太平記/巻第三十三
巻第三十三
274 京軍事
昨日神南の合戦に山名打負て、本陣へ引返ぬと聞へしかば、将軍比叡山を打おり下て、三万余騎の勢を卒し、東山に陣をとる。仁木左京大夫頼章は、丹後・丹波の勢三千余騎を順へて、嵐山に取上る。京より南、淀・鳥羽・赤井・八幡に至るまでは、宮方の陣となり、東山・西山・山崎・西岡は、皆将軍方の陣となる。其中に有とあらゆる神社仏閣は役所の掻楯の為に毀たる。山林竹木は薪櫓の料に剪尽さる。京中をば敵横合に懸る時、見透す様になせとて、東山より寄て日々夜夜に焼仏ふ。白河をば敵を雨露に侵させて、人馬に気を尽させよとて、東寺より寄て焼仏ふ。僅に残る竹苑・枡庭・里内裏・三台・九棘の宿所々々、皆門戸を閉て人も無れば、野干の栖と成はて、荊棘扉を掩へり。去程に二月八日、細川相摸守清氏千余騎にて、四条大宮へ押寄せ、北陸道の敵八百余騎に懸合て、追つ返つ終日に戦ひ暮して、左右へ颯と引退処に、紺糸の鎧に紫の母衣懸て、黒瓦毛なる馬に厚総懸て乗たる武者、年の程四十許に見へたるが、只一騎馬を閑々と歩ませ寄て、「今日の合戦に、進む時は士率に先立て進み、引時は士率に殿れて引れ候つるは、如何様細河相摸守殿にてぞ坐すらん。声を聞ても我を誰とは知給はんずれ共、日已に夕陽に成ぬれば分明に見分くる人もなくて、あはぬ敵にや逢んずらんと存ずる間、事新く名乗申也。是は今度北陸道を打順へて罷上りて候桃井播磨守直常にて候ぞ。あはれ相摸殿に参り会て、日来承及し力の程をも見奉り、直常が太刀の金をも金引て御覧候へかし。」と、高声に名乗懸て、馬を北頭らに立てぞ控へたる。相摸守は元来敵に少も言ばを懸られて、たまらぬ気の人なりければ、桃井と名乗たるを聞て、少も不擬議、是も只一騎馬を引返て歩ませ寄る。あひ近に成ければ、互にあはれ敵や、天下の勝負只我と彼とが死生に可有。馬を懸合せ、組で勝負をせんと、鎧の綿嚼を掴んで引著たるに、言には不似桃井が力弱く覚へければ、甲を引切て抛げ捨て、鞍の前輪に押当て、頚掻切てぞ差挙たる。軈て相摸守の郎従十四五騎来たるに、此首と母衣とを持せて将軍の御前へ参り、「清氏こそ桃井播磨守を討て候へ。」とて軍の様を申されければ、蝋燭を明に燃し是を見給ふに、年の程はさもやと覚へ乍らさすがそれとは不見へ、田舎に住て早や多年になりぬれば面替りしけるにやと不審にて、昨日降人に出たりける八田左衛門大郎と云ける者を被召、「是をば誰が頚とか見知たる。」と問れければ、八田此頚を一目見て、涙をはら/\と流し、「是は越中国の住人に二宮兵庫助と申者の頚にて候。去月に越前の敦賀に著て候し此時、二宮、気比の大明神の御前にて、今度京都の合戦に、仁木・細川の人々と見る程ならば、我桃井と名乗て組で勝負を仕るべし。是若偽申さば、今生にては永く弓矢の名を失ひ後生にては無間の業を受べしと、一紙の起請を書て宝殿の柱に押て候しが、果して討死仕りけるにこそ。」と申ければ、其母衣を取寄て見給ふに、げにも、「越中国の住人二宮兵庫助、曝尸於戦場、留名於末代。」とぞ書たりける。昔の実盛は鬢鬚を染て敵にあひ、今の二宮は名字を替て命をすつ。時代隔たるといへ共其志相同じ。あはれ剛の者哉と惜まぬ人こそ無りけれ。二月十五日の朝は、東山の勢共上京へ打入て、兵粮を取由聞へければ、蹴散かさんとて、苦桃兵部太輔・尾張左衛門佐、五百余騎にて東寺を打出、一条・二条の間を二手に成て打廻る。是を見て細川相摸守清氏・佐々木黒田判官、七百余騎にて東山よりをり下る。尾張左衛門佐が後陣に朝倉下野守が五十騎許にて通りけるを、追切て討んと、六条河原より京中へ懸入る。朝倉少も不騒、馬を東頭らに立て直して、閑に敵を待懸たり。細川・黒田が大勢是を見て、あなづりにくしとや思けん。あはひ半町計に成て、馬を一足に颯とかけ居て、同音に時をどつと作る。朝倉少も不擬議大勢の中へ懸入て、馬烟を立て切合ふ。左衛門佐是を見て、「朝倉討すな、つゞけ。」とて、三百余騎にて取て返し、六条東洞院を東へ烏丸を西へ、追つ返つ七八度までぞ揉合たる。細河度毎に被追立体に見へけるに、南部六郎とて世に勝たる兵有けるが、只一騎踏止て戦ひ、返し合ては切て落し、八方をまくりて戦ひけるに、左衛門佐の兵共、箆白に成てぞ見へたりける。左衛門佐の兵の中に、三村首藤左衛門・後藤掃部助・西塔の金乗坊とて、手番ふたる勇士五騎あり。互に屹と合眼して、南部に組んと相近付く。南部尻目に見て、から/\と打咲ひ、「物々しの人々哉。いで胴切て太刀の金の程見せん。」とて、五尺六寸の太刀を以て開て片手打にしとゝ打。金乗房無透間つと懸寄てむずと組。南部元来大力なれば、金乗を取て中に差上たれ共、人飛礫に打まではさすが不叶、太刀の寸延たれば、手本近してさげ切にもせられず、只押殺さんとや思けん、築地の腹に推当て、ゑいや/\と押けるに、已に乗たる馬尻居に動と倒れければ、馬は南部が引敷の下に在ながら、二人引組で伏たり。四騎の兵馳寄て、遂に南部を打てければ、金乗南部が首を取て鋒に貫て馳返る。此にて軍は止で敵御方相引に京白河へぞ帰りにける。又同日の晩景に、仁木右京大夫義長・土岐大膳大夫頼康、其勢三千余騎にて七条河原へ押寄せ、桃井播磨守直常・赤松弾正少弼氏範・原・蜂屋が勢二千余騎と寄合て、川原三町を東西へ追つ返つ、烟塵を捲て戦事二十余度に及べり。中にも桃井播磨守が兵共、半ば過て疵を被ければ、悪手を替て相助ん為に、東寺へ引返しける程に、土岐の桔梗一揆百余騎に被攻立、返し合る者は切て落され、城へ引篭る者は城戸・逆木にせかれ不入得。城中騒ぎ周章て、すはや只今此城被攻落ぬとぞ見へたりける。赤松弾正少弼氏範は、郎等小牧五郎左衛門が痛手を負て引兼たるを助んと、馬上より手を引立て歩ませけるを、大将直冬朝臣、高櫓の上より遥に見給て、「返して御方を助けよ。」と、扇を揚て二三度まで招れける間、氏範、小牧五郎左衛門をかひ掴城戸の内へ投入、五尺七寸の太刀の鐔本取延て、只一騎返合々々、馳並々々切けるに、或は甲の鉢を立破に胸板まで破付られ、或は胴中を瓜切に斬て落されける程に、さしも勇める桔梗一揆叶はじとや思けん、七条河原へ引退て、其日の軍は留りけり。