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古事談 第四
 
 
勇士
 
天徳四年五月十日夜、強盗入武蔵権守源満仲之宅。爰満仲射留類人倉橋弘重。弘重指申中務卿親王第二男及宮内丞中臣良材・土佐権守蕃基男等所為。検非違使右衛門志錦文明参内奏聞。中務親王家人申云、件孫王今暁入親王家。其同類紀近輔・中臣良材等有此家、仍以事由親王。親王令申云、男親繁日来重煩痢病、有此家内起居、待平安時進者、依宣旨使官人等令求同類輩。親王家内遂不捕獲。於成子内親王家内獲紀近輔。近輔申云、親繁王為首入満仲家事実也。賊物悉可彼親繁王許云々。勅云依男、忽科親王罪。猶伺親繁之出_外可召捕者。

オープンアクセス NDLJP:72前摂津守満仲、於多田宅出家之日、同出家者男十六人女卅余人云々。件日恵心僧都為戒師受戒之時、第一不殺生戒、眠而不保由。自第二戒皆称保由、其夜夜半計新発只一人、密々向僧都宿所云、第一戒の時、心中には深雖保由、家人以下あなづりもぞし侍るとて候。眠る体不保由。定御不審候ひつらんとて、為仔細参会也云々。此出家者子息源賢法眼、父之罪業深重を見わびて、恵心僧都・院源座主などの若かりけるを、心を合せて、自然なる体にて、多田の家に将行きて、以便宜小仏事之由、云勧めて、令演説之間、忽発心、俄に所出家云々。爰飼鷹三百放ち棄て、多くの網など焼棄つ云々。

仁和寺式部卿宮御許に、将門参入具郎等五六人云々。出御門之時貞盛又参入、不具郎等。則参御前申云、今日郎等不候。尤口惜事也。郎等ありせば、今日殺してまし。此将門は天下に可出大事者也と申しけり。

将門逆乱者天慶二年十一月、始披露云々。領東八ヶ国、奪官鎰国司総行除目。大臣以下文武百官皆以点定。但所闕者暦博士計也。又献書状於太政大臣貞信公。其状云、

将門討滅一国、罪科可百県。因之待朝議之間、虜掠坂東諸国畢。伏検昭穆将門、柏原帝王五代之孫也。縦永領半国豈謂運哉。昔振兵威天下者、皆史書審所見也。将門天之所与、既在武芸、而公家頗無褒賞、被譴責之符。省身多恥。面目何施。推而案之、甚以幸也。将門少年之日、奉名符於太政大臣殿下数十年之間、我致公之誠。然相国摂政之世、不意挙於此事、歎念至不勝言。将門雖傾国之謀、何奉旧主。貴閣且賜之幸也。以一貫万将門謹言。

  天慶二年十二月十五日 平将門

    謹々上 太政大臣少将閤賀息下

同三年正月廿二日、善相公息定額僧沙門浄蔵、為伏将門、於延暦寺首楞厳院、三七日修大威徳法。然間将門帯弓箭立灯盞。伴僧弟子等見奇之。又鏑声出壇中、指東去畢。爰浄蔵云、既知将門降伏。又公家被大仁王会、浄蔵為待賢門オープンアクセス NDLJP:73導師。此日京洛騒動云、只今将門之輩既入洛云々。爰浄蔵奏云、将門之首只今可持参也云々。爰絶入之宮人、聞此言忽蘇生。果如其言

二月八日天皇出御南殿、賜征夷大将軍右衛門督藤原忠文節刀、下遣於坂東国。即以参議修理大夫兼右衛門督藤原忠文、為大将軍。刑部大輔藤原忠舒・右京亮・同国𭅪・大監物平清基・散位源就国・同経基等為副将軍。二月一日下野国押領使藤原秀郷・常陸掾平貞盛等率四千余人兵〈或説一万九千人〉下野国将門合戦之間、将門之陣己被討靡、迷于三兵手身四方、中矢死者数百人也。

