吉利支丹文学抄/吉利支丹文学概説及び原本の解題 (新漢字)

序説 吉利支丹文学概説及び原本解題


天文十三〈一五四四〉年の渡来以後、島原乱の平定に至る百年たらずの時代を、我国耶蘇教史の前期とするならば、前期は更に天正末葉の初期の禁令発布を区割として、弘布期と禁制期とに分ち得よう。しかも弘布期はいふまでもなく、禁制期に於いても、しば発せられ、行はれた禁令や迫害にも拘らず、布教は少くとも地方的に続行されたので、従つて前期は、前後を通じて活気にみちた耶蘇教史上の盛時として、後の鎖国時代に対するのである。而して彼等西教徒の文学事業は夙に布教の始めから企てられ、この期を通じて盛んに為されたので、彼等の編著にかゝる書物は、或は宣教師が職務上の報告とか、或は彼等の故国の読書子を目宛として作られた教会史や、日本志の類ひは之を除き、一層適切な意味で我国の吉利支丹文献といひうべき性質を有するものについて之を見るに、その原本、原形若くは名の伝へられたもの丈でも、おもふに幾十種を数ふべく、外に全く逸したものゝ存在も考へられるから、実際の数は相応に多く、一般文学史上から見て、不生産時代であつた当時に於いて、まさしく注意すべき業績といふべきであらう。而して是等の文学事業について、おしなべて考へられるのは欧州宣教師の日本学者と日本人信者中の文筆ある者〈而してそは当時の事情からして思ふに仏教出のもの〉等との、共力の結果と推測される事である。例へば前者には日本文典の著者 Rodriguez 後者には天草版平家物語の編者不干巴鼻庵などその代表者として考へ得る。而して現存せる書物に徴して見ると、前期の二小期中で、丁度印刷術が伝へられて〈天正一八、一五九〇年のこと 新村出氏、活字印刷術の伝来、参照〉出版の事が初められたといふ事情に依る所多く、従つて夙く制作されたものが、こゝに出版さるゝに至つたものもあらうが、また一方には、禁制のことが却つて刺戟となつて、文学的制作を盛んならしめたといふことも或はあつたらう。とにかく慶長年間を中心として、日本耶蘇教史の前期は、吉利支丹文学の為の創造期といふべきで、その成績の頗る注意するに値するものであつたことは、現存のものだけに徴しても、優に承認し得る。それらは概ね九州各地或はその他の教区に於ける耶蘇会公刊のものを主として、教徒の私抄のたぐひであるが、更に精しく見ると、或は欧文、或は日本文、或は邦字或は羅馬字綴、或は語学書或は文学書或は教義書等、頗る多種多様である。これに更に当時の吉利支丹攻撃書をも加へて、之を総括して吉利支丹文学とせば、こは思ふに語の最も広義の用法であらう。而してこの意味で吉利支丹文学の現存せるものは、Satow氏が日本耶蘇会刊行書志〈The Jesuit mission press in Japan. 1838 本文中略して書志とす〉に紹介した十四種 及び同続編〈1899〉に紹介した二種を主として、その他を加へて約三十余種に上る。しかもこの中について、吾人は更に適当な意味で吉利支丹文学と称しうるものを選出しようと思ふ。その条件としては、第一に文学的制作であることで、この点から文禄三〈一五九四〉年天草学林刊行 Alvarez 式羅典文典〈書志第四〉 文禄四〈一五九五〉年同所刊行羅和字典〈書志第五〉 慶長三〈一五九八〉年長崎〈?〉学林刊行落葉集〈書志第七〉 同八〈一六〇三〉年長崎学林刊行 Rodriguez の和葡辞書〈書志第十二〉 同九〈一六〇四〉年同所刊行 同じ人の日本文典〈書志第十三〉等は之を省く。第二に邦文で記されたことで、この点から天正一四〈一五八六〉年 Lisboa 刊行 Valignano の著 Catechismus Christianae 〈雑誌思想四十号木下氏、ぽるつがる記参照〉 慶長一〇〈一六〇五〉年長崎学林刊行 Çeiqueyra 編 Sacramenta 提要〈書志第十四〉 同一五〈一六一〇〉年間所刊行 Barreto 編聖教精華〈新村氏図書館の一隅より(大正十四年十月十六日)参照〉等は之を省く。第三には耶蘇教の信仰や教理に関することで、この点で文禄元〈一五九二〉年天草学林刊行 平家の物語及び合綴のいそぽ及金句集〈書志第二〉、慶長末年長崎〈?〉学林刊行太平記抜書〈書志続編〉 等は之を省く。第四に耶蘇教の為の著書といふことで、この点から元和六〈一六二〇〉年京都で転宗後の巴鼻庵が著した破提宇子はだいうすや、寛永十三〈一六三六〉年に沢野忠庵が著した顕偽録の如きはこれを省く。しかも省かれた諸書が限定せる意味の吉利支丹文学の研究の為に、重要な参考資料たることは言ふまでもない。さてかやうにして、邦文で書かれた耶蘇教的文書といふ意味に限定すると、所謂吉利支丹文学として現存せる主なるものは、思ふに大体左に表記する如くであらう。


吉利支丹文学表
一、聖徒さんとすげふ内抜書うちぬきがき〈書志第一〉(羅馬字綴) 天正一九〈一五九一〉年加津佐学林刊 英国 Bodley 文庫所蔵
二、どちりな・きりしたん(羅馬字綴) 文禄元〈一五九二〉年天草学林刊 東洋文庫所蔵〈新村出氏図書館の一隅より〔前出〕参照〉
三、どちりな・きりしたん(漢字平仮字)〈書志第九〉 刊行時所未詳 羅馬 Barberini 文庫所蔵 東洋文庫ロートグラフ本所蔵
四、ひいですの導師一名信心録(羅馬字綴)〈書志第三〉 文禄元〈一五九二〉年天草学林刊行 和蘭 Leyden 大学文庫所蔵
五、こんてむつす・むんぢ(羅馬字綴)〈書志第六〉 慶長元〈一五九六〉年天草〈?〉学林刊 英国 Bodley 文庫所蔵
六、さるばとる・むんぢ(漢字平仮字)〈書志第八〉 慶長三〈一五九八〉年長崎〈?〉学林刊 羅馬 Casanatense 文庫所蔵 東洋文庫ロートグラフ本所蔵
七、ぎや・ど・ぺかどる(漢字平仮字)〈書志第一〇〉 慶長四〈一五九九〉年長崎〈?〉学林刊 大英博物館文庫完本を所蔵(巴里国民文庫下巻を所蔵)
八、どちりな・きりしたん(漢字平仮字)〈書志第一一〉 慶長五〈一六〇〇〉年長崎後藤登明宗印耶蘇会印刷所刊 羅馬 Casanatense 文庫及東洋文庫所蔵
九、どちりな・きりしたん(羅馬字綴)〈書志続編〉 慶長五〈一六〇〇〉年長崎〈?〉学林刊 水戸徳川侯爵家所蔵 明治三二年 Satow 氏発見して東京にて再刊(Transactions of Asiatic society in Japan. Vol. 27, Ft. Ⅱ)
一〇、こんちりさんの略(漢字平仮字) 慶長八〈一六〇三〉年長崎〈?〉刊の原本に基き明治二年 Petijean 師上海にて刊行
一一、妙貞問答(漢字平仮字) 慶長十〈一六〇五〉年巴鼻庵京都にて著はす、徳川中期の写本伊勢神宮文庫所蔵
一二、しゆくわん〈珠冠?〉のまぬある(羅馬字綴) 慶長一二〈一六〇七〉年長崎学林刊 大浦天主堂所蔵
一三、こんてむつすむんぢ(漢字平仮字) 慶長一五〈一六一〇〉年原田アントニヨ印刷所刊 東京林氏所蔵
一四、ひですの経(漢字平仮字) 慶長一六〈一六一一〉年長崎後藤登明宗印耶蘇会印刷所出版 所蔵者未詳〈本書については、近く雑誌書誌の誌上に岡本良知氏の紹介出づべし。〉
一五、びるぜん・さんた・まりやの貴きろざりよの修業と同くせずすの御名のこふらぢやに当る略の記録(羅馬字綴) 元和八〈一六二二〉年 Manila 刊 同地 SanFrancisco 修道院所蔵 〈雑誌民族(大正十四年十一月)石田氏「書庫の一隅より」参照〉
一六、玖瑰花冠ロザリヨ記録(漢字平仮字) 元和八〈一六二二〉年 Manila 原刊本に基き明治二年 Petijean 氏上海にて刊行
一七、びるぜん・さんた・まりやの貴きろざりよのぢやるだんとて花園に喩ゆる経、同じくぜすゝのこふぢやのれひめんとの略(羅馬字綴) 元和九〈一六二三〉年 Manila 刊 同地の Franncisco 派及び Dominico 派修道院各々所蔵 〈雑誌民族一五の条にいでたもの参照〉
一八、こんふゑしよん(羅馬字綴) 寛永九〈一六三二〉年羅馬刊 Collado 師著一八六六〈慶応二〉年 Pagés 巴里にて再刊
一九、吉利支丹抄物(漢字平仮字) 著作時所未詳の写本 摂津東氏所蔵〈京都帝国大学文学部考古学研究報告第七册(大正一三年)に紹介さる〉
二〇、まるちりよの栞(漢字平仮字) 著作時所未詳の写本 長崎市図書館所蔵〈姉崎正治氏著切支丹宗門の迫害と潜伏(大正一四年二月刊)に紹介さる〉
二一、切支丹抄(漢字平仮字) 著作時所未詳の写本 東京林氏所蔵〈西村真次氏の文学思想研究(大正一四年五月刊)中の文に紹介さる〉