三月十三日、仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原相集て七千余騎、七条西洞院へ押寄せ、一手は但馬・丹後の敵と戦ひ、一手は尾張修理大夫高経と戦ふ。此陣の寄手動ば被懸立体に見へければ、将軍より使者を立られて、「那須五郎を可罷向。」と被仰ける。那須は此合戦に打出ける始、古郷の老母の許へ人を下して、「今度の合戦に若討死仕らば、親に先立つ身と成て、草の陰・苔の下までも御歎あらんを見奉らんずる事こそ、想像も悲く存候へ。」と、申遣したりければ、老母泣々委細に返事を書て申送けるは、古より今に至まで、武士の家に生るゝ人、名を惜て命を不惜、皆是妻子に名残を慕ひ父母に別を悲むといへ共、家を思ひ嘲を恥る故に惜かるべき命を捨る者也。始め身体髪膚を我に受て残傷ざりしかば、其孝已に顕ぬ。今又身を立道を行て名を後の世に揚るは、是孝の終たるべし。されば今度合戦に相構て身命を軽じて先祖の名を不可失。是は元暦の古へ、曩祖那須与一資高は、八島の合戦の時扇を射て名を揚たりし時の母衣也。」とて、薄紅の母衣を錦の袋に入てぞ送りたりける。さらでだに戦場に臨て、いつも命を軽ずる那須五郎が、老母に義を勧められて弥気を励しける処に、将軍より別して使を立られ、「此陣の戦難儀に及ぶ。向て敵を払へ。」と無与儀も被仰ければ、那須曾て一儀も不申畏て領状す。只今御方の大勢共立足もなくまくり立られて、敵皆勇み進める真中へ会尺もなく懸入て、兄弟二人一族郎従三十六騎、一足も不引討死しける。那須が討死に、東寺の敵機に乗らば、合戦又難儀に成ぬと危く覚へける処に、佐々木六角判官入道崇永と相摸守清氏と両勢一手に成て、七条大宮へ懸抜け、敵を西にうけ東に顧て、入替々々半時許ぞ戦たる。東寺の敵も此を先途と思けるにや、戒光寺の前に掻楯掻て打出々々火を散して戦けるに、相摸守薄手数所に負て、すはや討れぬと見へければ、崇永弥進て是を討せじと戦ふたる。斯処に土岐桔梗一揆五百余騎にて、悪手に替らんと進けるを見て、敵も悪手をや憑けん、掻楯の陰をばつと捨半町計ぞ引たりける。敵に息を継せば又立直す事もこそあれとて、佐々木と土岐と掻楯の内へ入て、敵の陣に入替らんとしけるが、廻る程も猶遅くや覚へけん、佐佐木が旗差堀次郎、竿ながら旗を内へ投げ入て、己が身は軈て掻楯を上り越てぞ入たりける。其後相摸守と桔梗一揆と左右より回て掻楯の中へ入、南に楯を突双て、三千余騎を一所に集め、向城の如くにて蹈せたれば、東寺に篭る敵軍の勢、気を屈し勢を呑れて、城戸より外へ出ざりけり。京中の合戦は、如此数日に及て雌雄日々に替り、安否今にありと見へけれ共、時の管領仁木左京大夫頼章は、一度も桂川より東へ打越ず、只嵐山より遥に直下して、御方の勝げに見ゆる時は延上りて悦び、負るかと覚しき時は、色を変じて落支度の外は他事なし。同陣に有ける備中の守護飽庭許ぞ、余りに見兼て、己が手勢許を引分て、度々の合戦をばしたりける。され共大廈は非一本支、山陰道をば頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣に囲れ、東山・北陸の両道は将軍の大勢に塞がつて、僅に河内路より外はあきたる方無りければ、兵粮運送の道も絶ぬ。重て攻上るべき助の兵もなし。合戦は今まで牛角なれ共、将軍の勢日々に随て重る。角ては始終叶はじとて、三月十三日の夜に入て右兵衛佐直冬朝臣、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引て、八幡・住吉・天王寺・堺の浦へぞ落られける。
275 八幡御託宣事
爰にて落集たる勢を見れば五万騎に余れり。此上に伊賀・伊勢・和泉・紀伊国の勢共、猶馳集るべしと聞へしかば、暫此勢を散さで今一合戦可有歟と、諸大将の異見区也けるを、直冬朝臣、「許否凡慮の及ぶ処に非ず。八幡の御宝前にして御神楽を奏し、託宣の言に付て軍の吉凶を知べし。」とて、様々の奉幣を奉り、蘋■を勧て、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の声、きねが袖ふる鈴の音、深け行月に神さびて、聞人信心を傾たり。託宣の神子、啓白の句、言ば巧みに玉を連ねて、様々の事共を申けるが、たらちねの親を守りの神なれば此手向をば受る物かはと一首の神歌をくり返し/\二三反詠じて、其後御神はあがらせ給にけり。諸大将是を聞て、さては此兵衛佐殿を大将にて将軍と戦はん事は、向後も叶まじかりけりとて、東山・北陸の勢は、駒に策をうち己が国々へ馳下り、山陰・西海の兵は、舟に帆を揚て落て行。誠に征罰の法、合戦の体は士卒に有といへ共、雌雄は大将に依る者也。されば周の武王は木主を作て殷の世を傾け、漢高祖は、義帝を尊て秦の国を滅せし事、旧記の所載誰か是を不知。直冬是何人ぞや、子として父を攻んに、天豈許す事あらんや。始め遊和軒の朴翁が天竺・震旦の例を引て、今度の軍に宮方勝事を難得と、眉を顰て申しを、げにも理なりけりとは、今社思ひ知れたれ。東寺落て翌の日、東寺の門にたつ。兔に角に取立にける石堂も九重よりして又落にけり深き海高き山名と頼なよ昔もさりし人とこそきけ唐橋や塩の小路の焼しこそ桃井殿は鬼味噌をすれ
276 三上皇自芳野御出事
足利右兵衛佐直冬・尾張修理大夫高経・山名伊豆守時氏・桃井播磨守直常以下の官軍、今度諸国より責上て、東寺・神南度々の合戦に打負しかば、皆己が国々に逃下て、猶此素懐を達せん事を謀る。依之洛中は今静謐の体にて、髪を被り衽を左にする人はなけれ共、遠国は猶しづまらで、戈を荷ひ粮を裹こと隙なし。爰に持明院の本院・新院・主上・春宮は皆去々年の春南方へ囚れさせ給て、賀名生の奥に被押篭御坐しかば、とても都には茨の宮已に御位に即せ給ぬる上は、山中の御棲居余りに御痛はしければとて、延文二年の二月に、皆賀名生の山中より出し奉て、都へ還幸なし奉る。上皇は故院の住荒させ給し伏見殿に移らせ給て御座あれば、参り仕る月卿雲客の一人もなし。庭には草生滋りて、梧桐の黄葉を踏分たる道もなく、軒には苔深くむして、見人からに袖ぬらす月さへ疎く成にけり。本院は去観応三年八月八日、河内の行宮にして御出家あり。御年四十一、法名勝光智とぞ申ける。御帰洛の後、本院・新院、両御所ともに夢窓国師の御弟子に成せ給て、本院は嵯峨の奥小倉の麓に幽なる御庵りを結ばれ、新院は伏見の大光明寺にぞ御座有ける。何れも物さびしく人目枯たる御栖居、申も中々疎かなり。彼悉達太子は、浄飯王の宮を出て檀特山に分入、善施太子は、鳩留国の翁に身を与へて檀施の行を修し給ふ。是は皆十善の国を合せたる十六の大国を保給ひし王位なれ共、捨るとなれば其位一塵よりも猶軽し。況や我国は粟散辺地の境也。縦天下を一統にして無為の大化に楽ませ給ふ共、彼の大国の王位に比せば千億にして其一にも難及。加様の理りを思食知せ給て、憂を便りに捨はてさせ給ひぬる世なれば、御身も軽きのみならず御心も又閑にして、半間の雲一榻の月、禅余の御友と成にければ、中々御心安くぞ渡らせ給ける。
