古事談/第四
【 NDLJP:72】前摂津守満仲、於㆓多田宅㆒出家之日、同出家者男十六人女卅余人云々。件日恵心僧都為㆓戒師㆒受戒之時、第一不殺生戒、眠而不㆑称㆓保由㆒。自㆓第二戒㆒皆称㆓保由㆒、其夜夜半計新発只一人、密々向㆓僧都宿所㆒云、第一戒の時、心中には深雖㆑存㆓保由㆒、家人以下あなづりもぞし侍るとて候。眠る体不㆑称㆓保由㆒。定御不審候ひつらんとて、為㆑令㆑申㆓仔細㆒所㆓参会㆒也云々。此出家者子息源賢法眼、父之罪業深重を見わびて、恵心僧都・院源座主などの若かりけるを、心を合せて、自然なる体にて、多田の家に将行きて、以㆓便宜㆒可㆑修㆓小仏事㆒之由、云勧めて、令㆓演説㆒之間、忽発心、俄に所㆑遂㆓出家㆒云々。爰飼鷹三百放ち棄て、多くの網など焼棄つ云々。
仁和寺式部卿宮御許に、将門参入具㆓郎等五六人㆒云々。出㆓御門㆒之時貞盛又参入、不㆔相㆓具郎等㆒。則参㆓御前㆒申云、今日郎等不㆑候。尤口惜事也。郎等ありせば、今日殺してまし。此将門は天下に可㆔引㆓出大事㆒者也と申しけり。
将門逆乱者天慶二年十一月、始披露云々。領㆓東八ヶ国㆒、奪㆓官鎰㆒任㆓国司㆒総行㆓除目㆒。大臣以下文武百官皆以点定。但所㆑闕者暦博士計也。又献㆓書状於太政大臣貞信公許㆒。其状云、
将門討㆓滅一国㆒、罪科可㆑及㆓百県㆒。因㆑之待㆓朝議㆒之間、虜㆓掠坂東諸国㆒畢。伏検昭穆将門、柏原帝王五代之孫也。縦永領㆓半国㆒豈謂㆑非㆑運哉。昔振㆓兵威㆒取㆓天下㆒者、皆史書審所㆑見也。将門天之所㆑与、既在㆓武芸㆒、而公家頗無㆓褒賞㆒、被㆑下㆓譴責之符㆒。省㆑身多㆑恥。面目何㆑施。推而案㆑之、甚以幸也。将門少年之日、奉㆓名符於太政大臣殿下㆒数十年之間、我致㆓勤㆑公之誠㆒。然相国摂政之世、不意挙㆓於此事㆒、歎念至不㆑可㆓勝言㆒。将門雖㆑萌㆓傾国之謀㆒、何奉㆑忘㆓旧主㆒。貴閣且賜㆑察㆑之幸也。以㆑一貫㆑万将門謹言。
天慶二年十二月十五日 平将門上
謹々上 太政大臣少将閤賀息下
同三年正月廿二日、善相公息定額僧沙門浄蔵、為㆔降㆓伏将門㆒、於㆓延暦寺首楞厳院㆒、三七日修㆓大威徳法㆒。然間将門帯㆓弓箭㆒現㆓立灯盞㆒。伴僧弟子等見奇㆑之。又鏑声出㆑自㆓壇中㆒、指㆑東去畢。爰浄蔵云、既知㆓将門降伏㆒。又公家被㆑行㆓大仁王会㆒、浄蔵為㆓待賢門【 NDLJP:73】導師㆒。此日京洛騒動云、只今将門之輩既入洛云々。爰浄蔵奏云、将門之首只今可㆓持参㆒也云々。爰絶入之宮人、聞㆓此言㆒忽蘇生。果如㆓其言㆒。
