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古事談 第三
 
 
僧行
 
金鐘行者霊験殊勝、天下皆帰依之云々。可大仏殿沙汰之時、自大仏殿正面東者、金鐘行者之所領也。自正面西者辛国行者之領也。爰辛国答云、帰依僧之道可験徳、何強被依金鐘一人哉。早被合両人、可其効験。随勝劣徳をも被崇、伽藍をも可立云々。依申有_謂、公家召合二人之行者、已被験徳。各誦咒祈之間、自辛国方数万之大蜂出来、擬金鐘之時、自金鐘方大鉢飛来、蜂を打払之間、蜂皆退散了。其鉢至辛国之許行者。爰辛国忽結悪心、為寺敵、度々此寺之仏法を魔滅せんとしけり。此事雖慥之所見、古老所申伝也。但寺の絵図に、気比明神辰巳角有辛国堂之由注之云々。

此寺に三月十四日有大会、号華厳会。仏前立高座、講師登て講華厳経。但法会中間講師自高座下て、自後戸逐電云々。此事古老伝云、昔建立此寺之時、有鯖之翁、天皇召留之大会講師、所持の鯖置経机之上。魚変為八十華厳経。魚数八十隻云々。翁登高座講説之間、梵語を囀りけり。法会中間乍高座上化失了。荷鯖之木、大仏殿東面廊前に突立ちて、忽成樹枝葉。是白身木也云々。彼会講師于今法会の中間に逐電也。件樹焼失之時焼了。

昔東大寺開眼導師者、可行基菩薩之由被仰之時、行基申云、已者不大会導師、自異国一人之聖者可来云々。臨期奏事由、異国聖者今可相迎云々。即下勅宣率九十九僧并治部省雅楽寮等、到摂州難波海、調音楽阿伽一前を海に浮了。

此閼伽漸指西去。頃之自西方僧一人乗小船来。所海之阿伽有此舟之前、迎僧帰来也。着岸之後一人梵僧下舟、加百僧之末。其時行基執手、一度者喜一度者悲みて詠和歌云、

   霊山能釈迦乃弥摩部仁知岐利天子真如久知世須阿比美都留加奈

オープンアクセス NDLJP:48異国聖人和歌云、

   加毗良恵邇等毛邇知岐里之加比阿利天文珠乃美加保阿比美都留加奈

此時行基菩薩云、異国聖人是南天竺婆羅門僧正也。名菩薩云々。開眼導師は婆羅門僧正、供養導師は隆尊律師、聖武天皇は救世観音、良弁僧正は弥勒、婆羅門僧正は普賢、行基菩薩は文珠也。古老伝云、天皇御座奈良京平城宮之時、東山麓大櫟木下に、良弁僧正童行者にて草庵を結びて、土にて造りたる執金剛神の像を安置して、其本尊の足に付総て、毎礼拝引動して、聖朝安穏増長福寿と唱へけり。其声かすかに、天皇の御耳に聞えけり。遣勅使尋之処、勅使尋至先問其名。金鐘行者と云。此所是殊勝之霊験之窟也。立伽藍隆仏法と、思ふに私力難及、其徳令当帝王給云々。勅使帰参奏此由。天皇聞食此事、後大伽藍を建立せむと思召立ちけり。件櫟木は、去天承四年九月顛倒云々。

神亀元年行基菩薩造山崎橋、造了後於橋上大設法会。而俄洪水出来橋流了。人多死。行基菩薩臨終之時、弟子共悲歎しければ、よませ給ひける歌、

   かりそめのやどせるわれぞ今更に物な思ひそ仏におなじ

実忠和尚者天竺人也。来此朝東大寺別当。件和尚は悉曇の人也。或時雑役牛の吠えけるを聞きて、此牛は、先生此等の別当也。只今いふ事は、用銭五文能受涅槃、不車云々。昔以寺銭五文油見涅槃経件報、今生牛引車云々。桓武天皇御時、早良太子被春宮之時、為請其事、被諷誦於諸寺。僧等奉皇犯、一人も無申上之僧。爰大和国秋篠寺諷誦の住僧善修、御使に申云、他寺僧等者雖申上、至当寺之御諷誦者啓白畢。但此御祈祷事者、答先世之宿業、不遁給。然而不悪執穴賢云々。此由必々可申云々。則太子被罪科了。現身成悪霊付、悩於天皇。依之以有験僧徒、雖加持、更無効験。于時召善修大徳、雖加持、心経少々読みて、太子を招きていふ、さればこそ申候ひしか、無益事也。早悪執をとらかして、可生死云々。仍帝御悩立平愈、永不発験云々。

玄賓僧都者、南都第一之碩徳、天下無双之智者也。然而遁世之志深くして、不オープンアクセス NDLJP:49科寺之交、只三輪川辺纔結草庵隠居云々。而桓武天皇依強喚、時々雖公請、猶非本意存じけるにや、平城御時雖大僧都、自辞献一首和歌

   三輪川の清き流にすゝぎてし衣の袖を又やけがさん

而間房人にも不知、只一人暗跡了。弟子眷属雖尋求、不行方。南都のみならず天下貴賤惜歎之、送年序之後、門弟一人有事之縁向北陸道之間、或渡に乗船渡之間、渡守を見れば、首をつかみといふ程に、老いたる法師の、不可説の布衣一つ着たる怪しげの者のさまやと見る間、さすが又見馴れたる心地す。顔色も不普通之人。誰かは可似と思廻して能く見れば、不行方して失せにし我師の僧都に見なしつ。心浅猿僻見かとみれば、惣不違。目もくれ涙も落つるを抑へて、憚人目之間、彼も乍知気色、故不顔色、寄つて取りも付かばやと思ひけれど、人繁さに、中々上道の頃、此辺に宿りて、夜陰などにおはせん所へも尋ね向ひて、閑に申承り候はんと思ひて過了。上洛の時、着此渡先見渡守之処他人也。驚き悲みて相尋仔細れば、さる法師侍りき。年来此渡守つとめて侍りしが、いかなる事か侍りけん、去頃逐電不行方也。如然の下臈と乍申も、如数船賃などもとらず、只当時の口分計りを取りて、昼夜不断念仏をのみ申侍りしかば、此里人もあはれみ侍りしに、失せ侍れば、毎人に惜忍侍る也といふ。聞くに哀に悲き事無限。失せたる月日を聞くに、我奉見合たりし頃也。ありさまを見せぬとて、被去隠にけるなるべし。又古今歌にも、

   山田もるそうづの身こそ哀れなれあきはてぬればとふ人もなし

是は彼玄賓僧都歌と申伝へたり。如雲風さすらひありかれければ、田など守る時も侍りけるにや。

道顕僧都此事を聞きて、渡守こそ実に無罪世を渡る道なりけれとて、湖に船一艘儲けて被置たりけれども、あらまし計にて、徒石山の川岸にて朽ちにけり。されど慕ふ志は難有事也。