277 飢人投身事
角て事の様を見聞に、天下此の二十余年の兵乱に、禁裏・仙洞・竹苑・枡房を始として、公卿・殿上・諸司・百官の宿所々々多く焼け亡て、今は纔に十が二三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払て、京白川に武士の屋形の外は在家の一宇もつゞかず。離々たる原上の草、塁々たる白骨、叢に纏れて、有し都の迹共不見成にければ、蓮府槐門の貴族・なま上達部・上臈・女房達に至るまで、或は大井、桂川の波の底の水屑となる人もあり、或は遠国に落下て田夫野人の賎きに身を寄せ、或は片田舎に立忍て、桑門、竹扉に住はび給へば、夜るの衣薄して暁の霜冷く、朝気の煙絶て後、首陽に死する人多し。中にも哀に聞へしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかや云ける者、日来は富栄て楽み身に余りけるが、此乱の後財宝は皆取散され、従類眷属は何地共なく落失て、只七歳になる女子、九になる男子と年比相馴し女房と、三人許ぞ身に添ける。都の内には身を可置露のゆかりも無て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思かねて、女房は娘の手を引、夫は子の手を引て、泣々丹波の方へぞ落行ける。誰を憑としもなく、何くへ可落著共覚ねば、四五町行ては野原の露に袖を片敷て啼明し、一足歩では木の下草にひれ臥て啼き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許に丹波国井原の岩屋の前に流たる思出河と云所に行至りぬ。都を出しより、道に落たる栗柿なんどを拾て纔に命を継しかば、身も余りにくたびれ足も不立成ぬとて、母・少き者、皆川のはたに倒れ伏て居たりければ、夫余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行て、中門の前に彳で、つかれ乞をぞしたりける。暫く有て内より侍・中間十余人走出て、「用心の最中、なまばうたる人のつかれ乞するは、夜討強盜の案内見る者歟。不然は宮方の廻文持て回る人にてぞあるらん。誡置て嗷問せよ。」とて手取足取打縛り、挙つ下つ二時許ぞ責たりける。女房・少き者、斯る事とは不思寄、川の端に疲れ臥て、今や/\と待居たりける処に、道を通る人行やすらひて、「穴哀や、京家の人かと覚しき人の年四十許なりつるが、疲れ乞しつるを怪き者かとて、あれなる家に捕へて、上つ下つ責つるが、今は責殺てぞあるらん。」と申けるを聞て、此女房・少き者、「今は誰に手を牽れ誰を憑てか暫くの命をも助るべき。後れて死なば冥途の旅に独迷はんも可憂。暫待て伴はせ給へ。」と、声々に泣悲で、母と二人の少き者、互に手に手を取組、思出河の深淵に身を投けるこそ哀なれ。兵部少輔は、いかに責問けれ共、此者元来咎なければ、落ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是にもこりず、妻子の飢たるが悲しさに、又とある在家へ行て、菓なんどを乞集て、先の川端へ行て見るに、母・少き者共が著たる小草鞋・杖なんどは有て其人はなし。こは如何に成ぬる事ぞやと周章騒ぎて、彼方此方求ありく程に、渡より少し下もなる井堰に、奇き物のあるを立寄て見たれば、母と二人の子と手に手を取組て流懸りたり。取上て泣悲め共、身もひへはてゝ色も早替りはてゝければ、女房と二人の子を抱拘へて、又本の淵に飛入、共に空く成にけり。今に至まで心なき野人村老、縁も知ぬ行客旅人までも、此川を通る時、哀なる事に聞伝て、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様哉と、思遣れて哀なり。
278 公家武家栄枯易地事
公家の人は加様に窮困して、溝壑に填道路に迷ひけれ共、武家の族は富貴日来に百倍して、身には錦繍を纏ひ食には八珍を尽せり。前代相摸守の天下を成敗せし時、諸国の守護、大犯三箇条の検断の外は綺ふ事無りしに、今は大小の事、共に只守護の計ひにて、一国の成敗雅意に任すには、地頭後家人を郎従の如くに召仕ひ、寺社本所の所領を兵粮料所とて押へて管領す。其権威只古の六波羅、九州の探題の如し。又都には佐々木佐渡判官入道々誉始として在京の大名、衆を結で茶の会を始め、日々寄合活計を尽すに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧をして、皆曲■の上に豹・虎の皮を布き、思々の段子金襴を裁きて、四主頭の座に列をなして並居たれば、只百福荘厳の床の上に、千仏の光を双て坐し給へるに不異。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈とて、座の囲四方一丈に珍物を備ふなれば、其に不可劣とて、面五尺の折敷に十番の斎羹・点心百種・五味の魚鳥・甘酸苦辛の菓子共、色々様々居双べたり。飯後に旨酒三献過て、茶の懸物に百物、百の外に又前引の置物をしけるに、初度の頭人は、奥染物各百充六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重充置。三番の頭人は、沈のほた百両宛、麝香の臍三充副て置。四番の頭人は沙金百両宛金糸花の盆に入て置。五番の頭人は、只今為立たる鎧一縮に、鮫懸たる白太刀、柄鞘皆金にて打くゝみたる刀に、虎の皮の火打袋をさげ、一様に是を引く。