二月八日天皇出㆓御南殿㆒、賜㆓征夷大将軍右衛門督藤原忠文節刀㆒、下㆓遣於坂東国㆒。即以㆓参議修理大夫兼右衛門督藤原忠文㆒、為㆓大将軍㆒。刑部大輔藤原忠舒・右京亮・同国𭅪・大監物平清基・散位源就国・同経基等為㆓副将軍㆒。二月一日下野国押領使藤原秀郷・常陸掾平貞盛等率㆓四千余人兵㆒、〈或説一万九千人〉於㆓下野国㆒与㆓将門㆒合戦之間、将門之陣己被㆓討靡㆒、迷㆓于三兵手㆒遁㆓身四方㆒、中㆑矢死者数百人也。
同十三日、貞盛・秀郷等、至㆓下総国㆒征㆓襲将門㆒。而将門率㆑兵隠㆓島広山㆒。始㆑自㆓将門之館㆒、至㆓士卒之宅㆒悉焼廻。同十四日未刻、於㆓同国㆒貞盛・為憲・秀郷等、棄㆑身忘㆑命馳向射合。于㆑時将門忘㆓風飛之歩㆒、失㆓梨老之術㆒、即中㆓貞盛之矢㆒落馬。秀郷馳㆓至其所㆒、斬㆓将門之頸㆒以属㆓士卒㆒。貞盛下㆑馬到㆓秀郷前㆒。〈合戦章云、現被㆓天罪㆒中㆓神鏑㆒云々〉其日将門伴類被㆓射殺㆒者一百九十人云々。誅㆓将門㆒之勧賞、藤原秀郷叙㆓従四位下㆒、兼賜㆓功田㆒、永伝㆓子孫㆒。更追兼任㆓下野・武蔵両国守㆒。貞盛叙㆓従五位上㆒任㆓右馬助㆒、又召㆓経基㆒叙㆓従五位下㆒、兼任㆓太宰大弐㆒。
忠文卿勧賞沙汰之時、左大臣〈小野宮殿〉被㆓定申㆒云、疑をば質す勿れ云々。右大臣被㆑申云、刑の疑をば質す勿れ、賞の疑をば之を許すとこそ候へと被㆑申けれども、依㆑被㆑用㆓左府申詞㆒、遂無㆓其沙汰㆒云々。忠文依㆔畏㆓申此事㆒、後日奉㆓富家之券契於九条殿㆒云々。小野宮殿をば結㆓怨心㆒誓失㆓子孫㆒、永成㆑霊〔祟イ〕云々。
忠文卿為㆓近衛将㆒之時、毎陣直夜取㆓遣寮御馬一疋㆒立㆓枕辺㆒、聞㆓馬之食_㆑蒭。不㆑眠之故也。
天慶二年十一月廿二日、有㆑勅遣㆓内供奉十禅師明達㆒、於㆓摂津国住吉神宮寺㆒、為㆑降㆓西海凶賊藤原純友㆒、二七ヶ日令㆑修㆓毘沙門天調伏法㆒、引㆓率廿口伴僧㆒云々。于㆑時海賊純友等遂以捕得。
純友追討記云、伊予掾藤原純友居㆓住彼国㆒、為㆓海賊之首㆒。唯所㆑受性狼戻為㆑宗、不㆑拘㆓礼法㆒、多率㆓人衆㆒常行㆓南海山陽等国々㆒、濫吹為㆑事。暴悪之類聞㆓彼威猛㆒、追従稍多。押㆓領官物㆒焼㆓亡官舎㆒、以㆑之為㆓其朝暮之勤㆒。遥聞㆓将門之謀叛之由㆒、亦企㆓逆乱㆒漸擬㆓上【 NDLJP:74】道㆒。此頃東西二京連夜放㆑火。依㆑之男送㆓夜於屋上㆒、女運㆓水於庭中㆒。純友等卒交㆓京洛㆒所㆑致云々。爰備前介子高風聞㆓此事㆒、為㆔奏㆓聞其旨㆒、十二月下旬相㆓具妻子㆒、自㆓陸路㆒上道。純友聞㆑之、将為㆑害㆓子高㆒、令㆓郎等文元等㆒、追及㆓摂津国兎原郡須岐駅㆒。文元等放㆑矢如㆑雨、遂獲㆓子高㆒。即截㆑耳割㆑鼻奪㆑妻将去畢。子息等為㆑賊被㆑殺畢。公家大驚、下㆓固関使於諸国㆒。且於㆓純友㆒給㆓厳密官符㆒、兼預㆓栄爵㆒叙㆓従五位下㆒。而純友野心未㆑改、猾賊弥倍。讃岐国与㆓彼賊軍㆒合戦大破、中㆑矢死者数百人。介藤原国風軍敗招㆓警固使㆒、坂上敏基窃逃向㆓阿波国㆒也。