぞ帰ける。舜如斯して生たりとは弟の象夢にも不知、帝尭より舜に給はりし財共を面々に分ち領じけるに、牛羊・倉廩をば父母に与へ二女と琴一張とをば象我物にすべしと相計ふ。象則琴を弾じて二女を愛せん為に、舜の宮に行たれば、舜敢て不死、二女は瑟を調べ、舜は琴を弾じて、優然としてぞ居たりける。象大に鄂て曰く、「我舜を已に殺しつと思て、鬱陶しつ。」と云て、誠に忸怩たる気色なれば、舜琴を閣て、其弟たる言ばを聞くがうれしさに、「汝さぞ悲く思ひつらん。」とてそゞろに涙をぞ流しける。斯し後も舜弥孝有て父母に事る道も不懈、弟を愛る心も不浅ければ、忠孝の徳天下に顕れて、帝尭遂に帝位を譲り給ひにけり。舜天子の位を践で世を治め給ふ事天に叶ひ地に随ひしかば、五日の風枝を不鳴十日の雨壌を破事なし。国富み民豊にして、四海其恩を仰ぎ、万邦其徳を頌せり。されば孔子も、尋於忠臣在孝子之門といへり。為父不孝ならん人、豈為君忠あらんや。天竺・震旦の旧き迹を尋るに、親のために道なければ忠あれども罪せらる。師子国の例是也。為父孝あれば賎しけれ共被賞。虞舜の徳是也。然に右兵衛佐直冬は父を亡さん為に君の命を仮んとす。君是を御許容有て大将の号を被許事旁以非道。山名伊豆守若此人を取立て大将とせば天下の大功を致さん事不可有。」と昨木の隠子朴翁が眉を顰て申けるが、果してげにもと被思知世に成にけり。
272 直冬上洛事付鬼丸鬼切事
南方に再往の評定有て、足利右兵衛佐直冬を大将として京都を可攻由、綸旨を被成ければ、山名伊豆守時氏・子息右衛門佐師氏、五千余騎の勢を卒して、文和三年十二月十三日伯耆国を立給ふ。山陰道悉順付て兵七千騎に及びしかば、但馬国より杉原越に播磨へ打て出、先宰相中将義詮の鵤の宿にをはするをや打散す、又直に丹波へ懸て、仁木左京太夫頼章が佐野の城に楯篭て、我等を支へんとするをや打落すと、評定しける処へ、越中の桃井播磨守直常・越前修理大夫高経の許より飛脚同時に到来して、只急ぎ京都へ攻上られ候へ。北国の勢を引て、同時に可攻上由を牒せられける間、さらば夜を日に継で上んとて、山名父子七千六百余騎、前後十里に支て丹波国を打通るに、仁木左京大夫頼章当国の守護として敵を支ん為に在国したる上、今は将軍の執事として勢ひ人に超たれば、丹波国にて定て火を散す程の合戦五度も十度もあらんずらんと覚へけるに、敵の勇鋭を見て戦ては中々叶はじとや思ひけん、遂に矢の一をも不射懸して城の麓をのさ/\と通しければ、敵の嘲るのみならず天下の口遊とぞ成にける。都に有とある程の兵をば義詮朝臣に付て播磨へ被下、遠国の勢は未上らず。将軍僅なる小勢にて京中の合戦は中々悪かりぬと、思慮旁深かりければ、直冬已に大江山を超ると聞へしかば、正月十二日の暮程に、将軍主上を取奉て江州武作寺へ落給ふ。抑此君御位に即せ給て後、未三年を不過、二度都を落させ給ひ、百官皆他郷の雲に吟ひ給ふ、浅猿かりし世中なり。去程に同十三日、直冬都に入給へば、越中の桃井・越前修理大夫、三千余騎にて上洛す。直冬朝臣此七八箇年、依継母讒那辺這辺漂泊し給つるが、多年の蟄懐一時に開けて今天下の武士に仰れ給へば、只年に再び花さく木の、其根かるゝは未知、春風三月、一城の人皆狂するに不異。抑山名伊豆守は、若狭所領の事に付て宰相中将殿に恨あり。桃井播磨守は、故高倉禅門に属して望を不達憤あれば、此両人の敵に成給ひぬる事は少し其謂も有べし。