以上のうちで、本書に抄録した諸編の原本に当るものは、第一、第五、第七、及び第九の四種である。而して列記せる二十一種がうち、吾人の直接の知識を有し得たものは。未だ約半ばに過ぎないが、それに基き、又他のものに対する間接の知識に徴して、これらの四種が、吉利支丹文学中でそれ代表的意義を有することを推定して差支へないやうに思はれる。こは、各書及び抄録せる各編について細説する所によつて、自ら明らかであらう。

なほ、以下の本文中書名の下に附記せる数字は、前掲の表の番号である。


聖徒の御作業の内抜書(Sanctos no gosagueo no uchi nuqigaqi(一))

袖珍本で、Bodley 文庫本は一六〇九年刊の西班牙文の一教義書と合綴する。(Pressmark 8.°z. 21. Th. Seld. )第一第二の二巻より成り、「巻第一」は本文二九四頁、「目録」二頁、正誤四頁。「巻第二」は本文三九〇頁、「目録」四頁、正誤五頁。終りに「此二巻の御作業のうち分別しにくき言葉の和げ」七二頁をそへ、総頁数七百七十一頁。内容はぺてろ、ぱうろ以下三十余名の聖徒及び致命者の物語を主とし、その間に致命の意義、信徒迫害の記事等を交ふ。第一巻十七章、第二巻二十二章、凡て三十九章、各章は概ね独立の物語で、当時の教徒の間に行はれた中世神学者の教会史や、聖徒伝からの抄録である。各章一々出所を示す。而して、巻第二の後半(一六九頁以後、章別九より二二まで)は、Luis de Granada 〈ぎやどぺかどるの条にいづ〉の著 la Introduceion del Simbolo de la Fe 〈ひですの導師(四)又ひですの経の原本〉の一部で、第十六、第十七等原書の章数を挙げてゐる。〈附記総目録の条参照〉

本書の訳者については、巻第一、(一五)の終に、「右に版の開きし御作業はいづれも Irman Vicente の翻訳なり。」(一七)の終即ち巻末に、「右二ツの御作業は Irman Yofo Paulo の翻訳なり。」又巻第二(一)の終に、「このいすとりや、ぜねじすの証文より翻訳せしむる者也。鸚鵡本には和らげずといへども、少しもその義理を違へず、その心をとつて書写せしむる者也。Irman Vicente 之を翻訳す。」などある奥書に依つて、署名の二人であること。而してそのうちで、前者の手に出たもの巻第一に十五、巻第二に二十、合せて三十五章、後者の手に出たもの、巻第一、巻第二、それ二章、合せて四章であることがわかる。両者の何人かについては明らかでないが、Vicente は Rodriguez の日本文典の文例中に出た信教起請文の署名者と同人なるべく、又、伴天連記のびるぜんるしやの物語の後に、「是は日本にてたういんびせんての作なし也。在所上方の人也。」とあるのもそれかと思はれる。Paul は、同書文例中、「夜中のおらしよ」初め二三に見えたその人なるべく、なほ又宣教師 Sylva が、一五五五〈弘治元〉年九月二日付書簡中に、「彼は二三の書物をその国語に訳した。彼の文体は人々の賞讃を博した」と記したといふ当時「五十才以上の」「新改宗者パウル」かと思はれる。なほ、近時、木下杢太郎氏の紹介によつて Lisboa 郊外の Ajuda 公衆図書館所蔵の、一五七五 ‐ 一六三四年間日本在留の宣教師の集成した日本教会史〈序説九六参照〉中に、一五四二年葡人の種子島上陸を記した後に、「其後ポルツカルの他の商船が日本に行つた。この事は、日本人のいるまん Yio foken Paulo の著書、物語に出てゐるのみならず、彼自身がその生きた声を以て、親しく私に物語つた」とあるよし〈婦人公論大正十五年一月号日本の発見参照〉を知つた。物語は、日本文典の文例中にもしば引用された吉利支丹文学の逸文である。〈新村氏吉利支丹文学断片(大正十一年二月)参照〉而して、其後の葡国商船の渡来とは、思ふに天文十九〈一五五〇〉年の平戸へ来たことなるべく、果して然らば、この Paul はあるひは前記 Sylva の文中のその人であらう。これ以上、この二人については未だ知りがたいが、しかも二人が当時傑出のいるまんで、吉利支丹文学の最初の作者であることは疑ひない。而して両者を比較すると、Vicente に比して Paul の方が文才がすぐれてゐたらしく、Vicente の方は訳筆が古拙生硬を脫せぬ。

本書が現存吉利支丹文学中最古のものであることは、既に刊行年代によつて分るが、上記訳者の時代の考証からしても、又本文中しば「右に版に開きしは」「左に沙汰すべきことを」などの如き文字あるところからしても、本書の翻訳は刊行以前相応に早く成され、又邦文の草稿として編輯されて伝へられたので、それが印刷術の渡来をまつて、羅馬字綴に記されて出版されたのであらう。而して本書が、全部として或は一分として、其後別に邦字に印刷されたといふことは、他の書の場合から推して考へられうべく、しかもその実際の証跡は未だ知りがたいが、邦字原書(或はその刊本)の書写か、或は羅馬字本からの訳か、いづれにせよ本書の少くとも或部分の邦字書が古く信徒間に伝来されたのは事実らしい。まるちりよの栞(二〇)中の二びるぜんの御作業と本書二巻の「さんたかてりなのまるちるの様態」「さんたあなすたじあのまるちるの事」との比較は、思ふにこの間の消息を語るであらう。


本書が吉利支丹文学中に有する意義は、第一には吉利支丹文学の最古のものとして、後のものに対して、用語に文体に殆んど模範となつたことである。第二には、最も文学的興味に富んで、或は吉利支丹今昔物語の名を負ふにふさはしい読物を含み、一般国文学史上にも頗る光彩ある成績を示してゐることである。

本文中、本書からの抄出は、第一以下の四編である。まづ

第一 聖ぺいとろの御作業

は、原書間第一(一)の全文を書改めたので、もとの題では、ぱうろの事も並び記したやうであるが、その終りに「今迄はさん・ぺいとろあぽすとろの御上を少々沙汰せしなり。是よりは、さん・ぱうろの御上をいふべし」とあつて、ぱうろの事は(二)に別に記されてゐる。訳者は Vicennte.

第二 聖ふらんしすこの御作業

は、原書巻第一の(一四)の全文を書改めたもの。典拠の一つなる Bonaventura の Legenda Maior の英訳本と比較してみると、所々原文によつたところもなくはないやうであるが、極めての抄訳で、翻訳といはむにはふさはしくない。末段に秦始皇帝や延喜聖帝を引例したところは、訳者の書添であらう。同じく Vicennte の筆。第一と同じく、古拙の筆致のうちに、聖者に対する敬虔な讃仰の情が伺はれる。

第三、聖ばるらあんと聖じよざはつの御作業

は、巻第一の(一六)の全文を書改めたもの。典拠とした Iohanes Damascenus の著の拉典文と、分量の上から比較して、Satow 氏は本文五十三行詰フオリオ九十五頁なるに、邦訳は小オクタヴオ約三十六頁となした。希臘文の原著を英訳本によつて邦訳の本文と対照して見ると、原著の大部分を為す教理や僧庵生活の行儀に関する叙説は、殆んど凡て之を略し、しかも物語の筋は大概ね之をたどり、かつ興味深い譬話などは成可く之を保存し、そのうへ、所々原文の語句をもそのまゝに伝へて、総じて手際よく抄訳してある。原文の語句を比較的忠実に訳したのは、例へば「いかなる野の末、山の奥、谷の底までも残らず尋ね出し」は "Leaving 'no stone unturned': as the saying," に、「御逆鱗の中にもおん歎き深ふして」は、"he was filled with mingled grief & fury." に、「我が為に世界はくるすにかゝり、世界の為には我又くるすにかゝる。」は "the world is crucified unto me, & I unto the world." に、「賢きと憲法の二ツをよせ給へ」は "let Wisdom & Rightiousness sit to hear & judge that whitch we say," に、「あらむつかしのこの世界や。」は "Bitter is life" に、「身に代へ思ふ知音」は、"his first and truest friend of all" に、「これを離し給はんとのおん歎き、譬へば手を挙げて天に当り手をくぼめて大地を汲みほさんとし給ふに異らず、無益のおん歎きなり」とは "For as it were a thankless & never ending task for thee to try to grasp the heavens with thy hand, or to dry up the waters of the sea, so hard were it for thee to change me." に当る如きである。〈英訳は The Loeb Classical library の Woolward のによる〉又なこうるの論議中の、有名なありすちですの護教論は、わづか数行ながら原文の大意をとつて収めてある。

この基督教化の仏陀伝説の物語は、中世基督教徒間に盛んに行はれて、はやく欧州近代語はじめ亜細亜諸国語にも訳され、また近代学者の研究題目ともなつた有名なものである。含まれた釈迦出家譚や日月のねづみの譬話などは、固より当時の我国の信徒にも熟知されたところとて、興味をひくこと多かつたらう。(なほ日月のねづみの条の、人を追かけた獣、仏典中像とあるのが、うにこうるとなれるは、原文によつたのである)。この章の訳者は Paulo.

