太平記/巻第三十一
巻第三十一
260 新田起義兵事
吉野殿武家に御合体有つる程こそ、都鄙暫く静也つれ。御合体忽に破て、合戦に及し後、畿内・洛中は僅に王化に随といへ共、四夷八蛮は猶武威に属する者多かりけり。依之諸国七道の兵彼を討ち是を従へんと互に威を立る間、合戦の止時もなし。已闘諍堅固に成ぬれば、是ならずとも静なるまじき理也。元弘建武の後より、天下久く乱て、一日も未不治。心あるも心無も、如何なる山の奥もがなと、身の穏家を求ぬ方もなけれど、何くも同じ憂世なれば、厳子陵が釣台も脚を伸るに水冷く、鄭大尉が幽栖も薪を担ふに山嶮し。如何なる一業所感にか、斯る乱世に生れ逢て、或は餓鬼道の苦を乍生受、或は脩羅道の奴と不死前に成ぬらんと、歎かぬ人は無りけり。此時、故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興・三男少将義宗・従父兄弟左衛門佐義治三人、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所を定めず身を蔵て、時を得ば義兵を起さんと企て居たりける処へ、吉野殿未住吉に御坐有し時、由良新左衛入道信阿を勅使にて、「南方と義詮と御合体の事は暫時の智謀也と聞ゆる処也。仍節に迷ひ時を過すべからず。早義兵を起て、将軍を追討し、宸襟を休め奉るべし。」とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人の人々に逢て事の子細を相触ける間、さらば軈て勢を相催せとて、廻文を以て東八箇国を触廻るに、同心の族八百人に及べり。中にも石堂四郎入道は、近年高倉殿に属して、薩■山の合戦に打負て、無甲斐命計を被助、鎌倉に有けるが、大将に憑たる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を不起得。哀謀反を起す人のあれかし、与力せんと思ひける処に、新田兵衛佐・同少将の許より内状を通じて、事の由を知せたりければ、流れに棹と悦て、軈て同心してけり。又三浦介・葦名判官・二階堂下野二郎・小俣宮内少輔も高倉殿方にて、薩■山の合戦に打負しかば、降人に成て命をば継たれども、人の見る処、世の聞処、口惜き者哉、哀謀反を起さばやと思ける処に、新田武蔵守・同左衛門佐の方より、憑み思ふよしを申たりければ、願ふ処の幸哉と悦て、則与力して、此人々密に扇谷に寄合て評定しけるは、「新田の人々旗を挙て上野国に起り、武蔵国へ打越ると聞へば、将軍は定て鎌倉にてはよも待給はじ、関戸・入間河の辺に出合てぞ防ぎ給はんずらん。我等五六人が勢何にと無とも、三千騎はあらんずらん。将軍戦場に打出給はんずる時、態と馬廻りに扣て、合戦已に半ばならんずる最中、将軍を真中に取篭奉り、一人も不残打取て後に御陣へは参候べし。」と、新田の人々の方へ相図を堅く定て、石堂入道・三浦介・小俣・葦名は、はたらかで鎌倉にこそ居たりけれ。諸方の相図事定りければ、新田武蔵守義宗・左兵衛佐義治、閏二月八日、先手勢八百余騎にて、西上野に打出らる。是を聞て国々より馳参ける当家他門の人々、先一族には、江田・大館・堀口・篠塚・羽河・岩松・田中・青竜寺・小幡・大井田・一井・世良田・篭沢、外様には宇都宮三河三郎・天野民部大輔政貞・三浦近江守・南木十郎・西木七郎・酒勾左衛門・小畑左衛門・中金・松田・河村・大森・葛山・勝代・蓮沼・小磯・大磯・酒間・山下・鎌倉・玉縄・梶原・四宮・三宮・南西・高田・中村、児玉党には浅羽・四方田・庄・桜井・若児玉、丹の党には安保信濃守・子息修理亮・舎弟六郎左衛門・加治豊後守・同丹内左衛門・勅使河原丹七郎・西党・東党・熊谷・太田・平山・私市・村山・横山・猪俣党、都合其勢十万余騎、所々に火を懸て、武蔵国へ打越る。依之武蔵・上野より早馬を打て鎌倉へ急を告る事、櫛の歯を引が如し。「さて敵の勢は何程有ぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎には劣候はじ。」とぞ答ける。仁木・細川の人々是を聞て、「さてはゆゝしき大事ごさんなれ。鎌倉中の勢、千騎にまさらじと覚也。国々の軍勢は縦参る共、今の用には難立。千騎に足らぬ御勢を以て、敵の二十万騎を防ん事は、可叶共覚候はず。只先安房・上総へ開せ給て、御勢を付て御合戦こそ候はめ。」と被申けるを、将軍つく/゛\と聞給て、「軍の習、落て後利ある事千に一の事也。勢を催さん為に、安房・上総へ落なば、武蔵・相摸・上野・下野の者共は、縦尊氏に志有共、敵に隔られて御方に成事あるべからず。又尊氏鎌倉を落たりと聞かば、諸国に敵に成者多かるべし。今度に於ては、縦少勢なりとも、鎌倉を打出て敵を道に待て、戦を決せんには如じ。」とて、十六日の早旦に、将軍僅に五百余騎の勢を率し、敵の行合んずる所までと、武蔵国へ下り給ふ。鎌倉より追著奉る人々には、畠山上野・子息伊豆守・畠山左京大夫・舎弟尾張守・舎弟大夫将監・其次式部大夫・仁木左京大夫・舎弟越後守・三男修理亮・岩松式部大夫・大島讃岐守・石堂左馬頭・今河五郎入道・同式部大夫・田中三郎・大高伊予守・同土佐修理亮・太平安芸守・同出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曾我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同三郎左衛門・饗庭命鶴・和田筑前守・長井大膳大夫・同備前守・同治部少輔・子息右近将監等也。