伊賀国郡司之許、賤き流浪法師一人出来りて被仕けり。苅草飼馬経両三年之間、郡司不慮蒙国勘、被却国中。緑者境界集訪悲歎無比類。相伝之所領所従も有オープンアクセス NDLJP:50、忽打棄て赴人国事、実不疎。妻子眷属悲哀涕泣。爰此草苅法師、雖事之仔細、而依人敉返答之人。枉懇切成不審之問。或下女一人憖語事之仔細。諸聞了法師云、雖己等之競、只今不御出立歟。不叶までも先有御上京、何ヶ度も被申仔細其後不叶時こそ候はめ、国司御辺には、おろ事の縁侍り、可申試云々。郡司此事憑むとしはなけれども、依心之置所、相具法師忽上洛。其時此国は、大納言と申しける人の給にてぞありける。件辺近くなりて法師云、人を尋ぬと思ふ。此姿にては怪しかりぬべし。袈裟一可借出哉。即借りて着せたりければ、大納言御許へ歩入之間、侍所に居並たる輩、暫はあやしげに思ひて、能見知之後、皆下跪于庭上。郡司は門外に留りて、浅猿しと見居る。亭主聞此由、滴瀝請入対面。先年来は何所に、何様にて御座し候ひけるぞや。公より始め奉りて、無之。人など被示之間、如此事は今閑に可申。先有申事参入也。伊賀国に年来相憑み侍りつる郡司某、依国勘国内之間、悲歎之至極不便也。又非強罪科者、此法師に恩免候乎云々。亜相云、凡不左右、左様にて御座候ひければ、謬可思知之者にこそ侍るなれとて、やがて被免之上、添給国恩之由、成庁宣奉了。先づ是を令見て、悦ばせ候はむとて、白地気にて被立出て、相具郡司近辺小屋脱袈裟衣等、たゝみて其上に庁宣を置きて、きと出づる体にて暗跡了。郡司心中疎哉、大納言も委被尋聞けり。是も玄賓僧都のしわざになん侍りける。此大納言とは、殊に師壇にて被座けり。

天長元年二月、天下大以旱魃。仍空海和尚奉勅於神泉苑請雨経法者、于時守敏大徳奏状云、守敏已是上臈也。同学此経先勤行者、依請早修者。即守敏勤行之、経七ヶ日結願之朝、両京如暗夜、雷響尤盛、甚雨洪水、衆人所感歎也。但遣勅使検知之処、只両京内不山外云々。又令空海和尚勤修。同法経七ヶ日専無雨気。和尚入定思惟、守敏大徳駈取諸龍入水瓶也。出定延修二ヶ日、夜於和尚告云、池中有龍、号曰善如。元是無熱池龍王之類、所勧請也。件龍為人有慈不害心、貴真言之奥旨。従池中其形、是則将悉地之成就也。彼現形如金色、長八寸計、紫金色龍居在、長九尺計、蛇頂見之。弟子実恵・真済・真雅・真維・堅恵・真暁・真オープンアクセス NDLJP:51然・少然等也。自余弟子不敢能_見。具注此由奏聞。小時之間、給勅使和気真綱、以御幣種々物等龍王。結願之日、重雲覆天雷鳴四方、忽降膏雨。池水涌満至于火壇之上。自今以後三ヶ日普雨天下。自然滂沱水愁己断絶、賀其功。三月廿五日任少僧都〈不律師。〉

弘法大師御入定之後、経八十余年、般若寺僧正観賢参入奥院、御衣奉着改、被御髪けり。其時僧正弟子石山内供奉。淳祐は不見云々。仍僧正、淳祐の手を取りて、さぐり参らせられける。其手は、一生の間かうばしかりけり。其後更無参庁院之人云々。〈追記云、石山正教は、于今薫香甚也云云。是淳祐之手を触るの故也云々。〉 慈覚大師、音声不足令座給之間、以尺八引声の阿弥陀経を令吹伝へ給へぬ。成就如是。功徳荘厳といふ所を、え吹かせ給はざりければ、常行堂の辰巳の松の扉にて、吹あつかはせ給ひけるに、空中に有声告云、やの音を加へよ云々。自是「如是や」〈[#かぎ括弧は底本では手書き]〉と云やの音は加也。

智証大師諡号事僉議之間、主上御夢に別名不求。大通智証なれば、智証と付くべきなり云々。

宇多御宇、利仁将軍打新羅之間、於彼国海上頓滅云々。此事智証大師御入唐之時、依彼国之語調伏之故歟。

貞観七年頃、染殿皇后為天狗悩。稍経数月諸有験僧侶、無敢能降之者。天狗放言云、自三世諸仏出現者、誰降我、今知我名云々。爰相応和尚応召参入、両三日祗候、無其験。還於本〔山イ〕無動寺不動明王、啓白事由、恐恨祈請。其時明王背而向西。和尚随座西。明王又背而向東。和尚亦随座東。明王忽背而如元向南、和尚忽座南流涙弾指稽首。和尚白而言、相応奉明王、更無他念。而今有何犯過、相背如此乎。願埀悲愍告示云々。胡跪合掌奉明王本誓、合眼之間、非夢非覚、明王示云、我依生々加護之本誓、有去之事、今顕説其本緑。昔紀僧正 〈真済〉存生日、持我明咒、而今以邪執故堕天狗道、着悩皇后、為本誓彼天狗。仍以我咒彼天狗也。以大威徳咒加持者、得結縛之便歟云々。此告之後不感涙、頭面接足礼拝恭敬。後日依召復参、任明王教誡之旨、奉加持之間、結縛天狗オープンアクセス NDLJP:52自今以後不復来由、帰伏之後解脱之。則皇后復尋常云々。

又清和皇帝有御歯不予事、差勅使藤原繁相相応和尚、依勅参内候於御加持。勅云、此歯之痛片時難堪、早以咒落、朕願足矣。和尚念勅旨精誠咒。天皇平予通宵安寝。五更之暁和尚誦般若理趣分。天皇眠覚之後、勅云、夢着衲袈裟之高僧八人、倶来褰帳之内簾、随和尚声相共加持。覚則所思之歯不覚落了。不其在所。是和尚効験之徴也云々。和尚奏云、此暁誦理趣般若。此経有八大菩薩、是則八十倶時菩薩之上首也。若彼菩薩奉聖体歟云々。天皇感歎弥添。後朝和尚退去宿房、見経筥上忽有一歯。和尚招一侍中、以歯令侍中。捧歯候於御前、奏聞事之由。皇帝称歎曰、非凡夫聖人。賞以僧綱之職位、兼賜度者有数。和尚固謙退不其賞云々。

天暦頃、浄蔵之八坂房、強盗数輩乱入、而間燃炬抜劒嗔目各徒立、更無其所作忽無言語、先後不覚。稍経数刻更漏漸闌。殆以埀曙。爰浄蔵啓白本尊、早可免遣者。于時賊徒適復尋常、致礼出去了云々。

浄蔵貴所住山之時、鉢法を行ひて、鉢を飛んで過ぎける頃、三ヶ日鉢空くて帰り来りければ、依不審四日といふ日、鉢の帰り来る山の峯にて見ければ、我鉢自王城方物入りて来るを、自北方他の鉢来り会ひて、此鉢の物を移取りて飛去了。爰浄蔵成安之思、我鉢を加持して、其鉢を知辺にて、指北凌雲霧を分行くの間、今者二三百町も来りぬらんと思ふ程に、谷合の清水流れて、このもしき所に有方丈之草庵。松風すごく響きて、砌に苔深し。幽玄の所也。見庵室之内、老僧一人倚掛于脇息、読経して座す、大事の体非直人。此人のしわざなめりと思ふの間、老僧云、彼は何人哉。おぼろげにては人不来之所也云々。浄蔵答云、住叡山之行者也。而依活計、此間飛鉢罷過之処、此両三日仔細如此。為愁申参向也云々。老僧云、いと不便の事にこそ侍るなれ。一切不知侍、可相尋とて微音に人を喚ぶ。自閑所出来る人を見れば、着唐装束之天童也。僧云、此被仰事は、汝がしわざか、いと不便の事也。自今以後不有と謂へば、童頗頳面して退去畢。今はよもさやうの事侍らじといへば、浄蔵欲退帰之処、僧云、はると分来り給ひ、定めて苦しく御坐オープンアクセス NDLJP:53すらん、暫可饗応といひて、又人を喚びて、此御房に可然物参らせよといひければ、天童瑠璃の皿に、からの梨子のむきたるを、四果もりて置扇上持来りけるを、先づ一果服に、天之甘露もかくやと覚えて、忽に身もすゞしく、疲れも直りにけり。其後帰住房了。鉢物移取事止云々。