第四 聖ゑうすたきよの御作業

巻第一の(一七)の全文を書改めたもの。未だ欧文と対照するを得ないが、主人公が渡川の時に二人の子供を猛獣にさらはれる段、又軍旅で兄弟夫婦親子の思もかけず廻り会ふ段など、頗ぶる興趣がある。訳者は Paulo 。第三のものとともに、之を前の二章にして、二人の訳者の文学的伎倆の差が著しい。


原書の総目録は書志にもいでたが、邦字に書改めて左に掲げる。


聖徒の御作業目録〈原本章数を記さない今括弧にはさんで附記した〉

巻第一

尊き Apostolosあぽすとろす なる S.さん Pedroぺいとろ S.さん Pauloぱうろ の御作業・并びにその Martyrioまるちりよ の様体。是数多の Doutoresどうとれす の記録也(一)

Sanさん Pauloぱうろ Apostoloあぽすとろ の御作業。是 Simeonしめおん Metaphrastesめたふらすてす と云学匠の記録也(二)

Sanctoさんと Andreあんでれ Apostoloあぽすとろ の御作業・并びにその Martyrioまるちりよ の様体、是 S.さんAntoninoあんとにの の記録也(三)

Sanctoさんと Jacobeじやこぶ Menorめのる Apostoloあぽすとろ の御作業・并びにその Martyrioまるちりよ の様体。是 Eusebioゑうせびよ Cesarienseせざりゑんぜ と云学匠の記録也(四)

Sanさん Joanじよあん Evangelistaゑわんぜりした の御作業。是 Laodiciaらおぢしや と云在所の Miletoみれと と申す Bispoびすぽ の記録也(五)

Sanctiagoさんちやご Maiorまよおる Apostoloあぽすとろ の御作業・并びにその Martyrioまるちりよ の様体、是 S.さんAntoninoあんとにの の記録也(六)

Sanさん Thomeとめ Apostoloあぽすとろ の御作業・并びにその御死去の様体。是 S.さん Isidoloじどろ の記録也(七)

Sanさん Philippeひりぺ ApostoloあぽすとろMartyrioまるちりよ の様体。是 S.さん IsidoloじどろS.さん Antoninoあんとにの の記録也(八)

Sanさん Bartholomeuばるてろめう Apostoloあぽすとろ の御作業・并びにそのMartyrioまるちりよ の様体。是 Simeonしめおん Metaphrastesめたふらすてす と云学匠 Gregoげれご の言葉より latinらちん に翻訳せられし也(九)

Sanさん Mattheusまてうす Apostoloあぽすとろ Evangelistaゑわんぜりした の御作業・并びに Martyrioまるちりよ の様体。是 S.さん Antoninoあんとにの の記録也(一〇)

Sanさん SimonしもんSanさん Iudasゆだす Thadeuたでう ApostolosあぽすとろすMartyrioまるちりよ の様体。是 S.さん Antoninoあんとにの の記録也(一一)

Sanさん Matthiasまちあす Apostoloあぽすとろ御祝日おんいはひびの談義(一二)

AntiochiaあんちおきわBispoびすぽ Sanctoさんと Ignatioいぐなちお の 御作業・并びに Martyrioまるちりよ の様子。是 S. Eusebioさんゑうせびよ BispoびすぽS.さんAntoninoあんとにの の記録也(一三)

Menoresめのれす の門派の開山 Patriarchaぱちるあるか Sanさん Franciscoふらんしすこ の御作業。S.さん BonaventuraぼなべんつらS.さん Antoninoあんとにの の記録に見えたり(一四)

Sanctaさんた Febroniaへぶろにや Virgenびるぜん Martyrまるちる の御作業・并びにその MartyrioまるちりよSimeonしめおん Metaphrateめたふらすて の記録也(一五)

尊き Confessoresこんへそれす S.さん BarlanばるらあんS.さん Iosaphatじよざはつ の御作業。是 S.さんJoanじよあん Damascenoだませの の記録に見えたり(一六)

S.さん Eustachioゑうすたきお の御作業・并びにその Martyrioまるちりよ の様体。是 S. Antoninoあんとにの の書給ふ上巻と Pedroぺいとろ Anatalibusあなたりぶす と云 Bispoびすぽ の記録に見えたり(一七)


巻第二

Patriarchaぱちるあるか Josephじよせふ の御作業の事(一)

Gloriosoぐろりよぞ Martyrまるちる Sanctoさんと Sebastianせばすちやん の 御作業・并びに Martyrioまるちりよ の御利運の様体。常の書に載せらるゝといへども・別して Sanctoさんと Antoninoあんとにの の書給ふ上巻の一ヶ条にあらはるゝ者也 Jan. 20.(二)

Gloriosaぐろりよざ Virgenびるぜん Sanctaさんた CatherinaかてりなMartyrioまるちりよ の様体。是 Simeonしめおん Metaphratesめたふらすてす と云人の記録に見えたり Novemb. 25.(三)

Sanctoさんと Aleixoあれいしよ Confessorこんへそる の御作業。是 Simeonしめおん Metaphratesめたふらすてす と云人の記録に見えたり Julho. 17.(四)

Sanctaさんた Eugeniaゑうぜにや Virgenびるぜん と・同じくその御家人なる ProthoぷろとIacintoやしんと の御作業・并びにその Martyrioまるちりよ の様体。是 Hieronymoいゑろにも のあそばされたる Vitasびたす Patrumぱとろむ と・S.さん Antoninoあんとにの の書給ふ上巻にあらはるゝ者也 Decemb. 25.(五)

一番の Martyrまるちる なる S.さん Esteuanゑすてあん の御作業・并びにその Martyrioまるちりよ の様体。是S.さん Lucasるうかす Evangelistaゑわんぜりした の書給ふ Actaあくた ApostollorumあぽすとろるむHistoriaいすとりあ Ecclesiasticaゑけれじあすちか にあらはるゝ者也 Decemp. 26.(六)

S.さん LaurencioらうれんしよMartyrioまるちりよ の様体。是 S.さん Antoninoあんとにの の記録に見えたり August 10.(七)

Hispaniaいすぱにや の内の Valençaわれんさ と云在所にをひて Martyrまるちる になり給ふ S.さん Vicenteびせんて の御作業。是 S.さん Antoninoあんとにの の記録に見えたり Jan. 22(八)

左に沙汰すべく事をあらはすの条(九)

Martyresまるちれす の証拠・并びにその位高き事をあらはす心得の事 Caput. 16(一〇)

第十七・計り難き Martyresまるちれす の数を以て・きりしたんの御掟の真実をあらはし給ふ事。是また Fidesひいです を強むべきじふばんの徳儀なる事(一一)

第十八・DioclecianoぢおくれしあのMaximianoましみあの 両帝の Preseguiçanぺるせぎさん の事(一二)

第十九・Sanctaさんた OlalhaおるろはMartyrioまるちりよ の事(一三)

Sanctaさんた MartinaまるちなMartyrioまるちりよ の事(一四)

第十一・Sanctaさんた AnastasiaあなすたじやMartyrioまるちりよ の事。是 Simeonしめおん Metaphrastesめたふらすてす と云ふ学匠の記録也(一五)

第十一・S.さん Clementeけんめんて と御朋輩の S.さん AgatangeroあがたんぜろMartyrioまるちりよ の事(一六)

第二十一・Antoninoあんとにの Veroゑろ といふ Romaろうま の帝王の時代にありし Ecclesiaゑけれじや の災難の事。是は Françaふらんさ の国の内 LeonれおんVienaびゑな といふ両所のきりしたんより書遺したる状に現れたるを Eusebioゑうせびよ Cesariensaせざりゑんさ と云学匠書給ふ也(一七)