尾張修理大夫高経は忠戦自余の一門に超しに依て、将軍も抽賞異于他にして世其仁を重くせしかば、何事に恨有べし共覚ぬに、俄に今敵に成て将軍の世を傾んとし給ふ事、何の遺恨ぞと事の起りを尋ぬれば、先年越前の足羽の合戦の時、此高経朝敵の大将新田左中将義貞を討て、源平累代の重宝に鬼丸・鬼切と云二振の太刀を取給ひたりしを、将軍使者を以て、「是は末々の源氏なんど可持物に非ず、急ぎ是を被渡候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜て、「此二振の太刀をば長崎の道場に預置て候しを、彼道場炎上の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替て、焼損じてぞ出されける。此事有の侭に京都へ聞へければ、将軍大に忿て、朝敵の大将を討たりつる忠功抜群也といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共多かりける間、高経是を憤て、故高倉禅門の謀叛の時も是に与し、今直冬の上洛にも力を合て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。抑此鬼丸と申太刀は、北条四郎時政天下を執て四海を鎮めし後、長一尺許なる小鬼夜々時政が跡枕に来て、夢共なく幻共なく侵さんとする事度々也。修験の行者加持すれ共不休。陰陽寮封ずれ共不立去。剰へ是故時政病を受て、身心苦む事隙なし。或夜の夢に、此太刀独の老翁に変じて告て云く、「我常に汝を擁護する故に彼夭怪の者を退けんとすれば、汚れたる人の手を以て剣を採りたりしに依て、金精身より出て抜んとすれ共不叶。早く彼夭怪の者を退けんとならば、清浄ならん人をして我身の金清を拭ふべし。」と委く教へて、老翁は又元の太刀に成ぬとぞ見たりける。時政夙に起て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴せて此太刀の金精を拭はせ、未鞘にはさゝで、臥たる傍の柱にぞ立掛たりける。冬の事なれば暖気を内に篭んとて火鉢を近く取寄たるに、居たる台を見れば、銀を以て長一尺許なる小鬼を鋳て、眼には水晶を入、歯には金をぞ沈めたる。時政是を見るに、此間夜な/\夢に来て我を悩しつる鬼形の者は、さも是に似たりつる者哉と、面影ある心地して守り居たる処に、抜て立たりつる太刀俄に倒れ懸りて、此火鉢の台なる小鬼の頭をかけず切てぞ落したる。誠に此鬼や化して人を悩しけん、時政忽に心地直りて、其後よりは鬼形の者夢にも曾て見へざりけり。さてこそ此太刀を鬼丸と名付て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝りける。相摸入道鎌倉の東勝寺にて自害に及ける時、此太刀を相摸入道の次男少名亀寿に家の重宝なればとて取せて、信濃国へ祝部を憑て落行。建武二年八月に鎌倉の合戦に打負て、諏防三河守を始として宗との大名四十余人大御堂の内に走入、顔の皮をはぎ自害したりし中に此太刀有ければ、定相摸次郎時行も此中に腹切てぞ有らんと人皆哀に思合へり。其時此太刀を取て新田殿に奉る。義貞不斜悦て、「是ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸と云重宝也。」