同十三日、貞盛・秀郷等、至下総国襲将門。而将門率兵隠島広山。始将門之館、至士卒之宅悉焼廻。同十四日未刻、於同国貞盛・為憲・秀郷等、棄身忘命馳向射合。于時将門忘風飛之歩、失梨老之術、即中貞盛之矢落馬。秀郷馳至其所、斬将門之頸以属士卒。貞盛下馬到秀郷前〈合戦章云、現被天罪神鏑云々〉其日将門伴類被射殺者一百九十人云々。誅将門之勧賞、藤原秀郷叙従四位下、兼賜功田、永伝子孫。更追兼任下野・武蔵両国守。貞盛叙従五位上右馬助、又召経基従五位下、兼任太宰大弐

忠文卿勧賞沙汰之時、左大臣〈小野宮殿〉定申云、疑をば質す勿れ云々。右大臣被申云、刑の疑をば質す勿れ、賞の疑をば之を許すとこそ候へと被申けれども、依左府申詞、遂無其沙汰云々。忠文依申此事、後日奉富家之券契於九条殿云々。小野宮殿をば結怨心誓失子孫、永成〔祟イ〕云々。

忠文卿為近衛将之時、毎陣直夜取遣寮御馬一疋枕辺、聞馬之食_蒭。不眠之故也。

天慶二年十一月廿二日、有勅遣内供奉十禅師明達、於摂津国住吉神宮寺、為西海凶賊藤原純友、二七ヶ日令毘沙門天調伏法、引率廿口伴僧云々。于時海賊純友等遂以捕得。

純友追討記云、伊予掾藤原純友居住彼国、為海賊之首。唯所受性狼戻為宗、不礼法、多率人衆常行南海山陽等国々、濫吹為事。暴悪之類聞彼威猛、追従稍多。押領官物亡官舎、以之為其朝暮之勤。遥聞将門之謀叛之由、亦企逆乱漸擬オープンアクセス NDLJP:74。此頃東西二京連夜放火。依之男送夜於屋上、女運水於庭中。純友等卒交京洛致云々。爰備前介子高風聞此事、為聞其旨、十二月下旬相具妻子、自陸路上道。純友聞之、将為子高、令郎等文元等、追及摂津国兎原郡須岐駅。文元等放矢如雨、遂獲子高。即截耳割鼻奪妻将去畢。子息等為賊被殺畢。公家大驚、下固関使於諸国。且於純友厳密官符、兼預栄爵従五位下。而純友野心未改、猾賊弥倍。讃岐国与彼賊軍合戦大破、中矢死者数百人。介藤原国風軍敗招警固使、坂上敏基窃逃向阿波国也。純友入国府火焼亡、収公私財物也。介国風更向淡路国、注於具状。飛駅言上経二ヶ月、招集武勇人讃岐国、相待官軍之到来。于時公家遣追捕使左近衛少将小野好古長官、以源経基次官、以右衛門尉藤原慶幸判官、以左衛門志大蔵春実主典。即向播磨・讃岐等二ヶ国、作二百余艘船、指賊地伊予国艤向於純友。所儲船号千五百艘。官使未到以前、純友次将藤原恒利、脱賊陣窃逃来着国風之処。件恒利能知賊徒宿所隠家并海陸両道通塞案内者也。仍国風道為指南、副勇悍者賊、大敗散如葉浮海上、且防陸路其便道、且追海上其泊処。遭風波難共失賊所、向相求之間、賊徒到太宰府、更所儲軍士出壁防戦、為賊被敗。于時賊奪取太宰府累代財物、放火焼府畢。寇賊郡内之間、官使好古引率武勇、自陸路行向。慶幸・春実等皷棹、自海上起向筑前国博多津。賊即待戦、一挙欲死生。春実戦醋祖乱髪、取短兵振呼入賊中。恒利・遠方等亦相随遂入、截得数多之賊。賊陣更乗船戦之時、官軍入賊船火焼船、凶党遂破悉就擒。取得賊船八百余艘。中箭死傷者数百人。恐官軍威、入海男女不勝計。賊徒主伴相共各離散。或亡或降。分散如雲。純友乗扁舟帰伊予国。為警固使橘遠保擒。次将等皆国々処々被捕、純友得捕、禁固其身於獄中死。 〈月日不慥追可考入。〉

