坂本龍馬全集/阪本龍馬の未亡人/一回


(一)


 雨さへ降らなければ、日暮前から、良人は荷を担いで商売に出掛ける。その留守を狙つて一升徳利を提げて、私は足繁く女の許を訪れた。と書くといかにも物騒な話だが、事実はさう謂つた色ツぽいものではなかつた。時は明治三十年の晩春、場所は神奈川県三浦郡豊島村字深田(今の横須賀市深田町)、もう其頃から横須賀とは軒続きで、場末だけに、汚い貧乏長屋が軒を並べて居た。女の住居は海軍病院の塀に添つた奥まつた路次の中で、一棟二戸建の長屋であつた。
 屋根は茅葺、六尺の格子の裡側うちがはが三尺の土間で、障子を開けたところが三畳、その横が六畳の居間、一間の押入があり、六畳の背後が一坪の台所になつて居た。唯だそれだけの住居で、唐紙に色紙が当てゝあるのも、障子にツギハギがしてあるのも、お定まりの型である、さうして古い箪笥と、鼠不入ねずみいらずと、縁の欠けた長火鉢だけが、貧弱な世帯道具の中で目に立つた。

 仏壇だけは光つて居た。
 女とは誰……土州の俊傑、坂本龍馬の未亡人お良さんである。龍馬はれうまと読み、未亡人はお良さんと書くのが正しい。
 もつとも、お良さんには、二度目の良人、西村松兵衛さんがあるのだから、坂本龍馬の妻としては未亡人だが、今はれつきとした人の妻である。従つて未亡人と呼ぶのは当つて居ないかも知れない。
 私の家と、お良さんとは、親戚の間柄になつて居た。それはお良さんの実妹君江が、菅野覚兵衛(海援隊の一人)の妻で、覚兵衛の実妹お力が、私の父の兄、安岡重房の妻となつて居るからである。さう謂つた縁故があるばかりでなく、私のママ直綱たゞつなは、海援隊の一人で、中岡慎太郎とは、藩を脱出する以前からの親友であり、中岡との関係から、坂本にも結びついて、坂本も父とは、同時に勝安房の門に入つた。だから父ママ尊王攘夷のさかんな時に、尊王開国を唱へた一人で、七卿落の時には、三条公を護衛して太宰府に下つた。

 土佐人と京都人とを結び付けた私の家や、お良さん達が、どうして横須賀くんだりへ流れて来たか、坂本に死別したお良さんが、なぜ二度目の良人松兵衛さんを迎へたか、この消息を知つて居る人は極めて尠い、それは人生の内側に起つた出来事だからである。親戚も前謂つたやうな関係が無ければ、鳥渡ちよつとのぞき難い方面の消息だからである。
 菅野覚兵衛の実妹お力を娶つた私の叔父重房は、横須賀に鎮守府が置かれると、教官として赴任した。漢学の講師で、若い士官達や水兵達から、慈父の如く慕はれた人格者であつた。この縁故から私の長兄が鎮守府に努め、私の一家も、明治二十二年に横須賀へ移住した。その以前に、お良さんは松兵衛さんと手を携へて、お力叔母さんを頼つて横須賀に移住したのである。
 お良さんの二度目の良人松兵衛さんは、背のすらりと高い、面長の、商人上りの温厚な人であつた。どつちかと言へば無口な方で、御世辞も言はなければおべつかも使はない、滅多に怒つた顔を見せたことがないといふ男。横須賀へ居住して後の稼業は、ドツコイドツコイで、横須賀の大滝町に灯の点る頃から、大滝海岸の盛り場へ荷を下して、金花糖の鯛や、鯖や、大黒、恵比須を餌に、ブン廻しの当りで客と釣る、現今のテキ屋に類する大道商人であつた。
 松兵衛さんは、かうして夜の十二時、一時まで営業して、儲けた金を懐中に抱いて帰つて来る。つまり日の暮れる頃から夜の十二時頃迄は、松兵衛さんは必ず留守になるのだ。そこを狙つて一升徳利か携げて、私はお良さんの昔話を聴きに往つた。

 その時、お良さんは五十七歳、多少、頭髪に白髪は交つて居たが、濃艶なお婆さんだつた。丸顔で、愛嬌があつて、魅力に富んだ涼しい瞳の持主であつたことを、私は今でも覚えて居る。勿論裏長屋に住む貧乏人だから、着て居る物は洗ひざらした双子ふたごあわせで、黄の色のせたチヤンコを着て、右の足が少し不自由だつたらしく、起居たちゐの挙動が、達者な口と反対に、鈍かつた。

 私は長火鉢を隔てゝ、お良さんと差向ひになつて、チビ酒を飲みながら昔話を聴いた。お良さんはなかの大酒家だつたから、私の持参した一升は、松兵衛さんの帰る迄に、一しづくも残らなかつた。