基督者の自由について/第九節

 今や、人間が、掟から、善に対する自己の無力を學び、どうしたら掟を充たし得るかといふことが心配になることを感ずるとき―――そは掟は満たされる必要があるし、掟を充たさないと人は罪に定められるから―――彼は、眞に謙遜にされ、自己の眼前において無となり、義となり得べき何物をも自己において發見しないのである。その時、他の言、即ち、神の約束と契約とが來て語るのである、『汝が掟を充たさうと思ふなら、掟が強ひまた促すやうに、汝の貪りの慾や罪から解放されようと思ふなら、見よ、基督において信ぜよ、その基督において、凡ての恩寵・義・平和及び自由を、我は汝に約束する、汝が信ずるなら、その約束は汝のものである。汝が信じないなら、その約束は汝のものでない。そは、掟が要求するすべてのわざを以てしても汝に不可能なもの―――掟のわざは多いが、それにも拘らず、その一つも役に立たない―――は、信仰によって汝に容易になり、簡単になるからである。そは我は信仰の中に萬物を縮めて入れて置くからだ、従て、信仰を持つ者は萬物を持つことになり祝福になり、信仰を持たない 者は何物をも持たないことになるのである』。かく、神の約束は、掟の要求するものを與へ掟が命令するものを成就する、かくして一切は、即ち掟を充たすことも神のものとなるからである。神のみが命令する、また神のみが成就する。ゆゑに、神の約束は、新約の言であり、また新約の中に入るのである。