維衡、年来黒葛筥の無口を、脇息の様に抑へて持ちたりけり。出家之時、切放見之、袈裟剃刀納之。参河入道に受戒、落周羅之日得之云々。年来全不人云々。

頼信者町尻殿家人也。仍常云、奉為我君、可中関白。我取劒戟走入、誰人防禦之哉云々。頼光漏聞此事、大驚制止云、一者殺得事極不定也。二者縦雖殺得オープンアクセス NDLJP:75悪事、主君為関白事不定也。三者縦雖関白、一生之間無主君〔亦イ〕不定也。

出羽守源斉〔頼イ〕は、自若冠之昔、至衰老之時、以鷹為業、不春夏冬。家中にも廿計飼之。家人の所領の田舎などにも、又巨多に置きたりけり。七旬之後日に、雉の皆生出でて両眼損じにけり。然して自身仕ふ事はなけれども、少々は猶飼ひて、明暮手に居ゑて、搔撫で愛しけり。爰或人信濃鷹を儲けたりけるを、此斉〔頼イ〕の許へ持ち来りて云、西国に侍る者、此鷹を給ひて候。今は御覧ぜねば、詮なく侍れと奉申合とて、居ゑて参り侍るなり云々。沈病席之者、聞此事起出云、有興事哉。西国の鷹も賢くば、敢て信濃鷹・奥鷹に不劣之物也。将ておはせすゑて探らんといひければ、進寄りて鷹を移しければ、白髪に帽子かづきて、だふの直垂小袴に、九寸計なる腰刀の束に、くすね糸巻きたる脇壺に差して、鷹を居ゑ移す。後は気色も殊の外にすくよかげになりて、たかだぬきより探り上りて、取手など探りて、右の拳を握りて、足二の間に差入れて、打うなづきて、又肩先の程探り廻して、打うなづきて曰く、心憂き事かな。盲になりたりとて、計り給ふなりけるな。是は信濃の腹白が、栖の鷹にこそ侍りけれ。西国の鷹は、かやうの毛ざし、骨置のしだらはこそあらめといひけり。最後には、鳥の毛遍身に生ひて死しけり。

丹後守保昌下向任国の時、よざむの山に、白髪の武士一騎逢ひたりけるが、路の傍なる木の下に、頗る打入りて立ちたりけるを、国司郎従等云、此老翁何不馬哉、奇怪也。可咎下云々。爰国司云、一人当千といふ馬の立様なり、非直人歟、不咎と制止して打過ぐる間に、三町計下りて、大矢左衛門尉致経、引率数多之兵之。与国司会釈之間、致経云、爰に老者や一人逢ひ候ひつらむ。致経の愚父平五太夫候。堅固の田舎人にて不仔細、定令無礼歟云々。致経過ぎて後、国司さればこそといひけり。

頼義、御随身兼武とは一腹也。母宮仕之者也。件女を頼信愛して、令頼義云々。其後兼武父、件女の許なりける半物を愛しけるに、其女、己れが夫、我に返せよとて、進みて密通の間産みたるなり。頼義聞此事、心憂き事なりとて、永く母を不孝してオープンアクセス NDLJP:76失せて後も、七騎の度乗りたりける大葦毛が忌日をばしけれども、母の忌日をばせざりけり。

伊予入道頼義者、自壮年之時、心無慙愧。以殺生業。況十二年征戦之間、殺人罪不勝計。因果所答、不地獄之業人也。雖然出家入道遁世之後、建〈みのはだう〉仏、滅罪生善志猛利炳焉也。於件堂過、悲泣之涙自板敷縁に伝へ流れて、地に落ちけり。其後謂云、我往生極楽之望、決定可果。遂勇猛強盛之心、昔衣河の館を落さむと思ひし時に不違云々。果臨終正念遂往生畢。見云々。

