基督者の自由について/第二十七節

 かく基督者も、その首なる基督のやうに、彼の信仰において、自己を飽滿せしめ、信仰を何時も増すべきである。そは信仰は、彼の生命であり、義であり、救いである、基督及び神が有し給ふた一切のものを彼に與へる、上に言われたとほりだ、また聖パウロがガラテヤ書第二章(二十節)において、『いまわれ肉體に在りて生くるは神の子キリストを信ずるによりて生くるなり』と言うふとほりだ。基督者は、既に、全く自由ではあるが、それでも、反對に、彼の隣人を助けるため、喜んで、自己を一人の僕と爲さねばならないので ある。而も凡てのことは報酬を求めないで爲さるべきだ、隣人との交際において、神が滿足し給ふこと以外何物をも求めてはならないのだ。そのとき彼は、次のやうに考へなければならないので、『余の神は、價値なき罰せらるべき人間である余に、何らの功績も無しに、全く價なしに、また純粋な憐憫から、基督を通して、また基督において凡ての義や生命の充分な富を與へ給ふた、そのことが眞であることを余が信ずること以外、これから何も必要ないやうにし給ふた、あゝ、かくも溢れるばかりの彼の寶をかく注ぎかけ給ふた父に対して、余もまた、自由に、喜ばしく、また自發的に、神に氣に入ることを爲さうと思うふ。基督が余に對して基督と爲り給ふたやうに、余もまた隣人に對して一人の基督にならう、また隣人に必要であり、役に立ち、また隣人の救いのためになると余が思ふこと以外何物をも爲すまいと決心する、それでも、余は余の信仰によって、一切を、基督において豊かに持つからである』。見よ、かく、信仰から神に對する愛と快感とが流れ、また愛から、無報酬で隣人に奉仕しようとする自由な、自發的な喜ばしい生活が流れ出づることを。そはわれゝゝも神の前には窮乏し、神の恩寵を必要とするからである。ゆゑに、神が、基督を通して、無報酬でわれゝゝを助け給ふたと同じや うに、われらもまた、肉體や肉體のわざを以て、只だ隣人を助けることをしなければならぬ。かく、われらは、基督者の生活が、いかに高貴な、高尚な生活であるかを知ってをる。併し此生活は、今や、悲しいかな、全世界において、意氣甚だ揚らざる状態にあるのである、そればかりでなく、もはや識られも説かれもしない。