元より隠謀有しかば、石堂入道・三浦介・小俣少輔次郎・葦名判官・二階堂下野次郎、其勢三千余騎は、他勢を不交、将軍の御馬の前後に透間もなくぞ打たりける。久米河に一日逗留し給へば、河越弾正少弼・同上野守・同唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同下野守・同修理亮・高坂兵部大輔・同下野守・同下総守・同掃部助・豊島弾正左衛門・同兵庫助・土屋備前守・同修理亮・同出雲守・同肥後守・土肥次郎兵衛入道・子息掃部助・舎弟甲斐守・同三郎左衛門・二宮但馬守・同伊豆守・同近江守・同河内守・曾我周防守・同三河守・同上野守・子息兵庫助・渋谷木工左衛門・同石見守・海老名四郎左衛門・子息信濃守・舎弟修理亮・小早河刑部大夫・同勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿島越前守・島田備前守・浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守・都合其勢八万余騎、将軍の陣へ馳参る。已に明日矢合と定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦介を呼のけて宣ひけるは、「合戦已に明日と定められたり。此間相謀つる事を、子息にて候右馬頭に、曾て知せ候はぬ間、此者一定一人残止て、将軍に討れ進せつと覚候。一家の中を引分て、義卒に与し、老年の頭に冑を戴くも、若望み達せば、後栄を子孫に残さんと存ずる故也。されば此事を告知せて、心得させばやと存ずるは如何が候べき。」と問給ひければ、三浦、「げにも是程の事を告進せられざらんは、可有後悔覚候。急知せ進らせ給へ。」と申ける間、石堂禅門、子息右馬頭を呼て、「我薩■山の合戦に打負て、今降人の如くなれば、仁木・細川等に押すへられて、人数ならぬ有様御辺も定て遺恨にぞ思らん。明日の合戦に、三浦介・葦名判官・二階堂の人々と引合て、合戦の最中将軍を討奉り、家運を一戦の間に開かんと思也。相構て其旨を心得て、我旗の趣に可被順。」と云れければ、右馬頭大に気色を損じて、「弓矢の道弐ろあるを以て恥とす。人の事は不知、於某は将軍に深く憑れ進せたる身にて候へば、後矢射て名を後代に失はんとは、えこそ申まじけれ。兄弟父子の合戦古より今に至まで無き事にて候はず。何様三浦介・葦名判官、隠謀の事を将軍に告申さずは大なる不忠なるべし。父子恩義已に絶候ぬる上は、今生の見参は是を限りと思召候へ。」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ被参ける。父の禅門大に興を醒して、急ぎ三浦が許に行て、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候けり。此事右馬頭に不知、敵の中に残て討れもやせんずらんと思ふ悲さに、告知せて候へば、以外に気色を損じて、此事将軍に告申さでは叶まじきとて、帰候つるは如何。此者が気色、よも告申さぬ事は候はじ、如何様軈て討手を向られんと覚候。いざゝせ給へ。今夜我等が勢を引分て、関戸より武蔵野へ回て、新田の人々と一になり、明日の合戦を致候はん。」と宣ひければ、多日の謀忽に顕れて、却て身の禍に成ぬと恐怖して、三浦・葦名・二階堂手勢三千余騎を引分、寄手の勢に加らんと関戸を廻て落行。是ぞはや将軍の御運尽ざる所なれ。
261 武蔵野合戦事
三浦が相図相違したるをば、新田武蔵守夢にも不知、時刻よく成ぬと急ぎ、明れば閏二月二十日の辰刻に、武蔵野の小手差原へ打臨み給ふ。一方の大将には、新田武蔵守義宗五万余騎、白旗・中黒・頭黒、打輪の旗は児玉党、坂東八平氏・赤印一揆を五手に引分て、五所に陣をぞ取たりける。一方には新田左兵衛佐義興を大将にて、其勢都合二万余騎、かたばみ・鷹の羽・一文字・十五夜の月弓一揆、引ては一りも帰じと是も五手に一揆して四方六里に引へたり。一方には脇屋左衛門佐義治を大将にて、二万余騎、大旗・小旗・下濃の旗、鍬形一揆・母衣一揆、是も五箇所に陣を張り、射手をば左右に進ませて懸手は後に■控へたり。敵小手差原にありと聞へければ、将軍十万余騎を五手に分て、中道よりぞ寄られける。先陣は平一揆三万余騎、小手の袋・四幅袴・笠符に至るまで一色に皆赤かりければ、殊更耀てぞ見へたりける。二陣には白旗一揆二万余騎、白葦毛・白瓦毛・白佐馬・■毛なる馬に乗て、練貫の笠符に白旌を差たりけるが、敵にも白旌有と聞て俄に短くぞ切たりける。三陣には花一揆、命鶴を大将として六千余騎、萌黄・火威・紫糸・卯の花の妻取たる鎧に薄紅の笠符をつけ、梅花一枝折て甲の真甲に差たれば、四方の嵐の吹度に鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆とて三万余騎、二引両の旌の下に将軍を守護し奉て、御内の長者・国大名、閑に馬を引へたり。