と秘蔵して持れける剣也。是は奥州宮城郡の府に、三の真国と云鍜冶、三年精進潔斎して七重にしめを引、きたうたる剣なり。又鬼切と申は、元は清和源氏の先祖摂津守頼光の太刀にてぞ有ける。其昔大和国宇多郡に大森あり。此陰に夜な/\妖者有て、往来の人を採食ひ、牛馬六畜を掴裂く。頼光是を聞て、郎等に渡辺源五綱と云ける者に、彼の妖者討て参れとて、秘蔵の太刀をぞたびたりける。綱則宇多郡に行き甲胃を帯して、夜々件の森の陰にぞ待たりける。此妖者綱が勢にや恐たりけん、敢て眼に遮る事なし。さらば形を替て謀らんと思て、髪を解乱して掩ひ、鬘をかけ、かね黒に太眉を作り、薄衣を打かづきて女の如くに出立て、朧月夜の明ぼのに、森の下をぞ通りける。俄に空掻曇て、森の上に物の立翔る様に見へけるが、虚空より綱が髪を掴で中に提てぞ挙たりける。綱、頼光の許より給りたる太刀を抜て、虚空を払斬にぞ切たりける。雲の上に唖と云声して、血の颯と顔に懸りけるが、毛の黒く生たる手の、指三有て爪の鉤たるを、二の腕よりかけず切てぞ落しける。綱此手を取て頼光に奉る。頼光是を秘して、朱の唐櫃に収て置れける後、夜々をそろしき夢を見給ける間、占夢の博士に夢を問給ければ、七日が間の重き御慎とぞ占ひ申ける。依之堅門戸を閉て、七重に七五三を引四門に十二人の番衆を居て、毎夜宿直蟇目をぞ射させける。物忌已に七日に満じける夜、河内国高安の里より、頼光の母義をはして門をぞ敲せける。物忌の最中なれ共、正しき老母の、対面の為とて渺々と来り給たれば、力なく門を開て、内へいざなひ入奉て、終夜の酒宴にぞ及びける。頼光酔に和して此事を語り出されたるに、老母持たる盃を前に閣き、「穴をそろしや、我傍の人も此妖物に取れて、子は親に先立、婦は夫に別れたる者多く候ぞや。さても何なる者にて候ぞ。哀其手を見ばや。」と被所望ければ、頼光、「安き程の事にて候。」とて、櫃の中より件の手を取出して老母の前にぞ閣ける。母是を取て、暫く見る由しけるが、我右の手の臂より切られたるを差出して、「是は我手にて候ける。」と云て差合、忽に長二丈計なる牛鬼と成て、酌に立たりける綱を左の手に乍提、頼光に走蒐りける。頼光件の太刀を抜て、牛鬼の頭をかけず切て落す。其頭中に飛揚り、太刀の鋒を五寸喰切て口に乍含、半時許跳上り/\吠忿りけるが、遂には地に落て死にけり。其形は尚破風より飛出て、遥の天に上りけり。今に至るまで渡辺党の家作に破風をせざるは此故也。其比修験清浄の横川の僧都覚蓮を請じ奉て、壇上に此太刀を立、七五三を引、七日加持し給ければ、鋒五寸折たりける剣に、天井よりくりから下懸て鋒を口にふくみければ、乍に如元生出にけり。其後此の太刀多田満仲が手に渡て、信濃国戸蔵山にて又鬼を切たる事あり。依之其名を鬼切と云なり。此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。時の武将田村の将軍に是を奉る。此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。其後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮より夢の告を以て、御所望有て御殿に被納。其後摂津守頼光、太神宮参詣の時夢想あり。「汝に此剣を与る。是を以て子孫代々の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示給ひたる太刀也。されば源家に執せらるゝも理なり。