慈恵大僧正は、近江国浅井郡人也。叡山戒壇を依合期、人夫へつかれざりける頃、浅井郡司は相親の上、師壇にて修仏事の間、此僧正を奉請、僧膳きこえむとて、前にて大豆を煎りて、酢を掛けゝるを、僧正、何しに酢をば懸くやと被問ければ、郡司云、温なる時懸酢つれば、酢むつかりとて、にがみてよく挟まれ候也。不然ばすべりてはさまれぬ也云々。僧正、いかなりとも、なじかははさまぬ様はあるべき。投遣るとも、はさみ食ひてむとありければ、争かさる事侍るべきとて、あらがひになりにけり。僧正勝ち申しなば、不他事。戒壇を築きて給へとありければ、安き事とて、煎豆を投遣々々、一間計のきて居給ひて、一度も不落、はさみよそひけり。見物あざまずといふ事なし。柚のさねの只今絞り出したるを取寄せて、投遣りたりけるをぞ、はさみすべらかし給ひたりけれど、落しも果てず、又はさみ止め給ひてけり。郡司一家広き者なりければ、引率人数不日戒壇を築きてけり。

花山僧都厳救祈念云、欲御廟之本地、屢祈之間、湧雲中現神龍之顔、其雲中亦現西塔性救僧都。戒怪問云、何此人現成哉。雲中答云、件僧都可眷属、仍兼現也云々。夢驚心中怪之、遣使者於西塔、尋性救之動静。使者帰来云、十余日有不例事云々。乍驚行向彼房案内。房主謝遺云、早可帰退云々。然而示此事。重示云、面可示事侍由云々。仍房主招入臥内。厳救示夢仔細。性救埀感涙云、極楽都卒之望、共以遂、仍成御廟之眷属者、菩提早自近歟。発此願祈請年久。而宿願已成就歟云々。仍性救逝去之後、埋御廟之近辺云々。亦恵心僧都旱魃之時、遣弟子於御廟、令読大般若経。我又於本房、自読最勝王経、共祈此難。其時小蛇在御廟石畳上、漸蚑入性救僧都墓所之後、自其所小烟昇天、其烟漸充満天下、成大雲了。雷電暴雨霑天下了云々。

慈恵僧正治山之時、人夢八大龍王乗船渡大海、各別船也。一々渡畢。最後船無オープンアクセス NDLJP:54、問之、答云、此船主当時治山務、仍不乗云々。於是知、優鉢羅龍王之所変歟。檀那僧都、自若少之時、道心遁世人也。而被法橋之後、夢に見給様、未発蓮花の大なるを、天童の持ちて自山来りけり。人ありて何花ぞと問ひければ、是は極楽より、覚運に給ひたるを、法橋になりたれば被返也と答ひけり。

恵心檀那と書写〔性空イ〕上人無智人也。法門謂ひて聞かせむとて渡り給ひて、住果の縁覚、仏所へは至るやと問はれけるを、上人聞き給ひて、此事至るも不至とても、いかにも候ひなむ。無益事也といはれければ、法門を沙汰してこそ、恵眼は開く事にて候へ。かやうの田舎には候はじとて、参りて申すなりとありければ、上人云、加様の法文は、時々普賢のおはしまして、令解説給也云々。其時恵心等、不帰依之思拝礼して、檀那此聖を讃め申し給へと被申ければ、真色如金山端厳、甚微妙、如浄瑠璃中現身金像といひ、伽陀を誦して被礼けり。

恵心僧都、金峯山に正しき巫女ありと聞きて、只一人令向給ひて、心中の所願占へとありければ、歌占に、

十万億の国々は、海山隔て遠けれど、心の道だになほければ、つとめていたるとこそきけ

と占ひたりければ、涕泣して帰り給ふ云々。

妙空大徳、恵心の御房に奉問云、何事か必然可往生之業哉。承其事相励云云。恵心令答給云、可丈六仏像云々。依之奉立阿弥陀丈六像、如本意往生之望云々。件仏安置横川花台寺云々。妙空は廿五三味の結衆也。

迎講者、恵心僧都始め給ふ事也。三寸小仏を脇足の上に立て、脇足の足に緒を付けて、引寄せして渧泣し給ひけり。寛印〔現忍イ〕供奉、夫を見て智発して、丹後迎講をば始め行ふと云々。

安養尼八日被地蔵講ければ、恵心僧都、いかに八日地蔵講を行はせ給ふぞとありければ、よみ給ひける。

   毎日にとぶらふなれば日もさゝぬ心のおこる時を時にて

恵心僧都の承仕法師奉花之間、俄悶絶死去了。僧都驚奉地蔵宝号、令祈給。又オープンアクセス NDLJP:55厳玄・出山加持。然而不蘇生。仍不触穢之前に、可昇出之由示し給へども、出山尚以持之、臨暮遂蘇生云々。承仕語云、夢に人に被捕て罷りつるを、うつくしき小僧出来り、雖乞請承引、猶将行。小僧云、惜むとも、非道に奪取る者も出来らん歟云々。然間小童二人出来りて、捕ひたる者を追散らして取之、与小僧畢云云。件厳玄は、樺尾谷に住む也云々。

恵心僧都与〔祐イ〕阿闍梨、互契遷化期之由。送年月之間、大阿闍梨為後夜之行法、出縁供阿伽之間、空に有異香幽声云、我是極楽久住菩薩、化縁已尽遂生極楽云々。慶雅奇尊之、忽差使案内。横川僧都久不申承之由使者帰来云、僧都此暁入滅云々。

此大阿闍梨、暗夜読法花経、放光見給外題字云々。

恵心僧都妹尼〈安養尼〉終焉之時者、必可来会之由僧都契約云々。而僧都千日山籠之間、自尼公許示遣云、老病憑少罷成候。今一度対面大切云々。雖然限日数之山籠、難洛。可然者乗輿可会西坂下之由返答了。於下松辺相待之処、輿已到来、僧都進寄褰簾一見之処、尼公既逝去。長途之間被振死歟。悲歎之処不為方、忽廻思慮、清義僧都は住修学院、此近辺にこそ被座めと思出で、相具輿清義房之門前案内之処、清義乍驚出逢。恵心云、仔細如此。御房計こそ令祈生給はめ。雖限之命、一旦蘇生せさせて、念仏をも申して聞かせまほしく侍る云々。清義云、賢き事にこそ候ひなん。但三宝に可申試とて、輿の際に近寄り、先づ心経七巻計読みて、以火界咒加持。恵心又奉地蔵菩薩、傍に居て、火界咒及百反計之間、輿中に有声。恵心忽寄見之、尼公已蘇生云、我炎魔王宮に参りたりつるを、不動尊おはして、火の前に推立ておはしつれば、地蔵菩薩、亦我が手を引きて帰り給ひつると思ひ給ふの間令蘇生也云々。恵心喜悦之余、泣以相伝之布三衣奉清義云云。又以自袈裟恵心云々。乍悦退帰之処、清義恵心を喚び返して云、先年之番の論議には、似候はずと云々。恵心咲ひ給ふ云々。此事は往日恵心与清義番之論議之間、清義つまりて、自禁裏出、修行入大峯。其後棄顕宗、難行苦行今所施験也。安養尼其後経六ヶ年臨終正念所往生也云々。