以後の頭人二十余人、我人に勝れんと、様をかへ数を尽して、如山積重ぬ。されば其費幾千万と云事を不知。是をもせめて取て帰らば、互に以此彼に替たる物共とすべし。ともにつれたる遁世者、見物の為に集る田楽・猿楽・傾城・白拍子なんどに皆取くれて、手を空して帰しかば、窮民孤独の飢を資るにも非ず、又供仏施僧の檀施にも非ず。只金を泥に捨て玉を淵に沈めたるに相同じ。此茶事過て後又博奕をして遊びけるに、一立てに五貫十貫立ければ、一夜の勝負に五六千貫負る人のみ有て百貫とも勝つ人はなし。此も田楽・猿楽・傾城・白拍子に賦り捨ける故也。抑此人々長者の果報有て、地より物が涌ける歟、天より財が降けるか。非降非涌、只寺社本所の所領を押へ取り、土民百姓の資財を責取、論人・訴人の賄賂を取集めたる物共也。古の公人たりし人は、賄賂をも不取、勝負をもせず、囲碁双六をだに酷禁ぜしに、万事の沙汰を閣て、訴人来れば酒宴茶の会なんど云て不及対面、人の歎をも不知、嘲をも不顧、長時に遊び狂ひけるは、前代未聞の癖事なり。懸し程に、延文三年二月十二日、故左兵衛督直義入道慧源、さしも爪牙耳目の武臣たりしかば、従二位の贈爵を苔の下なる遺骸にぞ賜ひける。法体死去の後、如此宣下無其例とぞ人皆申合れける。
279 将軍御逝去事
同年四月二十日、尊氏卿背に癰瘡出て、心地不例御坐ければ、本道・外科の医師数を尽して参集る。倉公・華他が術を尽し、君臣佐使の薬を施し奉れ共更無験。陰陽頭・有験の高僧集て、鬼見・太山府君・星供・冥道供・薬師の十二神将法・愛染明王・一字文殊・不動慈救延命の法、種々の懇祈を致せ共、病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。鎖龕は天竜寺の竜山和尚、起龕は南禅寺の平田和尚、奠茶は建仁寺の無徳和尚、奠湯は東福寺の鑑翁和尚、下火は等持院の東陵和尚にてぞをはしける。哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。別れの泪掻暮て、是さへとまらぬ月日哉。五旬無程過ければ、日野左中弁忠光朝臣を勅使にて、従一位左大臣の官を贈らる。宰相中将義詮朝臣、宣旨を啓て三度拝せられけるが、涙を押へて、帰べき道しなければ位山上るに付てぬるゝ袖かなと被詠けるを、勅使も哀なる事に聞て、有の侭に奏聞しければ、君無限叡感有て、新千載集を被撰けるに、委細の事書を載られて、哀傷の部にぞ被入ける。勅賞の至り、誠に忝かりし事共なり。
280 新待賢門院並梶井宮御隠事
同四月十八日、吉野の新待賢門の女院隠れさせ給ぬ。一方の国母にて御坐しければ、一人を始め進せて百官皆椒房の月に涙を落し、掖庭の露に思を摧く時節、何に有ける事ぞやとて、涙を拭ける処に、又同年五月二日、梶井二品親王御隠有ければ、山門の悲歎、竹苑の御歎更に類なし。此等は皆天下の重き歎なりしかば、知も知ぬも推並て、世の中如何あらんずらんと打ひそめき、洛中・山上・南方、打続たる哀傷、蘭省露深く、柳営烟暗して、台嶺の雲の色悲んで今年は如何なる歳なれば、高き歎の花散て、陰の草葉に懸るらんと、僧俗男女共に押並て袖をぞ絞りける。
281 崇徳院御事
今年の春、筑紫の探題にて将軍より被置たりける一色左京大夫直氏・舎弟修理大夫範光は、菊池肥前守武光に打負て京都へ被上ければ、小弐・大友・島津・松浦・阿蘇・草野に至るまで、皆宮方に順ひ靡き、筑紫九国の内には、只畠山治部大輔が日向の六笠の城に篭たる許ぞ、将軍方とては残りける。是を無沙汰にて閣かば、今将軍の逝去に力を得て、菊池如何様都へ責上りぬと覚る。是天下の一大事也。急で打手の大将を下さでは叶まじとて、故細川陸奥守顕氏子息、式部大夫繁氏を伊予守になして、九国の大将にぞ下されける。此人先讃岐国へ下り、兵船をそろへ軍勢を集る程に、延文四年六月二日俄に病付て物狂に成たりけるが、自ら口走て、「我崇徳院の御領を落して、軍勢の兵粮料所に充行しに依て重病を受たり。天の譴八万四千の毛孔に入て五臓六府に余る間、冷しき風に向へ共盛なる炎の如く、ひやゝかなる水を飲共沸返る湯の如し。あらあつや難堪や、是助てくれよ。」と悲み叫て、悶絶僻地しければ、医師陰陽師の看病の者共近付んとするに、当り四五間の中は猛火の盛に燃たる様に熱して、更に近付人も無りけり。病付て七日に当りける卯の刻に黄なる旗一流差て、混た甲の兵千騎許、三方より同時に時の声を揚て押寄たり。誰とは不知敵寄たりと心得て、此間馳集たる兵共五百余人、大庭に走出て散々に射る。箭種尽ぬれば打物に成て、追つ返つ半時許ぞ戦たる。搦手より寄ける敵かと覚て、紅の母衣掛たる兵十余騎、大将細川伊予守が頚と家人行吉掃部助が頚とを取て鋒に貫き、「悪しと思ふ者をば皆打取たるぞ。是看よや兵共。」とて、二の頚を差上たれば、大手の敵七百余騎、勝時を三声どつと作て帰るを見れば、此寄手天に上り雲に乗じて、白峯の方へぞ飛去ける。変化の兵帰去れば、是を防つる者共、討れぬと見へつる人も不死、手負と見つるも恙なし。こはいかなる不思議ぞと、互に語り互に問て、暫くあれば、伊予守も行吉も同時に無墓成にけり。誠に濁悪の末世と乍云、不思議なる事共なり。
282 菊池合戦事
小弐・大友は、菊池に九国を打順られて、其成敗に随事不安思ければ、細川伊予守の下向を待て旗を挙んと企けるが、伊予守、崇徳院の御霊に罰せられて、犬死しぬと聞へければ、力を失て機を呈さず。斯る処に畠山治部太輔が、未宮方には随はで楯篭たる六笠の城を責んとて、菊池肥後守武光五千余騎にて、十一月十七日肥後国を立て日向国へぞ向ける。道四日路が間、山を超川を渡て、行先は嶮岨に跡は難所にてぞ有ける。小弐・大友、菊池が催促に応じて、豊後国中に打出て勢汰をしけるが、是こそよき時分なりと思ければ、菊池を日向国へ遣り過して後、大友刑部太輔氏時、旗を挙て豊後の高崎の城に取上る。宇都宮大和前司は、河を前にして豊前の路を塞ぎ、肥前刑部太輔は、山を後に当て筑後の道をぞ塞ぎける。菊池已に前後の大敵に取篭られて何くへか可引。只篭の中の鳥、網代の魚の如しと、哀まぬ人も無りけり。菊池此二十四年が間、筑紫九国の者共が軍立手柄の程を、敵に受け御方になして、能知透したりければ、後ろには敵旗を上道を塞たりと聞へけれ共、更に事ともせず、十一月十日より矢合して、畠山治部太輔が子息民部少輔が篭たる三保の城を夜昼十七日が中に責落して、敵を打こと三百人に及べり。