太平記/巻第三十四
巻第三十四
284 宰相中将殿賜将軍宣旨事
鎌倉贈左大臣尊氏公薨じ給し刻、世の危事、深淵に臨で薄氷を蹈が如にして、天下今に反覆しぬと見へける処に、是ぞ誠に武家の棟梁共成ぬべき器用と見へし新田兵衛佐義興は、武蔵国にて討れぬ。去年まで筑紫九国を打順へたりし菊池肥後守武光も、小弐・大伴が翻て敵に成し後は勢ひ少く成ぬと聞へしかば、宮方の人々は月を望むには暁の雲に逢へるが如く、あらまほしき天に悲あつて、意に叶はぬ世のうさを歎ければ、将軍方の武士共は、樹を移て春の花を看が如く、危き中にも待事多して、今は何事か可有と悦ばぬ人も無りけり。去程に延分三年十二月十八日、宰相中将義詮朝臣、二十九歳にて征夷将軍に成給ふ。日野左中弁時光を勅使にて宣旨を下されければ、佐々木太郎判官秀詮を以て宣旨を請取奉る。天下の武功に於ては申に不及といへども、相続して二代忽に将軍の位に備り給ふ、目出かりし世の様し也。抑此比将軍家に於て、我に増たる忠の者あらじと擘を振ふ輩多き中に、秀詮宣旨を請取奉る面目身に余る。其故を聞ば、祖父佐渡判官入道々誉、去元弘の始、相摸入道が振舞悪逆無道にして武運已に傾べき時至ぬとや見たりけん。平家を討て代を知給へと頻に将軍を進め申せしが、果して六波羅、尊氏卿の為に亡びにき。然共四海尚乱て二十余年、其間に名を高くせし武士共、宮方に参らば又将軍方に降り、高倉禅門に属するかと見れば右兵衛佐直冬に与力し、見を一偏に決せず、道誉将軍方にして、親類太略討死す。中にも秀詮が父、源三判官秀綱、去る文和二年六月に山名伊豆守が謀叛に依て、主上帝都を去せ御座して、越路の雲に迷せ給ふ。爰に新田掃部助、山名が謀叛に節を得て、堅田浦にて君を襲奉し時、秀綱返し合せ命を軽ず。其間に主上延させ御座す事、偏に秀綱が武功に依て也。其忠他に異也とて、秀詮を撰出されけるとぞ。是は建久の古、鎌倉右兵衛佐頼朝々臣、武将に備り給し時鶴岡の八幡宮にて、三浦荒二郎宣旨を請取奉りし例とぞ見へし。
285 畠山道誓上洛事
思の外に世の中閑なるに付ても、両雄は必争ふと云習なれば、鎌倉の左馬頭殿と宰相中将殿との御中、何様不和なる事出来ぬと、人皆危み思へり。是を聞て畠山大夫入道々誓、左馬頭殿に向て申されけるは、「故左大臣殿の御薨逝の後天下の人皆連枝の御中に、始終如何様御不快の御事候ぬと、怪み思て候なる。昔漢高祖崩御成て後、呂氏と劉氏と互に心を置合て、世中又乱れんとしけるを、高祖の旧臣、周勃・樊会等、兵を集め勢を合せて、世を治めたりとこそ承及候へ。道誓誠に不肖の身にて候へ共、且く大将の号を可有御免にて候はゞ、東国の勢を引卒して、京都へ罷上て南方へ発向し、和田・楠を責落し天下を一時に定て、宰相中将殿の御疑をも散じ候はゞや。」と被申ければ、左馬頭、「此儀誠に可然。早く東八箇国の勢を催て、南方の敵陣へ可発向。」とぞ宣ひける。畠山入道は、元来上に公儀を借て、下に私の権威を貪んと思へる心ありければ、先大名共の許に行向ひ、未非功忠賞の厚からん事を約し、未親ざるに交りの久からん事を語ひ、一日も己を剋め礼に復する時は天下の人民帰仁習なれば、東八箇国の大名小名一人も不残、皆催促にぞ順ひける。此上は暫も不可有猶予とて、延文四年十月八日、畠山入道々誓、武蔵の入間河を立て上洛するに、相順ふ人々には、先舎弟畠山尾張守・其弟式部太輔、外様には、武田刑部太輔・舎弟信濃守・逸見美濃入道・舎弟刑部少輔・同掃部助・武田左京亮・佐竹刑部太輔・河越弾正少弼・戸島因幡入道・土屋修理亮・白塩入道・土屋備前入道・長井治部少輔入道・結城入道・難波掃部助・小田讃岐守・小山一族十三人・宇都宮芳賀兵衛入道禅可・子息伊賀守・高根沢備中守・同一族十一人、是等を宗徒の大名として、坂東の八平氏・武蔵の七党・紀清両党、伊豆・駿河・三河・遠江の勢馳加て、都合二十万七千余騎と聞へしかば、前後七十余里に支て櫛の歯を引が如し。路次に二十日余の逗留有て、京著は十一月二十八日の午刻と聞へしかば、摂政関白・月卿雲客を始として、公家武家の貴賎上下、四宮河原より粟田口まで、桟敷を打続け、車を立双べて、見物の衆二行に群をなす。げにも聞しに不違。天下久く武家の一統と成て、富貴に誇る武士共が、爰を晴と出立たれば、馬・物具・衣裳・太刀・刀・金銀をのべ綾羅を不飾云事なし。中にも河越弾正少弼は、余りに風情を好で、引馬三十疋、白鞍置て引せけるが、濃紫・薄紅・萌黄・水色・豹文、色々に馬の毛を染て、皆舎人八人に引せたり。其外の大名共一勢一勢引分て、或は同毛の鎧著て、五百騎千騎打もあり、或は四尺五尺の白太刀に、虎皮の尻鞘引篭め、一様に二振帯副て、百騎二百騎打もあり。只孟嘗君が三千の客悉珠履をはいて春信君が富を欺しも、角やと覚へて目も盻也。
286 和田楠軍評定事付諸卿分散事