純友入㆓国府㆒放㆑火焼亡、収㆓公私財物㆒也。介国風更向㆓淡路国㆒、注㆓於具状㆒。飛駅言上経㆓二ヶ月㆒、招㆓集武勇人㆒帰㆓讃岐国㆒、相㆓待官軍之到来㆒。于㆑時公家遣㆓追捕使左近衛少将小野好古㆒為㆓長官㆒、以㆓源経基㆒為㆓次官㆒、以㆓右衛門尉藤原慶幸㆒為㆓判官㆒、以㆓左衛門志大蔵春実㆒為㆓主典㆒。即向㆓播磨・讃岐等二ヶ国㆒、作㆓二百余艘船㆒、指㆓賊地伊予国㆒艤向㆓於純友㆒。所㆑儲船号㆓千五百艘㆒。官使未㆑到以前、純友次将藤原恒利、脱㆓賊陣㆒窃逃来着㆓国風之処㆒。件恒利能知㆓賊徒宿所隠家并海陸両道通塞案内㆒者也。仍国風道為㆓指南㆒、副㆓勇悍者㆒令㆑撃㆑賊、大敗散如㆔葉浮㆓海上㆒、且防㆓陸路㆒絶㆓其便道㆒、且追㆓海上㆒認㆓其泊処㆒。遭㆓風波難㆒共失㆓賊所㆒、向相求之間、賊徒到㆓太宰府㆒、更所㆑儲軍士出㆑壁防戦、為㆑賊被㆑敗。于㆑時賊奪㆓取太宰府累代財物㆒、放㆑火焼㆑府畢。寇㆓賊郡内㆒之間、官使好古引率㆓武勇㆒、自㆓陸路㆒行向。慶幸・春実等皷㆑棹、自㆓海上㆒起向㆓筑前国博多津㆒。賊即待戦、一挙欲㆑決㆓死生㆒。春実戦醋祖乱㆑髪、取㆓短兵㆒振呼入㆓賊中㆒。恒利・遠方等亦相随遂入、截㆓得数多之賊㆒。賊陣更乗㆑船戦之時、官軍入㆓賊船㆒着㆑火焼㆑船、凶党遂破悉就㆑擒。取㆓得賊船八百余艘㆒。中㆑箭死傷者数百人。恐㆓官軍威㆒、入㆑海男女不㆑可㆓勝計㆒。賊徒主伴相共各離散。或亡或降。分散如㆑雲。純友乗㆓扁舟㆒逃㆓帰伊予国㆒。為㆓警固使橘遠保㆒被㆑擒。次将等皆国々処々被㆑捕、純友得㆑捕、禁㆓固其身於獄中㆒死。 〈月日不㆑慥追可㆓考入㆒。〉
維衡、年来黒葛筥の無㆑口を、脇息の様に抑へて持ちたりけり。出家之時、切放見㆑之、袈裟剃刀納㆑之。参河入道に受戒、落周羅之日得㆑之云々。年来全不㆑知㆑人云々。
頼信者町尻殿家人也。仍常云、奉㆓為我君㆒、可㆑殺㆓中関白㆒。我取㆓劒戟㆒走入、誰人防㆓禦之㆒哉云々。頼光漏㆓聞此事㆒、大驚制止云、一者殺得事極不定也。二者縦雖㆓殺得㆒依㆓其【 NDLJP:75】悪事㆒、主君為㆓関白㆒事不定也。三者縦雖㆑為㆓関白㆒、一生之間無㆑隠㆘守㆓主君㆒事㆖、所〔亦イ〕不定也。
出羽守源斉信〔頼イ〕は、自㆓若冠之昔㆒、至㆓衰老之時㆒、以㆑飼㆑鷹為㆑業、不㆑分㆓春夏冬㆒。家中にも廿計飼㆑之。家人の所領の田舎などにも、又巨多に置きたりけり。七旬之後日に、雉の皆生出でて両眼損じにけり。然して自身仕ふ事はなけれども、少々は猶飼ひて、明暮手に居ゑて、搔撫で愛しけり。爰或人信濃鷹を儲けたりけるを、此斉信〔頼イ〕の許へ持ち来りて云、西国に侍る者、此鷹を給ひて候。今は御覧ぜねば、詮なく侍れと奉㆓申合㆒とて、居ゑて参り侍るなり云々。