畠山父子憑切たる三保の城落されて、叶はじとや思ひけん、攻の城にもたまらず、引て深山の奥へ逃篭りければ、菊池今は是までぞとて肥後国へ引返すに、跡を塞ぎし大敵共更に戦ふ事なければ、箭の一をも不射己が館へぞ帰りける。是までは未太宰小弐・阿蘇大宮司、宮方を背く気色無りければ、彼等に牒し合せて、菊池五千余騎を卒して大友を退治せん為に豊後国へ馳向ふ。是時太宰小弐俄に心替して太宰府にして旗を挙ければ、阿蘇大宮司是に与して菊池が迹を塞がんと、小国と云処に九箇所の城を構て、菊池を一人も打漏さじとぞ企ける。菊池兵粮運送の路を止られて豊後へ寄る事も不叶、又太宰府へ向はんずる事も難儀也ければ、先我肥後国へ引返してこそ、其用意をも致さめとて、菊池へ引返しけるが、阿蘇大宮司が構たる九箇所の城を一々に責落して通るに、阿蘇大宮司憑切たる手者共三百余人討れければ、敵の通路を止むるまでは不寄思、我身の命を希有にしてこそ落行けれ。去程に七月に征西将軍宮を大将として、新田の一族・菊池の一類、太宰府へ寄と聞へしかば、小弐は陣を取て敵を待んとて、大将太宰筑後守頼尚・子息筑後新小弐忠資・甥太宰筑後守頼泰・朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門頼信・窪能登太郎泰助・肥後刑部太輔泰親・太宰出雲守頼光・山井三郎惟則・饗場左衛門蔵人重高・同左衛門大夫行盛・相馬小太郎・木綿左近将監・西河兵庫助・草壁六郎・牛糞刑部大輔、松浦党には、佐志将監・田平左衛門蔵人・千葉右京大夫・草野筑後守・子息肥後守・高木肥前守・綾部修理亮・藤木三郎・幡田次郎・高田筑前々司・三原秋月の一族・島津上総入道・渋谷播磨守・本間十郎・土屋三郎・松田弾正少弼・河尻肥後入道・託間三郎・鹿子木三郎、此等を宗との侍として都合其勢六万余騎、杜の渡を前に当て味坂庄に陣を取る。宮方には、先帝第六の王子征西将軍宮、洞院権大納言・竹林院三位中将・春日中納言・花山院四位少将・土御門少将・坊城三位・葉室左衛門督・日野左少弁・高辻三位・九条大外記・子息主水頭、新田一族には、岩松相摸守・瀬良田大膳大夫・田中弾正大弼・桃井左京亮・江田丹後守・山名因幡守・堀口三郎・里見十郎、侍大将には、菊池肥後守武光・子息肥後次郎・甥肥前二郎武信・同孫三郎武明・赤星掃部助武貫・城越前守・賀屋兵部太輔・見参岡三川守・庄美作守・国分二郎・故伯耆守長年が次男名和伯耆権守長秋・三男修理亮・宇都宮刑部丞・千葉刑部太輔・白石三川入道・鹿島刑部太輔・大村弾正少弼・太宰権小弐・宇都宮壱岐守・大野式部太輔・派讃岐守・溝口丹後守・牛糞越前権守・波多野三郎・河野辺次郎・稲佐治部太輔・谷山右馬助・渋谷三河・同修理亮・島津上総四郎・斉所兵庫助・高山民部太輔・伊藤摂津守・絹脇播磨守・土持十郎・合田筑前守、此等を宗との兵として、其勢都合八千余騎、高良山・柳坂・水縄山三箇所に陣をぞ取たりける。同七月十九日に、菊池は先己が手勢五千余騎にて筑後河を打渡り、小弐が陣へ押寄す。小弐如何思けん不戦、三十余町引退き大原に陣を取る。菊池つゞひて責んとしけるが、あはひに深き沼有て細道一つ有けるを、三所堀切て、細き橋を渡したりければ、可渡様も無りけり。両陣僅に隔て旗の文鮮に見ゆる程になれば、菊池態小弐を為令恥、金銀にて月日を打て著たる旗の蝉本に、一紙の起請文をぞ押たりける。此は去年太宰小弐、古浦城にて已に一色宮内太輔に討れんとせしを、菊池肥後守大勢を以て後攻をして、小弐を助たりしかば、小弐悦びに不堪、「今より後子孫七代に至まで、菊池の人々に向て弓を引矢を放事不可有。」と、熊野の牛王の裏に、血をしぼりて書たりし起請なれば、今無情心替りしたる処のうたてしさを、且は訴天に、且は為令知人に也けり。八月十六日の夜半許に、菊池先夜討に馴たる兵を三百人勝て、山を越水を渡て搦手へ廻す。宗との兵七千余騎をば三手に分て、筑後河の端に副て、河音に紛れて嶮岨へ廻りて押寄す。大手の寄手今は近付んと覚ける程に、搦手の兵三百人敵の陣へ入て、三処に時の声を揚げ十方に走散て、敵の陣々へ矢を射懸て、後へ廻てぞ控たる。分内狭き所に六万余騎の兵、沓の子を打たる様に役所を作り双たれば、時の声に驚き、何を敵と見分たる事もなく此に寄合彼に懸合て、呼叫追つ返つ同士打をする事数剋也しかば、小弐憑切たる兵三百余人、同士打にこそ討れけれ。敵陣騒乱て、夜已に明ければ、一番に菊池二郎、件の起請の旗を進めて、千余騎にてかけ入。小弐が嫡子太宰新小弐忠資、五十余騎にて戦けるが、父が起請や子に負けん。忠資忽に打負て、引返々々戦けるが、敵に組れて討れにけり。是を見て朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔、百余騎にて取て返し、近付く敵に引組々々差違て死ければ、菊池孫次郎武明・同越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三川守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下宗との兵八十三人、一所にて皆討れにけり。小弐が一陣の勢は、大将の新小弐討れて引退ければ、菊池が前陣の兵、汗馬を伏て引へたり。二番に菊池が甥肥前二郎武信・赤星掃部助武貫、千余騎にて進めば、小弐が次男太宰越後守頼泰、並太宰出雲守、二万余騎にて相向ふ。初は百騎宛出合て戦けるが、後には敵御方二万二千余騎、颯と入乱、此に分れ彼に合、半時許戦けるが、組で落れば下重り、切て落せば頚をとる。戦未決前に、小弐方には赤星掃部助武貫を討て悦び、寄手は引返す。菊池が方には太宰越後守を虜て、勝時を上てぞ悦ける。此時宮方に、結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同出雲守・熊谷民部大輔以下、宗との兵三百余人討死しければ、将軍方には、饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下、憑切たる兵共七百余人討れにけり。