此比吉野の新帝は、河内天野と云処を皇居にて御座有ければ、楠左馬頭正儀・和田和泉守正武二人、天野殿に参じて奏聞しけるは、「畠山入道々誓東八箇国の勢を卒して二十万騎、已に京都に著て候なる。山陽道は播磨を限り、山陰道は丹波を堺ひ、東海・東山・南海・北陸道の兵、数を尽して上洛仕り候なれば、敵の勢は定て雲霞の如くにぞ候覧。但於合戦は、決定御方の勝とこそ料簡仕て候へ。其故は、軍に三の謀候べし。所謂天の時・地の利・人の和にて候。此内一も違ふ時は、勢ありと云共、勝事を不得とこそ見へて候へ。先づ天の時に付て勘候へば、明年よりは大将軍西に在て東よりは三年塞たり。畠山冬至以後、東国を立て罷上て候。是已に天の時に違れ候はずや。次に地の利に付て案じ候に、御方の陣、後は深山に連て敵案内を不知、前に大河流て僅なる橋一を路とせり。さ候へば、元弘の千盤屋の軍は中々不及申に。其後建武の乱より以来、細河帯刀・同陸奥守顕氏・山名伊豆守時氏・高武蔵守師直・同越後守師泰、今の畠山入道々誓に至るまで、已に六箇度此処へ寄て、猛勢を振ひ戦を挑しに、敵の軍遂に不利。或は尸を河南の路に曝し或は名を敗北の陣に失ひ候き。是当山形勝の地、要害の便を得たる故にて候。次には人の和に付て思案を廻し候に、今度畠山が上洛は、只勢を公義に借て忠賞を私に貪んと志にて候なる。仁木・細川の一族共も彼が権威を猜み、土岐・佐々木が一類も其忠賞を嫉まぬ事や候べき。是又人の心の和せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍ら違ひ候はゞ、縦敵百万の勢を合せて候共、恐に足ぬ所にて候。但、今の皇居は余りにあさまなる処にて候へば、金剛山の奥、観心寺と申候処へ、御座を移し進せ候て、正儀・正武等は和泉・河内の勢を相伴ひ、千葉屋・金剛山に引篭り、竜山・石川の辺に懸出々々、日々夜々に相戦ひ、湯浅・山本・恩地・贄河・野上・山本の兵共は、紀伊国守護代、塩冶中務に付て、竜門山・最初峰に陣を張せ、紀伊川禿辺に野伏を出して、開合せ攻合せ、息をも継せず令戦、極めて短気なる坂東勢共などか退屈せで候べき。退屈して引返す者ならば、勝に乗て追懸け、敵を千里の外に追散し、御運を一時に可開。是庶幾する処の合戦也。」と、事もなげにぞ申ける。主上を始進せて近侍の月卿雲客に至るまで、皆憑もしき事にぞ思食ける。さらば軈て観心寺へ皇居を移し進らすべしとて臨幸なるに、無用ならん人々を、そゞろに召具させ給べからずと申ける間、げにもとて伝奏の上卿両三人・奉行の職事一両輩・護持僧二人・衛府官四五人許を召具せられ、此外は何地へも暫く落忍て、御敵退散の時を可待と被仰出ければ、摂政関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・七弁・八史・五位・六位・後宮の美婦人・青上達部・内侍・更衣・上臈女房・出世・房官に至るまで、或は高野・粉川・天河・吉野・十津河の方に落行て、浅猿げなる山賎共に、憂身を寄る人もあり、或は志賀の古郷・奈良の都・京白河に立帰り、敵陣の中に紛れ居て、魂を消す人もあり。諸苦所因貪欲為本と、如来の金言、今更に思知こそ哀れなれ。
287 新将軍南方進発事付軍勢狼籍事
去程に足利新征夷大将軍義詮朝臣、延文四年十二月二十三日都を立て、南方の大手へ向給ふ。相順ふ人々には、先一族細川相摸守清氏・舎弟左近大夫将監・同兵部太輔・同掃部助・同兵部少輔・尾張左衛門佐・仁木右京大夫・舎弟弾正少弼・同右馬助・一色左京大夫・今河上総介・子息左馬助・舎弟伊予守、他家には、土岐大膳大夫入道善忠・舎弟美濃入道・同出羽入道・同宮内少輔・同小宇津美濃守・同高山伊賀守・同小里兵庫助・同猿子右京亮・厚東駿河守・同蜂屋近江守・同左馬助義行・同今峰駿河守・同舟木兵庫助・同明智下野入道・同戸山遠江守・同修理亮頼行・同出羽守頼世・同刑部少輔頼近・同飛弾伊豆入道・佐々木判官信詮・佐佐木六角判官入道崇永・舎弟山内判官・河野一族・赤松筑前入道世貞・舎弟帥律師則祐・甥大夫判官光範・舎弟信濃五郎直頼・同彦五郎範実・諏防信濃守・禰津小次郎・長尾弾正左衛門・浅倉弾正、此等を始として、都合其勢七万余騎、大島・渡辺・尼崎・鳴尾・西宮に居余て、堂宮までも充満たり。畠山大夫入道々誓は搦手の大将として、東八箇国の勢二十万騎引卒して、翌日の辰刻に都を立て、八幡の山下・真木・葛葉に陣を取。是は大手の勢渡辺の橋を懸ん時、敵若川に支て戦ば、左々良・伊駒の道を経て、敵を中に篭んと也。大手の寄手赤松判官光範は、摂津国の守護にて、敵陣半ば我領知を篭たれば、人より先に渡辺の辺に、五百余騎にて打寄たり。河舟百余艘取寄て、河の面二町余に引並べ、柱をゆり立、もやいを入て、上にかぶ木を敷並べたれば、人馬打並て渡れ共曾て不危。和田・楠爰に馳向て、手痛く一合戦せんずらんと、人皆思ひて控たりけれ共、如何なる深き謀か有けん、敢て河を支ん共せざりけり。去間大手・搦手三十万騎、同日に河より南へ打越、天王寺・安部野・住吉の遠里小野に陣を取る。され共猶大将宰相中将殿は河を越不給、尼崎に轅門を堅してをはすれば、赤松筑前入道世貞・同帥律師則祐は、大渡に打散て、斥候の備へを全し、仁木右京大夫義長は、三千余騎を一所に集め、西宮に陣を取て、先陣若戦負ば、荒手に成て入替、天下の大功を我一人の高名に称美せられんとぞ儀せられける。