基督者の自由について/第二十九節

 今述べたことから、各人は、正しい判断を造り、凡てのわざと掟との間に區別を爲す事ができるのだ、誰が盲目な愚かな牧師であり、誰が正しい考えを有する牧師であるかをも區別し得るのである。そは、神に反對してわざを爲すことを他人が余に 強(し)ひないかぎり、他人に奉仕し若くは他人の意志に従ふ方へ導かれないわざは、善き基督教的なわざではないからである。ゆゑに、余の氣遣ふ事が生ずるのである、尼院や教会や修道院や祭壇や彌撒(ミサ)や、遺言や、それに加えへて、斷食や祈禱や、特に聖徒に捧げられた祈禱やが、果してどれだけ基督教的であらうか。そは、これらすべてのことにおいて、各人が自己の罪を悔いて義とされようと思ひ違ひつゝ、只だ自分自身の利益を求めてをることを余は氣遣ふからである。かくの如き類ひのことは凡て、信仰と基督者の自由を識らないといふことから生ずるのである。また若干の愚かな牧師達は、人々を此無知の中へ驅り込み、かくの如きことを讃美し、かくの如きものを飾るに赦罪狀を以てし、信仰をもはや決して教えないのである。併し、余は汝に奬める、寄進の建物を建造したり、祈ったり、斷食したり、しようと思ふなら何か善いことを爲さうとする考においてしないで、他人が汝の爲すことを樂しみ得るやうに自由に爲せ、また他の人々の善のために爲せ、然らば汝は眞の基督者である。そのうちに神が萬物を與へ給うふた信仰において汝が充分有するとするなら、汝の肉體のことを顧慮するためには不用になってをるところの汝の寶と汝の善きわざとは、汝にとっては何するものぞ!見よ、かく神の寶は、甲より乙に流れ、共同のものとなり、従って、各人は、 彼の隣人を、さながら彼自身であったかのやうに受け入れなければならぬのである。神の寶は、基督からわれゝゝの方に流れ、基督は、彼がわれゝゝがあったものであるかのやうに、われゝゝを彼の生命の中に入れ給ふた。神の寶は、それを必要とする人々へわれらの方から流れる、但し、次のやうに、徹底的に流れる、余が余の信仰の義をも、余の隣人のために、神の前に捧げて、隣人の罪を蔽ひ、その罪を余のうへに擔(にな)ひ、その罪が余の罪以外のものでなかったかのやうに、―――まさしく基督がわれゝゝ凡ての者のために爲し給ふたやうに―――その罪を取り扱ふのである。見よ、それが、愛が眞實な場合の愛の性質である。ゆゑに、聖パウロは、コリント前書第十三章(五節)において、愛が自己のものを求めないで、隣人のものを求めるといふことを、愛に歸してをる。