オープンアクセス NDLJP:56此安養尼上之許、強盗乱入、房中にありける物、皆捜取出了。尼上紙衾計を被着けり。小尼公〈安養尼婦尼也〉走り廻りて見ければ、かれ色の小袖を一つ落したりけるを取りて、是を落して候ひける、たてまつるとて持来りたりければ、尼上云、其も奪取るの後は、我物とこそ思ふらんに、主の心行はれざらん物をば、争可着哉。遠不行以前に、早可返給云々。仍小尼公走出門、やゝと呼び返して、是を令落給ひたれば、たてまつらむといひければ、強盗等立帰りて、暫く案じて悪く参り候ひにけりとて、所取之物等を、併せ返し置きて退散了云々。

清範律師は、播磨国人、興福寺法相宗空清僧都孫、弟子守朝已講之弟子也。於諸法無双、文珠の化身とぞいはれける。不思議不勝計也。御堂入道殿為食実否、修仏事百僧之時、次座には皆被半帖て、一つの半帖に、文珠と書きたる札を、縁の中に隠して、押して被敷交たりけるに、此律師、吾座は候とて、搔分けて此半帖に被座けり。其後ぞ、決定文珠の化身とは被知食ける。卅八にて遷化、清水寺の上綱と申しけり。

道命阿闍梨は、道綱卿息也。其音声微妙にして、読経之時、聞人皆発道心云々。但好色無双之人也。通和泉式部之時、或夜往式部許会合之後、暁更に目を覚して、読経両三局之後、まとろみたる夢に、はしの方に有老翁、誰人哉と相尋ぬる処、翁云、五条西洞院辺に侍る翁也。御経之時者、奉梵王帝釈天神地祇悉御聴聞之間、此翁などは近辺へも不能参寄。而只今の御経は、行水も候はで令読給へれば諸神祇無御聴聞隙にて、此翁参りて、よく聴聞候了。喜悦之由令申也。

叡山の平灯大徳は、阿弥陀房之阿闍梨静真之師也。池上阿闍梨皇慶之祖師也。或日朝に河屋に居たりけるが、足駄計を踏脱して暗跡了。弟子共、天狗などの取りたるやらんとて、暫くは求めけれども、見えざりければ、七々仏事など修して、訪後世畢。其後年序押移、静真阿闍梨、讃岐守なりける人の祈して、相伴下向任国之間、異様なる乞食、国司の館へ出来りて、乞物けるを、此静真見ければ、失せにし我師の平灯に似たりければ、寄りて能見之処、あやしげに衰へ老いたれども、無疑平灯也。其時走り出で、さて御座しけるはとて、泣々取付きたりければ、雖返答オープンアクセス NDLJP:57涕泣し退去しければ、静真きと帰入り、物はきて雖追尋、須臾之間、行方不知暗跡了。相尋国人々処申云、彼は年来此国に候、門臥と申す乞食なり。不住所、只行き至る処の人の屋門の前にのみ臥して、以不念仏為業、不多施、只口分計乞之食云々。国司も随喜此仔細、下国宣尋求、一切不之、違期樵父云、門臥は深山向西方、乍坐合掌死。但自口青蓮花一茎生出云々。守已下挙詣山中礼敬、異香猶留。見人無涙。静真被見付、やがて入深山往生云々。戒檀房阿闍梨教禅終焉之時、着法眼持仏堂、修両界供養法了。乍於礼盤上気絶云々。

一条院之御時、御斎会之間、及夜宿義照院与千観内供同宿之間、隔幕寝臥。義照院南枕、千観内供又南枕也。仍千観内供、夢に阿弥陀仏の頭を蹈みて臥す云々。仍覚起褰幕見之、義照院也。発露して三度起居礼拝。此間義照院夢、普賢大士三度居礼我云々。覚後諸共涕泣云々。

一条院寛弘八年六月、依御危位、於一条院落餝入道。雖然経日不予、慶円座主退下之間、已以崩御。帰参之後、入夜御所院源云、聖運有限、非力之所_及。但有生前之御約、必可最後念仏云々。此事相違此恨綿々。可霊山釈迦。試仰仏力、定未遷御歟云々。院源打磐白、慶円屢誦火界咒。未百遍、漸以蘇息。左相自直盧顛倒被急参。慶円即依生前之御詔、令念仏百余遍訖之後、登霞給云々。去夜有御和歌

   露の身の風の宿りに君を置きて遠く出でぬる事をしぞ思ふ

是令中宮給云々。往生伝に奉人云々。

大御室効験事、大二条殿治暦之頃、癰瘡発背。典薬頭雅忠云、癰腫已及五寸、以万死之病也。医療不及云々。親王修孔雀経法。修中平愈。依之被龍蹄二疋庄園二所〈尾張国簑田一阿波国条原。〉

同関白長女〈後朱雀院女御也〉両手有瘡。一身不聊。雅忠申云、医術難及。須仏力云々。仍奉親王、終夜祈念、臨暁平愈云々。

太政大臣中納言時、久煩鬼瘧已及数月。親王読孔雀経。読誦之中不敢発動オープンアクセス NDLJP:58永以平愈。

参議師成多月病悩、参仁和寺一夜宿侍、及暁平愈。

源大納言師忠卿室家者、修理大夫俊綱女也。久臥病席。熱気如湯。親王授戒以香水之。其所点着手清冷、更灑遍身、忽以平愈。

讃岐守顕綱、賜施食上分。毎日食之。明日之分裹紙置之。夢施食、紙中忽有光。明側有童子謂曰、弘法大師御座紙中。開紙見之、有親王所持五鈷。即童子曰、不魚鳥臭、明日分今夜可食云々。

筑前守頼家、申請御袈裟、随身赴任。邪病之人以此袈裟于枕上。邪気即顕、又更不発云々。

親王於高野百ヶ日修尊勝法。結願已訖還宿。政所散位伊綱通籍申云、一宿御儲万事尽美、入夜伊綱申云、最愛女子〈五歳〉夭亡、不哀傷、欲護持者、上下驚恐忽厭此宿。親王暫以祈念、遊魂更帰、死人蘇生云々。

経範僧都壮年之時、耳下有腫物療治無験。医家称必死。親王自晡及子祈念加持。濃血出、須臾平愈云々。

僧正延禅童子久悩鬼瘧。延禅申請施食之。童子自縛云、我是神狐也。被護法、不為方。自今以後永去云々。

高野之間、自ら菜を摘みて令洗給之時、成蓮房兼意〈仁和寺人也〉見逢、驚き畏れて行遇ひけるを、召近づけて被仰云、后腹親王、斯様に行ふも難有と云々。

件兼意は、高名の梵字書也。五宮御室、梵字は何様可書ぞと令問給ひければ、梵字与立石は、頗るうつぶきたるがよく候也と申しけり。

大御室者、御寿命以十八限之由、有宿曜勘文云々。依之十八歳春修尊勝法、令祈請給之間、或人夢想、炎魔王宮に火付きて、已令焼の間、王宮騒動甚。件御寿命限十八之由、札文已明白也。然而依炎上難_治、鈎八字了云々。果八十御歳九月廿七日御入滅。

此御室世間に、疾病蜂起之時者、私出御在所、只一人御棚の菓子などを御懐中に令取入給ひて、大垣辺之病者に次第に給之。真言を誦へ掛けて令過給ひければ、病オープンアクセス NDLJP:59者立得減、皆以尋常云々。令入御所之時は駕玉輿、天童等多御共にて令入給之由、有奉見之人云々。

文範卿云、余慶僧正を験者といひては、被人妻歟云々。僧正聞此事之後、向彼卿宅之処、得其意所労之由出会。僧正猶大切有申事と被示けれど、猶不出会。爰僧正えあらじ。然らば投出せと被責之時、自屛風上打出問絶す。僧正さこそはとて被帰畢。三ヶ日如此云々。依之一門子息等献二字於僧正。仍被免之後存命云々。