南方の兵の軍立、始は坂東の大勢の程を聞て、「城に篭て戦はゞ、取巻れて遂に不被責落云事有べからず。只深山幽谷に走散て敵に在所を知れず、前に有かとせば後へ抜て、馬に乗かとせば野伏に成て、在々所々にて戦はんに、敵頻に懸らば難所に引懸て返合せ、引て帰らば迹に付て追懸け、野軍に敵を疲かして、雌雄を労兵の弊に決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体思ふにも不似、無左右敵陣へ懸入ん共せず、爰に日を経、彼こに時をぞ送りける。さらば此方も陣を前に取り、城を後に構へて合戦を致せとて、和田・楠は、俄に赤坂の城を拵て、三百余騎にて楯篭る。福塚・川辺・佐々良・当木・岩郡・橋本判官以下の兵は、平石の城を構て、五百余騎にて楯篭る。真木野・酒辺・古折・野原・宇野・崎山・佐和・秋山以下の兵は、八尾の城を取り繕て、八百余騎にて楯篭る。此外大和・河内・宇多・宇智郡の兵千余人をば、竜泉峯に屏を塗り、櫓を掻せて、見せ勢になしてぞ置たりける。去程に寄手は同二月十三日、後陣の勢三万余騎を、住吉・天王寺に入替させて、後を心安く蹈へさせ、先陣の勢二十万騎は、金剛山の乾に当りたる津々山に打上て陣を取。敵御方其あはい僅に五十余町を隔たり。互に時を待て未戦ざる処に、丹下・俣野・誉田・酒勾・水速・湯浅太郎・貴志の一族五百余騎、弓を弛し甲を脱で、降人に成て出たりければ、津々山の人々皆勇罵て、さればこそ敵早弱りにけり。和田・楠幾程か可怺と、思はぬ人も無りけり。され共未騎馬の兵懸合て、勝負をする程の事はなし。只両陣互に野伏を出合せて、矢軍する事隙なし。元来敵は物馴て、御方は案内を知ねば、毎度合戦に寄手の手負、討るゝ事数を不知。角ては只和田・楠が、兼て謀る案の内に落されたる事よと云ながら、止事を不得ける。去程に始のほどこそ禁制をも用ひけれ。兵次第に疲れければ、神社仏閣に乱入て戸帳を下し神宝を奪ひ合ふ。狼籍手に余て不拘制止、師子・駒犬を打破て薪とし、仏像・経巻を売て魚鳥を買ふ。前代未聞の悪行也。先年高越後守師奉が、石川々原に陣を取て、楠を攻て居たりし時、無悪不造の兵共が塔の九輪を下て、鑵子に鋳たりし事こそ希代の罪業哉と聞しに、是は猶其れに百倍せり。浅猿といふも疎也。「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之。」いへり。師泰已に是を以て亡き。前車の轍未遠。畠山今是を取て不誡、後車の危き事在近。今度の軍如何様にも墓々しからじと、私語く人も多かりけり。
288 紀州竜門山軍事
四条中納言隆俊は、紀伊国の勢三千余騎を卒して、紀伊国最初峯に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山入道々誓が舎弟尾張守義深を大将にて、白旗一揆・平一揆・諏防祝部・千葉の一族・杉原が一類、彼れ此れ都合三万余騎、最初が峯へ差向らる。此勢則敵陣に相対したる和佐山に打上りて三日まで不進、先己が陣を堅して後に寄んとする勢に見へて、屏塗り櫓を掻ける間、是を忻らん為に宮方の侍大将塩谷伊勢守、其兵を引具して、最初峰を引退て、竜門山にぞ篭りける。畠山が執事、遊佐勘解由左衛門是を見て、「すはや敵は引けるぞ。何くまでも追懸て、打取れ者共。」とて馳向ふ。楯をも不用意、手分の沙汰もなく、勝に乗る処は、げにもさる事なれ共、事の体余りに周章ぞ見へたりける。彼竜門山と申は、岩竜頷に重なて路羊腸を遶れり。岸は松栢深ければ嵐も時の声を添へ、下には小篠茂りて露に馬蹄を立かねたり。され共麓までは下り合ふ敵なければ、勇む心を力にて坂中まで懸上り、一段平なる所に馬を休めて、息を継んと弓杖にすがり太刀を逆に突処に、軽々としたる一枚楯に、靭引付たる野伏共千余人、東西の尾崎へ立渡り、如雨降散散に射る。三万余騎の兵共が、僅なる谷底へ沓の子を打たる様に引へたる中へ、差下て射こむ矢なれば、人にはづるゝは馬に当り、馬にはづるゝは人に当る。一矢に二人は射らるれ共、はづるゝは更になし。進で懸散さんとすれば、岩石前に差覆て、懸上るべき便もなし。開ひて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶て、梯ならでは道もなし。いかゞせんと背をくゞめて、引やする引かれてやあると見る処に、黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紺糸の鎧のまだ巳の剋なるを著たる武者、濃紅の母衣懸て、四尺許に見へたる長刀の真中拳て、馬の平頚に引側め、塩谷伊勢守と名乗て真前に進めば、野上・山東・貴志・山本・恩地・牲河・志宇津・禿の兵共二千余騎、大山も崩れ鳴雷の落るが如く、喚き叫で懸たりける。敵を遥のかさに受て、引心地付たる兵共なれば、なじかは一足も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討るゝをも不顧、馬物具を脱捨て、さしも嶮き篠原を、すべる共なく転ぶ共なく、三十余町を逃たりける。