273 神南合戦事
去程に、将軍は持明院の主上を守護し奉て、近江国四十九院に落止り、宰相中将義詮朝臣は西国より上洛せんずる敵を支へん為に、播磨の鵤に兼て在庄し給ひたりと聞へしかば、土岐・佐々木・仁木右京大夫義長、三千余騎にて四十九院へ馳参る。四国・西国の兵二万余騎、鵤へ馳集る。畠山尾張守も東八箇国の勢を率して、今日明日の程に参著仕るべしと、飛脚及度度由申されければ、将軍父子の御勢、只竜の天に翔て雲を起し、虎の山に靠て風を生が如し。東西の牒使相図の日を定めければ、将軍は三万余騎の勢にて、二月四日東坂本に著給ふ。義詮朝臣は七千余騎にて、同日の早旦に、山崎の西、神南の北なる峯に陣を取給ふ。右兵衛佐直冬も始は大津・松本の辺に馳向て合戦を致さんと議せられけるが、山門・三井寺の衆徒、皆将軍に志を通ずる由聞へければ、只洛中にして東西に敵を受て繕て合戦をすべしとて、一手は右兵衛佐直冬を大将にて、尾張修理大夫高経・子息兵部少輔・桃井播磨守直常・土岐・原・蜂屋・赤松弾正少弼、其勢都合六千余騎、東寺を攻の城に構へて、七条より下九条まで家々小路々々に充満たり。一手は山名伊豆守時氏・子息右衛門佐師氏を大将にて、伊田・波多野・石原・足立・河村・久世・土屋・福依・野田・首藤沢・浅沼・大庭・福間・宇多河・海老名和泉守・吉岡安芸守・小幡出羽守・楯又太郎・加地三郎・後藤壱岐四郎・倭久修理亮・長門山城守・土師右京亮・毛利因幡守・佐治但馬守・塩見源太以下其勢合て五千余騎、前に深田をあて、左に河を堺て、淀・鳥羽・赤井・大渡に引分々々陣を取る。河より南には、四条中納言隆俊・法性寺右衛門督康長を大将として、吉良・石堂・原・蜂屋・赤松弾正少弼・和田・楠・真木・佐和・秋山・酒辺・宇野・崎山・佐美・陶器・岩郡・河野辺・福塚・橋本を始として、吉野の軍兵三千余騎、八幡の山下に陣を取る。山名右衛門佐師氏、始の程は待て戦んとて議したりけるが、神南の敵さまでの大勢ならずと見すかして、日来の議を翻して、八幡に引へたる南方の勢と一に成て、先神内の宿に打寄り、楯の板をしめし、馬の腹帯を堅めて二の尾よりあげたり。此陣始より三所に分れて、西の尾崎をば、赤松律師則祐・子息弥次郎師範・五郎直頼・彦五郎範実・肥前権守朝範、並佐々木佐渡判官入道々誉が手者・黄旗一揆、彼是合て二千余騎にて堅めたり。南の尾崎をば、細河右馬頭頼之・同式部大輔、西国・中国の勢相共に、二千余騎堅めたり。北に当りたる峯には、大将義詮朝臣の陣なれば、道誉・則祐以下老武者、頭人・評定衆・奉行人、其勢三千余騎、油幕の内に布皮を敷き双べ、袖を連て並居たり。嶮き山の習として、余所はみへて麓は不見。何れの陣へか敵は先蒐らんと、遠目仕ふて守り居たる所に、山名右衛門佐を先として、出雲・伯耆の勢二千余騎、西の尾崎へ只一息に懸上て、一度に時をどつと作る。分内狭き両方の峯に馬人身を側むる程に打寄たれば、互に射違るこみ矢のはづるゝは一もなし。爰に播磨国の住人後藤三郎左衛門尉基明と云ける強弓の手垂れ、一段高き岩の上に走り上て、三人張りに十四束三伏、飽まで引て放けるに、楯も物具もたまらねば、山名が兵共進かねて、少し白うてぞ見へたりける。