第二十二・Persiaぺるしや と云国にをひて Saporさぽろ と云悪王の時代にありし Persecucionぺるせくしおん の事(一八)

第二十三・ S.さん Simeonしめおん と一万六千人の Martyresまるちれす の事。是同じき Vstazadesうすたざです の時分の事也(一九)

第二十四・S.さん Joanじよあん Evangelistaゑわんぜりした の御弟子なる Sanさん PolicarpoぽりかるぽMartyrioまるちりよ の事。是即ち Historiaいすとりあ Ecclesiasticaゑけれじあすちか の四巻にあらはれたり(二〇)

第二十五・右に記録したる Martyresまるちれす の御作業につひての観念のこと(二一)

第二十六きりしたんを退治せんとせられたる悪王は・忽ち天罰に当り・又叡襟ゑいきんを傾けられたる帝の御宇は長久にありし事(二二)


こんてむつす・むんぢ(Contemptus mundi jenbu core yo uo itoi, Jesu Christono gocǒxeqiuo manabi tatematçuru michi uo voxiyuru qio. Bodley 文庫本の Pressmark 8.° V. 9. Th. BS. )


小形本。序二頁、本文四三〇頁、「右四巻の目録」一一頁、「このこんてむつす・むんぢの内分別しにくき言葉の和らげ」一五頁。本文四巻に分れ、章数百十九 Bodley 文庫本、表紙につゞく白紙の裏に、所蔵者たりし当時の日本人信者の筆とおぼしき左の八行の手書がある。

Goxuxxe iray xengofiacu fachijǔ
gonen meni Papa Sixto yori Nip=
pon no Companhia no padre com=
bǒ ni yotte sazzuqetamǒ gocuriqi
no coto.
Tarenitemo are cono qio no uchi i=
ccagiǒ uo yomu tabigotoni Jǔnenno
Indatgencias uo comuru nari.
Beatissma Maria tattomare tama=
ye

又、巻末の白紙の裏面には、「千」字形の墨の跡があり、その下にぺん書の羅馬字数個がぬりけされてゐる。所蔵者の記名かと思はれるが読みがたい。

本書は原本 Tomas à Kempis の De Imitatione Christi の全訳で、特に表記して全部とあるもこの為であらう。〈総目録後にいだす〉而して序文「読誦の人に対して草す」のうちに、「拉丁らちんの証文より確かに翻訳し、校合度々に及んで深旨を和らげ、以て梓にちりばむ。」とある如く、原文を逐語的に忠実に訳したもので、所謂鸚鵡本の訳である。それ丈に直訳的の臭味も多い。なほ邦字本こんてむつすむん地(一三)は、大体本書を邦字に書改め、その際、多少の文句の変改又省略を試みたものらしい。その変改のうちには直訳的臭味を除かうとした用意が、多少とも見える。章数も邦字本は多少減じてゐはしないかと思はれる。〈自分は、邦字本の原本について知識を有しないので、これは一部分の模刻本を見ての推測にとゞまる。〉本書の出版地は明記してないが、書志は、本書所用の活字から考証して、天草であらうとした。思ふに従ふべきであらう。訳者については何等手がかりがない。なほ当時、本書が経典の一種として、我国西教徒間に当然敬重されたことは言ふまでもなく、前出の巻頭の手書によつても明らかである。〈なほ、淀君の妹で京極高吉の妻であつたまりやが、こんてむつすむんぢを所有したよし、宣教師の書簡に出でゝゐる。〉

本文第五中に収めたのは、邦訳原本に特にそへた序文をはじめ、巻第一の第一、巻第二の第一、同第四、第三の第二十七、同第四十八、巻第四の第六、凡て七編である。本書の原書は現に普及せる名著であるから、訳風の如何は特に論ふまでもあるまい。なほ拉丁文原本の異本の中、本書のよつたのは何れかといふ如き考証については、その道の人にゆづる。〈英訳本中には、第三巻の章数が五つ少いのがあるが、そは諸種の祈祷文を他章中に含めて特に数へない為である。〉


原書の総目録を邦字に書改めて掲げる。

こんてむつすむんぢ四巻の目録

(読誦の人に対して草す)