沈㆓病席㆒之者、聞㆓此事㆒起出云、有㆑興事哉。西国の鷹も賢くば、敢て信濃鷹・奥鷹に不㆑劣之物也。将ておはせすゑて探らんといひければ、進寄りて鷹を移しければ、白髪に帽子かづきて、だふの直垂小袴に、九寸計なる腰刀の束に、くすね糸巻きたる脇壺に差して、鷹を居ゑ移す。後は気色も殊の外にすくよかげになりて、たかだぬきより探り上りて、取手など探りて、右の拳を握りて、足二の間に差入れて、打うなづきて、又肩先の程探り廻して、打うなづきて曰く、心憂き事かな。盲になりたりとて、計り給ふなりけるな。是は信濃の腹白が、栖の鷹にこそ侍りけれ。西国の鷹は、かやうの毛ざし、骨置のしだらはこそあらめといひけり。最後には、鳥の毛遍身に生ひて死しけり。
丹後守保昌下㆓向任国㆒の時、よざむの山に、白髪の武士一騎逢ひたりけるが、路の傍なる木の下に、頗る打入りて立ちたりけるを、国司郎従等云、此老翁何不㆑下㆑馬哉、奇怪也。可㆓咎下㆒云々。爰国司云、一人当千といふ馬の立様なり、非㆓直人㆒歟、不㆑可㆑咎と制止して打過ぐる間に、三町計下りて、大矢左衛門尉致経、引㆓率数多之兵㆒逢㆑之。与㆓国司㆒会釈之間、致経云、爰に老者や一人逢ひ候ひつらむ。致経の愚父平五太夫候。堅固の田舎人にて不㆑知㆓仔細㆒、定令㆑現㆓無礼㆒歟云々。致経過ぎて後、国司さればこそといひけり。
頼義、御随身兼武とは一腹也。母宮仕之者也。件女を頼信愛して、令㆑産㆓頼義㆒云々。其後兼武父、件女の許なりける半物を愛しけるに、其女、己れが夫、我に返せよとて、進みて密通の間産みたるなり。頼義聞㆓此事㆒、心憂き事なりとて、永く母を不孝して【 NDLJP:76】失せて後も、七騎の度乗りたりける大葦毛が忌日をばしけれども、母の忌日をばせざりけり。
伊予入道頼義者、自㆓壮年之時㆒、心無㆑在㆓慙愧㆒。以㆓殺生㆒為㆑業。況十二年征戦之間、殺㆑人罪不㆑可㆓勝計㆒。因果所㆑答、不㆑可㆑免㆓地獄之業㆒人也。雖㆑然出家入道遁世之後、建㆑堂 〈みのはだう〉造㆑仏、滅罪生善志猛利炳焉也。於㆓件堂㆒悔㆑過、悲泣之涙自㆓板敷㆒縁に伝へ流れて、地に落ちけり。其後謂云、我往生極楽之望、決定可㆑果。遂勇猛強盛之心、昔衣河の館を落さむと思ひし時に不㆑違云々。果臨終正念遂㆓往生㆒畢。見㆓于㆑伝㆒云々。
