基督者の自由について/第二十八節

 以上述べたと同じことを、われゝゝは、ルカ伝二章(二十二節以下)において讀むのである。マリヤは六週の後に教会に往った。また律法にしたがって、凡て の他の婦人達と同じやうに、身を清めた。それでも彼女は他の婦人達と同じやうに、不潔ではなかったし、身を潔める義務や必要を持ったわけでもなかったのだが。併し彼女は自由な愛から他の婦人達がすることをした、他の婦人たちを軽蔑しないで、一般の習慣に従はうとはしたからだ。聖パウロがテトスをして割禮を受けさせたのも同じ事情だ(使徒行伝十六・三)割禮が必要であったからではなく、信仰の薄いユダヤ人に、これを理由として惡い考を抱かせないためであった。それでも同一のパウロは、他方においては、テトスをして割礼を受けさせようと欲しなかった(ガラテヤ書二・三)「テトスは割礼を受くべきだ、割禮は救はれるのに必要だ」と主張する人々があったからだ。基督も、マタイ傳第十七章(二十四節以下)によると、弟子達から納金を要求され給ふたとき神の子らは納金から解放されてゐはしないかとペテロに語られ、聖ペテロも「然り」と言ったが、それでも、基督は、ペテロを往かしめ、そのときかう言われた、『彼らを躓かせぬために海に往きて釣りを垂れ、初めに上る魚をとれ、其口を開かば銀貨一つを得ん、それを取りて我と汝との爲に納めよ』と。この事實は、われらの教理に對する一つの巧みな例證だ、基督は、自己と彼の弟子達とを、何物にも必要としない自由な、王の子と名づけながら、それでも進んで、税金の要求に自らを服従せしめ、奉仕し、銀貨一つを 納め給ふたからである。さてかくの如きわざが基督に必要でなかった様に、また彼の義もしくは救いに役に立たなかったやうに、同様に、彼の一切のわざも基督者のわざも、彼らの救いに必要ではなかった、寧ろ、基督の凡てのわざは、他人の意志に應じ他人を善くするための自由なわざであった。同様に、凡ての祭司や修道院や尼院のわざも爲さるべきであって、各人が自己の位置のわざや自己が属してをる教団のわざを爲さねばならぬのは、只だ他人の希望に添うためであり、また自分自身の肉體を抑えつけ、かくして他人に良き模範を與へ、他人が彼ら自身の肉體を抑えへつけることを必要とする場合、彼らをして彼に模倣せしめるためであるのである。それでも常に警戒さるべきことがある、かくの如きわざによって義とされ救はれようとすることが試みられないことだ、義とされ救はれることは信仰によってのみ可能なことだ。聖パウロは、羅馬書第十三章やテトス書第三章において、今説いてきたのと同一の精神において、次のやうなことを命じてをる、即ち基督者は、世俗的権力に服従し、またかく服従することを心掛くべきではあるが、それによって義とされるためではなく、他人や役人に自由に奉仕し、愛及び自由から、彼らの意志を実行するためだ。かくの如き理解を持つ人は、法皇や監督や修道院や尼院や王侯貴人の無數の掟や律法に對して、容易に身を處することができるでもあらう。かくの 如き無數の掟や律法を、さながら、救いに必要であるかのやうに強ひ、不當(ふとう)にもこれを教会の掟と呼ぶ愚かな、高い位置にある宗教家達もあるのだ。かくの如き教會の掟が不當なのは、自由な基督者なら次のやうに言うふからだ、『余は斷食しよう、祈禱しよう、命ぜられてをるこれ及びそれを爲さう、それが余に必要なためでもなく、これによって余が義とされ救はれるためでもなく、法皇や監督や團體やもしくは仲間や長官の希望のためにこれを爲すのである、彼らの模範となり彼らに奉仕するためにこれを爲すのである、また命ぜられたことに従ふのである。恰度、基督が、彼自身の爲には全然必要なことではなかったが、余のために、余が爲した事や忍んだ事よりも遥か多く爲しまた忍び給ふたやうに。また既に、暴君がかくの如き事を不覺にも要求することを敢えてしても、それでも、そのことは、余に損害を齎すものではない、そのことが神の意志に反してゐないとするなら、その理由で』。