巻第一

第一 世界の実のなき事をいやしめ・御主 ぜすきりしと を学び奉る事

第二 でうす の御恐れなき学問の実もなき事・並びに徳ふかき真の学問はいづれぞといふ事

第三 真実の教の事

第四 万づの事になすべき賢慮の事

第五 尊き経文読誦の事

第六 妄りなる望みの事

第七 無益の頼母敷心と憍慢とを除くべき事

第八 妄りに人に親しむ事を除くべき事

第九 おべぢゑんしやとかふする随ひの事

第十 言葉をすごすまじき事

第十一 無事を求むべき事・并びに善の道に先へ行く歎きの事

第十二 気ざかひなる事の徳になる事

第十三 てんたさんといふ悪のすゝめを防ぐ事

第十四 邪推を除くべき事

第十五 かりだてといへる でうす の御大切にひかれて致す所作のこと

第十六 人の不足を堪忍すべき事

第十七 出家の行儀の事

第十八 古来の善人の起居の事

第十九 よき出家の勤めの事

第二十 閑居黙座をすき好むべき事

第二十一 身を省る心の悲みの事

第二十二 人間の浅ましき事を思案する事

第二十三 死するの観念の事

第二十四 じゆいぞと言つて御糺明と科に当る苦みの事

第二十五 行儀を直さんと燃立つ心の事


巻第二

第一 内証の閑談の事

第二 わが誤りをちどについて譲る事は徳ふかき事

第三 無事なる善者の事

第四 清浄なる心とひとへなる心宛の事

第五 我身の上を思案し・他人の上を正すまじき事

第六 清き心の喜びの事

第七 万事に超へて ぜすきりしと を思ひ奉る大切の事

第八 むつまじく ぜすきりしと に親しみ奉る事

第九 現在の慰みを全く除くべき事

第十 でうす 与へ給ふ信心に対する御礼の事

第十一 きりしと のくるすを大切に思ひ奉る者のいかにも少き事

第十二 尊きくるすのかうの道の事


巻第三

第一 二心なきあにまに対せらるゝ ぜすきりしと の御閑談の事

第二 御主 でうす 心中に語り給ふ徳儀の事

第三 でうす のみ言葉を謙る心を以て聴聞し奉るべき事・同じく御言葉を勘弁する人の少き事

第四 信心のがらさを乞ひ奉るおらしよの事

第五 でうす の御前にをひて・真実と謙りたる心を以て閑談をなし奉るべき事

第六 でうす の御大切のたへなる精力せいりきの事

第七 まことの大切ある人を試むる道の事

第八 御与への真実を謙りを以て隠し守るべき事

第九 でうす の御前にをひて我身をいやしく思取るべき事

第十 でうす へ究竟の如く万事あてがひ奉るべき事

第十一 世を厭ひ でうす へ仕へ奉るはいかにも大きなる御恩なりといふ事

第十二 心の望みを糺明しておさむべき事

第十三 堪忍とは何事ぞといふ事・並びに色身の望みに対する相撲の事

第十四 ぜすきりしと をおがみ奉り謙りたる人の随ひの事

第十五 でうす より蒙り奉る好事にその隠れたる御糺明を観じ奉るべき事

第十六 望むほどの事について でうす に何と申上べきかと心に落し着くべき事

第十七 でうす の御内証に叶ひ奉る為のおらしよの事

第十八 真の寛ぎをば でうす 御一体のみに尋ね奉るべきといふ事

第十九 わが心懸は全く でうす 御一体のみにあるべき事

第二十 きりしと の御鏡を旨として・現在の難儀、墓なき事を・平等なる心を以てこらゆるべき事

第二十一 恥辱と難儀を凌くべき事

第二十二 わが弱き事・現在の墓なき事を・懺悔し奉る事

第二十三 万事に超へて でうす に悦び奉るべしといふ事

第二十四 数限りなき でうす の御恩を思出し奉るべき事

第二十五 心の無事を求むべき為の便り四ツありといふ事

第二十六 悪念に対するおらしよの事

第二十七 智恵を明め給はん為のおらしよの事

第二十八 他人の行儀を妄りに訪ね探る事を禁ずる事

第二十九 心の確かなる無事と善の道にまことに先へ行くといふ事は・何に究るぞといふ事

第三十 善の妨げと現世の墓なき事に対する・がらさの御功力を乞奉るおらしよの事

第三十一 あにまの真の寛ぎは何に究るぞといふ事・並びに心の騒動の基の事

第三十二 心を浄め・天の道をわきまゆる智恵を得る為のおらしよの事

第三十三 人の非法に対する理りの事

第三十四 難儀にあふ時何と様に でうす を頼み・又あがめ奉るべきぞといふ事

第三十五 でうす の御功力を頼み奉り・再びがらさを与へ給ふべきとの頼母敷心をもつべき事

第三十六 御作者を見付け奉る為に・諸々の御作の物をいやしむべき事

第三十七 全く身をいとひすさみ天の智徳を求むべき事

第三十八 心のすわらざる事・並びに万事の心宛を でうす へおもむけ奉るべき事

第三十九 大切に思ひ奉る人は・何たる事についても万事にこへて でうす を甘味と覚えらるゝ事

第四十 現世にててんたさんに対し・達して危うからずといふ事なき事

第四十一 実もなき邪推に対する心持の事

第四十二 心の解脫を得べき為に全く身を厭ふべき事

第四十三 外の所作をよくをさむる事・並びに危き事にあふ時 でうす を頼み奉る事

第四十四 所作について余りにもだえまじき事

第四十五 人間はおのづから善といふ事を持たず・おごるべき題目なき事

第四十六 現在の誉れをいやしむべき事

第四十七 わが無事を人間の上に持つべからざる事

第四十八 実もなき世界の学問に対する心持の事

第四十九 外の事に心を移し得心を乱すまじき事

第五十 人毎に信ずまじき事・並びに言葉に誤り易き事

第五十一 人より非道を言懸る時 でうす に頼みをかけ奉るべき事

第五十二 不退の寿命の為には・何たる難き事をもこらゆるべき事

第五十三 天上の楽みと現在の心苦しき事

第五十四 不退の寿命の望みの事・付り・善の道に合戦する輩に約束し給ふ事の双びなき事

第五十五 憂へを含む人何と様に でうす に身を捧げ奉るべきぞといふ事

第五十六 深き観念の甘味を覚えざる時はさがりたる所作を修すべき事

第五十七 我身は悦びをうくべき者に非ず・却つて苦みをうくべき事本意也と思取るべき事

第五十八 でうす のがらさをば世界のあだなる事に貪着する者には与へ給はざる事

第五十九 人の生付のほつとがらさよりおこし給ふ心の差別の事

第六十 生付の損ねたる事・並びに でうす のがらさの御精力の事

第六十一 身を厭ひ・くるすの道より ぜすきりしと を学び奉る事

第六十二 難儀にあふ時・謙る心と堪忍あるべき事

第六十三 量りなく高き事・又は隠れ給ふ でうす の御賢慮を探知らんと歎くまじき事

第六十四 でうす 御一体に頼みをかけ奉るべき事


巻第四

第一 尊きゑうかりすちやをうけ奉るには・如何程のうやまひいるぞといふ事

第二 このさからめんとを以て・でうす の広大に御心よく在ます事と御大切を人間に現し給ふ事

第三 ゑうかりすちやをさい申受け奉る人の徳ふかき事

第四 信心を以てゑうかりすちやを申受け奉る人に・多くの善徳を与へ下さるゝ事

第五 尊きさからめんとの御位・又はさせるどうての進退しんだいの事

第六 信心を以て・尊きゑうかりすちやを申受奉る道を教へ給へと頼み奉ること

第七 こんしゑんしやの糺明と進退を改めんと思ひ定むる事

第八 ぜすきりしと くるすにをひて・我身を でうす ぱあてれに捧げ給ふ事・又我信心を残さず でうす に捧げ奉るべき事

第九 我身を始めとして我等が万事を でうす へ捧げ奉り・諸人の為に でうす を頼み奉る事専らなりといふ事

第十 ゑうかりすちやを受奉る事を無下にさしおくまじき事

第十一 ゑうかりすちやと尊き経文は野心なきあにまの為に肝要なりといふ事

第十二 ゑうかりすちやを申受け奉る人は・深く精を入れ・その覚悟をいたすべき事肝要なりといふ事

第十三 信心なるあにまは・心より ぜすきりしと にさからめんとを以て一味し奉る事をのぞむべき事専要なりといふ事

第十四 信心なる人・ゑうかりすちやを申受け奉りたきと燃立つてのぞむ事

第十五 信心のがらさは・護り・身をいとひすさむを以て求むるといふ事

第十六 御主 ぜすきりしと へ我等が諸願を申上げ・がらさを乞奉る事肝要なりといふ事

第十七 燃立つ大切・又は御主を申受け奉る大きなる望みの事

第十八 このさからめんとの御事を探り奉る事なく・たゞ尊きひいですを以て護り・ぜすきりしと を学び奉れといふ事


ぎやどぺかどる Guia do pecador. (七)

上下二巻。美濃刊、漢字平仮字交り草書体で、印刷は活字、一面十四行約三十二字詰。上巻は「目録」附「違字」正誤合せて二枚、「序」一枚、本文九十九枚、「集字」十一枚。下巻は序一枚、「目録」附「違字」正誤合せて二枚、本文七十七枚、字集十枚〈倫敦本は下巻第四十七枚を脫す。巴里本は下巻のみなるが、第七十六、第七十七、第七十八及び字集第一の各葉を脫す。〉 Pressmark は大英博物館文庫本は G. 11929. 巴里国民文庫本は Nouvean fonds. 1059.

本書は、葡萄牙女皇の聴罪僧となつた Domininico 派の高僧、西班牙 Granada の産 Luis de Granada (1508 - 1558)の同名の書の翻訳である。彼は、その宗教的情操に於いて、文藻に於いて、西班牙文学中の第一に推される。吉利支丹文学中、ひですの導師(四)、ひですの経(一四)は彼の別著からの訳であり、聖徒の御作業中にも、同じ別著からの抄訳を含む。彼は、我国耶蘇教徒間にも最も多く読まれた著者といへる。而してぎやどぺかどるは、彼の著書中、最も有名なもので、一五五五〈弘治三〉年 Badajaz で刊行された。前項の De Imitaitione Christi と並称される名著で、出版後間もなく諸国語に翻訳された。この和訳本は原本出版後四十四年の刊行で、書志によれば、一五七三〈天正元〉年の Salamanca 版からの訳らしいと。

編者の有する英訳本 Sinner's Guide(London, 1598, Dublin, 1803)によつて推測すると、和訳本は、原本に多少の省略を加へた比較的忠実な抄訳らしい。原本は、章五十三、Subsections 六十を有するに、和訳本はそれ四十二及び四十六である。而して省略は上巻に少く、下巻殊にその後半の第三部に多い。それともに、編次も大体原本のまゝながら、必ずしも之を襲はないで、やゝ別様に試みられてをり、省略や編制には頗る訳者の手際よさが見える。

本書の印刷様式が正しく活字であることは、本文中にその明証もあるが、更に他の吉利支丹邦字書との関係を見ると、本書は確かに、落葉集と同活字であり、慶長五年刊のどちりな(八)、太平記抜書、さるばとるむんぢ(六)、及びひですの経(一四)も同様と見るべく、これに対して、前には、文禄元年刊羅馬字本(二)と同種らしい邦字本のどちりなきりしたん(三)、後には、こんてむつすむん地(一三)の二種は、それ全く別種の活字と考へられる。次に刊行地は明記しないが、書志の推定の如く長崎とすべき事は、この書式上の関係からも考へらるゝ。〈慶長五年刊のどちりな(八)は長崎出版なることを明記せるに、こんてむつすむん地(一三)は京都出版である。〉終りに、訳者については何等記載がないが、そは聖徒の御作業の二人の訳者にはおくれた耶蘇会の文筆の士で、思ふに必ずしも一人ではなかつたらうこと、しかもそのうちの一人としては、平家物語の編者、妙貞問答、破提宇子の著者として当時の有力な記者なる不干巴鼻庵の存在を推測することが出来る。而して本書の訳に、外人宣教師の日本学者の関与する所多かつたと思はれることも、他の場合と同様である。

本書は内容からしても又出来栄からしても、吉利支丹文学中最も重き地位を為すものと言ふべく、当時信徒間にも、他書に比して最も行はれた証跡の残つてゐるのも、偶然でないと思ふ。そは Pagés の日本耶蘇教史にも見え、それによつて鮮血遺書も記載してゐる。切支丹抄(二一)中にも、七悪に対する証明を本書にゆづつてゐる、而して信徒間に流布したとされるこんちりさんの略(一〇)も、明らかに本書をもとゝして成つてゐる。而して本書は、邦字書としては、吉利支丹文学中大部なものゝ一つで、かつこんてむつすん地ママなどに比しては、時代も早いので、吉利支丹文学の、文字もしくは言語方面からの研究の為にも、最も重要なる資料といへよう。随つて本書に附した字集の如き、字彙に於いて極めて豊富である。これ附録に収めた所以である。〈なほ本書については思想三十八号ぎやどぺかどる考参照〉