九条民部卿〈宗通〉大理之時、義家与㆓光国㆒〈共廷尉〉口論之時、義家云、義家之手心、父の風とは知りたらんと尋ぬ云々。光国答云、親は親、子は子也云々。此事は伊予入道頼義、於㆓草堂㆒修㆓逆修㆒之間、義家聴聞之中間、郎等一人出来り、義家が耳に囁く事す。聞㆑之有㆓忿怒之色㆒、帰㆓向宿所㆒。爰入道呼㆓郎等一人㆒云、左衛門尉有㆓怒気㆒帰畢。何事のあるぞ、見て可㆓帰来㆒云々。使帰来云、只今御着背を被㆓取出㆒て、つらぬきたてまつり、御馬に被㆑置㆑鞍之間也云々。頼義、さればこそ怒りぬれば、眉髪かみざまに上るなりとて、又以㆓使者㆒云、何事なりとも、此修善残㆓今一両日㆒也。結願之後、いかなる事もせらるべしとて、門に鎖を指廻して、築垣を越して可㆓帰来㆒之由示遣しけり。使如㆑云指廻して、鎰を取りて帰了。義家聞㆓此由㆒て曰く、をしの鞍轡のみつゝきにて開けよといひて、即開けさせて打出畢。事之根元、美濃国に有㆓郎等㆒、為㆓国房㆒〈光国交〉笠咎めの間、弓を被㆑切云々。仍以㆓飛脚㆒告㆓其由㆒之間、義家聞㆑之、不㆑拘㆓父之制止㆒所㆑出也。打出之時三騎、於㆓関山㆒十五騎、翌日令㆑寄㆓国房館㆒之時廿五騎云々。懸㆑火令㆓打入㆒之間、無㆓防禦之人㆒。国房着㆓紅宿衣㆒放㆓本鳥㆒、鷹をすゑてはつまに乗りて入㆓後山㆒云々。義家郎等云、敵は目にかけて候。可㆓討取㆒候哉云々。義家云、さほどのものゝ誠、不㆑可㆑過㆑之云々。さやかにてありなむとて打帰畢。此事を手心とはいひけるなり。
義家陸奥前司之頃、常参㆓左府㆒打㆓囲碁㆒所、相㆓具小雑色只一人㆒也。持㆓太刀㆒有㆓中門内唐井敷㆒。或日於㆓寝殿㆒囲碁之間、忽有㆓追入事㆒。犯人抜㆑刀走㆓通南庭㆒之間、前司云、義家が候ぞ、罷留云々。不㆔聞㆓入此言㆒、猶不㆑留之時、われ候之由、申せやれと云々。其時小雑色云、八幡殿のおはしますぞ、罷留云々。聞㆓此言㆒忽留居投㆑刀畢。仍件小雑色【 NDLJP:77】捕得畢。此間、近辺小屋に隠れ居たりける郎等等四五十人計出来、相㆓具件狂人㆒将去畢。日来一切武士等、人々所㆑不㆑見也。
白川院御寝之後、物に襲はれ御座しける頃、可㆑然武具を御枕上に可㆑置と有㆓御沙汰㆒て義家朝臣に被㆑召ければ、真弓の黒塗なるを、一張進めたりけるを、被㆑立㆓御枕上㆒之後、襲はれ御座せざりければ、御感ありて、此弓は、十二年合戦の時や持ちたりしと有㆓御尋㆒之処、不㆓覚悟㆒之由申しければ、上皇頻御感ありけり。
寛治五年八月十四日、義家朝臣許に有㆓山鳩㆒、居㆓於渡殿欄上㆒。義家成㆑恐出拝。鳩更入㆓寝屋中㆒、居㆓長押上㆒。自㆓口中㆒落㆓椋実三粒㆒而死去畢。義家云、是八幡御使歟。近無㆑可㆑有㆓慶賀之事㆒、定凶事歟。仍以㆓銀劒一腰・駿馬一疋㆒、十五日暁使㆓助道・惟貞等㆒奉㆓八幡㆒云々。
義家朝臣依㆑無㆓懺悔之心㆒、遂堕㆓悪趣㆒畢。病悩之時、家の向なりける女房之夢に、地獄絵に書きたるやうなる鬼形之輩、其数乱㆓入彼家㆒捕㆓家主㆒、大札を先に持㆑之将出でけり。札銘には、無間地獄之罪人源義家と書きたり。後朝にかゝる夢をこそ見つれとて、令㆓案内㆒之処、守殿此暁逝去云々。