五陣は仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・三男修理亮義氏、其勢三千余騎、笠符をも不著、旌をも不差、遥の外に引のけて、馬より下てぞ居たりける。是は両方大勢の合戦なれば、十度二十度懸合々々戦んに、敵も御方も気を屈し、力疲れぬ事不可有。其時荒手に代りて、敵の大将の引へたらんずる所を見澄して、夜討せんが為也けり。去程に新田・足利両家の軍勢二十万騎、小手差原に打臨で、敵三声時を作れば御方も三度時の声を合す。上は三十三天までも響き、下は金輪際迄も聞ゆらんと震し。先一番に新田左兵衛佐が二万余騎と、平一揆が三万余騎と懸合て、追つ返つ合つ分れつ、半時計相戦て、左右へ颯と引除たれば、両方に討るゝ兵八百余人、疵を被る者は未計るに不遑。二番に脇屋左衛門佐が二万余騎と、白旗一揆が二万七千余騎と、東西より相懸りに懸て、一所に颯と入乱れ、火を散して戦ふに、汗馬の馳違音、太刀の鐔音、天に光り地に響く。或は引組で頚を取もあり被取もあり、或は弓手妻手に相付て、切て落すもあり被落もあり。血は馬蹄に被蹴懸紅葉に酒く雨の如く、尸は野径に横て尺寸の地も不余さ。追靡け懸立られ、七八度が程戦て東西へ颯と別れたれば、敵御方に討るゝ者又五百人に及べり。三番に饗庭の命鶴生年十八歳、容貌当代無双の児なるが、今日花一揆の大将なれば、殊更花を折て出立、花一揆六千余騎が真前に懸出たり。新田武蔵守是を見て、「花一揆を散さん為に児玉党を向はせ、打輪の旗は風を含める物也。」とて、児玉党七千余騎を差向らる。花一揆皆若武者なれば思慮もなく敵に懸りて、一戦々とぞ見へし。児玉党七千余騎に被揉立、一返も返さずはつと引。自余の一揆は、かくる時は一手に成て懸り、引時は左右へ颯と別れて、荒手を入替さすればこそ、後陣は騒がで懸違たれ。是其軍立無甲斐、将軍の後に引へておはする陣の中へ、こぼれ落て引間、荒手は是に被蹴立不進得、敵は気に乗て勝時を作懸々々、責付て追懸る。角ては叶まじ、些引退て一度に返せと云程こそ有けれ、将軍の十万余騎、混引に引立て、曾て後を不顧。新田武蔵守義宗、旗より先に進で、「天下の為には朝敵也。我為には親の敵也。只今尊氏頚を取て、軍門に不曝、何の時をか可期。」とて、自余の敵共の南北へ分れて引をば少も目に懸ず、只二引両の大旗の引くに付て、何くまでもと追蒐給ふ。引も策を挙げ、追も逸足を出せば、小手差原より石浜まで坂東道已四十六里を片時が間にぞ追付たる。将軍石浜を打渡給ひける時は、已に腹を切んとて、鎧の上帯切て投捨て高紐を放さんとし給ひけるを、近習の侍共二十余騎返合て、追蒐る敵の河中まで渡懸たると、引組々々討死しける其間に、将軍急を遁れて向の岸にかけ上り給ふ。落行敵は三万余騎、追懸る敵は五百余騎、河の向の岸高して、屏風を立たるが如くなるに、数万騎の敵返合せて、此を先途と支たり。日已に酉のさがりに成て河の淵瀬も不見分、新田武蔵守義宗続ひて渡すに不及、迹より続く御方はなし。安からぬ者哉と牙を嚼て本陣へと引返さる。又将軍の御運のつよき所なり。新田兵衛佐と脇屋左衛門佐とは一所に成て、白旗一揆が二三万騎北に分れて引けるを、是ぞ将軍にておはすらん。何くまでも追攻て討んとて、五十余町迄追懸て行処に、降参の者共が馬より下、各対面して色代しける程に、是に会尺んと、所々にて馬を控へ会尺し給ひける間、軍勢は皆北を追て東西へ隔りぬ。義興と義治と僅に三百余騎に成てぞをおはしける。仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長は、元来加様の所を伺て未一戦もせず、馬を休めて葦原の中に隠れて居られたりけるが、是を見て、「末々の源氏、国々のつき勢をば、何千騎討ても何かせん。あはれ幸や、天の与へたる所哉。」と悦て、其勢三千余騎、只一手に成て押寄たり。敵小勢なれば、定て鶴翼に開て、取篭んずらんと推量して、義興・義治魚鱗に連て、轡をならべて、敵の中を破んと見繕ふ処に、仁木越後守義長是を屹と見て、「敵の馬の立様・軍立、尋常の葉武者に非ず。小勢なればとて、侮りて中を破らるな。一所に馬を打寄て、敵懸る共懸合すな。前後に常に目を賦て、大将と覚しき敵あらば組で落て首をとれ。葉武者かゝらば射落せ。敵に力を尽させて御方少も不漂、無勢に多勢不勝や。」と、委細に手立を成敗して一処に勢をぞ囲たる。案に不違義興・義治、目の前に引へて欺く敵に怺へ兼て、三百余騎を一手になし、敵の真中を懸破て、蜘手十文字に懸立んと喚て懸りけれ共、仁木越後守些も不轟。「真中を破らるな。敵に気を尽させよ。」と下知して、弥馬を立寄、透間もなく引へたれば、面にある兵計互に討れて颯と引けれ共、追ても更に不懸、裏へ通りて戦へども、面は些も不騒、東へ廻れ共西は閑なり。北へ廻れ共南は曾不轟。懸寄れば打違、組で落れば落重る。千度百度懸れ共、強陣勢堅くして大将退く事無れば、義興・義治気疲れて東を差て落て行。二十余町落延て、誰々討れたると計るに、三百余騎有つる兵共、百余騎討れて二百余騎ぞ残りける。義興甲の錣・袖の三の板切落されて、小手の余り・臑当のはづれに、薄手三所負ひたり。義治は太刀かけ・草摺の横縫、皆突切れて威毛計続たるに、鍬形両方被切折、星も少々削られたり。