塩谷は余りに深く長追して、馬に箭三筋立、鑓にて二処つかれければ、馬の足立兼て、嶮岨なる処より真逆様に転ければ、塩谷も五丈計岩崎より下に投ふれければ、落付よりして目くれ東西に迷、起上んとしける処を、蹈留敵余に多に依て、武具の迦れ内甲を散々にこみければ、つゞく御方はなし、塩谷終に討れにけり。半時許の合戦に、生慮六十七人、討るゝ者二百七十三人とぞ聞へし。其外捨たる馬・物具・弓矢・太刀・刀、幾千万と云数を不知。其中に遊佐勘解由左衛門が今度上洛之時、天下の人に目を驚かさせんとて金百両を以て作たる三尺八寸の太刀もあり。又日本第一の太刀と聞へたる禰津小次郎が六尺三寸の丸鞘の太刀も捨たりけり。されば大力も高名も不覚も時の運による者也。此禰津小次郎は自讃に常に申けるは、「坂東八箇国に弓矢を取人、駈合の時根津と知らで駈合せ太刀打違んは不知、是禰津よと知たらん者、我に太刀打んと思人は、恐くは不覚。」と申程の大力の剛の者なれ共、差たる事もせで力のある甲斐には、人より先に逃たりけり。
289 二度紀伊国軍事付住吉楠折事
紀伊国の軍に寄手若干討れて、今は和佐山の陣にも御方怺へ難しと云たりければ、津々山の勢も尼崎の大将も、興を醒し色を失ふ。され共仁木右京大夫義長一人は、「あらをかしやさてこそよ。哀同じくは津々山・天王寺・住吉の勢共も皆被追散裸に成て逃よかし。興ある見物せん。」とて、えつぼに入てぞ咲ける。是をば御方とや云べき敵とや申べき。難心得所存也。紀伊路の向陣を追落されなば津々山とても不可怺。さらば敵の懸らぬ前に荒手を副て、尾張守に力を付よとて、同四月十一日、畠山式部大夫・今河伊予守・細河左近将監・土岐宮内少輔・小原備中守・佐々木山内判官・芳賀伊賀守・土岐桔梗一揆・佐々木黄一揆、都合其勢七千余騎、重て紀伊路へぞ向られける。中にも芳賀兵衛入道禅可は我身は天王寺に止られて、嫡子伊賀守公頼を紀伊路へ向られけるが、二三里が程打送て、泪を流て申けるは、「東国に名ある武士多しといへ共、弓矢の道に於て指をさゝれぬは只我等が一党也。御方の大勢先度の合戦に打負て敵に機を著ぬれば、今度の合戦は弥手痛からんと知べし。若し合戦仕違て引返しなば、只少しも違はぬ二の舞にて、敵に力を付るのみならず、殊に仁木左京大夫に笑れん事、我一人が恥と存べし。されば此軍に敵を追落さずは、生て二度我に面を不可向。是は円覚寺の長老より持ち奉りし御袈裟也。是を母衣に懸て、後世の悪業を助れ。」とて、懐より七条の袈裟を取出て泣々公頼に与ふ。公頼庭訓を受て、子細に不及と領掌して両へ別れけるが、今生の対面若是や限なるべきと、名残惜げに顧て、互に泪をぞ浮めける。恩愛の道深ければ、何なる鳥獣さへも子を思ふ心浅からず。況乎於人倫乎。況乎於一子乎。され共弓矢の道なれば、禅可最愛の子に向て、只討死せよと進めける心の中こそ哀なれ。去程に四条中納言隆俊は、重て大勢懸る由聞へしかば、尚本の陣にてや戦ふ、平場に進でや懸合ひにすると評定有けるに、湯川庄司心替りして後に旗を挙げ、熊野路より寄する共披露し、船をそろへて田辺よりあがるとも聞へければ、此陣角ては如何が可有と、案じ煩てをはしけるを見て、大手の一の木戸を堅めたりける越智、降人に成て芳賀伊賀守が方へ出たりける。さらでだに猛き清党、兼て父に義を被勧、今又越智に力を被著、なじかは少しも滞るべき。竜門の麓へ打寄ると均く、楯をも不突、矢の一をも不射、抜連れて責上ける程に、さしもの兵と聞へし恩地・牲河・貴志・湯浅・田辺別当・山本判官、半時も不支竜門の陣を落されて、阿瀬河の城へぞ篭りける。芳賀二度めの軍に先度の恥をぞ洗ける。今は是まで也。一功なす上はとて、紀州の討手伊賀守、無恙津々山の陣へ帰ければ、父の禅可悦喜して、公私の大崇是に過るは非じとぞ申ける。四条中納言隆俊卿、竜門山の軍に打負て阿瀬河へ落ぬと聞へければ、吉野の主上を始進せて、竜顔に咫尺し奉る月卿雲客、色を失ひ胆を銷し給ふ。斯る処に又住吉の神主津守国久密に勘文を以て申けるは、今月十二日の午剋に、当社の神殿鳴動する事良久し。其後庭前なる楠、不風吹中より折れて、神殿に倒れ懸る。され共枝繁く地に支て、中に横はる間、社壇は無恙とぞ奏し申ける。諸卿此密奏を聞て、「神殿の鳴動は凶を示し給条無疑。楠今官軍の棟梁たり。楠倒れば誰か君を擁護し奉るべき。事皆不吉の表事也。」と、私語き合れけるを、大塔忠雲僧正不聞敢被申けるは、「好事も不如無と申事候へば、まして此事吉事なるべしとは難申。但神凶を告給ふは、天未捨者也。其故は後漢の光武の昔、庭前なる槐木の高さ二十丈に余たるが、不風吹根より抜て倒にぞ立たりける。諸臣相見て皆恐怖しけるを、光武天の告を悦て、貧き民に財を省き余れるを以て不足助給ければ、此槐木一夜に又如本成て一葉も不枯けり。又我朝には応和の年の末に、比叡山の三宮林の数千本の松一夜に枯凋て、霜を凌ぐ緑の色黄葉に成にけり。三千の衆徒大に驚て、十善寺に参て、各自受法楽の法施を奉り、前相何事ぞと祈誓を凝さしめたりけるに、一人の神子俄に物に狂出て、「我に七社権現乗居させ給へり。」