九条民部卿〈宗通〉大理之時、義家与光国〈共廷尉〉口論之時、義家云、義家之手心、父の風とは知りたらんと尋ぬ云々。光国答云、親は親、子は子也云々。此事は伊予入道頼義、於草堂逆修之間、義家聴聞之中間、郎等一人出来り、義家が耳に囁く事す。聞之有忿怒之色、帰向宿所。爰入道呼郎等一人云、左衛門尉有怒気帰畢。何事のあるぞ、見て可帰来云々。使帰来云、只今御着背を被取出て、つらぬきたてまつり、御馬に被鞍之間也云々。頼義、さればこそ怒りぬれば、眉髪かみざまに上るなりとて、又以使者云、何事なりとも、此修善残今一両日也。結願之後、いかなる事もせらるべしとて、門に鎖を指廻して、築垣を越して可帰来之由示遣しけり。使如云指廻して、鎰を取りて帰了。義家聞此由て曰く、をしの鞍轡のみつゝきにて開けよといひて、即開けさせて打出畢。事之根元、美濃国に有郎等、為国房〈光国交〉笠咎めの間、弓を被切云々。仍以飛脚其由之間、義家聞之、不父之制止出也。打出之時三騎、於関山十五騎、翌日令国房館之時廿五騎云々。懸火令打入之間、無防禦之人。国房着紅宿衣本鳥、鷹をすゑてはつまに乗りて入後山云々。義家郎等云、敵は目にかけて候。可討取候哉云々。義家云、さほどのものゝ誠、不之云々。さやかにてありなむとて打帰畢。此事を手心とはいひけるなり。

義家陸奥前司之頃、常参左府囲碁所、相具小雑色只一人也。持太刀中門内唐井敷。或日於寝殿囲碁之間、忽有追入事。犯人抜刀走通南庭之間、前司云、義家が候ぞ、罷留云々。不入此言、猶不留之時、われ候之由、申せやれと云々。其時小雑色云、八幡殿のおはしますぞ、罷留云々。聞此言忽留居投刀畢。仍件小雑色オープンアクセス NDLJP:77捕得畢。此間、近辺小屋に隠れ居たりける郎等等四五十人計出来、相具件狂人将去畢。日来一切武士等、人々所見也。

白川院御寝之後、物に襲はれ御座しける頃、可然武具を御枕上に可置と有御沙汰て義家朝臣に被召ければ、真弓の黒塗なるを、一張進めたりけるを、被御枕上之後、襲はれ御座せざりければ、御感ありて、此弓は、十二年合戦の時や持ちたりしと有御尋之処、不覚悟之由申しければ、上皇頻御感ありけり。

寛治五年八月十四日、義家朝臣許に有山鳩、居於渡殿欄上。義家成恐出拝。鳩更入寝屋中、居長押上。自口中椋実三粒而死去畢。義家云、是八幡御使歟。近無慶賀之事、定凶事歟。仍以銀劒一腰・駿馬一疋、十五日暁使助道・惟貞等八幡云々。

義家朝臣依懺悔之心、遂堕悪趣畢。病悩之時、家の向なりける女房之夢に、地獄絵に書きたるやうなる鬼形之輩、其数乱入彼家家主、大札を先に持之将出でけり。札銘には、無間地獄之罪人源義家と書きたり。後朝にかゝる夢をこそ見つれとて、令案内之処、守殿此暁逝去云々。

白川院御時、後藤内則明老衰之後召出して、合戦の物語せさせられけるに、先申云、故正ぎみ〔義家カ〕の朝臣鎮守府を立て、秋田の城に付侍之時、薄雪の降り侍りしに、軍の男共と申すの間、法皇被仰云、今はさやうにて候へ。事の体甚だ幽玄なり。残る事等可此一言。さて賜御衣云々。

前対馬守義親、康和五年十二月廿八日、依筥崎宮、新配流隠岐国。然而不配所、経廻出雲国。然間発悪事害当国〈家保卿任〉目代。依此事追討之宣旨。嘉承三年正月廿六日被誅畢。同廿九日懸梟首於右獄〔門イ〕。而大治頃、自称義親之輩一両人〈鴨院大津〉所々出来、各争真偽之間、諠譁多端云々。

藤十郎満兼〈右京進〉清水寺通夜間、丑時聖人出来于礼堂云、六道辻に、人待つとおぼしくて、あやしばみたる輩侍るなり。此御中に、敵令持給へたる人御座せば、夜深く不出給云々。爰満兼云、藤十郎満兼が候也。〔因イ〕三滝口が待つにこそ侍らめ。携弓箭之者以遭敵人、為極慶、観音之利生也とて、令出之間、被切伏纔存オープンアクセス NDLJP:78命云々。