太刀は鐔本より打折ぬ。中間に持せたる長刀を持れけるが、峯はさゝらの子の如く被切て、刃は鋸の様にぞ折たりける。馬は三所まで被切たりけるが、下て乗替にのり給へば、倒れて軈て死にけり。両大将如此、自戦て疵を被る上は其已下の兵共痛手を負、切疵の二三箇所負ぬ者は希也。新田武蔵守、将軍をば打漏しぬ。今日は日已に暮ぬれば、勢を集て明日石浜へ寄んとて小手差原へ打帰る。「兵衛佐殿何くにか引へ給ぬる。」と行合ふ兵共に問給へば、「兵衛佐殿と脇屋殿とは、一所に引て御渡り候つるが、仁木殿に打負て、東の方へ落させ給候つる也。」とぞ答ける。さて爰に見へたる篝は、敵歟御方かと問給へば、「此辺に御方は一騎も候まじ。是は仁木殿兄弟の勢か、白旗一揆の者共が、焼たる篝にてぞ候覧。小勢にて此辺に御坐候はん事は如何と覚候へば、夜に紛て急ぎ笛吹峠の方へ打越させ給候て、越後・信濃勢を待調へられ候て、重て御合戦候へかし。」と申ければ、武蔵守暫思案して、「げにも此義然べし。」とて、「笛吹峠は何くぞ。」と、問々夜中に落給ふ。
262 鎌倉合戦事
新田左兵衛佐・脇屋左衛門佐二人は、纔に二百余騎に被打成、武蔵守に離れぬ、御方の勢共は何地へか引ぬらん。浪にも不著礒にも離たる心地して、皆馬より下居て休まれけるが、「此勢にては上野へも帰り得まじ。落て可行方もなし。可打死命なれば、鎌倉へ打入て、足利左馬頭に逢て、命を失はゞや。」と宣へば、諸人皆此義に同じて、混ら討死せんと志し、思々の母衣懸て、鎌倉へとぞ趣れける。夜半過程に関戸を過給けるに、勢の程五六千騎も有らんと覚て、西を指て下る勢に行合給て、是は搦手に廻る勢にてぞ有らん。さては鎌倉までも不行著して、関戸にてぞ、尸をば可曝にて有けりと、面々に思定て一処に馬を懸寄せ、「是は誰殿の勢にて御渡候ぞ。」と問れければ、「是は石堂入道・三浦介、新田殿へ御参候也。」とぞ答ける。義興・義治手を拍て、こはいかにと悦給ふ事無限。只魯陽が朽骨二たび連て韓搆と戦を致し時、日を三舎に返しゝ悦も、是には過じとぞ覚ける。軈て此勢と打連れて、神奈河に著て鎌倉の様を問給へば、「鎌倉には将軍の御子息左馬頭基氏を警固し奉て、南遠江守、安房・上総の勢三千余騎にて、けはひ坂・巨福呂坂を切塞で用心密く見へ候しが、昨日の朝敵三浦に有と聞て、打散さんとて向はれ候しか共、虚言にて有けりとて、只今鎌倉へ打帰給て候よ。」とぞ語りける。「さては只今の合戦ごさんなれ、爰にて軍の用意をせよ。」とて、兵粮を仕ひ馬に糟かはせて、三千余騎二手に分て、鶴岳へ旗指少々差遣て大御堂の上より真下にぞ押寄たる。鎌倉勢は只今三浦より打帰て、未馬の鞍をもをろさず鎧の上帯をも解ぬ程なれば、若宮小路へ打出て、只一所に引へたり。小俣小輔次郎をば、今日の軍奉行と今朝より被定たりければ、手勢七十三騎ひつ勝て、敵の村立て引へたる中へつと懸入、火を散て切乱す。三浦・葦名・二階堂の兵共、案内は知たり、人馬は未疲、此谷彼の小路より、どつと喚ては懸入り、颯と懸破ては裏へ抜、谷々小路々々に入乱てぞ戦たる。兵衛佐義興は、浜面の在家のはづれにて、敵三騎切て落し、大勢の中をつと懸抜ける処にて、小手の手覆を切ながさるゝ太刀にてゝ手綱のまがりをづんと切れて、弓手の片手綱土にさがり馬の足に蹈れけるを、太刀をば左の脇に挟み、鐙の鼻に落さがり、左右の手縄を取合て結れけるを、敵三騎能隙哉と馳寄て、冑の鉢と総角著とを三打四打したゝかに切けれ共、義興些も不騒、閑に手綱を結て鞍坪に直り給へば、三騎の敵はつと馬を懸のけて、「あはれ大剛の武者や。」と、高声に二声三声感じて御方の勢にぞ馳著たる。塔辻の合戦難義也と見へければ、脇屋左衛門佐と、小俣小輔二郎と一手に成て、二百余騎喚ひて懸られけるに、南遠江守被懸立て、旗を巻て引退くを見て、谷谷に戦ける兵共、十方へ落散ける間、一所に打寄事不叶して、百騎二百騎思々に落て行。され共三浦・石堂が兵共、余に戦くたびれて、さして敵を不追ければ、南遠江守は、今日の合戦に被打洩、左馬頭を具足し奉て、石浜を差て被落けり。新田左兵衛佐・脇屋左衛門佐、二月十三日の鎌倉の軍に打勝てこそ、会稽の恥を雪るのみに非ず、両大将と仰がれて、暫く八箇国の成敗に被居けり。
263 笛吹峠軍事
新田武蔵守は、将軍の御運に退緩して、石浜の合戦に本意を不達しかば、武蔵国を前になし、越後・信濃を後に当て、笛吹峠に陣を取てぞおはしける。是を聞て打よる人々には、大江田式部大輔・上杉民部大輔・子息兵庫助・中条入道・子息佐渡守・田中修理亮・堀口近江守・羽河越中守・荻野遠江守・酒勾左衛門四郎・屋沢八郎・風間信濃入道・舎弟村岡三郎・堀兵庫助・蒲屋美濃守・長尾右衛門・舎弟弾正忠・仁科兵庫助・高梨越前守・大田滝口・干屋左衛門大夫・矢倉三郎・藤崎四郎・瓶尻十郎・五十嵐文四・同文五・高橋大五郎・同大三郎・友野十郎・繁野八郎・禰津小二郎・舎弟修理亮・神家一族三十三人・繁野一族二十一人、都合其勢二万余騎、先朝第二宮上野親王を大将にて、笛吹峠へ打出る。