とて託しけるは、「我内には円宗の教法を守て化縁を三千の衆徒に結び、外には国家の安全を致して利益を六十余州に垂る。雖然今衆徒の挙動一として不叶神慮、兵杖を横へて法衣を汚し、甲冑を帯して社頭を往来す。嗚呼自今後、三諦即是の春の華誰が袂にか薫はまし。四曼不離の秋の月、何れの扉をか可照。此上は我当山の麓に迹を垂ても何かせん。只速に寂光の本土へこそ帰らめ。只耳に留る事とては、常行三昧の念仏の音、尚も心に飽ぬは、一乗読讃の論義の声。」と、泣々託宣しけるが、額より汗を流して、物の付は則醒にけり。大衆是に驚て、聖真子の御前にして、常行三昧の仏名を唱へ、止観院の外陣にして一乗読讃の竪義を執行ふ。衣之神慮も忽に休まりけるにや、月に叫峡猿の声も暁の枕を不濡、戴霜林松の色本の緑に成にけり。其後住吉大明神の四海の凶賊を静め給ひし御託宣に曰、「天慶に誅凶徒昔は我為大将軍、山王は為副将軍。承平に静逆党時山王は為大将軍、我は為副将軍。山王は鎮に飽一乗法味に。故に勢力勝我に云云。」彼を以て此を思ふに、叡慮徳に趣き、四海の民を安穏ならしめんと思召す大願を被発、以法味を神力を被添候はゞ、朝敵は還て御方になり、禍は転じて幸に帰せん事、疑ふ処に非ず。」と被申ければ、群臣悉此旨に順ひ、君も無限叡信を凝させ給て、軈て住吉四所の明神、日吉七社権現を勧請し奉て、座さまさずの御修法を百日の間行はせらる。主上毎朝に御行水を召れて、玉体を投地に除災与楽の御祈り、誠に身の毛も弥立許也。天地も是に感応し、神明仏陀もなどか擁護の御手を垂れ給はざらんと、憑も敷ぞ見へたりける。
290 銀嵩軍事付曹娥精衛事
此比吉野の将軍の宮と申は、故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹にてぞ御坐ける。御幼稚の時より文武二の道何も達して見へさせ給ひしかば、此宮ぞ誠に四海の逆浪をも静められて、旧主先帝の御追念をも休め進らせらるべき御機量にて御坐とて、吉野の新帝登極の後則被宣下、征夷将軍に成し進らせらる。去る正平七年に、赤松律師則祐、暫く事を謀て宮方に参ぜし時、此宮を大将に申下し進らせたりしが、則祐忽に変じて又武家に参ぜしかば、宮心ならず京へ上らせ給て、召人の如にして御座有しを、但馬国の者共盜出し奉て、高山寺の城へ入れ奉る。本庄平太・平三、御手に属して、但馬・丹波の両国を打随るに、不靡云者更になし。軈て播磨国を退治せんとて山陽道へ御越有しに、則祐三千余騎にて、甲山の麓に馳向て相戦ふ。軍未決、宮の一騎当千と憑み思召たりける本庄平太・平三、共に数箇所の疵を被て、兄弟同時に討れにければ、軍忽に破て、宮は河内国へ落させ給ひにけり。其後も大将にし奉らんとて、国々より此宮を申けれ共、自然の事もあらば、此宮をこそ大将にもし奉らんずれとて、何くへも下し進せられず、武略の為に惜まれて、吉野の奥にぞ坐ける。今紀伊国の合戦に四条中納言打負て、阿瀬河へ落給ぬ。和田・楠も津々山の敵陣に被攻て、機疲ぬと見へければ、「今はいつをか可期。可然兵共を被相副候へ、自出向て合戦を致候はん。」と、宮頻に被仰ける間、げにもとて、此三四年兄弟不和の事有て吉野へ被参たりける赤松弾正少弼氏範に、吉野十八郷の兵を差副て、宮の御方へぞ進せられける。宮此勢を付順へさせ給て後、何なる物狂はしき御心や著けん。さらば此時分に吉野の新帝を亡し奉て、武家の為に忠を致して、吉野十八郷を一円に管領せばやと思召けるこそ不思議なれ。密に御使を以て事の由を義詮朝臣の方へ被牒て、四月二十五日宮の御勢二百余騎、野伏三千人を召具して賀名生の奥に銀嵩と云山に打上り、御旗を被揚、先の皇居賀名生の黒木の内裡を始として、其辺の山中に隠居たる月卿雲客の宿所々々を一々に焼払はる。暫が程は真実を知たる人少なければ、是は如何様大宋の伯顔将軍が城を焼て敵を忻りし謀歟、不然は楚の項羽が自ら廬舎を焼て再び本の陣へ帰じと誓ひし道歟と、様々に推量を廻して、此宮尚も御敵に成せ給ひたりと知る人聊も無りけり。去程に探使度々馳廻て宮の御謀叛事已に急也と奏聞しければ、軈其翌の日二条前関白殿を大将軍として和泉・大和・宇多・宇智郡の勢千余騎を向らる。是を見てさらば御謀叛の宮に可奉著様なしとて、吉野十八郷の者共皆散々に落失ける程に、宮の御勢僅に五十余騎に成てげり。され共赤松弾正少弼氏範は、今更弱きを見て捨るは弓矢の道にあらず、無力処也。討死するより外の事有まじとて、主従二十六騎は、四方に馳向て散々に戦ける程に、寄手無左右近付得ず、三日三夜相戦て、氏範数箇所の疵を被てければ、今は叶はじとて宮は南都の方へ落させ給へば、氏範は降人に成て、又本国播州へ立返る。不思議なりし御謀反也。抑故尊氏卿朝敵と成て、先帝外都にて崩御なり、天下大に乱て今に二十七年、公家被官人悉道路に袖をひろげ、武家奉公の族は、皆国郡に臂を張る事は何故ぞや。只尊氏卿、故兵部卿親王を殺し奉し故也。天以て許し給はゞ、天下の将軍として六十六箇国などか此宮に帰伏し奉らざらん。然ば旧主先皇も草の陰にても喜悦の眉を開せ給はゞ、忠孝の御志を天神地祇もなどか感応の御眸を添させ給はざらん。