本文に於ける抄録は、第六以下第十一までの六編で、第六は上巻第一篇の第一の全文〈自四ノオ至八ノウ〉で、英訳本の Book Ⅰ, Part 1 Chap. 1 Of the first motive that obliges us to virtue, & the service of God, which is his being, considered in itself, & of the excellency of his divine perfection (9 - 17)に当り、第七は同同第四の全文〈自一六ノオ至一九ノオ〉で英訳本の Chap. Ⅳ. Of the forth motive that obliges us to the pursuit of virtue, which is the inestimable benefit of our redemption (30 - 38)に当る。前者には、神性、神徳を論じ、後者には神恩を説く。殊に後者の救済の恵を説いた文字には、宗教的情操が溢れてゐる。第八は上巻第二編第五§一の全文〈自七三ノオ至七七ノウ〉で、英訳本 Book Ⅰ,Part 2, Chap. 6, §1. Of the Peace of conscience which the Just enjoy. (126 - 129)に当る。法悦の心境が描かれてゐる。第九は、下巻第一編第五〈自二四ノオ至三〇ノオ〉で、英訳本 Book Ⅰ, Part Ⅲ, Chap. 5 Against those who refuse to walk in the way of virtue, becauce they love the world (242 - 258)に当る。現世の無常を説いて、頗る文彩に富んでゐる。第十は、下巻第一編第十一の全文〈自四六ノオ至四九ノオ〉、英訳本 Book Ⅱ, Part Ⅰ, Chap. 7 Remedies against anger, and the hatred & enmities which arise from it. (295 - 298)に当る。大英博物館文庫本の脫せる第四十七枚を含む。而して第十一は、下巻第二編第四§一の全文〈自七七ノオ至七八ノウ〉で、即ち全編の最後の一節である。英訳本 Book Ⅱ. Part Ⅱ, Chap. 10. The fourth of the fortitude requisite to the obtaining virtue. (375 - 381)に当る。而して、巴里本は全く之を脫してゐる。

本書の訳風は、聖徒の御作業に見る如き極めたる抄録でなく、さりとてこんてむつすむんぢに於ける如き、字句そのまゝの所謂あうむ本ではなく、大体原文によりながら或は逐語或は達意、頗る自由自在で勿論出来不出来はあるらしいが、訳文としても全体として頗る成熟を示し、聖徒の御作業、殊に Vicente の訳文やこんてむつすむんぢに比すると、明らかに一層の発達を示すと思はれる。なほ参考の一端として、本文一六頁二八行以下一二九頁三行に当る英訳本の一節を挙げておかう。

 "the first, greatest & most inexplicable of them, the very being of God, which comprehends the greatness of his infinite majesty & of all his perfections; that is, the incomprehensible immensity of his goodness & mercy, of his justice, his wisdom, his omnipotence, his excellence, his beauty, his fidelity, his sweetness, his truth, his felicity, with the rest of those inexhaustible riches & perfections that are contained in his divine essence. All which are so great and wonderful, that according to St. Augustine, if the whole world were full of books, & each particular ereature employed to write in them, & all the sea turned into ink, the books would be sooner filled, the writers sooner tired, & the sea sooner drained, than any one of his perfections could be fully expressed. The same doctor says further, that should God create a new man, with a heart as large & as capacious as the hearts of all men together, & he by the assistance & favour of an extraordinary light come to the knowledge of any one of his inconceivable attributes, the pleasure & delight this must cause in him would quite overwhelm & make him burst with joy, unless God were to support & strengthen him in a very particular manner.


原書総目録は左の如くである。

ぎやど・ぺかどる目録
上巻第一編

(対読誦之人序)

(序)

第一 でうす に仕へ奉り善を勧めずして叶はざる一番の道理といふは・でうす 則 でうす にて在ます事・並に御上に達して備り給ふ御善徳を顕す事

第二 善に進み・でうす に仕へ奉らずして叶はざる二番の道理なる御作の御恩の事

§一 でうす へ仕へ奉らずして叶はざる今二ツの道理といふは・御作者にて在ます事

第三 でうす の御奉公を勤めずして叶はざる三番の道理なる・かゝへすだて治め計ひ給ふ御恩の事

§一 右条々の道理を以て・でうす に仕へ奉らざる事は傍若無人也と云事

第四 善に進まずして叶はざる四番の道理なる御扶けの御恩の事

§一 右の道理に依て御主を背き奉る事は・如何計の悪逆ぞといふ事

第五 善に進まずして叶はざる五番目の道理といふは・じゆすちひるさんとて悪より善に至り・御内証に叶はせ給ふ御恩の事

§一 右の外にすぴりつ・さんと悪人を善に至らせ給ひ・御内証に合せ給ふあにまに与へ給ふ徳儀の事。付尊きゑうかりすちやの事

第六 善に進まずして叶はざる六番の道理なる死するの事

第七 善に勤まずして叶はざる七番の道理なる・終りのじゆいぞの事

第八 善に勤まずして叶はざる八番の道理なる・量りなき快楽の事

第九 善に勤まずして叶はざる九番目の道理なる・いんへるのの事

§一 いんへるのゝ苦患の終りなき事を観ずる事

第十 善に進まずして叶はざる十番目の道理といふは・現在にてよき行跡に対し・双びなき吉事を御約束なさるゝ事

§一 右条々の道理真実なりといふ事は・御経文をもて徹する事


上巻第二編

第一 善人を御守りなさるゝ でうす の御恵みと・又悪人を罰し給ふ御計ひは・善に因む一番の徳儀なる事

§一 右の理りに付て・尊き経文に でうす の御名をあまたに申かへ奉る事

§二 罪人に対して悪を懲し給ふ御計ひの事

第二 御主 でうす 善人に与へ給ふがらさは・善に因む二番目の徳儀なる事

第三 でうす 善人に与へ給ふ智恵の光明は・善に因む第三の徳儀なる事

第四 善を励す人に・すぴりつ・さんと与へ給ふ内心の悦び楽みは・善に因む四番目の徳儀なる事

§一 善人は内心の悦びをおらしよの時・別して覚へ楽しみ給ふと云事

§二 でうす の御奉公を初むる人に与へ給ふ内心の悦びの事

第五 悪人の心に覚ゆる悪き心の食ひつく苦しみに引かへ・善人達の楽み給ふよき行跡の悦びは・善に因む五番目の徳儀なる事

§一 善人の楽みとなるよきこんしゑんしやの悦びの事

第六 でうす 御慈悲・御哀憐に対して・善人達の持給ふ頼母敷と悪人のもつ益なき頼母敷の隔は・善に因む六番の徳儀なる事

§一 悪人の墓なき頼母敷の事

第七 善人といふは悪人の弁へざる浅間敷奴の進退を遁れて・真実の自由を楽み給ふ事。是善に因む七番目の徳儀なる事

§一 悪人の進退は奴なりといふ事

§二 善人の心の自由は何事より出るぞといふ事

第八 悪人の妄りなる心の騒がしき事と・善人達の楽み給ふ無事安楽は・善に因む八番目の徳儀なる事

§一 悪人の内証の騒がしき戦ひの事

§二 善人の内証の無事安楽の事

第九 でうす 悪人のおらしよをば聞し召さずして・善人のおらしよを御納受し給ふ事。是善に因む五番目の徳儀なる事

第十 悪人は難儀の時堪忍なくして苦しみをうけ・善の心懸ある人は・でうす の御合力を以て輙く堪へ忍ぶ事。最善に因む十番の徳儀なる事

§一 悪人難儀の時堪忍なき狂乱の事

第十一 善を勤むる人に・御主現在にをひて事の欠けざる様に計ひ給ふ事は・善に因む第十一番の徳儀なる事

第十二 悪人の最期は苦しく哀なる進退にて・善人の臨終は無事安泰に悦びを含み給ふ事。是善に因む十二番の徳儀なる事

§一 善人の臨終の事


下巻第一篇

(対読誦の人序)