是を利にして、佐々木が黄旗一揆の中より、大鍬形に一様の母衣懸たる武者三人、己が結たる鹿垣切て押破り、「日本一の大剛の者、近江国の住人江見勘解由左衛門尉・蓑浦四郎左衛門・馬淵新左衛門、真前懸て討死仕るぞ。死残る人あらば語て子孫に名を伝へよ。」と声々に名乗呼はて、斬死にこそ死にけれ。後藤三郎左衛門尉基明・一宮弾正左衛門有種・粟飯原彦五郎・海老名新左衛門四人、高声に名乗て川を渡し城へ切て入。「合戦こそ先懸は一人に定まれ。加様の広みの軍には、敵と一番に打違たるを以て先懸とは申すぞ。御方に一人も死残る人あらば、証拠に立てたび候へ。」と呼はて、寄手数万の中へ只四人切て入る。右衛門佐大音声を揚て、「前陣戦労れて見ゆるぞ。後陣入替てあの敵討。」と下知すれば、伊田・波多野の早雄の若武者共、二十余人馬より飛下飛下、勇々で抜連て渡合ふ。後ろには数万の敵、「御方つゞくぞ引な。」と力を合て喚き叫ぶ。前には五十余人の者共颯と入乱れて切合ふ。太刀の鐔音鎧突、山彦に響き暫も休時なければ、山岳崩て川谷を埋むかとこそ聞へけれ。此時後藤三郎左衛門已下、面に立程の兵五十余人討れにけり。二陣の南尾をば、細河右馬頭・同式部大輔大将にて、四国・中国の兵共が二千余騎にて堅めたりけるが、此は殊更地僻り谷深く切れて、敵の上べき便なしと思ける処、山名伊豆守を先として小林民部丞・小幡・浅沼・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後・因幡の兵共三千余騎にて、さしも岨き山路を盤折にぞ上たりける。此陣には未鹿垣の一重も結ざれば、両方時の声を合せて矢一筋射違る程こそ有けれ。軈て打物に成て乱合ふ。先一番に進で戦ける四国勢の中に、秋間兵庫助兄弟三人・生稲四郎左衛門一族十二人一足も引かで討れにけり。是を見て坂東・坂西・藤家・橘家の者共少し飽んで見へけるを、備前国住人須々木三郎左衛門父子兄弟六人入替て戦けるが、つゞく御方なければ是も一所にて討れにけり。是より一陣二陣共に色めき、兵しどろに見へけるを、小林民部丞得たり賢しと、勝に乗て短兵急に拉んと、揉に揉で責ける間、四国・中国の三千余騎、山より北へまくり落されて、遥に深き谷底へ、人雪頽をつかせて落重なれば、敵に逢て討死する者は少しといへ共、己が太刀・長刀に貫れて死する兵数を不知。是を見て山名右衛門佐弥気に乗て真前に進む上は、相順ふ兵共誰かは少しも擬議すべき、我先に敵に合んと争ひ前まずと云者なし。中にも山名が郎等、因播国の住人に福間三郎とて、世に名を知れたる大力の有けるが、七尺三寸の太刀だびら広に作りたるを、鐔本三尺計をいて蛤歯に掻合せ、伏縄目の鎧に三鍬形打たる甲を猪頚に著なし、小跳して片手打の払切に切て上りけるに、太刀の歯に当る敵は、どう中諸膝かけて落され、太刀の峯に当る兵は、或は中にづんど打上られ、或尻居にどうど打倒されて、血を吐てこそ死にけれ。両陣已に破し後、兵皆乱て、惣大将の御勢と一所にならんと、崩れ落て引ける間、伊田・波多野の者共、「余すな洩すな。」と喚き叫で追懸たり。石巌苔滑かにして荊棘道を塞たれば、引者も不延得返す兵敢て不討云事なし。赤松弥次郎・舎弟五郎・同彦五郎三人引留りて、「此を返さで引程ならば、誰かは一人可生残。命惜くは返せや殿原、返せや一揆の人々。」と恥しめて罵けれ共、蹈留る者無りければ、小国播磨守・伊勢左衛門太郎・疋壇藤六・魚角大夫房・佐々木弾正忠・同能登権守・新谷入道・薦田弾正左衛門・河勾弥七・瓶尻兵庫助・粟生田左衛門次郎、返合々々所々にて討れにけり。