基督者の自由について/第十節

 さてこれらの神の言、またあらゆる神の言[葉]は、聖であり、眞實であり、義であり、平和を齎すものであり、自由を齎すものであり、凡ての善に充ちてゐるものである。ゆゑに、正しい信仰を以て神の言に固着する人なら、その人のたましひは、神の言に融合せしめられ、神の言のすべての力がたましひのものともなるほど完全に融合せし められるのである。かくして、たましひは、信仰により、神の言によって、聖(きよ)くなり、義となり、眞實となり、平和となり、自由となり、すべての善に充つるやうになり、神のまことの子と爲るのである、ヨハネが第一章(十二節)において言ふとほりだ、『その名を信ぜし者には神の子となる權をあたへ給へり』。

 かういふ點から、容易に注意され得ることがある、それは、信仰がどうしてかくも有力なものであるかといふことだ、またどんな善きわざでも信仰に匹敵し得ないといふことだ。そは、どんな善きわざも、信仰が神の言に固着するやうに、神の言に固着しないしまたたましひの内部に存在し得ないからだ、反之、神の言と信仰のみが、たましひの内部において支配するからだ。たましひもまた、神の言によって、神の言があるまゝのものとなる、さながら、鐵が人の融合から火のやうに灼熱するのに似てをる。かく基督者の自由であり、唯一の信仰だ。此信仰は、われわれが怠けたり惡を為したりするやうにするものではない。反之、われわれが義と祝福とに達するためにいかなるわ ざをもわれゝゝが必要としないやうにするのである、このことについては、これからもっと語りたいと思ふ。