将軍小手差原の合戦に無事故、石浜にをはする由聞へければ、馳参れける人々には、千葉介・小山判官・小田少将・宇都宮伊予守・常陸大丞・佐竹右馬助・同刑部大輔・白河権少輔・結城判官・長沼判官・河越弾正少弼・高坂刑部大輔・江戸・戸島・古尾谷兵部大輔・三田常陸守・土肥兵衛入道・土屋備前々司・同修理亮・同出雲守・下条小三郎・二宮近江守・同河内守・同但馬守・同能登守・曾我上野守・海老名四郎左衛門・本間・渋谷・曾我三河守・同周防守・同但馬守・同石見守・石浜上野守・武田陸奥守・子息安芸守・同薩摩守・同弾正少弼・小笠原・坂西・一条三郎・板垣三郎左衛門・逸見美濃守・白州上野守・天野三河守・同和泉守・狩野介・長峯勘解由左衛門、都合其勢八万余騎、将軍の御陣へ馳参る。鎌倉には、義興・義治七千余騎にて、著到を付ると聞へ、武蔵には新田義宗・上杉民部大輔、二万余騎にて引へたりと聞ゆ。何くへ可向と評定有けるが、先勢の労せぬ前に、大敵に打勝なば、鎌倉の小勢は不戦共可退散、衆議一途に定て、将軍同二月二十五日石浜を立て、武蔵府に著給へば、甲斐源氏・武田陸奥守・同刑部大輔・子息修理亮・武田上野守・同甲斐前司・同安芸守・同弾正少弼・舎弟薩摩守・小笠原近江守・同三河守・舎弟越後守・一条四郎・板垣四郎・逸見入道・同美濃守・舎弟下野守・南部常陸守・下山十郎左衛門、都合二千余騎にて馳参る。同二十八日将軍笛吹峠へ押寄て、敵の陣を見給へば、小松生茂て前に小河流たる山の南を陣に取て、峯には錦の御旗を打立、麓には白旗・中黒・棕櫚葉・梶葉の文書たる旗共、其数満々たり。先一番に荒手案内者なればとて、甲斐源氏三千余騎にて押寄たり。新田武蔵守と戦ふ。是も荒手の越後勢、同三千余騎にて相懸りに懸りて半時許戦ふに、逸見入道以下宗との甲斐源氏共百余騎討れて引退く。二番に千葉・宇都宮・小山・佐竹が勢相集て七千余騎、上杉民部大輔が陣へ押寄て入乱々々戦ふに、信濃勢二百余騎討れければ、寄手も三百余騎討れて相引に左右へ颯と引。引けば両陣入替て追つ返つ、其日の午刻より酉刻の終まで少しも休む隙なく終日戦ひ暮してけり。夫れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申は、先後に山をあて、左右に水を堺ふて敵を平野に見下し、我勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒替る/\射手を進めて戦ふ者也。此陣幸に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守若武者なれば、毎度広みに懸出て、大勢に取巻れける間、百度戦ひ千度懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂に打負て、笛吹峠へぞ引上りける。上杉民部大輔が兵に、長尾弾正・根津小次郎とて、大力の剛者あり。今日の合戦に打負ぬる事、身一の恥辱也と思ければ、紛れて敵の陣へ馳入、将軍を討奉らんと相謀て、二人乍ら俄に二つ引両の笠符を著替へ、人に見知れじと長尾は乱髪を顔へ颯と振り懸け、根津は刀を以て己が額を突切て、血を面に流しかけ、切て落したりつる敵の頚鋒に貫き、とつ付に取著て、只二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢道に横て、「誰が手の人ぞ。」と問ければ、「是は将軍の御内の者にて候が、新田の一族に、宗との人々を組討に討て候間、頚実検の為に、将軍の御前へ参候也。開て通され候へ。」と、高らかに呼て、気色ばうて打通れば、「目出たう候。」と感ずる人のみ有て、思とがむる人もなし。「将軍は何くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引へさせ給ひて候也。」と、指差て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔たる事草鹿の的山計に成にける。「あはれ幸や、たゞ一太刀に切て落さんずる者を。」と、二人屹と目くはせして、中々馬を閑々と歩ませける処に、猶も将軍の御運や強かりけん、見知人有て、「そこに紛て近付武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼りければ、将軍に近付奉らせじと、武蔵・相摸の兵共、三百余騎中を隔て左右より颯と馳寄る。根津と長尾と、支度相違しぬと思ければ、鋒に貫きたる頚を抛て、乱髪を振揚、大勢の中を破て通る。彼等二人が鋒に廻る敵、一人として甲の鉢を胸板まで真二に破著けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也。是等は只二騎なり、十方より矢衾を作て散々に射ける間、叶はじとや思けん、「あはれ運強き足利殿や。」と高らかに欺て、閑々と本陣へぞ帰りける。夜に入ければ、両陣共に引退て陣々に篝を焼たるに、将軍の御陣を見渡せば、四方五六里に及て、銀漢高くすめる夜に、星を列るが如くなり。笛吹峠を顧れば、月に消行蛍火の山陰に残るに不異。義宗也を見給て、「終日の合戦に、兵若干討れぬといへ共、是程まで陣の透べしとは覚ぬに、篝の数の余りにさびしく見るは、如何様勢の落行と覚るぞ。道々に関を居よ。」とて、栽田山と信濃路に、稠く関を居られたり。「夫士率将を疑ふ時は戦不利云事あり。前には大敵勝に乗て、後は御方の国国なれば、今夜一定越後・信濃へ引返さんずらんと、我を疑はぬ軍勢不可有。