白川院御時、後藤内則明老衰之後召出して、合戦の物語せさせられけるに、先申云、故正ぎみ〔義家カ〕の朝臣鎮守府を立て、秋田の城に付侍之時、薄雪の降り侍りしに、軍の男共と申すの間、法皇被㆑仰云、今はさやうにて候へ。事の体甚だ幽玄なり。残る事等可㆑定㆓此一言㆒。さて賜㆓御衣㆒云々。
前対馬守義親、康和五年十二月廿八日、依㆓筥崎宮㆒、新配㆓流隠岐国㆒。然而不㆑赴㆓配所㆒、経㆓廻出雲国㆒。然間発㆓悪事㆒殺㆓害当国〈家保卿任〉目代㆒。依㆓此事㆒被㆑下㆓追討之宣旨㆒。嘉承三年正月廿六日被㆑誅畢。同廿九日懸㆓梟首於右獄樹〔門イ〕㆒。而大治頃、自称㆓義親㆒之輩一両人〈鴨院大津〉所々出来、各争㆓真偽㆒之間、諠譁多端云々。
藤十郎満兼〈右京進〉詣㆓清水寺㆒通夜間、丑時聖人出㆓来于礼堂㆒云、六道辻に、人待つとおぼしくて、あやしばみたる輩侍るなり。此御中に、敵令㆑持給へたる人御座せば、夜深く不㆑可㆓令㆑出給㆒云々。爰満兼云、藤十郎満兼が候也。同〔因イ〕三滝口が待つにこそ侍らめ。携㆓弓箭㆒之者以遭㆓敵人㆒、為㆑極慶、観音之利生也とて、令㆑出之間、被㆓切伏㆒纔存【 NDLJP:78】命云々。
宗形宮内卿入道師綱、陸奥守にて下向の時、基衡押㆓領一国㆒、如㆑無㆓国威㆒。仍奏㆓事由㆒。下㆓宣旨㆒、擬㆔検㆓注国中公田㆒之処、忍郡者基衡蔵めて、先々不㆑入㆓国使㆒、而今度任㆓宣旨㆒検注之間、基衡件郡地頭大庄司季春に合㆑心て禦之。国司猶帯㆓宣旨㆒推入之間、已放㆑矢及㆓合戦㆒了。守方被㆑疵者甚多。基衡かくはしつれども、背㆓宣旨㆒射㆓国司㆒事依㆓恐存㆒、招㆓季春㆒云、依㆑無㆓先例㆒、雖㆔追㆓返国司㆒、背㆓宣旨㆒之条、非㆑無㆓違勅之恐㆒、いかゞすべきと云々。季春云、今仰兼皆存知事也。主君命依㆑難㆑背、於㆓一矢㆒者射候了。然者君者不㆔知㆓食之㆒体にて、召㆓己頸㆒可㆑被㆑遣㆓国司之許㆒也。其上は定無為候歟云々。基衡乍㆑拭㆑涙諾了。基衡申㆓於守㆒云、基衡一切不㆑知事候。郡地頭凡依㆑無㆓先例㆒、致㆓自由之狼藉㆒候。於㆑今者不㆑可㆑及㆓仔細㆒。季春己召取、早賜㆓御使㆒於㆓其前㆒可㆑刎㆑頸云々。依㆑之国司遣㆓検非違使㆒。所目代云、季春已に将出たり。四十余計男、肥満美麗なるが、積遠雁水干小袴に、紅衣を着けたり。打物取りたる者二十人計囲㆓繞之㆒。切手はけせんの弥太郎といふ者なり。出立擬㆑切㆑頸之間、犬庄司云、切損じ給ふな。刀はいづれぞと問ひければ、切手云、昆次郎太夫が大津越ぞといひければ、さては心安しといひて被㆑切けり。部類五人同切㆑之云々。大津越とは、人を引居ゑて切るに、左右の臂の上を、中骨懸けず切るをいふ也。