三番には、宮の御勢・新田の一族・菊池肥後守一手に成て、三千余騎、敵の中を破て、蜘手十文字に懸散んと喚ひて蒐る。小弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷の兵二万余騎、左右へ颯と分れて散々に射る。宮方の勢射立られて引ける時、宮は三所まで深手を負せ給ければ日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督に至るまで、宮を落し進せんと蹈止て討れ給ふ。是を見て新田の一族三十三人、其勢千余騎横合に懸て、両方の手崎を追まくり、真中へ会尺もなく懸入て、引組で落、打違て死、命を限に戦けるに、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相摸守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守、敵に組れて討れにけり。菊池肥後守武光・子息肥後次郎は、宮の御手を負せ給のみならず、月卿雲客・新田一族達若干討るゝを見て、「何の為に可惜命ぞや。日来の契約不違、我に伴ふ兵共、不残討死せよ。」と励されて、真前に懸入る。敵此を見知たりければ、射て落さんと、鏃をそろへて如雨降射けれ共、菊池が著たる鎧は、此合戦の為に三人張の精兵に草摺を一枚宛射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵て威たれば、何なる強弓が射けれ共、裏かく矢一も無りけり。馬は射られて倒れ共乗手は疵を被らねば、乗替ては懸入々々、十七度迄懸けるに、菊池甲を落されて、小鬢を二太刀切れたり。すはや討れぬと見へけるが、小弐新左衛門武藤と押双て組で落、小弐が頚を取て鋒に貫き、甲を取て打著て、敵の馬に乗替、敵の中へ破て入、今日の卯剋より酉の下まで一息をも不継相戦けるに、新小弐を始として一族二十三人、憑切たる郎従四百余人、其外の軍勢三千二百二十六人まで討れにければ、小弐今は叶はじとや思けん、太宰府へ引退て、宝万が岳に引上る。菊池も勝軍はしたれども、討死したる人を数れば、千八百余人と注したりける。続て敵にも不懸、且く手負を助てこそ又合戦を致さめとて、肥後国へ引返す。其後は、敵も御方も皆己が領知の国に楯篭て、中々軍も無りけり。
283 新田左兵衛佐義興自害事
去程に尊氏卿逝去あつて後、筑紫は加様に乱れぬといへ共、東国は未静也。爰に故新田左中将義貞の子息左兵衛佐義興・其弟武蔵少将義宗・故脇屋刑部卿義助子息右衛門佐義治三人、此三四年が間越後国に城郭を構へ半国許を打随へて居たりけるを、武蔵・上野の者共の中より、無弐由の連署の起請を書て、「両三人の御中に一人東国へ御越候へ。大将にし奉て義兵を揚げ候はん。」とぞ申たりける。義宗・義治二人は思慮深き人也ければ、此比の人の心無左右難憑とて不被許容。義興は大早にして、忠功人に先立たん事をいつも心に懸て思はれければ、是非の遠慮を廻さるゝまでもなく、纔に郎従百余人を行つれたる旅人の様に見せて、窃に武蔵国へぞ越られける。元来張本の輩は申に不及、古へ新田義貞に忠功有し族、今畠山入道々誓に恨を含む兵、窃に音信を通じ、頻に媚を入て催促に可随由を申者多かりければ、義興今は身を寄る所多く成て、上野・武蔵両国の間に其勢ひ漸萌せり。天に耳無といへ共是を聞に人を以てする事なれば、互に隠密しけれ共、兄は弟に語り子は親に知せける間、此事無程鎌倉の管領足利左馬頭基氏朝臣・畠山入道々誓に聞へてげり。畠山大夫入道是を聞しより敢て寝食を安くせず、在所を尋聞て大勢を差遣せば、国内通計して行方を不知。又五百騎三百騎の勢を以て、道に待て夜討に寄て討んとすれば、義興更に事共せず、蹴散しては道を通り打破ては囲を出て、千変万化総て人の態に非ずと申ける間、今はすべき様なしとて、手に余りてぞ覚へける。さても此事如何がすべきと、畠山入道々誓昼夜案じ居たりけるが、或夜潜に竹沢右京亮を近付て、「御辺は先年武蔵野の合戦の時、彼の義興の手に属して忠ありしかば、義興も定て其旧好を忘れじとぞ思はるらん。されば此人を忻て討んずる事は、御辺に過たる人可有。何なる謀をも運して、義興を討て左馬頭殿の見参に入給へ。恩賞は宜依請に。」とぞ語れける。竹沢は元来欲心熾盛にして、人の嘲をも不顧古への好みをも不思、無情者也ければ、曾て一義をも申さず。「さ候はゞ、兵衛佐殿の疑を散じて相近付候はん為に、某態御制法候はんずる事を背て御勘気を蒙り、御内を罷出たる体にて本国へ罷下て後、此人に取寄り候べし。」と能々相謀て己が宿所へぞ帰ける。兼て謀りつる事なれば、竹沢翌日より、宿々の傾城共を数十人呼寄て、遊び戯れ舞歌。是のみならず、相伴ふ傍輩共二三十人招集て、博奕を昼夜十余日までぞしたりける。或人是を畠山に告知せたりければ、畠山大に偽り忿て、「制法を破る罪科非一、凡破道理法はあれども法を破る道理なし。況や有道の法をや。一人の科を誡るは万人を為助也。此時緩に沙汰致さば、向後の狼籍不可断。」とて、則竹沢が所帯を没収して其身を被追出けり。竹沢一言の陳謝にも不及、「穴こと/゛\し、左馬頭殿に仕はれぬ侍は身一は過ぬ歟。」と、飽まで広言吐散して、己が所領へぞ帰にける。角て数日有て竹沢潜に新田兵衛佐殿へ人を奉て申けるは、「親にて候し入道、故新田殿の御手に属し、元弘の鎌倉合戦に忠を抽で候き。某又先年武蔵野の御合戦の時、御方に参て忠戦致し候し条、定て思召忘候はじ。其後は世の転変度々に及て、御座所をも存知仕らで候つる間、無力暫くの命を助て御代を待候はん為に、畠山禅門に属して候つるが、心中の趣気色に顕れ候けるに依て、差たる罪科とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収せらる。結句可討なんどの沙汰に及び候し間、則武蔵の御陣を逃出て、当時は深山幽谷に隠れ居たる体にて候。某が此間の不義をだに御免あるべきにて候はゞ、御内奉公の身と罷成候て、自然の御大事には御命に替り進せ候べし。」と、苦にぞ申入たりける。