然ば御子孫繁昌して天下の武将たるべきに、思慮なき御謀叛起されて、先皇梁園の御尸血をそゝき給へば、厳親幽霊も、いかに方見しく覚すらんと、草の陰さこそは露も乱らめ。昔漢朝に一人の貧者あり。朝気の煙絶て、柴の庵のしば/\も、事問通はす人もなければ、筧の竹の浮節に堪て、可住心地も無て明し暮しけるが、或時曹娥と云ける一人の娘を携へて、他国へぞ落行ける。洪河と云河を渡らんとするに、折節水増りて橋もなく船もなし。行前遠して可留里も遥に過ぬれば、何までか角ても可有。さらば自此娘を負てこそ渡らめと思て、先川の淵瀬を知ん為に、娘をば岸の上に置て、只一人河の瀬を蹈み行ける時に、毒蛇俄に浮出て、曹娥が父を噛へて碧潭の底へぞ入にける。曹娥是を見て、手を揚て地に倒て、如何せんと佗て、悲めども可助人もなし。一日二日は尚も無墓心にて、若や流の末に浮出たると、河に傍て下て見れ共、浮出たる事もなし。若や岩のはざまに流懸りたると、岸に上り見れ共、散浮ぶ木葉ならでは、せかれて留る物もなし。日を暮し夜を明し、空くをくれて独は可帰心地も無りければ、七日七夜まで川の上にひれ臥、天に叫び地に哭して、「我父を失つる毒蛇を罰してたび候へ。縦空き形なり共、父を今一度我に見せしめ給へ。」と、梵天・帝釈・堅牢地神に肝胆を砕てぞ祈ける。夫叶はぬ物ならば同水底に沈まんともだへあこがる。志誠に蒼天にや答へけん、洪河の水忽に血に成て流けるが、毒蛇遂に河伯水神に罰せられて、曹娥が父を乍呑其身寸々に被切割て、波の上にぞ浮出たりける。曹娥此処に空き骨を収て、泣々故郷へ帰にけり。彼処の人是を憐て、此に墳を築き石を刻て、碑の文を書て立たりける。其銘石今に残て、行客泪を落し騒人詩を題す、哀なりし孝行也。又発鳩山に精衛と申人、他国に行て帰るとて、難風に船を覆されて、海中に沈て無墓成にけり。其子未幼くて故郷に独有けるが、父が海に沈める事を聞て、其江の辺に行て夜昼泣悲けるが、尚も思に堪かね、遂に蒼海の底に身を投て死にけり。其魂魄一の鳥と成て、波の上に飛渡り、精衛々々と呼声、泪を不催云事なし。怨念尽る事なければ、此の鳥自ら大海を埋て、平地になさんと思ふ心を挿、毎日三度草の葉木の朶をくはえて、海中に沈めて飛帰る。尾閭洩せ共不乾、七旱ほせ共曾て一滴も不減大海なれば、何なる神通を以ても争か埋はつべき。され共父が怨を報ぜん為に、此鳥一枝一葉を含で、海中に是を沈る事哀なりける志也。されば此精衛を題するに、人笑其功少、我怜其志多と、詩人も是を賛たり。君不見乎、精衛は卑き鳥也。親の恩を報じて大海を埋ん事を謀る。曹娥は幼き女なれ共、父の為に悲で、毒蛇を害する事を得たり。人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如ず、何をか異也とせんやと、此宮の御謀叛を欺き申さぬ人はなし。
291 龍泉寺軍事
竜泉の城には和田・楠等相謀て、初は大和・河内の兵千余人を篭置たりけるが、寄手敢て是を責ん共せざりける間、角ては徒に勢を置ても何かせん、打散してこそ野軍にせめとて、竜泉の勢をば皆呼下て、さしもなき野伏共百人許見せ勢に残し置き、此の木の梢、彼この弓蔵のはづれに、旗許を結付、尚も大勢の篭りたる体を見せたりける。津々山の寄手是を見て、「あなをびたゝし。四方手を立たる如くなる山に、此大勢の篭りたらんずるをば、何なる鬼神共いへ、可責落者に非ず。」とろ々に云恐て、責んと云人は一人もなし。只徒に旗許を見上て、百五十余日過にけり。或時土岐桔梗一発の中に、些なま才覚ありける老武者、竜山の城をつく/゛\と守り居たりけるが、其衆中に語て云く、「太公が兵書の塁虚篇に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也といへり。我此三四日相近て竜泉の城を見るに、天に飛鳶林に帰る烏、曾て驚事なし。如何様是は大勢の篭りたる体を見せて、旗許を此彼に立置たりと覚ゆるぞ。いざや人々他の勢を不交此一発許向て竜泉を責落し、天下の称歎に備ん。」と云ければ、桔梗一発の衆五百余騎、皆、「可然。」とぞ同じける。さらば軈て打立とて、閏四月二十九日の暁、桔梗一揆五百余騎、忍やかに津々山より下て、まだ篠目の明はてぬ霧の紛れに、竜泉の一の木戸口に推寄、同音に時をどつと作る。細川相摸守清氏と、赤松彦五郎範実とは、津々山の役所を双べて居たりけるが、竜泉の時の声を聞て、「あはや人に前を懸られぬるは。但城へ切て入んずる事は、又一重の大事ぞ。夫をこそ誠の先懸とは云べけれ。馬に鞍置け旗差急げ。」と云程こそ有けれ。相摸守と彦五郎と、鎧取て肩に投懸、道々高紐堅て、竜泉の西の一の城戸、高櫓の下へ懸上たり。爰にて馬を蹈放し、後を屹と見たれば、赤松が手の者に、田宮弾正忠・木所彦五郎・高見彦四郎、三騎続ひたり。其迹を見れば、相摸守の郎従六七十、かけ堀共云はず我先にと馳来る。其旗差、高岸に馬の鼻を突せて、上かねたるを見て、相摸守自走下て、其旗をおつ取て、切岸の前に突立て、「先懸は清氏に有。」