心誉僧正は、強き物気不渡之時者、暫閉自入観心給ひければ、邪気者渡ると云々。後日人問ひ申しければ、止観に、先徳被示之文侍也。其を思へば渡る也云々。

高陽院作事之間、宇治殿御騎馬にて御覧廻、令帰給之後、令御樋殿給之間、令顛倒給て、御心地令違例給、仍心誉僧正に祈らせむとて召遣すの程に、速く参る以前、女房局なる小女に物付きて申して云、非別事思ひきと、目を依見入、如此御座也。僧正不参之前、護法前に立ちて参りて追払へ候へば、逃候とこそ申しけれ。

即尋常令成給ひにけり。心誉いみじかりける験者なり。

業遠朝臣卒去之時、入道殿〈御堂〉仰云、定有遺言事歟、不便事也とて、召具観修僧都、向業遠之宅加持之間、死人忽蘇生、遺言要事等之後、又以閉眼云々。

最勝講之時、道場中被四天王座事者、後朱雀院御時、長久頃、最勝講に、源泉僧都説法殊勝。此時四天王現道場。天皇之外余人不之、依此勧賞源泉、当座被法印畢。其後被四天王座也云々。

禅林寺僧正、宇治殿へ被消息云、宝蔵破壊して侍り、加修理給云々。仍被付家司〈某期臣〉損色下家司其由。僧正聞此由御使、直仰云、いかにかく不覚には御座すや。斯様にては君の御後見いかゞと云々。御使帰参申云、宝蔵の破壊を不見、只召御前直如此申せと候ひつる也と申すの時、殿下不意給、已迷惑。其時衰老之女房祗候其御前申云、あはれ御腹中の損じたるを、法の蔵とは被仰候にこそと申しければ、さもありなむとて、魚味之御菜等調へ遣したりければ、材木給ひて、宝蔵の破壊繕ひ侍りぬと被申けり。オープンアクセス NDLJP:60件僧正、大二条殿御病危急時、〈御腹ふくる、〉参入して囲碁を遊ばすべき由申行之。諸人嘲之。然面猶強被申ければ、相構奉搔起、囲碁一局遊ばす間、病症忽平愈。已以尋常。諸人為奇云々。

長和五年夏、炎旱渉旬月人民愁之。仍公家旁雖祈祷、無其験之処 深覚僧都六月九日暁、為雨独身向神泉苑。内府聞及此事、遣使制止云々。若無其応世被咲歟。尤不便云々。僧都云、源覚不田畠、全不炎旱。但為国土之人民之計也。試欲祈請云々。執香炉〔乾イ〕驎閣壇上苦祈請之間、及未刻陰雲忽起、雷電有声、暴風頻扇、雨脚如沃云々。時人随喜之

後三条院在藩之時、被于御持僧勝範座主云、思棄今生事、兼知真言止観洞外典之者可選進也云々。勝範奉仰之後、山上求之後申云、已得其仁、是西塔益智也。即今持勝範消息東宮、即召御前覧其体、着黒染布衣狩袴等、思棄今生之事旨、已見其体、即召御簾之前、先自御簾之下出止観給、以書上益智方、居書上之数枚、次令其義趣之処、一々解釈之滞停。次令真言事給。又以執啓無泥事。次又被外典事、殆如鴻儒。御感無極。次被合往生浄刹事。申云、極楽都卒之望、共可遂也。仍自幼年誦法華経、以件善因長寿鬼、欲慈尊之下生云々。不幾益智逝去之後、三条院以此事仰覚尋座主。覚尋被申云、西塔覚空、自生年十八歳行両界供養法。願云、成長寿鬼、逢慈尊下生云々。是或経中、鉄囲山中有二人鬼、一鬼者読経、一鬼者待咒、待慈尊出世云々。件人々見此文此願歟云々。

南京永超僧都は、無魚肉之限者、斎非時も都不食之人也。公請勤めて在京之時、久不魚食、窮屈して下向の間、於丈六堂辺画破子之時、弟子一人近辺の在家にて、魚味を乞ひて令之云々。件魚主後日見夢様、おそろしげなる者共、在家を註しけるに、我家を註し除きければ、問仔細之処、使者等云、永超僧都に贄立之所也。仍註除之云々。其年此村在家悉不疾病、死者甚多。此魚主宅只一宇免其難云々。仍参向僧都之許此仔細。僧都聞此由、賜被物一重遣之云々。永観律師、始は補法勝寺。供僧供米を請うて、被時料けり。後には此事悪しとオープンアクセス NDLJP:61て、其米を出挙になして、多くなして取らむずればとて被申供僧了。扨出挙取りける者には、請文をもせさせず、人をも遣して徴まし、只秋の時、各持来りて可弁といはれければ、約其旨分散了。臨秋の時今やと雖相待、一切に不見来。房人等遣人可尋之由いひけれど、契約有限とて、無沙汰にて止みにけり。さて時料闕乏しければ、又可補供僧之由被申ければ、いかに軽々にはと御不審ありけるに、仔細をかうと申す人ありければ、哀れがらせ給ひて、供僧二分を被宛けり。

又補東大寺別当、為堂下向南都、歩行にて藁沓はきて、被小法師一人〈一人負皮古。〉 木津河辺にて、自南京方人走向云、自京令下給人歟。今日東大寺別当御房、為拝堂御下向云々。いかゞ令聞給哉。只今何程令下給ふらんと問ひければ、律師云、此乞食人こそは夫よと被示ければ、使走帰りて、此由をいひけり。寺家司等帰依渇仰して、奉仕御儲等云々。

永観律師終焉之時、苦痛やおはすると奉問ければ、寿尽時歓喜喩如捨衆病といふ文を被示けり。又無下に弱くなられて後、念仏の声も聞えざりければ、いかに念仏はと問ひ申しければ、何況億念と被示て、やがて命終と云々。此文上は、但聞一仏二菩薩名、除無量劫生死之罪云々。

了延房阿闍梨、詣日吉社之帰路、辛崎辺を行くとて、有相安楽行此依勧発品といふ文を誦しければ、浪中に散心誦法華不入禅三昧と、末文を誦する声あり、不思議の思をなし、いかなる人の御座すやと問ひければ、具房僧都実因と名乗りければ、湖の際に居て、法文を談じけるに、少々僻事共を答へけるに、是は僻事なり。いかにといひければ、よく申すとこそ思ひ候へども、生改りぬれば、力不及事也。我なればこそ、是程も申せといひけり。

白川院御時、中御室覚行御修法勤行之間、初夜時に令昇給ひたりけるに、此仏きと供養し給へとて、諸人不見知之絵像一鋪を被之。即密々有御聴聞云々。奉其像於本尊前、やがて令供養給ひて、新披図絵供養し給へり。常倶利童子とて、其天の功能本誓、目出たく令釈給へり。為試俄有此儀云々。御感之余、後朝被法親王宣旨云々。法親王の始也。

オープンアクセス NDLJP:62仁海僧正、父は上野上座といひけり。死の後、僧正の夢に、牛になりたると見えければ、其牛を買取りて被労飼之間、又夢に所役なくて、罪かろますと見えければ、田舎へ遺して、時々被仕けり。牛斃後得脱之由、亦有夢告云々。

成典僧正着法服、仁海の許へおはしたりければ、房人等不思懸事也と驚きて、仁海に告申しければ、此僧正は夢みてけりとて、亦着法服出遇ひたりければ、成典下地礼拝して、昇座申云、欲大師尊貌之志、已及多年。而去夜夢に、欲大師は、可仁海之由有其告。仍所参入也云々。

仁海僧正は、食鳥之人也。房にありける僧の、雀をえもいはず取りけるなり。件雀をはらとあぶりて、粥漬のあはせに用ひけるなり。雖然有験の人にて被座けり。大師之御影に不違云々。