兵衛佐是を聞給て、暫は申所誠しからずとて見参をもし給はずして、密儀なんどを被知事も無りければ、竹沢尚も心中の偽らざる処を顕して近付奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申ける上臈女房の、年十六七許なる、容色無類、心様優にやさしく坐けるを、兔角申下して、先己が養君にし奉り、御装束女房達に至まで、様々にし立て潜に兵衛佐殿の方へぞ出したりける。義興元来好色の心深かりければ、無類思通して一夜の程の隔も千年を経る心地に覚ければ、常の隠家を替んともし給はず、少し混けたる式にて、其方様の草のゆかりまでも、可心置事とは露許も思給はず。誠に褒■一たび笑で幽王傾国、玉妃傍に媚て玄宗失世給しも、角やと被思知たり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵を謀る道を教しを不知けるこそ愚かなれ。角て竹沢奉公の志切なる由を申けるに、兵衛佐早心打解て見参し給ふ。軈て鞍置たる馬三疋、只今威し立てたる鎧三領、召替への為とて引進す。是のみならず、越後より著き纏奉て此彼に隠居たる兵共に、皆一献を進め、馬・物具・衣裳・太刀・々に至まで、用々に随て不漏是を引ける間、兵衛佐殿も竹沢を異于也。思をなされ、傍輩共も皆是に過たる御要人不可有と悦ばぬ者は無りけり。加様に朝夕宮仕の労を積み昼夜無二の志を顕て、半年計に成にければ、佐殿今は何事に付ても心を置給はず、謀反の計略、与力の人数、一事も不残、心底を尽て被知けるこそ浅猿けれ。九月十三夜は暮天雲晴て月も名にをふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月の会に事を寄て佐殿を我館へ入れ奉り、酒宴の砌にて討奉らんと議して、無二の一族若党三百余人催し集め、我館の傍にぞ篭置ける。日暮ければ竹沢急ぎ佐殿に参て、「今夜は明月の夜にて候へば、乍恐私の茅屋へ御入候て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申候はん為に、白拍子共少々召寄て候。」と申ければ、「有興遊ありぬ。」と面々に皆悦て、軈て馬に鞍置せ、郎従共召集て、已に打出んとし給ける処に、少将の御局よりとて佐殿へ御消息あり。披て見給へば、「過し夜の御事を悪き様なる夢に見進て候つるを、夢説に問て候へば、重き御慎にて候。七日が間は門の内を不可有御出と申候也。御心得候べし。」とぞ被申たりける。佐殿是を見給て、執事井弾正を近付て、「如何可有。」と問給へば、井弾正、「凶を聞て慎まずと云事や候べき。只今夜の御遊をば可被止とこそ存候へ。」とぞ申ける。佐殿げにもと思給ければ、俄に風気の心地有とて、竹沢をぞ被帰ける。竹沢は今夜の企案に相違して、不安思けるが、「抑佐殿の少将の御局の文を御覧じて止り給つるは、如何様我企を内々推して被告申たる者也。此女姓を生て置ては叶まじ。」とて、翌の夜潜に少将の局を門へ呼出奉て、差殺して堀の中にぞ沈めける。痛乎、都をば打続きたる世の乱に、荒のみまさる宮の中に、年経て住し人々も、秋の木葉の散々に、をのが様々に成しかば、憑む影なく成はてゝ、身を浮草の寄べとは、此竹沢をこそ憑給ひしに、何故と、思分たる方もなく、見てだに消ぬべき秋の霜の下に伏て、深き淵に沈られ給ひける今はの際の有様を、思遣だに哀にて、外の袖さへしほれにけり。其後より竹沢我力にては尚討得じと思ひければ、畠山殿の方へ使を立て、「兵衛佐殿の隠れ居られて候所をば委細に存知仕て候へ共、小勢にては打漏しぬと覚へ候。急一族にて候江戸遠江守と下野守とを被下候へ。彼等に能々評定して討奉候はん。」とぞ申ける。畠山大夫入道大に悦て、軈て江戸遠江守と其甥下野守を被下けるが、討手を下す由兵衛佐伝聞かば、在所を替て隔る事も有とて、江戸伯父甥が所領、稲毛の庄十二郷を闕所になして則給人をぞ被付ける。江戸伯父甥大に偽り忿て、軈て稲毛の庄へ馳下り、給人を追出城郭を構へ、一族以下の兵五百余騎招集て、「只畠山殿に向ひ一矢射て討死せん。」とぞ罵りける。程経て後、江戸遠江守、竹沢右京亮を縁に取て兵衛佐に申けるは、「畠山殿無故懸命の地を没収せられ、伯父甥共に牢篭の身と罷なる間、力不及一族共を引卒して、鎌倉殿の御陣に馳向ひ、畠山殿に向て一矢射んずるにて候。但可然大将を仰奉らでは、勢の著く事有まじきにて候へば、佐殿を大将に憑奉らんずるにて候。先忍て鎌倉へ御越候へ。鎌倉中に当家の一族いかなりとも二三千騎も可有候。其勢を付て相摸国を打随へ、東八箇国を推て天下を覆す謀を運らし候はん。」と、誠に容易げにぞ申たりける。さしも志深き竹沢が執申なれば、非所疑憑れて、則武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力しつる兵どもに、事の由を相触て、十月十日の暁に兵衛佐殿は忍で先鎌倉へとぞ被急ける。江戸・竹沢は兼て支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底を二所えり貫て、のみを差し、渡の向には宵より江戸遠江守・同下野守、混物具にて三百余騎、木の陰岩の下に隠て、余る所あらば討止めんと用意したり。跡には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人勝て、取て帰されば遠矢に射殺さんと巧たり。「大勢にて御通り候はゞ人の見尤め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛佐の郎従共をば、兼て皆抜々に鎌倉へ遣したり。世良田右馬助・井弾正忠・大島周防守・土肥三郎佐衛門・市河五郎・由良兵庫助・同新左衛門尉・南瀬口六郎僅に十三人を打連て、更に他人をば不雑、のみを差たる船にこみ乗て、矢口渡に押出す。是を三途の大河とは、思寄ぬぞ哀なる。倩是を譬ふれば、無常の虎に追れて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮出て是を呑んと舌を暢べ、其餐害を遁んと岸の額なる草の根に命を係て取付たれば、黒白二の月の鼠が其草の根をかぶるなる、無常の喩へに不異。此矢口の渡と申は、面四町に余りて浪嶮く底深し。