基衡、季春を惜みて、我は不㆑知る様にて、猥構㆓女人沙汰之体㆒、再三遣㆓妻女於国司館㆒乞請けさせけり。其請料物凡不㆑可㆓勝計㆒。沙金も一万両云々。守不㆑耽㆑之遂切畢云々。師綱高名在㆓此事㆒歟。又山林房覚遊といふ侍、散楽を共に具したりけるが、本奈良法師にて帯㆓大劒㆒、武勇甚之者也。而合戦之日、最前に逃げ、帰㆑館之時出来りければ、先陣房かくれうとぞ付けたりける。
平治合戦之時、六波羅入道自㆓南山㆒帰洛之翌日、聟侍従信親〈信頼卿息〉送㆓遣父許㆒之。共侍四人、皆布衣、着㆓下腹巻㆒。難波三郎経房・館太郎貞安・平次郎允盛信・伊藤五景綱。下野守見㆑之感云、あはれ者共やな。各一人当千也。帰出の後は、定令㆑申㆓御方不敵之由㆒歟云々。
木曽冠者義仲、推㆓参法住寺殿㆒之時、軍兵已破之由聞食して、遣㆓泰経卿㆒被㆑見㆑之、出㆓北面小門㆒見㆑之処、官軍等皆逃㆓東方㆒。爰大府卿云、いかにかくはいつしか引き候や、【 NDLJP:79】早可㆓返合㆒云々。雖㆑然一人無㆓返答之者㆒。于㆑時赤威の冑着て、乗㆓葦毛馬㆒之者只一騎、聞㆓此詞㆒云、安藤八馬允忠宗〔右京イ〕命をば君に奉り候ひぬといひて、馬の鼻を返して馳㆓向敵方㆒云々。
鎌倉にて庄司次郎・稲気入道など被㆑討之時、稲気の舎弟ゆゐの七郎といふ者、遠景入道之許に出来りて云、已被㆑結㆓悪緑㆒、不㆑可㆑免㆓其難㆒。雖㆑須㆓自害㆒、年来有㆓往生極楽之望㆒。自害は臨終の正念、恨不㆑如㆓本意㆒。又伝聞被㆑刎㆑頸之者不㆓往生㆒云々。依㆑之御房のみこそ令㆓哀憐㆒給はめと、所㆓参向㆒也。可㆑然者向㆓西方㆒合掌、唱㆓念仏㆒之間、可㆓刺殺㆒云々。遠景随喜悲泣申㆓事由㆒、浜に将行きて刺殺すの処、十二刀まで一切念仏の声不㆑休。于㆑時止㆓念仏㆒云、猶可㆑死之心にもせぬ也。心先を可㆑刺云々。又高声念仏之間、如㆑云心先を被㆑刺之時、止㆑声気絶了。
熊野別当湛増之許、桂林房上座覚朝といふ者、在㆓武勇之器㆒、量勝等倫之間、至㆓湛顕快実等之時㆒、相伝難㆑去之者也。而五旬以後、深信㆓念仏㆒棄㆓弓箭㆒、不断称㆓弥陀名号㆒。然間去承元三年頃、於㆓湛増之墓堂㆒勧㆓進隣里㆒、七ヶ日修㆓別時念仏㆒之間、或夜半計、犬の類頻りに吠えければ、念仏輩成㆑奇之処、件覚朝、何事かは候はむ、出でて見んとて、出㆓堂門㆒之間、抜㆑劒者二人待懸けたりける間、差合せて切るに、聊も不㆑動。其身高声に南無阿弥陀仏々々々々々々と唱へて、被㆓切臥㆒て、至気絶之時、其声不㆑休云々。快実遣㆑人殺させけり。熊野川之習、雖㆑無㆓指事㆒、人を殺す事如㆑此。
古事談第四終この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。