宗形宮内卿入道師綱、陸奥守にて下向の時、基衡押領一国、如国威。仍奏事由。下宣旨、擬注国中公田之処、忍郡者基衡蔵めて、先々不国使、而今度任宣旨検注之間、基衡件郡地頭大庄司季春に合心て禦之。国司猶帯宣旨推入之間、已放矢及合戦了。守方被疵者甚多。基衡かくはしつれども、背宣旨国司事依恐存、招季春云、依先例、雖返国司、背宣旨之条、非違勅之恐、いかゞすべきと云々。季春云、今仰兼皆存知事也。主君命依背、於一矢者射候了。然者君者不食之体にて、召己頸国司之許也。其上は定無為候歟云々。基衡乍涙諾了。基衡申於守云、基衡一切不知事候。郡地頭凡依先例、致自由之狼藉候。於今者不仔細。季春己召取、早賜御使其前頸云々。依之国司遣検非違使。所目代云、季春已に将出たり。四十余計男、肥満美麗なるが、積遠雁水干小袴に、紅衣を着けたり。打物取りたる者二十人計囲繞之。切手はけせんの弥太郎といふ者なり。出立擬頸之間、犬庄司云、切損じ給ふな。刀はいづれぞと問ひければ、切手云、昆次郎太夫が大津越ぞといひければ、さては心安しといひて被切けり。部類五人同切之云々。大津越とは、人を引居ゑて切るに、左右の臂の上を、中骨懸けず切るをいふ也。基衡、季春を惜みて、我は不知る様にて、猥構女人沙汰之体、再三遣妻女於国司館乞請けさせけり。其請料物凡不勝計。沙金も一万両云々。守不之遂切畢云々。師綱高名在此事歟。又山林房覚遊といふ侍、散楽を共に具したりけるが、本奈良法師にて帯大劒、武勇甚之者也。而合戦之日、最前に逃げ、帰館之時出来りければ、先陣房かくれうとぞ付けたりける。

平治合戦之時、六波羅入道自南山帰洛之翌日、聟侍従信親〈信頼卿息〉遣父許之。共侍四人、皆布衣、着下腹巻。難波三郎経房・館太郎貞安・平次郎允盛信・伊藤五景綱。下野守見之感云、あはれ者共やな。各一人当千也。帰出の後は、定令御方不敵之由歟云々。

木曽冠者義仲、推参法住寺殿之時、軍兵已破之由聞食して、遣泰経卿之、出北面小門之処、官軍等皆逃東方。爰大府卿云、いかにかくはいつしか引き候や、オープンアクセス NDLJP:79早可返合云々。雖然一人無返答之者。于時赤威の冑着て、乗葦毛馬之者只一騎、聞此詞云、安藤八馬允忠宗〔右京イ〕命をば君に奉り候ひぬといひて、馬の鼻を返して馳向敵方云々。

鎌倉にて庄司次郎・稲気入道など被討之時、稲気の舎弟ゆゐの七郎といふ者、遠景入道之許に出来りて云、已被悪緑、不其難。雖自害、年来有往生極楽之望。自害は臨終の正念、恨不本意。又伝聞被頸之者不往生云々。依之御房のみこそ令哀憐給はめと、所参向也。可然者向西方合掌、唱念仏之間、可刺殺云々。遠景随喜悲泣申事由、浜に将行きて刺殺すの処、十二刀まで一切念仏の声不休。于時止念仏云、猶可死之心にもせぬ也。心先を可刺云々。又高声念仏之間、如云心先を被刺之時、止声気絶了。

熊野別当湛増之許、桂林房上座覚朝といふ者、在武勇之器、量勝等倫之間、至湛顕快実等之時、相伝難去之者也。而五旬以後、深信念仏弓箭、不断称弥陀名号。然間去承元三年頃、於湛増之墓堂進隣里、七ヶ日修別時念仏之間、或夜半計、犬の類頻りに吠えければ、念仏輩成奇之処、件覚朝、何事かは候はむ、出でて見んとて、出堂門之間、抜劒者二人待懸けたりける間、差合せて切るに、聊も不動。其身高声に南無阿弥陀仏々々々々々々と唱へて、被切臥て、至気絶之時、其声不休云々。快実遣人殺させけり。熊野川之習、雖指事、人を殺す事如此。

 
古事談第四
 
 

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