と高声に名乗ければ、赤松彦五郎城の中へ入、「先懸は範実にて候。後の証拠に立て給り候へ。」と声々に名乗て、屏の上をぞ越たりける。是を見て桔梗一揆の衆に日吉藤田兵庫助・内海修理亮光範、城戸を引破て込入る。城の中の兵共、暫く支へて戦けるが、敵の大勢に御方の無勢を顧て、叶はじとや思けん、心閑に防矢射て、赤坂を差して落行ける。暫くあれば、陣々に集り居たる大勢共、「すはや桔梗一揆が竜泉へ寄て責けるは。但し輙くはよも責落さじ。楯の板しめせ、射手を先立よ。」と、最騒ず打立て、其勢既に十万余騎、竜泉の麓へ打向ひたれば、城は早已に責落されて、櫓掻楯に火を懸けり。数万の軍勢頭を掻て、「安からぬ者哉、是程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐・細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙を喫ぬ者は無りけり。
292 平石城軍事付和田夜討事
今河上総守・佐々木六角判官入道崇永・舎弟山内判官、竜山の軍に不合つる事、安からぬ者哉と思はれければ、態他の勢を不交して、五百余騎、同日の晩景に平石の城へ押寄する。一矢射違ふる程こそあれ、切岸高ければ、先なる人の楯の■を蹈へ、甲の鉢を足だまりにして、城戸逆木を切破り、討るゝをも不云、手を負をも不顧、我先にと込入ける間、敵不怺して、其日の夜半計に金剛山を差て落にけり。二箇所の城輙く落されしかば、寄手は勝に乗て、竜の水を得たるが如くになり、和田・楠は機を失て、魚の泥に吻が如し。如斯ならば、赤坂の城も幾程か怺ふべき。暫時に責落して後、主上を生虜進らせ、三種の神器を取奉て、都へ返し入れ進らすべしと、諸人指掌を思ひをなす。すはや天下静りて、武家一統の世に成ぬと、思はぬ人は無りけり。竜門・平石二箇所の城落しかば、八尾城も不怺、今は僅に赤坂の城許りこそ残りけれ。此城さまでの要害共不見、只和田・楠が館の当りを敵に無左右蹴散されじと、俄に構へたる城なれば、暫もやは支るとて、陣々の寄手一所に集て二十万騎、五月三日の早旦に赤坂の城へ押寄せ、城の西北三十余町が間に一勢々々引分て、先向城をぞ構へける。楠は元来思慮深きに似て急に敵に当る機少し。「此大敵に戦はん事難叶。只金剛山へ引隠て敵の勢のすく処を見て後に戦はん。」と申けるを、和田はいつも戦ひを先として、謀を待ぬ者なりければ、都て此儀に不同、「軍の習ひ負るは常の事也。只可戦所を不戦して身を慎を以て恥とす。さても天下を敵に受たる南方の者共が、遂に野伏軍許しつる事のをかしさよと、日本国の武士共に笑れん事こそ口惜けれ。何様一夜討して、太刀の柄の微塵に砕る程切合んずるに、敵あらけて引退なば、軈て勝に乗て討べし。引ずんば又力なく、其時こそ金剛山の奥までも、引篭て戦はんずれ。」とて、夜討に馴たる兵三百人勝て、「問はゞ武しと答へよ。」と、約束の名乗を定つゝ、夜深る程をぞ待たりける。五月八日の夜なれば、月は宵より入にけり。時剋よく成ぬとて三百人の兵共、一陣に進で見へける結城が向城へ忍寄て、木戸口にして時を作る。其声に驚て、外の陣には騒げ共、結城が陣は少も不騒、鳴を静めて待懸たり。射手は元来櫓にあれば、矢間を引て差攻々々散々に射る。打物の衆は、掻楯逆木を阻てゝ、上れば切て落し、越れば突落し、此を先途と防けれ共、和田和泉守正武・真前に懸て切て入る。「日来の言を不忘して、続けや人々。」と喚て、掻楯切て引破り、一枚楯引側めて、城の中へ飛入ければ、相順兵三百人、続て城へぞ込入ける。甲の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合せ/\切逢て、天地を動かし火を散す。互に喚叫で半時計切合たるに、結城が兵七百余人、余に戦屈して、已に引色に見へける処に、細川相摸守五百余騎にて敵の後へ廻り、「清氏後攻をするぞ、引な/\。」と呼りけるに力を得て、鹿窪十郎・富沢兵庫助・茂呂勘解由左衛門尉三人、蹈止々々戦けるに、和田が兵数十人討れ、若干疵を被て、叶はじとや思けん、一方の掻楯蹈破て、一度にばつと引たりけり。爰に結城が若党に、物部次郎郡司とて、世に勝たる兵四人あり。兼てより、敵若夜討に入たらば、我等四人は敵の引返さんずるに紛れて、赤坂の城へ入、和田・楠に打違へて死るか、不然は城に火を懸て焼落すかと、約束したりけるが、少も不違、引て帰る敵に紛て、四人共に赤坂の城へぞ入たりける。夫夜討強盜をして帰る時、立勝り居勝りと云事あり。是は約束の声を出して、諸人同時に颯と立颯と居、角て敵の紛れ居たるをえり出さん為の謀也。和田が兵赤坂の城に帰て後、四方より続松を出し、件の立勝り居勝りをしけるに、紛れ入四人の兵共、敢て加様の事に馴ぬ者共なりければ、無紛えり出されて、大勢の中に取篭られ、四人共に討死して、名を留めけるこそ哀なれ。天下一の剛の者とは、是をぞ誠に云べきと、褒ぬ人こそ無りけれ。和田が夜討にも、敵陣一所も不退、城気に乗て見へければ、此城にて敵を支へん事は叶はじとて、和田も楠も諸共に、其夜の夜半許に、赤坂の城に火を懸て、金剛山の奥へ入にけり。