成尊僧都者、仁海僧正真弟子云々。或女房密通於彼僧正之間、忽懐姙産生男子。母堂云、此児成長せば、此事自令披露歟とて、水銀を令嬰児云々。令水銀之者若存命せば、其陰不全云々。依之件僧都は於男女一生不犯之人也。

炎旱之時定海僧正、奉勅被雨けるに、一両日之間、夕立如沃。二時計したりければ、有叡感勧賞之処、僧正申云、是は非海之雨、仍不賞。海之雨は、明日など乾方より雲起りて可降也。若然者其時可賞云々。翌日果して自乾方曇り始めて、甘雨降三ヶ日不休、仍被勧賞云々。

覚猷僧正臨終之時、可処分之由、弟子等勧之再三之後、乞寄硯紙等之也、其状云、処分者可腕力云々。遂入滅。其後白川院聞食此事、房中可然弟子後見などを召寄せて、令遺財等、えもいはず分配し給ふ云々。

鳥羽院初度相撲之節之時、右相撲人遠方勝、傍輩仍殊勝勧賞云々。節日臨刻限参仕云、今日不角力云々。人々驚問仔細之処申云、自此暁俄に腫物出来、且可御覧とて、胸を搔出したりければ、乳の上に土器計紫色にて、腫物出でたり。苦痛し無為方云々。其時方大将已下愁歎不少、相議云、事体已非常。一乗寺僧正〈御持僧〉桟敷見物。方大将已下相率向彼桟敷。令歎之処、僧正云、非力之可及事。但若しやと可申三宝とて、暫くこまぬかれければ、腫物片端より堤などの崩るゝ様にオープンアクセス NDLJP:63次第にへりて、立尋常云々。左合手某存敵之由、以有験陰陽式之由、後日風聞云々。

鳥羽法皇御登山の時、於中堂十番之番論議。一二番論議依劣、皆あられをふらして被追立了。其時法皇以刑部卿忠盛朝臣御使、大衆中に被仰云、論議劣る時の作法は、已被御覧了。又神妙に答する時は、何様哉云々。衆徒等申云、能答へ候ひぬれば、なりを留めて、扇を一同にはらと使ひ候也と云々。爰第三番問云、経文に寿命無数切久修業所得といへり。果位之寿命を指す歟、因位の寿命を指す歟と云々。顕意阿闍梨〈横川法師後法橋〉答云、医王宝前に跪きて、幸に得寿命無数劫久修行所得之文、忝無上法皇之果位の御寿命を差し申すと可答申云々。問者猶物いはむの気色ありけるを、伯法印覚豪、証誠にて候ひけるが、謂云、存旨有答申歟。不重難云々。其時三千衆徒、一同に扇を使ひけり。

昔為公家御祈、被八講けるに、退凡下乗之卒都婆の銘、いかゞ書きたると問ひたりければ、金輪聖王天長地久御願円満とこそ書きたれと答ひけり。

法性寺入道殿発心地少将、阿闍梨房覚奉祈落之時、〈補律師也、〉僧伽の句云、南無熊野三所権現五体王子云々。後日件事申出すの人ありければ、被仰云、如然之僧伽の句は、近来は御子験者とて、劣なる事なり。平等院僧正郁芳門院奉祈生之度、始謂言也。一乗寺の尼一品宮、奉祈生之度などは、卅九重摩尼宝殿都史多天上弥勤菩薩とこそあげられけれ。

安芸僧都観智者、能説之名徳也。一生事請用渡世路。然而慈悲忍辱憐愍親疎。依之臨終之時、無苦痛正念。弟子等西方に舁向はんとしければ、空中に有音、告達摩和尚文。次句云、以正念西方勿見、西方非西方、心可西方云文を誦して、同じ事也といひけり。総唱種々要文、如咲命終。見之輩無疑之往生也とて、悦而止了。而中陰以後之房〈兼尊律師母堂〉夢中、房主来於庭上、其姿如影。大略裸形体也。後房問うて曰く、彼は令何処給哉。臨終之儀神妙に候ひしかば、心安く思ひ給ふの処に、此御姿こそ悲しく候へといふに、答云、さればこそ悲しく候へ。鬼道に候也。受忍之苦痛候也。事体為見参りて候なりとて、緑の際を、庭中の辺にゐオープンアクセス NDLJP:64ざり出でければ、無量之布施布、自虚降自地出でて埋其身、即火炎出来て、付此布焼けゝり。焼畢灰中に如消炭にて見えけり。漸又人の正体になつて、一日に三ヶ度如此苦を受け候なりとて、泣々退帰了云々。

高倉院御宇、承安四年最勝講御八講に、権少僧都澄憲勤仕講師。当第二日之夕座、演説吐玉。近日天下大旱魃。民戸忘農業、衆流已枯竭之間、殊啓白此事。其詞云、有申諸天善神、云出此言之後、如法不何。富楼那弁舌、満座褒賞已驚聞。然而天気靉靆、陰雲四起、忽降甘雨車軸。其詞已達天龍之聴歟。仏法霊威雖末代、可奇特云々。翌日結願日、摂政〈松殿〉聞事之由、被勧賞。其由依風聞、覚長僧都門弟等、当座超越可恥辱、不出仕之由頻以諷諫。然而不承引着座。已被勧賞。奉行職事蔵人右少弁左衛門権佐光雅仰之。綱所総在庁覚俊仰云、権大僧都澄憲従僧可草座云々。従僧参上引上敷覚長僧都上、居下天居之。緇素驚目光花余身。後聞覚長示云、今日出仕雖面目、依稽古揚名事、為後昆也。可之云々。件表白依召注進之。毎人捧之無握翫云々。

松殿御舎利講澄憲法印勤仕論議退出之後、殿下被仰云、平座論議之作法、澄憲存故実。高座の時には変る事なり。舞も、舞台の時と庭に立つの時とは、変りたる所あるなり。

智海法印有職之時、詣清水寺、深更の時令帰路の橋上に、唯円教意逆即是順自余三教逆順定故といふ文を誦する音あり。貴き事かな。如何なる人の誦するならんと思ひて、近寄りて之を見れば、白癩の人なり。傍に居て法文の事をいふ。智海殆んどいひ廻されにけり。南北二京にも、此程の学生はあらじものをと思ひて、何処にあるぞと問ひければ、此坂に候なりといひけり。後日度々尋ねけれど、不尋遇止了。若化人歟。

大納言法印良宴、建暦二年九月於雲居寺房入滅〈春秋八十六也〉の時、最後に弟子等念仏を勧めければ、法印息の下に曰。年来翫瑜伽上乗之教、已及九旬卒。今臨終之時、何変其志乎。観念の乱るゝに、暫くもな宣ひそとて、向西方手結定印居命終畢云々。」宗頼卿為家長者之時、勧修寺八講之捧物に引牛車云々。而成宝僧都分車、厳親別オープンアクセス NDLJP:65当入道三ヶ度まで乞ひけれど、遂惜而不献。仍禅門忿怨及放言云々。此事台蓮房 〈成頼卿入道〉高野之、被二首

   推輪はつみはじめける車かな乞ふも惜むもうしとこそきけ〈推輪は大路の物云々。〉

関東北条孫小女、〈十二歳、〉俄に絶入したりければ、可然験者などもなくて、折節忠快僧都の経廻鎌倉の時なりければ、請ひて祈らせむとしけるに、小女天狗付きて、種々の事等いひければ、忠快云、是は験者などにて、非加持之儀。無止之人依一念之妄心、あらぬ道に堕ち給ふ事不便なれば、経を誦して聞かせ奉りて、菩薩をも為祈也。さるにても誰にて御座すやといひければ、恥かしければ、詞にてはえ申出でじ、書きて申さむといひければ、硯紙など取らせたりければ、はかしく仮名などだに未之。小女権少僧都良実と書きたりければ、周防僧都御房の御するにこそ侍るなれとて、物語などしけり。全く害心も不侍、是を罷通る事侍りつるに、縁に立ちて候ひつるに、きと目を見入りて候ひつるなり。今は罷還り候ひてむとて退散す。小女無為と云々。