第一 悪を退け善に進むべき事を指延る輩に対する答への事

第二 臨終の時まで善に立上る事を指延る人に対する理りの事

§一 最期の真実の後悔に付て・古への善人の教を顕はす事

§二 爰に貴き経の要文をもて言究むべし

§四 右の道理に付て不審の開きの事

§五 右の都合の事

第三 でうす の御慈悲を頼みて科をやめざる人の事

§一 貴き経文に見えたる御憲法の御罰の事

第四 善を求むる事を難しとする人に対する答への事

§一 ぜすきりしと の御功力を以て与へ玉ふがらさは・善の道を勤め安く為し給ふ事

§二 右の条々に付て不審をなす者に対する答への事

§三 でうす の御大切は天の道を軽く勤め安くなし給ふといふ事

§四 右の外に善の道を甘くなす品々の事

§五 右の道理を徹する明鏡の事

第五 世界と悪の執着に引れて善の道を恐るゝ人を導く事

§一 世界の栄花のみじかき事

§二 世界の栄花には災おほしといふ事

§三 世界の栄花には偽り多き事

§四 現在には真実の安楽といふ事なし・只 でうす にのみ備り給ふといふ事

§五 古きためしを以て右の道理を極むる事

第六 でうす 仕へ生らんとする人の為に・二ツの心得を顕はす事

第七 もるたるとママといふ深き科に落まじきと堅く思ひ定むべき事

第八 憍慢の科に対する料簡の事

§一 慢気に対する今一ツの料簡の事

第九 貪欲に対する料簡の事

§一 人の物を押領すまじき事

第十 淫欲に対する料簡の事

§一 淫欲に対するくはしき料簡の事

第十一 瞋恚并に憎む心と不会の憤りに対する了簡の事

第十二 貪食に対する料簡の事

第十三 嫉妬の科に対する料簡の事

第十四 無性に対する料簡の事

第十五 七悪の外に心を尽して退くべき科の品を顕はす事

§一 人に対して罵詈誹謗嘲り慢り邪見邪推をなす科の事

§二 ゆへなく人を糺し・妄りに人の上を推察する事・付りゑけれじやのまだめんとの事

第十六 べにあるといふ浅き科の事


下巻第二篇

第一 我身の上に勤むべき儀を顕はす事

§一 進退を改むべき事

§二 飲食をひかふるあぶすちねんしやといふ善の事

§三 六根を守るべき事

§四 ぷるてんしやといふ賢慮の事

§五 とりあつかママふ事に付て賢慮を廻らすべき事

第二 他人に対して為すべき善の事

§一 大切に当る勤めの事

第三 でうす に対し奉りてなすべき事

§一 右九ツの善を保つべき道の事

第四 善を求むる為にほるたれざといふ強き心肝要なりといふ事

§一 ほるたれざといふ強き心の善を求むる道の事


〈一六〇〇年刊羅馬字本〉どちりなきりしたん Doctrina Christan (九)

小形本。序一枚、本文十二章(第十一なし)五十七枚。刊行地の記載はないが、書志続編は長崎ならむとなす。訳者については、未だ何等の手懸りがない。本書の内容は、教理問答即ち公教要理で、表に見る如く同名同種のもの凡て四種あるも、吾人は未だ、本書以外直接の知識を有しないので、比較を試みることは出来ないが、吾人が有する間接の知識から、大体下の如く考へることが出来るやうである。そは、文禄元年刊羅馬字本(二)と刊行時所未詳邦字本(三)とは、ほゞ内容を同じうして書式を別にする第一類であり、之に対して、本書と同年長崎刊行の邦字本(八)とは、第二類をなす。而して、後二つのものゝ内容の同じいことは、 Satow 氏之を説き、邦字のものは日本人信者の為に、羅馬字綴のものは外人宣教師の為に、作られたるならむとなした。而してこの第一類と第二類との関係は、後出のものは、前出のものをやゝ委しくしたものであること、また書志が説いてをる。即ちこの四種はまさしく同一系統のもので、本書は補修本に属し、随つて本書を以て、吉利支丹文学のどちりなを代表せしめて差支へないやうに思はれる。而して、本書が当時の信徒間に重んぜられ、相応に普及したことは、想像に難くないので、その徴証も求められる。例へば切支丹抄(二一)は本書中のさんた・まりやへ捧げ奉る観念の本文を挙げて註釈したものであり、新村氏の、東氏蔵吉利支丹遺物の注に紹介された、水戸家切支丹法器附記の語釈の文字は、本書からの摘録である。

なほ邦字本(八)の解説に於いて、Satow 氏は問答の様式上から見て、本書が当時一般に用ゐた欧州の Cathechism のそのまゝの翻訳ではなくて、日本耶蘇会の幾分創意を加味した制作なるべきことを言ひ、また本書の再刊書のはじめの解説中に、本書が、当時の知識階級なる武士の信者のためを目的として作られたものなるべきことを記し、そを証すべき事例として、さばとを守る誡に対する除外例として、日常必須の労役を挙げたうちに、「陣に立ち合戦し」「堀をほり築地をつき城をこしらへ」などあるのを注意した。本文に収めた。


第十二 けれいど並びにひいですのあるちごの事

は原書第六同題の全文〈自一八ノオ至二八ノウ〉を書改めたものである。いでや、ほるま、まてりや等の観念に関する哲学的言説をふくみ、吉利支丹文学の一異彩である。 Satow 氏は、この点をも、本書が知識者階級の為に書かれたものなることの一証とし、本文中に、「これらの事を詳しく分別したく思はゞ 別の書に載するが故によく読誦せよ」とある別書については、未だ手掛りなしとした。次に。


第十三 でうす の御掟十のまだめんとすの事

は、原本第七の全文〈自二八ノウ至三三ノウ〉を書改めたもので、内容は表題の如くである。十誡の文句は、妙貞問答(一一)、こんふゑしよん(一八)、切支丹抄(二一)又契利斯督記〈万治元、一六五八年比成〉等にいでたものと、それ些かの差あるが、大体同じで、思ふにこの書のものを以て、代表的のものとなし得よう。その説明についても、第四誡に於いて特に、長上によく従へといふは、科にならざる事を言はん時の事、でうす の掟を背き奉れと言はれた時のことでないと断つたのは、当時一般の道徳観念を背景として考ふる時、注意を惹く言である。又、第五誡に於いて、国家を治むる道からの、例外と認むべき場合について説いたのも、上記 Satow 氏が注意したさばとに関する言説と同じく、時勢とまた、この問答書の主たる目的とした階級とを暗示してゐると思はれる。なほ、第十二、第十三に収めた二編とも、編者は再刊本から之を訳し、文中二三明らかに誤植と思はれるものは、之を改めた。原書の総目録は左の如くである。


どちりな・きりしたん目録

どちりなの序

第一 きりしたんといふは何事ぞといふ事

第二 きりしたんのしるしとなる尊きくるすの事

第三 ぱあてれ・のうすてるの事

第四 あゑ・まりやの事 尊きびるぜんまりやのろざりよとて五十遍のおらしよの事 御悦びの観念五ヶ条の事 悲みの観念五ヶ条 ぐろうりやの観念五ヶ条の事 ころあのおらしよの事

第五 さるゑ・れじなの事

第六 けれいど並びにひいですのあるちごの事

第七 でうす の御掟十のまだめんとすの事 掟のまだめんとす

第八 尊きゑけれじやの御掟の事

第九 七ツのもるたる科の事

第十 さんた・ゑけれじやの七ツのさからめんとの事

第十二 このほかきりしたんに当る肝要の条々 慈悲の所作 色身に当る七ツの事 すぴりつに当る七ツの事 てよろがれす・ゐるつうですといふ三つの善かるぢなれず・ゐるつうですといふ四ツの善 すぴりつ・さんとすのどねすとて御与へは七ツあり べなゑんつらさは四ツあり あやまりのおらしよ


抄出の十三編は、原書が吉利支丹文学中に占むる位地からしても、又、各編それ有する特質からしても、思ふに吉利支丹文学の代表者として、吾人が左記の結語の支証たらしめうるであらう。