河原兵庫助重行は、今度の軍に打負ば、必討死せんと兼て思儲けるにや、敵の已に押寄んと方々より打寄るを見て申けるは、「今日の合戦は我身独の喜び哉。元暦の古へ、平家一谷に篭りしを攻し時、一の城戸生田森の前にて、某が先祖河原大郎・河原次郎二人、城の木戸を乗越て討死したりしも二月也。国も不替月日も不違、重行同く討死して弥先祖の高名を顕さば、冥途黄泉の道の岐に行合て、其尊霊さこそ悦給はんずらめ。」と、泪を流して申けるが、云つる言少しも不違、数万人の敵の中へ只一騎懸入て、終に討死しけるこそ哀なれ赤松肥前権守朝範は、此陣を一番に破られぬる事、身独の恥と思ければ、袖に著たる笠符を引隠て、敵の中へ交て、よき敵にあはゞ打違へて死なんと伺見ける処に、山名右衛門佐が引敵を追立て、敵を少も足ためさせずして、只何くまでも追攻々々討て、前へ通れと兵を下知して、弓手の方を通りけるを、朝範吃と打見て、「哀敵や。」と云侭に、走懸て追様に、右衛門佐が甲を破よ砕よとしたゝかにちやうど打れて吃と振返れば、山名が若党三人中に隔て、肥前守が甲を重ね打に打て打落す。落たる甲を取て著んとて、差うつぶく処に、小鬢のはづれ小耳の上、三太刀まで被切ければ、流るゝ血に目昏て、朝範犬居に動と臥せば、敵押へてとどめを差てぞ捨たりける。され共此人死業や不来けん、敵頚をも不取。軍散じて後、草の陰より生出て助りけるこそ不思議なれ。一陣二陣忽に攻破られて、山名弥勝に乗ければ、峯々に控たる国々の集勢共、未戦先に捨鞭を打て落行ける程に、大将羽林公の陣の辺には僅に勢百騎計ぞ残ける。是までも猶佐々木判官入道々誉・赤松律師則祐二人、小も気を不屈、敷皮の上に居直りて、「何くへか一足も引候べき。只我等が討死仕て候はんずるを御覧ぜられて後、御自害候へ。」と、大将をおきて奉て、弥勇てぞ見へたりける。大将の陣無勢に成て、而も四目結の旗一流有と見へければ、山名大に悦て申けるは、「抑我此の乱を起す事、天下を傾け将軍を滅し奉らんと思ふに非ず、只道誉が我に無礼なりし振舞を憎しと思許也。此に四目結の旗は道誉にてぞ有らん。是天の与たる処の幸也。自余の敵に目な懸そ。あの頚取て我に見せよ。」と、歯嚼をして前まれければ、六千余騎の兵共、我先にと勇み前んで大将の陣へ打て懸る。敵の近事二町許に成にければ、赤松律師則祐、帷幕を颯と打挙て、「天下勝負此軍に非ずや。何の為にか命を可惜。名将の御前にて紛もなく討死して、後記に留めよや。」と下知しければ、「承候。」とて、平塚次郎・内藤与次・近藤大蔵丞・今村宗五郎・湯浅新兵衛尉・大塩次郎・曾禰四郎左衛門七人、大将の御前をはら/\と立て抜て懸る。敵に射手は一人もなし。向ふ敵を御方の射手に射すくめさせて、七人の者共鎧の射向の袖汰合せ、跳懸々々鍔本に火を散し、鋒に血を淋ひで切て廻けるに、山名が前懸の兵四人目の前に討れて、三十人深手を負ければ、跡につゞける三百余人進兼てぞ見へたりける。是を見て平井新左衛門景範・櫛橋三郎左衛門尉・桜田左衛門俊秀・大野弾正忠氏永、声々に、「つゞくぞ引な。」と、御方の兵に力を付て、喚てぞ懸たりける。かさに敵を請たる徒立の勢なれば、悪手の馬武者に中を懸破られて足をもためず、両方の谷へ雪下て引を見て、初め一陣二陣にて打散されつる四国・中国の兵、此彼より馳来て、忽に千余騎に成にけり。