丹後国普甲といふ山寺の住僧、大般若虚読を好みて業となす。已経年序畢。或時手披経巻虚読之間、後頭を強く被殴と覚ゆるほどに、両眼抜けて付経巻之面云云。件眼ひつきたる経は、今に在彼寺云々。

或人云、五壇法之中、金剛夜叉は不年少之者云々。本文云、四十未満之者、不此法。若修之者損自損他云々。

仁和寺人云、請雨経法は醍醐也。孔雀経は仁和寺人可修也。石山僧都云、村上御時、被孔雀経法之間、鳥入啄御明、差入檜皮之間。仍内裏焼亡云々。内裏焼亡初度也。故被止件法、後日寛忠僧都請此法、帝依先年事、不容之。僧都重奏云、若有遮碍者、永可停止者、仍勤仕之間、勝利掲焉也。自爾以来聯綿不絶。件寛忠僧都、醍醐之人也。況仁和寺乎。

加茂祭に、霊人渡事者、聖宝僧正渡し始めけり。其後増賀上人被渡云々。

仁賀上人者、増賀之弟子也。世以帰依渇仰之上人也。傷此事、相語一人之寡婦、寄宿子其宅、披露儲妻之由。依之諸人惜悲之間、仁賀は偽称堕落之由。実には片角オープンアクセス NDLJP:66にて、よもすがら泣き居たるなりと聞きて、帰依弥倍云々。猶思此事跡云々。増賀上人者、恒平宰相息也。叡岳住山之学侶也。而千ヶ夜通夜于中堂、被礼拝て、微音に付き給へと祈申しけり。聞之人成不審、何事を可付乎、若天狗可付歟など興言しけり。漸及七八百夜計之間、猶微音に道心付き給へと申しけり。九百夜計よりは高声に、道心付き給へと叫び喚くと云々。聞之者奇之間、番論議之時投饗を投棄てけるを、乞食非人など競取りけるに、此増賀交りて取之被食云々。諸人惜み悲之けり。

増賀上人、為写止観、草紙を被願けり。書写上人暗知之、被紙之消息云、紙進之。此にて止観は可書給云々。返事云、如此人の思ふ事を、暗令知給ふ哀に候事也云々。

空也上人、自雲林院、七月計大宮大路を南行しけるに、大垣辺に、常人とも不之、俗の無術寒気を歎く気色にて逢ひたりけるが、奇しかりければ、何人の令座給ふ乎、炎天の頃、さしもさむげに令座給ふと問ひ給ひければ、俗云、其事に侍り、空也上人とは、御事にて侍るにや。日来いかでかと思ひ給ひつるに、今日うれしく奉逢候。我をば松尾明神とぞいはれ侍る。般若の衣は、時々着し侍れど、法花の衣は無下に薄くして、妄想顛倒の嵐烈しく、悪業煩悩の霜あつくして、如此さむく侍るなり。可然者法花之衣給哉と被仰に、上人いと尊く思して、さ承候。御社へ詣で、法施を奉らむと、いと忝く侍る。是こそ此四十余年、法華経よみしめて侍る衣よとて、下に被着たりける帷の垢付き、穢げなりけるを脱ぎて被奉ければ、乍悦衣を給ひて、やがて着給ひて、気色も忽に直りて、法花衣を着侍りつるより、悪業の霜消え、煩悩の嵐も吹止みて、いと温になり候ひにけり。仏になり給はむまでは可護とて、上人を礼して、去り給ひにけり。

師氏大納言臥病席之後、倩顧生涯一善、乍思空馳過了。於今後悔可益とて、廻慮書名籍空也上人云。依奉公無_隙、未一善之間、已受病患死路如時。地獄之業報又無脱之方。願上人加助成必垂哀愍給云々。上人披此状、こはいかに、こはき事をも被示物哉。さるにても閻王に可申試とて、消息を書オープンアクセス NDLJP:67きて立文を送りて、薨逝し給はゞ、葬送の時此状を棺上に置きて可葬。若被裁者此状不焼、不裁者此状定焼失歟とて遣之けり。亜相已天禄元年七月十四日薨逝。〈春秋五十。〉彼命葬了後、朝見灰中。此立文聊も不焼不焦有之。爰依上人引導悪趣浄利云々。

空也上人、

   極楽はなほき人こそまゐるなれまがれることを永くとゞめよ

和泉式部、

   ひじりだに心にいれてみちびかばまがるも参り付きなむ


書写上人可生身普賢之由祈請給。有夢告云、欲生身普賢者、可神崎之遊女之長者云々。仍乍悦行向神崎、相尋長者家之処、只今自京上日之輩、群来遊宴乱舞之間也。長者居横座、執皷弾拍子。上句其詞云、周防むろつみの中なるみたらひに、風はふかねども、さゞらなみたつ云々。其時聖人成奇異之思、眠而合掌之時、件長者応現普賢之貌、乗六牙白象、出眉間之光、照道俗之人。以微妙之音声説云、実相無漏之大海に、五塵六欲之風は不吹とも、随縁真如の波たゝぬ時なしと云々。其時聖人信仰恭敬して、拭感涙目の時は、又如元為女人之貌。弾周防室積給。閉眼之時は、又現菩薩形。演法文此。数ヶ度敬礼之後、聖人乍涕泣退帰。于時件長者俄起座、自閑道来聖人許示云、不口外と謂畢逝去。于時異香満空云々。長者俄頓滅之間、遊宴醒興云々。

此聖人者、得六根浄之人也。或時客人来臨対面之間、懐中に𧉻のみをとりて捻りけり。

時聖人云、いかにさは𧉻をば捻殺さむとはし給ふぞとて、大に悲み歎き給ひけり。客人恥ぢて退散云々。

斉桓公沈重病之時、普賢に愁へ申しけり。然間枕紙に、大犬の白色なるありと見給ひて、見上げ給ひける程に、立ちて犬の其毛をひとつかみ取り給ひたりければ、病即平愈了。件毛は宝幢院の宝蔵に今にありと云々。

参川入道は、前生に、唐の娥眉山に寂照とて候ひけり。与師匠法門之義、我れ勝ちたりと思ひて、入滅後依其執往生日本。令入唐之時有一僧、申オープンアクセス NDLJP:68云、娥眉山に寂照といひし僧の影に、此人極めて相似たり云々。

大和国に以狩為業の者、舜見上人常雖制止、敢不承引。依之五月下旬暗夜、件狩者照射に出でたりと聞きて、上人鹿皮をかづきて、作鹿体野。爰猟者見付之、進寄己欲射之時、其眼不鹿。仍成奇、矢をさし外して能見之似法師之首。驚奇問云、彼は何物ぞや。答云、舜見也云々。男云、こはいかに、已奉射殺として候ひつるなり。何わざし給ふぞ浅猿事也云々。上人云、殺獣給ふ事、さばかり制止申せども、不聞給。さりとも、此法師を射殺し給ひなば、暫も止み給ひなむとて、鹿体をまねびて侍るなり云々。其時狩者忽発心、切本鳥法師、為土人之弟子道云々。

