基督者の自由について/第二十五節

 今迄述べてきたことから、人は、次のことを容易に理解し得るのである。それは、善きわざを捨てゝいゝときと、捨てゝはならぬときとがあることだ、また善きわざを教えるすべての教えをいかに理解すべきであるかといふことだ。その際、謬れる附録や転倒した考えが、わざによってわれゝゝは義とされ救はれようと欲するといふことであるなら、わざは、既に善くはないし、全然罪せらるべきである。そは、わざは自由でないし、只だ信仰によって義とし救ふ―――そのことをわざは爲し得ない―――神の恩寵を誹謗し、身の程も知らずに爲し得ないことを爲さうと企圖によって恩寵を、そのわざにおいてまた栄光において、侵すからである。ゆゑに、われゝゝが善きわざを捨てるのは、善きわざそのもののためではなく、所謂惡い附録のためであり、謬れる轉倒せる意見のためだ。かくの如き意見が次のことを生ぜしめるのだ、それは、善きわざが善く現れるだけで、善くはないといふことだ。綿羊の姿における貪欲な狼のやうに、善きわざが自らを欺き、同時にあらゆる人を欺くといふことだ。 併しわざに關係する所謂惡い附録と轉倒せる意見とは、信仰が缺けてをると、征服されがたいものだ。此附録は、信仰が來てその附録を碎くまでは、所謂わざによって救はれようとする今迄述べて來たやうな人において殘る筈だ。人間の本性は、自分自身の力では、此附録を、驅逐し得ないのである、否な、此附録を認識することさへもできないのだ、反之、此附録を、値高き、祝福なものだと思ってをるのである。ゆゑに、彼らの甚だ多くが、かくの如き謬れる考えによって、誤り導かれるのである。ゆゑに、後悔、懺悔、賠償などについて書いたり説いたりすることは、恐らく善いことではあらうが、併し信仰まで進んで行かぬと、その教は、たしかに、悪魔的な、誘惑的な教だ。人は、神の言の一方のみを説かないで、兩方を説かなければならぬ。罪人を恐れしめ、罪人の罪を曝露するため、これによって、罪人が後悔し悔改するため、人は、掟を説かなければならぬ。併し、人は、掟を説くだけでそれにとゞまってゐてはならぬ、他の言即ち神の恩寵も説かなければならぬ。信仰を教るためだ、信仰が缺けてをると、掟の教えも、悔い改めのわざも、凡てその他のことも、無効に終わるからである。罪の後悔や恩寵を説く説教者が今日ものなほ殘ってはゐるが、併し彼らは、後悔と恩寵とが何處からくるか、どうしてくるかといふことを、人が學び悟るやうに、神の掟と約束とを説明しないのであ る、そは、後悔は掟から流れ出し、信仰は神の約束から流れ出し、かくして人は―――その人は、神の掟に対する恐怖によって謙遜にせられ、自己認識に達してをる人だ―――神の言への信仰によって義とされ、高められるからである。