渡し守り已に櫓を押て河の半ばを渡る時、取はづしたる由にて、櫓かいを河に落し入れ、二ののみを同時に抜て、二人の水手同じ様に河にかは/\と飛入て、うぶに入てぞ逃去ける。是を見て、向の岸より兵四五百騎懸出て時をどつと作れば、跡より時を合せて、「愚なる人々哉。忻るとは知ぬか。あれを見よ。」と欺て、箙を扣てぞ笑ける。去程に水船に涌入て腰中許に成ける時、井弾正、兵衛佐殿を抱奉て、中に差揚たれば、佐殿、「安からぬ者哉。日本一の不道人共に忻られつる事よ。七生まで汝等が為に恨を可報者を。」と大に忿て腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻回々々、二刀まで切給ふ。井弾正腸を引切て河中へかはと投入れ、己が喉笛二所さし切て、自らかうづかを掴み、己が頚を後ろへ折り付る音、二町許ぞ聞へける。世良田右馬助と大島周防守とは、二人刀を柄口まで突違て、引組で河へ飛入る。由良兵庫助・同新左衛門は舟の艫舳に立あがり、刀を逆手に取直して、互に己が頚を掻落す。土肥三郎左衛門・南瀬口六郎・市河五郎三人は、各袴の腰引ちぎりて裸に成、太刀を口えくわへて、河中に飛入けるが、水の底を潜て向の岸へかけあがり、敵三百騎の中へ走入り、半時計切合けるが、敵五人打取り十三人に手負せて、同枕に討れにけり。其後水練を入て、兵衛左殿並に自害討死の頚十三求出し、酒に浸して、江戸遠江守・同下野守・竹沢右京亮五百余騎にて、左馬頭殿の御坐武蔵の入間河の陣へ馳参。畠山入道不斜悦て、小俣少輔次郎・松田・河村を呼出して此を被見に、「無子細兵衛佐殿にて御坐し候けり。」とて、此三四年が先に、数日相馴奉し事共申出て皆泪をぞ流しける。見る人悦の中に哀添て、共に袖をぞぬらしける。此義興と申は、故新田左中将義貞の思ひ者の腹に出来たりしかば、兄越後守義顕が討れし後も、親父猶是を嫡子には不立、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせて時めきしかば、義興は有にも非ず、孤にて上野国に居たりしを、奥州の国司顕家卿、陸奥国より鎌倉へ責上る時、義貞に志ある武蔵・上野の兵共、此義興を大将に取立て、三万余騎にて奥州の国司に力を合せ、鎌倉を責落して吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧有て、「誠に武勇の器用たり。尤義貞が家をも可興者也。」とて、童名徳寿丸と申しを、御前にて元服させられて、新田左兵衛佐義興とぞ召れける。器量人に勝れ謀巧に心飽まで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉の軍にも大敵を破り、万卒に当る事、古今未聞処多し。其後身を側め、只二三人武蔵・上野の間に隠れ行給ひし時、宇都宮の清党が、三百余騎にて取篭たりしも不討得。其振舞恰も天を翔地を潜る術ありと、怪き程の勇者なりしかば、鎌倉の左馬頭殿も、京都の宰相中将も、安き心地をばせざりつるに、運命窮りて短才庸愚の者共に忻られ、水に溺れて討れ給ふ。懸りし程に江戸・竹沢が忠功抜群也とて、則数箇所の恩賞をぞ被行ける。「あはれ弓矢の面目哉。」と是を羨む人もあり、又、「涜き男の振舞哉。」と爪弾をする人もあり。竹沢をば猶も謀反与同の者共を委細に尋らるべしとて、御陣に被留置、江戸二人には暇たびて恩賞の地へぞ下されける。江戸遠江守喜悦の眉を開て、則拝領の地へ下向しけるが、十月二十三日の暮程に、矢口の渡に下居て渡の舟を待居たるに、兵衛佐殿を渡し奉し時、江戸が語らひを得て、のみを抜て舟を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞給て下ると聞て、種々の酒肴を用意して、迎の舟をぞ漕出しける。此舟已に河中を過ける時、俄に天掻曇りて、雷鳴水嵐烈く吹漲りて、白波舟を漂はす、渡守周章騒で、漕戻んと櫓を押て舟を直しけるが、逆巻浪に打返されて、水手梶取一人も不残、皆水底に沈みけり。天の忿非直事是は如何様義興の怨霊也と、江戸遠江守懼をのゝきて、河端より引返、余の処をこそ渡さめとて、此より二十余町ある上の瀬へ馬を早めて打ける程に、電行前に閃て、雷大に鳴霆めく、在家は遠し日は暮ぬ。只今雷神に蹴殺されぬと思ひければ、「御助候へ兵衛佐。」と、手を合せ虚空を拝して逃たりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸て、あれまでと馬をあをりける処に、黒雲一村江戸が頭の上に落さがりて、雷電耳の辺に鳴閃めきける間、余りの怖さに後ろを屹と顧たれば、新田左兵衛佐義興、火威の鎧に竜頭の五枚甲の緒を縮て、白栗毛なる馬の、額に角の生たるに乗、あひの鞭をしとゝ打て、江戸を弓手の物になし、鐙の鼻に落さがりて、わたり七寸許なる雁俣を以て、かひがねより乳の下へ、かけずふつと射とをさるゝと思て、江戸馬より倒に落たりけるが、やがて血を吐き悶絶僻地しけるを、輿に乗て江戸が門へ舁著たれば、七日が間足手をあがき、水に溺たる真似をして、「あら難堪や、是助けよ。」と、叫び死に死にけり。有為無常の世の習、明日を知ぬ命の中に、僅の欲に耽り情なき事共を巧み出し振舞し事、月を阻ず因果歴然乍に身に著ぬる事、是又未来永劫の業障也。其家に生れて箕裘を継弓箭を取は、世俗の法なれば力なし。努々人は加様の思の外なる事を好み翔ふ事有べからず。又其翌の夜の夢に、畠山大夫入道殿の見給ひけるは、黒雲の上に大鼓を打て時を作る声しける間、何者の寄来るやらんと怪くて、音する方を遥に見遣たるに、新田左兵衛佐義興、長二丈許なる鬼に成て、牛頭・馬頭・阿放・羅刹共十余人前後に随へ、火車を引て左馬頭殿のをはする陣中へ入と覚へて、胸打騒て夢覚ぬ。禅門夙に起て、「斯る不思議の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける言ばの未終ざるに、俄に雷火落懸り、入間河の在家三百余宇、堂舎仏閣数十箇所、一時に灰燼と成にけり。是のみならず義興討れし矢口の渡に、夜々光物出来て往来の人を悩しける間、近隣の野人村老集て、義興の亡霊を一社の神に崇めつゝ、新田大明神とて、常盤堅盤の祭礼、今に不絶とぞ承る。不思議なりし事共なり。