通房大将者、奈良重勤聖人再誕云々。件聖人住菩提院。春日行幸之時、見大将之威儀、起執生替云々。為大将奉春日行幸之後、無程薨逝云々。十九歳。

大原良〔忍イ〕聖人は権者也。白川院女房尾張局〈尾張守高階為遠女也〉壮年の時、為止観常、歩行にて相具小女一人大原。或時女先参向来迎院、上人被例時之間、暫居閑所。心中思様、深雖学問之志、女身頻入寺夜宿、奉為上人定悪名出来歟。還可罪業。今者不参詣と思慮の間、例時畢上人来云、只今心中に有思給事、学問退心更不有之儀也云々。件女房遂出家大原、為来迎院之大檀越云々。蓮仁聖人〈本学房〉会吉田、斎宮御臨終令釈迦牟尼仏名、比盧遮那〈普賢経文歟彼文云〉一切処々其仏住処名常寂光と宣ひて、現笑相眼給。于時祗候之女房等、多年御本懐已満足歟。心安く候とて、欲立去之処、聖人罷念仏、令慈救咒之時、宮蘇生。あらねたや、奉具行かむと思ひつるものをと被仰て、又小時唱念仏、如眠令気絶給。上人云、是こそ実の御終焉と云々。

神蔵寺上人覚尊無動寺仙命上人は、同時の人なり。覚尊常に出洛して、知識勧進しけるを、仙命は、無由事し給ふものかなといひて、人の信施を受けずとて、只一人房に籠居して、知得といひける法師に、往来一部を預け、一日に一度、時をのみ指入れければ、食して不断念仏をのみし給ひけり。白川院御時、女御の御座しけるが、有智徳行の貴僧を供養せばやと思食して、当時誰か貴きと御尋ありけるに、人々申云、無オープンアクセス NDLJP:69動寺仙命上人に過ぎたる聖、不有候。但人の施を一切不受候云々。女御聞召し、智得之仔細、智得を召寄せて令謁給ひて、袈裟を一つ給ひて、是汝が志の様にて、構へて上人に奉ぜよと被仰ければ、知得賜袈裟、不慮に人の給ひて候。己は可懸も候はぬ上に、御袈裟の破れて候へばとて、上人に令献けり。仙命思ふ様は、斯る袈裟、此小法師に取らすべき様無之。我に志すなめりとて、咒願して、三世諸仏得給へとて、懸作したる房なれば、谷底へ投入れ畢ぬ云々。又隣房の人、大和柿を儲けて食しけるが、よかりければ、切さしたる半分を指向けて、是食ひ給へ。殊勝なればとて進めたりけるも、食する様にて、谷へ投入れ給ひけり。神蔵寺の上人は、先立ちて遷化して、仙命の夢に、無由と制止し給ひし事を聞かで、下品下生に生れて候なりと示しけり。仙命は慥に上品上生に生れたるよし示之。

美作守顕能の許に、不賤体の僧一人出来りて、法華経貴く綴り読みけり。守聞之、打任せたる乞食にはあらざめり、自何所何様人来るやと令問之処、答云、乞食に侍り、毎門乞態をば不仕、西山辺に候が、聊可申上事侍りて所参上也云々。物謂ふ気色など、有様体なれば、委問之処、申出に付きて、いと異様の事には侍れど、或所の青女房を相語らひて、洗濯など誂ひ侍りしが、不慮に懐姙の事候。今月当其期侍る。偏に依己之過候の故。彼が籠居して候はん程、如形活命の計を与へばやと思ひ給ふが、無其計略候之間、若御哀憐もや候とて、いとつゝましげにいふを、事の体は誠に存外なれど、心中察せられて、いとほしければ、安き程の事とて、押計りて夫一人に持せて、擬副遣之処、自ら持ちて可能帰とて、被持之程負うて出でぬ。家主猶奇しく思ひて、物に心得たる雑色を一人付けて、さまをやつして、見え隠れに行くの間、北山の奥をはると分入りて、人跡絶えたる深谷合に至りて、方丈の庵室の内へ入りて、物を打置きて、あな苦し、三宝の御助なれば、安居の食も儲けたりと、独りごちて足打洗うて静まりぬ。此使不思議に聞き居たり。日も暮れぬれば、不洛、木の本に居たり。夜漸及深更、奉法華経之声哀、実事取喩無物、随喜の涙千行。待天之曙帰洛して、主君に語此仔細之処。さればこそ非直人とは見きとて、両三日之後、案内云、不慮安居の御料と承れば、一日の物は定不足侍オープンアクセス NDLJP:70歟。仍是を令献とて、長櫃一合に、様々の物調へ入れて、此雑色相具して遣したりければ、明障子内に、読経してありけるが、障子を引明けて打見て、浅猿げに思ひて引立てゝ、不返答、数刻になりければ、庵室の檐に物をば取置きて帰畢。其後又十日計ありて、音信の処に、今度は人もなくて、先づ物をば取りて、他処へ移したるとおぼしくて、後度の送物をば、さながら置きたりければ、禽獣皆食散らして、所々に散りたりけり。貴かりける僧なり云々。

東大寺聖人舜乗坊、入唐の時、教長手跡之朗詠を持ち、渡唐入育王山。長老以下見之、感歎無極。其中天神御作、春之暮月月之三朝之句、殊以褒美、不感懐。遂乞取納育王山宝蔵云々。此上人昔参籠高野山の時、夢中に大師汝者可東大寺の者なりと被仰と見けり。焼失之後、果して如夢。以之非直之人歟。

解脱房者弁入道貞憲息也。母堂夢中無止聖人来、請宿於腹中。爰弁室云、如此不浄之腹中、争可宿給乎。但誰とか申すや。重云依宿因也。名をば貞慶と申すなり云々。又答云、緑御座不固辞承諾云々。此夢之後、懐姙所産之人也。件名字鏡裏に記し付くる計にて、不口外。経年序之間被忘却了。此児幼稚にて付師匠南京。母堂無隙之間不親近。於南都出家之後、通消息於母堂。表書に貞慶とあり。母堂驚きて、さる事ありしものをとて、鏡裏を取出して見れば、敢不違云々。不思議事也。六七歳計童稚之時、夢中に悪鬼出来為児、不怖畏、何ともなき事を口に唱へけり。依之鬼神有怖気退散畢。夢覚之後、件唱ふる言を覚悟して、僧に語るに、十一面観音之咒也、不思議事也。

大原聖人四五人計、参詣高野山之路次、河内国石川郡に宿しにけり。家主賤しき僧也。歳六十計なるが、着紺直垂〈不袴〉日高宿間、聖人〈俊盛卿息円舜坊〉出観一巻、復之家主。僧問云、何事哉。聖人答云、是は止観と申す文也。但四巻ある文にはあらずと云々。賤僧又重ねていふ事はなくて、内の方へ立行くとて、微音に誦して云、止観天台智者説、已心中所行法文云々。其時聖人等赤面巻舌止畢。件僧本是叡山修学之僧也。而落堕之後、依所縁住此処云々。上人等帰山所語也。

京方行東国之僧、武蔵国に落留りて、法華経など時々読みてありけるが、国オープンアクセス NDLJP:71人と双六を打つ間、多く負けて身をさへかけて打入畢。勝ちし男奥へ将入りて、馬に替へんとしけるを、熊谷の入道が弘め置きたる一向専修之僧徒聞之、不便の事なりとて、各布を出合ひて請留めんとしければ、此僧も悦入り、勝男も以三百段請替、上人奉憐愍、令請給ふ事なれば、半分をば不取。今百五十段を給ひて、可免也といひければ、念仏者輩も神妙なりとて、已欲請出之間、念仏輩云、此恩を思知りて、自今以後可専修也云々。爰此僧云、縦馬の直となりて、縄つらぬきて奥へは罷向ふとも、奉法華経、一向専修には不入とて渧泣す。依之念仏の輩、然者不請出とて忽分散す。仍被縄以追立入陸奥方畢云々。

 
古事談第三
 
 

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