吉利支丹文学の特色は、まづ、その書式、用語、文体等の方面から見ることが出来る。書式は、羅馬字綴と漢字仮字交りと相半ばする。羅馬字綴は、主として、外人宣教師をして邦語を習得せしむる為の目的から用ゐられママものであらうし、又、その始めに於いては、それが、彼等の有した唯一の印刷方法であつたのであらう。果して、吉利支丹文学の最も古い一つの聖徒の御作業は羅馬字綴であり、その葡萄牙語風の綴方は、その後の諸書の羅馬字綴の様式を規定した観がある。されば Satow 氏も、書志に、この書によつて、まづ吉利支丹文学の羅馬字綴式を概説した。本書は邦字に書改めたし、この点に言及する必要を認めぬがたゞその羅馬字綴からして、語句の当時の清濁や読癖が精確にしうることを注意する。漢字仮字交りは、概ね草体平仮字交りで、書風は必ずしも一種ではなかつたが、時様の御家流風のうちに別種の特色あるものであつた。この点も本書の場合、詳説の必要がないが、その印刷様式の活字であることをはじめ、星標、DS(でうす) X(きりしと) JX(ぜすきりしと) JS(ぜすゝ)の造字、また花飾り、半濁音符等を用ゐたなどは当時の一般の書物に見ない特色で、この点は、一部分は本書の本文印刷にも伝へた。又、扉に必ず耶蘇会の紋章を掲げ、司教の出版認可の旨を附記した等、同時代の支那耶蘇会士刊行書とも体裁を同じくてママゐるが、こも又、思ふに時人の注目を惹いたらう。更に進んで、用字、用語、読癖また文体等について考ふると、先第一に、大体に於いて中世の仏教文学や戦記物等のそれと同じく、未だ、近世儒学興隆以後の儒者の新文体に化せられてをらぬ事が認められる。而して、その語彙は極めて豊富で、当時の節用集などを補ふものが多い。なほ長崎地方の方言的要素の存すべきことは、 Satow 氏が書志の刊行当時、すでに Chamberlain 氏の注意したところであり、多少の真理は存すべきも、少くとも本書に収録したやうな文章体のものに於いては、この事は比較的考慮に入るゝ必要はないかと思ふ。大体吉利支丹文学の文章は、当時の時様の一つで、或は用語読癖などに、今日九州地方に残り伝へられたものと一致したるものがあつても、そを直ちに当時の方言的要素と見ることは速断である。この問題は少くも一々の場合について慎重なる考慮を要する。而して、こゝでむしろ注意すべきは、西洋の神学上や宗教上の術語が、大体仏語を用ゐて翻訳されてゐることで、内証、値遇、智分、明智、情識等、その例証は附録用語抄に譲る。次に第二には、吉利支丹文学が、欧文翻訳文学として、当時の一般文学以外に発揮した特殊性である。その一つとしては、でうす、すぴりつ、あにま等の吉利支丹特有の観念内容を有する語は、原語のまゝを用ゐて、決して翻訳しなかつたことである。こは、ほゞ同時代及びその後の支那の耶蘇教文書や、又我国後代の基督教文学に見ない所で、後半の聖書漢訳史上の Term question の発生を思ふ時に、当時の吉利支丹文学記者のとつた態度に、先見の明を認めざるを得ない。而してこれとともにまた、或はすぴりつある道とか、或はもるたる科、べにある科といふ如く、欧語を自由に邦語に連結してゐることは、近代の翻訳文にも見ない試みである。その二つとしては、諸々の翻訳上から来た用語上文体上の諸々の試みで、二三を学証すれば、例へば「与へ手」「動して」「御作なされて」「喜ばせて」の如き、能動所動の動詞を名詞化してその主体を言表すもの、「かしこき」「死する」「老する」「死する」「たのもしき」の如き、用言の連体言をそのまゝ名詞化したもの。善のかなづち、善の鎧等の譬喩的言表し、しば用ゐられた「大きなるゝゝを以て」「対して」等の直訳的の語句、其他「ぜすゝをする」「でうすを持つ」「受返す」「受合す」「さきへ行く」「立あがる」「立帰る」「燃立つ」等の新しい用ゐざま、「山筆海硯」「墨筆」等の新熟語等がそれである。今日 Love に対して愛を用ゐるのは、思ふに米国系統の新しい漢訳聖書を学んだものであらうが〈例ば Morrison の新遺詔書、 Morrison, Milne の神天聖書等の古い漢訳には仁と訳した、〉当時は凡て、大切と訳したことも、書志発行当時、Chamberlain 氏が夙に言及した如く、注意すべき訳例である。なほこの種の他の例証は之を等しく用語抄にゆづる。而してその翻訳文学としての成績が、大体に於いて殊にその成熟したものに於いては、相応に成功せるものであることは、文中にはさめる聖書引用句の訳を、現代の訳と比較する丈でも想像されよう。過不及の語を巧みに活かした訳例は、用語抄にもいだした如くである。而して、聖徒の御作業によつて始められ、又規定されたともいふべき、吉利支丹文学の用字、用語又文体上のこれらの特色は、その後の吉利支丹文学を一貫して存したのみならず、潜伏期の信徒の間に伝承され、明治の初め公教会の復活とともに再現を見たので、例へば明治の公教文学の始めをなした Petijean 師が当時の編著中には、吉利支丹文学の遺作を、大体本来の用語、用句を保存して、幾分新時代の文体に書き改めたものがある。〈その例としては聖教初学要理等従来世に知られたものゝ外に、編者が筆写してもてるものにも「聖まりやに捧げたる五月の事」の一書がある。〉而して、現行の公教文学中にも、吉利支丹文学の要素は、その用語、用句に、少なからず保存されてゐる。


用字、用語文体等の問題に連続して次に考へらるゝのは、思想信仰等の内的効果である。吉利支丹文学の含む加特利加教本来の信条そのものや、そを支持する中世の哲学上、神学上の観念そのものについては、改めて論ずるまでもないが、注意されるのは、それらのものが、三世紀の昔に於いて、相応に精しく、また深く移植されたといふことである。基督の模倣はじめ、この種の名著が伝へられたことそのことはもとより、それらによつて、中世の哲学者や神学者の名称とその教義や思想が、いかに紹介せられたかを一わたり観察しても、これを、鎖国二世紀余を隔てゝ所謂欧化の大潮流に中に入り、全然文化の面目を一新したと考へらるゝ今日から顧みて、人をして或は意外の感あらしめ、当時の学林の神学教育の程度や状況の如何をしのばせるに足るものがあることである。併もこの場合、むしろ問題となるのは、欧州本来のそれらの信仰や思想の内容が、移植され、翻訳されたその仕方如何といふことであらう。

用字、用語、文体と相俟つて、こゝにすぐ明らかなのは、仏教との結合である。或意味で、加特利加教の信仰や神学は、仏教を仲介として、理解され又伝へられたといひうる。こは、当時西教に入つて文筆の事に従つた人々は、仏徒であつたこと、更に又、天主教の教義や信仰の内容が、殊にその現世厭離来世欣求の傾向に於いて、仏教と相通じてゐたことからして、むしろ自然に考へられる。実際当時天主教は、一般には所謂吉利支丹仏法として、仏法の別派の如く考へられ、その教会は、しば寺と呼ばれた。吉利支丹文学がかく仏教文学と結合したことは、一方から我文化史上必然の現象であつたとともに、結果から見て、大体成功と言ひ得よう。吉利支丹文学の諸々の神学的観念や、思想や、また信仰は、仏教文学の用語や文体によつて、頗る巧みに移植されたと言ひ得べく、当時の国民に、仏教的教養なく、随つて又仏教文学がなかつたらば、吉利支丹の神学や信仰の移植は、はるかに困難であつたらうと想像される。しかもこゝに注意されるのは、これにも拘はらず、当時の西教徒は、あくまでも彼等の所謂偶像教たる仏教との混淆や妥協を斥けて、教義に、信念に、自己の教の本質を維持し、主張するに努めたことである。でうす、すぴりつ、あにま等の主要概念については、何等訳語を擬することを敢てしなかつたのも、彼等のこの態度の現れである。之を支那に於ける利瑪竇一派の親儒的態度に比較して、趣を異にしたので、けだし彼等は、仏教を利用したにも拘はらず、敢てそれと習合せざらんとしたのである。而して同様に吉利支丹文学は、仏教文学の衣をまとうたにも拘らず、なほ明らかにその本来の特色や精神を発揮して、我国の宗教文学中に異彩を放つてをり、更にその根底には、当時の西教徒の信仰の真実さが存してゐたことが考へられるので、本書所収中、諸聖徒伝や基督の模倣の訳等にみる、古拙素朴の文字中にこもる敬虔な信仰や、また本文第六第七の天主の徳をたゝへ、基督の贖罪の恩に対し感謝した文字に見る宗教的情操などは、いづれも彼等の心境を語つてゐる。若それ、唯一神に対する奉仕を第一義として、この第一義の為には、君父も重からずとした非妥協的態度又個人主義的道徳が等しく又、そのまゝに伝へられたことは、第二、第三、第四等にも見るべく、この点に於いて、封建時代的道徳との衝突は、思ふに当時の西教徒の為に、幾多の精神的葛藤の原因であつたらう。

吉利支丹そのものゝ性質や態度にも拘らず、当時、社会の知識的代表者として勃興して来た新勢力たる儒教側からしては、吉利支丹はその来世教たる故を以て、又彼等の立場からの所謂非人倫主義たる故を以て、仏教と同一の迷信で、国家に害毒を流すものとして攻撃されたので、この事は徳川初期の儒家等の闢邪論に明証を有する。されば、儒教が指導的勢力として、文化を支配した近世期に入つて後の吉利支丹宗の教化的勢力如何は、たとひあれほどの禁制のことなかりしとするも、今日よりほゞ推測するに難くないので、思ふに同宗は、単にその来世教的性質だけを以てしも、到底、徳川文化の近世的精神に歓迎せられるには至らなかつたであらう。中世文化の仏教主義からの脫却を精神とした近世文化は、同じ態度で吉利支丹宗に対すべき運命を有したと考へられる。この事は、禁制後に於ける吉利支丹宗の影響や潜勢力について見て、その、民衆間に相応に強かつたにもかゝはらず、知識階級間には、殆んど注意すべきものがなかつたことからも考へられる。而してこの事はまた、我吉利支丹文学が、用語、用字、文体等に於いて、中世の仏教文学の一種として、近世儒者によつて一新された文学とは、全然、面目を別にしたといふ文章史上の事実に、頗る興味ある表現を示してをる。


この著作物は、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定の発効日(2018年12月30日)の時点で著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以上経過しているため、日本においてパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、1929年1月1日より前に発行された(もしくはアメリカ合衆国著作権局に登録された)ため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。