お良さんは、寺田屋の危難と、霧島山の逆鉾とを、繰返して、力を入れて語つた。
「あの時、私は、風呂桶の中につかつて居ました。これは大変だと思つたから、急いで風呂を飛び出したが、全く、着物を引掛けて居る間も無かつたのです。実際
此時のお良さんは、沈着な女ではなかつた。半分は無意識に、他動的に、急を坂本に知らせたのである。あとから考へて、どうしてあの時、あんな挙動に出たのか、自分でも不思議な程だつたと言つだ。
坂本はぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を
だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつたのだ。
離縁されたお良さんには、母と、弟と、二人の妹があつた。弟の消息は忘れたが、次の妹光枝は中沢某に嫁ぎ、末の妹君江は、菅野覚兵衛の妻となつた。かうして母と弟妹を抱へたお良さんは、同志達にも見放され、いつ迄も寺田屋に居ることも出来ず、丁度そこへ西村松兵衛といふ候補者が出来たので、松兵衛さんを二度目の良人として、母と弟妹を世話したのである。
松兵衛さんは、京都の大きな呉服屋の若旦那で、京大阪を往復する時、いつも伏見の寺田屋を定宿として居た、その関係で、寺田屋の
更に、お良さんの口裏から推察すると、松兵衛さんは、坂本の恋敵であつたらしい。坂本と松兵衛さんと、どちらが早くお良さんに想ひを懸けたかは判らないが、兎も角、松兵衛さんは競争に失敗して、お良さんを諦めて居たのである。それが、刺客に襲はれて、中岡慎太郎と共に、坂本が近江屋
一旦諦めた恋が猛烈に蘇へると、寺田屋の女将に切々の恋情を打明けた。そこへお良さんが同志には見放され、坂本家からは離縁となり、母と弟妹を抱へて、途方に暮れたので松兵衛さんの恋は順調に進行して、遂にお良さんを手に入れたのである。
一方は天下の俊傑、一方は大道商人のドツコイドツコイ屋、何と奇妙な取合せではないか。