舟を沈め糧を捨て、二度び帰じと云心を示すは良将の謀なり。皆馬の鞍をゝろし鎧を脱で、引まじき気色、人に見せよ。」とて、大将鎧を脱給へば士率悉鞍をおろして馬を休む。宵の程は皆心を取静めて居たりけるが、夜半許に続松をびたゝしく見へて、将軍へ大勢のつゞく勢見へければ、明日の戦も叶はじとや思はれけん、上杉民部大輔、篝計を焼棄て、信濃へ落にければ、新田武蔵守、其暁越後へ落られけり。斯りし後は、只今まで新田・上杉に付順つる武蔵・上野の兵共も、未何方へも不著して、一合戦の勝負を伺ひ見つる上総・下総の者共も、我前にと将軍へ馳参りける程に、其勢無程百倍して、八十万騎に成にけり。新田左兵衛佐義興・脇屋左衛門佐義治は、六千余騎にて尚鎌倉にをはしけるが、将軍已に笛吹峠の合戦に打勝て、八箇国の勢を卒して、鎌倉へ寄給ふ由聞へければ、義興も義治も、只此にて討死せんと宣ひけるを、松田・河村の者共、「某等が所領の内、相摸河の河上に究竟の深山候へば、只それへ先引篭らせ給て、京都の御左右をも聞召し、越後信乃の大将達へも被牒合候て、天下の機を得、諸国の兵を集てこそ重て御合戦も候はめ。」と、より/\強て申ければ、義興・義治諸共に、三月四日鎌倉を引て、石堂・小俣・二階堂・葦名判官・三浦介・松田・河村・酒勾以下、六千余騎の勢を卒して、国府津山の奥にぞ篭りける。
264 八幡合戦事付官軍夜討事
都には去月二十日の合戦に打負て、足利宰相中将殿は近江国へ落させ給ひ、持明院の本院・新院・主上・春宮は、皆捕はれさせ給て、賀名生に遷幸成ぬ。吉野の主上は猶世を危て、八幡に御座あり。月卿雲客は、西山・東山・吉峯・鞍馬の奥などに逃隠れてをはすれば、帝城の九禁いつしか虎賁猛将の備へもなく、朝儀大礼の沙汰も無て、野干の棲と成にけり。桓武の聖代此四神相応の地を撰で、東山に将軍塚を築れ、艮の方に天台山を立て、百王万代の宝祚を修し置れし勝地なれば、後五百歳未来永々に至るまで、荒廃非じとこそ覚つるに、こはそも何に成ぬる世の中ぞやと、歎かぬ人も無りけり。宰相中将殿は、近江の四十九院に、はる/゛\とをはしけれ共、土岐・佐々木が外は、相従ふ勢も無りしが、東国の合戦に、将軍勝給ぬと聞へて、後より勢の付奉る事如雲霞。さらば軈て京都へ寄せよとて、三月十一日四十九院を立て、三万余騎先伊祇代三大寺にして手を分つ。或漫々たる湖上に、山田・矢早瀬の渡舟の棹す人もあり。或は渺々たる沙頭に、堅田・高島を経て駒に鞭うつ勢もあり。旌旗水烟に翻て、竜蛇忽天にあがり、甲冑夕陽に耀て、星斗則地に列なる。中の院の宰相中将具忠卿、千余騎にて此勢を防ん為に、大津辺に控られたりけるが、敵の大勢なる体を見て、戦ふ事不叶とや思はれけん。敵の未不近前に八幡へ引返さる。同十五日宰相中将殿京都に発向して、東山に陣をめさるれば、宮方の大将北畠右衛門督顕能、都を去て淀・赤井に陣を取る。同十七日に宰相中将殿下京に御移有て、東寺に御陣を召るれば、顕能卿淀河を引て、八幡の山下に陣をとる。未戦前に宮方の大将陣を去事三箇度なれば、行末とてもさぞ有んずらめと、憑少なくぞ見たりける。さは有り乍ら、八幡は究竟の要害なるに、赤井の橋を引て、畿内の官軍七千余騎にて楯篭りたり。三方は大河隔て橋もなく舟もなし。宇治路を後へ廻らば、前後皆敵陣にはさまりて、進退心安かるまじ、如何すべきと評定有て、東寺には猶国々の勢を待れける処に、細川陸奥守四国の勢を率して、三千余騎にて上洛せらる。又赤松律師則祐は、吉野殿より宮を一人申下し進せて、今までは宮方を仕る由にて有けるが、是もいかゞ思案したりけん。宮方を背きて京都へ馳来りければ、宰相中将殿は竜の水を得、虎の山に靠が如くに成て、勢京畿を掩り。同三月二十四日、宰相中将殿三万余騎の勢を率し、宇治路を回て木津河を打渡り、洞峠に陣を取んとす。是は河内・東条の通路を塞て、敵を兵粮に攻ん為也。八幡より北へは、和田五郎・楠次郎左衛門とを向られけるが、楠は今年二十三、和田は十六、何れも皆若武者なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉く危み思はれけるに、和田五郎参内して申けるは、「親類兄弟悉度々の合戦に、身を捨討死仕候畢。今日の合戦は又公私の一大事と存ずる事にて候上は、命を際の合戦仕て、敵の大将を一人討取候はずは、生て再び御前へ帰り参る事候まじ。」と、申切て罷出ければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々の勇士也と、感ぜぬ人は無りけり。去程に和田・楠・紀伊国勢三千余騎、皆荒坂山へ打向て爰を支んと引へたれば、細河相摸守清氏・同陸奥守顕氏・土岐大膳大夫・舎弟悪五郎、六千余騎にて押寄たり。山路嶮しく、峯高く峙たれば、麓より皆馬を蹈放ち/\、かづき連てぞ上たりける。斯る軍に元来馴たる大和・河内の者共なれば、岩の陰、岸の上に走り渡て散々に射る間、面に立つ土岐と細河が兵共、射しらまされて不進得。土岐悪五郎は、其の比天下に名を知れたる大力の早わざ、打物取て達者也ければ、卯の花威の鎧に鍬形打て、水色の笠符吹流させ、五尺六寸の大太刀抜て引側め、射向の袖を振かざいて、遥に遠き山路を只一息に上らんと、猪の懸る様に、莞爾笑上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打見て、突たる楯をかはと投棄て、三尺五寸の小長刀、茎短に取て渡合ふ。