基督者の自由について/第十一節

 更に進んで、信仰は、次のやうなはたらきをする、人が他人を信ずるのはその人を、正しい、眞實な人と思ふからだ。それは人が他人に歸し得る最大の名譽である、反對に、他人を狡猾な虛言的な人と思ふなら、それが最大の侮辱であるのと同じだ。かく、たましひが神の言を固く信ずるときも、たましひは、神を、眞實な、正しい、義なる者と思ふのである、これによってたましひは、神に歸し得べき最大の名譽を歸するのである。そは、そのとき、たましひは神に歸すべきものを歸し、神に殘すべきものを殘すからだ、そのとき、神の聖名を崇め、神が欲し給ふやうに、神をしてたましひにはたらきかけさせるからだ、そは、たましひは、神がその一切の言において正しくあり眞實であることを疑はないからだ。反對に、人は、神を信じないとき以上に、神に大なる侮辱を加え得るわけはないのである。神を信じないことによって、たましひは、神 を不充分な者・虛言者・軽薄者と見做し、かくの如き不信仰によって、神を、否定し得るかぎり否定し、たましひ自身の念にしたがって、心のうちに、一つの偶像を神に對立せしめ、神が知り給ふよりもよく知らうとするかのやうだ。たましひが神に眞實を歸しかくしてたましひが信仰によって神を崇めるのを、神が見給ふときには、神の方でもたましひを尊び、またたましひを義なる眞實なるたましひと見做し給ふのである、たましひもかくの如き信仰によって義にして眞實であるのだ。そは、人が神に義と眞實とを歸することは、正當なことであり、正しいことであるからだ。信仰しないで、それにも拘らず多くの善きわざに勵(はげ)んでをる人々は、神に義と眞實とを歸することをしないのである。