293 吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事
南方の皇居は、金剛山の奥観心寺と云深山なれば、左右なく敵の可付所ならね共、斥候の御警固に憑思召れたる龍泉・赤坂も責落されぬ。又昨日一昨日まで御方せし兵共、今日は多く御敵と成ぬと聞へしかば、山人・杣人案内者として、如何様何くの山までも、敵責入ぬと申沙汰しければ、主上を始進せて、女院・皇后・月卿・雲客、「こは如何すべき。」と、懼恐れさせ給ふ事無限。爰に二条禅定殿下の候人にて有ける上北面、御方の官軍加様に利を失ひ城を落さるゝ体を見て、敵のさのみ近付ぬ先に妻子共をも京の方へ送り遣し、我身も今は髻切て、何なる山林にも世を遁ればやと思て、先吉野辺まで出たりけるが、さるにても多年の奉公を捨はてゝ主君に離れ、此境を立去る事の悲さに、せめて今一度先帝の御廟へ参り、出家の暇をも申さんと思て、只一人御廟へ参りたるに、近来は洒掃する人無りけりと覚て、荊棘道を塞ぎ、葎茂て旧苔扉を閉たり。何の間にかくは荒ぬらんと此彼を見奉るに、金炉香絶草残一叢之煙、玉殿無灯、蛍照五更之夜。思有て聞く時は、心なき啼鳥も哀を催す歟と覚へ、岩漏水の流までも、悲を呑音なれば、通夜円丘の前に畏て、「つく/゛\と憂世の中の成行く様を案じつゞくるに、抑今の世何なる世なれば、有威無道者は必亡ぶと云置し先賢の言にも背き、又百王を守らんと誓ひ給し神約も皆誠ならず。又いかなる賎き者までも、死ては霊となり鬼と成て彼を是し此を非する理明也。況君已に十善の戒力に依て、四海の尊位に居し給ひし御事なれば、玉骨は縦郊原の土と朽させ給ふとも、神霊は定て天地に留て、其苗裔をも守り、逆臣の威をも亡さんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯せ共天罰もなし、子父を殺せども神の忿をも未見。こはいかに成行世の中ぞや。」と泣々天に訴て、五体を地に投礼をなす。余りに気くたびれて、頭をうな低て少し目睡たる夢の中に、御廟の震動する事良久し。暫有て円丘の中より誠にけたかき御声にて、「人やある/\。」と召れければ、東西の山の峯より、「俊基・資朝是に候。」とて参りたり。此人々は、君の御謀叛申勧たりし者共也とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬れ、俊基は其後鎌倉の葛原が岡にて、工藤二郎左衛門尉に斬れし人々也。貌を見れば、正く昔見たりし体にては有ながら、面には朱を差たるが如く、眼の光耀て左右の牙銀針を立たる様に、上下にをひ違たり。其後円丘の石の扉を排く音しければ遥に向上たるに、先帝袞竜の御衣を召れ、宝剣を抜て右の御手に提げ、玉■の上に坐し給ふ。此御容も昔の竜顔には替て、忿れる御眸逆に裂、御鬚左右へ分れて、只夜叉羅刹の如也。誠に苦し気なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔はつと燃出て、黒烟天に立上る。暫有て、主上俊基・資朝を御前近く召れて、「さても君を悩し、世を乱る逆臣共をば、誰にか仰付て可罰す。」と勅問あれば、俊基・資朝、「此事は已に摩醯脩羅王の前にて議定有て、討手を被定て候。」「さて何に定たるぞ。」「先今南方の皇居を襲はんと仕候五畿七道の朝敵共をば、正成に申付て候へば、一両日の間には、追返し候はんずらん。仁木右京大夫義長をば、菊池入道愚鑑に申付て候へば、伊勢国にてぞ亡び候はんずらん。細川相摸守清氏をば、土居・得能に申付て候へば、四国に渡て後亡候べし。東国の大将にて罷上て候畠山入道・舎弟尾張守をば、殊更嗔恚強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興が申請候て、可罰由申候つれば、輙かるべきにて候。道誓が郎従共をば、所々にて首を刎させ候はんずる也。中に江戸下野守・同遠江守二人は、殊更に悪ひ奴にて候へば、竜の口に引居て、我手に懸て切候べしとこそ申候つれ。」と奏し申ければ、主上誠に御心よげに打咲せ給て、「さらば年号の替らぬ先に、疾々退治せよ。」と被仰て、御廟の中へ入せ給ぬと見進せて、夢は忽に覚にけり。上北面此示現に驚て、吉野より又観心寺へ帰り参り、人々に内々語ければ、「只あらまほしき事ぞ、思寝の夢に見へつらん。」とて、信ずる人も無りけり。げにも其験にてや有けん、敵寄せば尚山深く主上をも落し進せんと、逃方を求て戦はんとはせざりけり。観心寺の皇居へは敵曾不寄来、剰へさしてし出したる事もなきに、「南方の退治今は是までぞ。」とて、同五月二十八日、寄手の総大将宰相中将義詮朝臣尼崎より帰洛し給しかば、畠山・仁木・細川・土岐・佐々木・宇都宮以下、都て五畿七道の兵二十万騎、我先にと上洛して各国へぞ下りける。さてこそ上北面が見たりしと云夢も、げにやと思合せられて、如何様にも、仁木・細川・畠山も、滅ぶる事やあらんずらんと、夢を疑し人々も、却て是をぞ憑ける。