爰に相摸守が郎従に、関左近将監と云ける兵、土岐が脇よりつと走抜て、和田五郎に打て蒐る。和田が中間是を見て、小松の陰より走出て、近々と攻寄て、十二束三伏暫堅めて放つ矢、関将監がゝらどうを、くさ目どほしに射抜れて、小膝をついてぞ臥たりける。悪五郎走寄て引起さんとしける処を、又和田が中間二の矢を番ふて、悪五郎が脇立のつぼの板、くつ巻せめてぞ射こうだる。関将監是を見て、今は可助く人なしと思けるにや、腰の刀を抜て腹を切んとしけるを、悪五郎、「暫し自害なせそ、助けんずる。」とて、つぼ板に射立られたる矢をば、脇立ながら引切て投棄、かゝる敵を五六人切臥、関将監を左の小脇に挟み、右手にて件の太刀を打振々々、近付く敵を打払て、三町許ぞ落たりける。跡に続ひて何くまでもと追懸ける和田五郎も討遁しぬ。不安思ひける処に、悪五郎が運や尽にけん、夕立に掘たる片岸の有けるを、ゆらりと越けるに、岸の額のかた土くわつと崩れて、薬研のやうなる所へ、悪五郎落ければ、走寄て長刀の柄を取延、二人の敵をば討てげり。入乱れたる軍の最中なれば、頚を取までもなし。悪五郎が引切て捨たりつる、脇立許を取て、討たる証拠に備へ、身に射立ふれたる矢ども少々折懸て、主上の御前へ参り合戦の体を奏し申せば、「初め申つる言ばに少しも不違、大敵の一将を討取て数箇所の疵を被りながら、無恙して帰り参る条、前代未聞の高名也。」と、叡感更に不浅。悪五郎討れて官軍利を得たりといへ共、寄手目に余る程の大勢なれば、始終此の陣には難怺とて、楠次郎左衛門夜に入て八幡へ引返せば、翌日朝敵軈て入替て、荒坂山に陣を取る。然ども官軍も不懸、寄手も不攻上、八幡を遠攻にして四五日を経る処に、山名右衛門佐師氏、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢卒して上洛す。路次の遠きに依て、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、直に八幡へ推寄て一軍せんとて淀より向はれけるが、法性寺の左兵衛督爰に陣を取て、淀の橋三間引落し、西の橋爪に掻楯掻て相待ける間、橋を渡る事は叶はず、さらば筏を作り渡せとて、淀の在家を壊て筏を組たれば、五月の霖に水増りて押流されぬ。数日有て後、淀の大明神の前に浅瀬有と聞出して、二千余騎を一手になし、流を截て打渡すに、法性寺の左兵衛督只一騎、馬のかけあがりに控へて、敵三騎切て落し、のりたる太刀を押直して、閑々と引て返れば、山名が兵三千余騎、「大将とこそ見奉るに、蓬くも敵に後をば見せられ候者哉。」とて追懸たり。「返すに難き事か。」とて、兵衛督取て返してはつと追散し、返し合ては切て落し、淀の橋爪より御山まで、十七度迄こそ返されけれ。され共馬をも切れず、我身も痛手を負ざれば、袖の菱縫吹返しに立処の矢少々折懸て、御山の陣へぞ帰られける。山名右衛門佐、財園院に陣をとれば、左兵衛督猶守堂口に支て防がんとす。四月二十五日、四方の寄手同時に牒し合せて攻戦ふ。顕能卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千余騎にて、園殿口に支て戦ふ。和田・楠・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢は、佐羅科に支て戦ふ。軍未半なるに、高橋の在家より神火燃出て、魔風十方に吹懸ける程に、官軍烟に咽で防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引上る。四方の寄手二万余騎、則洞峠へ打上りて、土岐・佐々木・山名・赤松・々田・飽庭・宮入道、一勢々々数十箇所に陣を取、鹿垣結て、八幡山を五重六重にぞ取巻ける。細河陸奥守・同相摸守は、真木・葛葉を打廻て、八幡の西の尾崎、如法経塚の上に陣を取て、敵と堀一重を隔てぞ攻たりける。五月四日、官軍七千余騎が中より夜討に馴たる兵八百人を勝りて、法性寺左兵衛督に付らる。左兵衛督昼程より此勢を吾陣へ集て、笠符を一様に著させ、誰そと問ば、進と名のるべしと約束して、夜已に二三更の程也ければ、宿院の後を廻て如法経塚へ押寄、八百人の兵共、同音に時をどつと作る。細河が兵三千余人、暗さは闇し分内はなし、馬放れ人騒で、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負、討るゝ者数を不知。遥なる谷底へ人なだれをつかせて追落されければ、馬・物具を捨たる事、幾千万共難知。一陣破れば残党全からじと見る処に、土岐・佐々木・山名・赤松が陣は些も動かず、鹿垣密く結て用心堅見へたれば、夜討に可打様もなく、可打散便りも無りけり。角ては何までか可怺、和田・楠を河内国へ返て、後攻をせさせよとて、彼等両人を忍て城より出して、河内国へぞ遣されける。八幡には此後攻を憑て今や/\と待給ける処に、是を我大事と思入れて引立ける和田五郎、俄に病出して、無幾程も死にけり。楠は父にも不似兄にも替りて、心少し延たる者也ければ、今日よ明日よと云許にて、主上の大敵に囲まれて御座あるを、如何はせんとも心に不懸けるこそ方見けれ。尭の子尭の如くならず、舜の弟舜に不似とは乍云、此楠は正成が子也。正行が弟也。何の程にか親に替り、兄に是まで劣るらんと、謗らぬ人も無りけり。
