基督者の自由について/第二十六節
以上のことは、一般にわざについて、但し基督者が自分自身の肉體に對して用ふべきわざについて言われたこととして置かう。今や、基督者が、他の人々に對して爲すべき、今迄のわざよりも以上のわざについて、余は、語りたいと思ふ。そは、基督者は、自己の肉體において生きるだけでなく、地上における他の人々の間にも生きるからである。ゆゑに人間は、他人に対してわざを持たないでをれるわけがないのである、これらのわざの一つと雖も彼の義や祝福のために必要ではなくとも。ゆゑにすべてのわざに関する基督者の考といふいものは、自由でなければならぬし、他人に必要なこと以外何も考へないで、他人の必要を充たすといふことだけを目的としなければならぬ。 それが眞のキリスト者の生活と言はれるのである、その時信仰は、快感と愛とを以て、わざに着手するのである。聖パウロがガラテヤ書において教えてをるとほりだ(五・六)。更に、彼は、ピリピの信者に手紙を宛ててをる。基督における信仰によって、凡ての恩寵と滿足とを有することを教えられた後、更に教えて言ふ、『汝らが基督において有つすべての慰安と、汝らが汝らに対するわれらの愛より有つすべての慰安と、汝らが凡ての霊的なる義なる基督者と共に有するすべての交際とにおいて、我は汝らに薦む、汝らわが心を全く喜ばしめよ、それも次の如くせよ、汝らこれより後、一つ念となり、互いに愛を擔ひ互いに仕え、またおのゝゝ己や己がものを顧みることなく、他人と他人に必要なるものとを顧みんことこれなり』(ピリピ二・一以下)。見よ、此處に、パウロは、基督者の生活の規範を明瞭に描き、凡てのわざが隣人のために爲さるべきことをその規範としてをる。そは各基督者は、彼の信仰において、すべてのものを充分に有するからだ、また彼のすべてのわざと生活とは、それによって、自由な愛から隣人に奉仕するために彼に殘されているからだ。パウロは、このことに對して、基督を一つの例証として言う、『汝ら、基督において汝らが見る如き念にてあれ。彼は神の貌にてゐ給ひしが、また自分自身に對しては充分有し給ひしも、また彼の生活も、活動も、受苦も、彼がこれによって て義とされ救はれ給うふためには必要なかりしも、彼は自らをすべてのものよりも裸かにし、僕の貌をとり給ひぬ、凡てを爲し、凡てを忍び給ふた、われゝゝの最善以外何物をも顧み給はざりき、また同様に、彼は自分にてゐまししも、われらのために僕となり給ひぬ』(ピリピ書、二・五以下)。