山名右衛門佐、跡なる勢を麾て、猶蒐入んと四方を見廻す処に、南方の官軍共、跡に千余騎にて控たりけるが、何と、云儀もなく、崩落て引ける間、矢種尽き気疲れたる山名が勢、心は猛く思へ共不叶、心ならず御方に引立られて、山崎を差て引退く。敵却て勝に乗しかば、嶺々谷々より、五百騎三百騎道を要へ前を遮て、蜘手十文字に懸立る。中にも内海十郎範秀は、逃る敵に追すがうて、甲の鉢・胄の総角、切付々々行けるが、鐔本より太刀をば打折ぬ。馬は疲れぬ。徒立に成てぞ立たりける。弓手の方を屹と見たれば、噎爽に鎧ふたる武者一騎、三引両の笠符著て馳通りけるを、哀敵やと打見て、馬の三頭にゆらりと飛乗り、敵と二人馬にぞ乗たりける。敵是を御方ぞと心得て、「誰にてをはするぞ。手負ならば我が腰に強く抱著給へ。助奉らん。」と云ければ、「悦入て候。」と云もはてず、刀を抜て前なる敵の頚を掻落し、軈其馬に打乗て、落行敵を追て行く。山名右衛門佐が兵共始因幡を立しより、今度は必都にて尸を曝さんと思儲し事なれば、伊田・波多野・多賀谷・浅沼・藤山・土屋・福依・石原・久世・竹中・足立・河村・首藤・大庭・福塚・佐野・火作・歌・河沢・敷美以下、宗との侍八十四人、其一族郎従二百六十三人、返合々々四五町が中にて討れにけり。右衛門佐は小林民部丞が跡に蹈止て防矢射けるを、討せじと七騎にて又取て返し、大勢の中へ懸入て面も不振戦はれける程に、左の眼を小耳の根へ射付られて目くれ肝消しければ、太刀を倒に突て、些心地を取直さんとせられける処に、敵の雨の降如く射る矢、馬の太腹・草脇に五筋まで立ければ、小膝を折て動ど臥す。馬より下り立て、鎧の草摺たゝみ上て、腰の刀を抜て自害をせんとし給けるを、河村弾正馳寄て、己が馬に掻乗せ、福間三郎が戦疲れて、とある岩の上に休て居たりけるを招て、右衛門佐の馬の口を引せ、河村は徒立に成て、追て懸る敵に走懸々々、切死にこそ死にけれ。右衛門佐は乗替の馬に乗て、些人心は付たれ共、流るゝ血目に入て東西更に不見ければ、「馬廻に誰かある。此馬の口を敵の方へ引向よ。馳入、河村弾正が死骸の上にて討死せん。」と勇けるを、福間三郎、「此方が敵の方にて候。」とて、馬の口を下り頭に引向け、自馬手の七寸に付て、小砂まじりの小篠原を、三町許馳落て、御方の勢にぞ加りける。爰までは追てかゝる敵もなし。其後軍は休にけり。右衛門佐は淀へ打帰て、此軍に討れつる者共の名字を一々に書注して、因幡の岩常谷の道場へ送り、亡卒の後世菩提をぞ吊はせられける。中にも河村弾正忠は我命に代て討れつる者なればとて、懸たる首を敵に乞受て、空しき顔を一目見て泪を流てくどかれけるは、「我此乱を起して天下を覆へさんとせし始より、御辺が我を以て如父憑み、我は御辺を子の如くに思き。されば戦場に臨む度毎に、御辺いきば我もいき、御辺討死せば我も死なんとこそ契しに、人は依儀に為我死し、我は命を助られて人の跡に生残りたる恥かしさよ。苔の下草の陰にても、さこそ無云甲斐思給ふらめ。末の露と先立本の瀝と後るゝ共、再会は必九品浄土の台に有べし。」と泣々鬢を掻き撫て、聖一人請じ寄て、今まで秘蔵して被乗たる白瓦毛の馬白鞍置て葬馬に引せ、白太刀一振聖に与て、討死しつる河村が後生菩提を問れける、情の程こそ難有けれ。昔唐の太宗戦に臨で、戦士を重くせしに、血を含み疵を吸のみに非ず、亡卒の遺骸をば帛を散して収しも、角やと覚て哀なり。