265 南帝八幡御退失事
三月十五日より軍始て、已に五十余日に及べば、城中には早兵粮を尽し、助の兵を待方もなし。角ては如何が可有と、云囁程こそあれ。軈て人々の気色替て、只落支度の外はする態もなし。去程に是ぞ宗との御用にも立ぬべき伊勢の矢野下野守・熊野湯河庄司、東西の陣に幕を捨て、両勢三百余騎降人に成て出にけり。城の案内敵に知れなば、落る共落得じ。さらば今夜主上を落し進よとて、五月十一日の夜半計に、主上をば寮の御馬に乗進せて、前後に兵共打囲み、大和路へ向て落させ給へば、数万の御敵前を要り跡に付て討留進らせんとす。依義軽命官軍共、返し合せては防ぎ、打破ては落し進らするに、疵を被て腹を切り、蹈留て討死する者三百人に及べり。其中に宮一人討れさせ給ひぬ。四条大納言隆資・円明院大納言・三条中納言雅賢卿も討れ給ひぬ。主上は軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官が進せたりける黄糸の鎧をめして、栗毛なる馬にめされたるを、一宮弾正左衛門有種追蒐進せて、「可然大将とこそ見進せ候。蓬くも敵に被追立、一度も返させ給はぬ者哉。」と呼はり懸て、弓杖三杖許近付たりけるを、法性寺左兵衛督屹と顧て、「悪ひ奴原が云様哉。いで己に手柄の程を見せん。」とて、馬より飛で下り、四尺八寸の太刀を以て、甲の鉢を破を砕けよとぞ打れたる。さしもしたゝかなる一宮、尻居にどうど打居られて、目くれ胆消にければ、暫く心を静めんと、目を塞ぎて居たる間に、主上遥に落延させ給ひにけり。古津河の端を西に傍て、御馬を早めらるゝ処に、備前の松田・備後の宮の入道が兵共、二三百騎にて取篭奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁れ給ふべし共不見けるが、天地神明の御加護も有けるにや、御鎧の袖・草摺に二筋当りける矢も、曾て裏をぞかゝざりける。法性寺左兵衛督、是までも尚離れ進せず、只一騎供奉したりけるが、迹より敵懸れば引返して追散し、敵前を遮れば懸破て、主上を落し進らせける処に、何より来るとも不知御方の兵百騎計、皆中黒の笠符著て、御馬の前後に候けるが、近付敵を右往左往に追散して、かき消様に失にければ、主上は玉体無恙して東条へ落させ給にけり。内侍所の櫃をば、初め給て持たりける人が田の中に捨たりけるを、伯耆大郎左衛門長生、著たる鎧を脱捨て、自荷担したりける。迹より追敵共、蒔捨る様に射ける矢なれば、御櫃の蓋に当る音、板屋を過る村雨の如し。され共身には一筋も不立ければ、長生兔角かゝくり付て、賀名生の御所へぞ参りける。多くの矢共御櫃に当りつれば、内侍所も矢や立せ給ひたるらんと、浅猿くて御櫃を見進せたれば、矢の跡は十三まで有けるが、纔に薄き桧木板を射徹す矢の一筋も無りけるこそ不思議なれ。今度忻て京都を攻られん為に、先住吉・天王寺へ行幸成たりし時、児島三郎入道志純も召れて参りたりけるを、「是が一大事なれば急東国・北国に下て、新田義貞が甥・子共に義兵を興させ、小山・宇都宮以下、便宜の大名を語ひて、天下の大功を即時に致す様に、智謀を運せ。」と仰出されければ、志純夜を日に継で関東へ下りたれば、東国の合戦早事散じて、新田義興・義治は河村の城に楯篭り、武蔵守義宗は越後国にぞ居たりける。勅使東国・北国に行向て、「君已に大敵に囲れさせ給ひて助の兵、力労ぬ。若神竜化して釣者の為に捕はれさせ給ひなば、天下誰が為にか争はん。」と、依義重可軽命習を申ければ、小山五郎・宇都宮少将入道も、「勅定に随ふ也。」とて、東国静謐の計略を可運由約諾す。義興・義治は尚東国に止て将軍と戦ひ、新田武蔵守義宗・桃井播磨守直常・上杉民部大輔・吉良三郎満貞・石堂入道、東山・東海・北陸道の勢を卒し二手に成て上洛し、八幡の後攻を致して朝敵を千里の外に可退と、諸将の相図を定て、勅使を先立てぞ上りける。去程に新田武蔵守義宗は、四月二十七日越後の津張より立て、七千余騎越中の放正津に著けば、桃井播磨守直常、三千余騎にて馳参る。都合其勢一万余騎、九月十一日前陣已に能登国へ発向す。吉良三郎・石堂も、四月二十七日に駿河国を立て、路次の軍勢を駈催し、六千余騎を卒して、五月十一日に先陣已に美濃の垂井・赤坂に著しかば、八幡に力を勠せんと遠篝をぞ焼たりける。是のみならず信濃の下の宮も、神家・滋野・友野・上杉・仁科・禰津以下の軍勢を召具して、同日に信濃を立せ給ふ。伊予には土居・得能、兵船七百余艘に取乗て、海上より責上る。東山・北陸・四国・九州の官軍共、皆我国々を立しかば、路次の遠近に依て、縦五日三日の遅速は有とも、後攻の勢こそ近づきたれと、云ひ立程ならば、八幡の寄手は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上は八幡を落させ給ひしかば、国々の官軍も力を落しはて、皆己が本国へぞ引返しける。是も只天運の時不至、神慮より事起る故とは云ながら、とすれば違ふ宮方の運の程こそ謀られたれ。