古事談/第二
一条摂政与㆓朝成卿㆒共競㆓望参議㆒之時、〈天暦〉、多陳㆘伊尹不㆓中用㆒之由㆖。其後朝成参㆓一条摂政第㆒、為㆔望㆓申大納言闕㆒也。丞相良久不㆓相逢㆒、数刻之後適以面謁。朝成立㆓申任大納言条々之理㆒、丞相無㆑所㆑答、而奉公之道尤可㆑謂㆑有㆑興。昔競㆓望同官㆒時、多雖㆑被㆓訴訟㆒、今度大納言事可㆑在㆓予心㆒云々。朝成懐㆑恥成㆑怒退出。乗車之時先投㆓入笏㆒、其笏自㆓中央㆒破裂。其後摂政受㆑病遂薨逝。是朝成生霊云々。依㆑之今一条摂政子孫不㆑入㆓朝成奮宅㆒。三条西洞院也。〈所謂鬼殿歟。〉朝成卿為㆓一条摂政㆒発㆓悪心㆒之時、其足忽大に成りて、不㆑能㆑着㆑沓。仍足のさきに懸けて退出云々。
一条摂政薨逝之時、二郎〈堀川殿〉中納言、三郎〈法興院殿〉大納言大将也。摂籙之運人望在㆓大将㆒、而堀川殿閑暇参㆓入御前㆒、取㆓出先后御書㆒、令㆑覧㆓件状㆒云、関白者次第のまゝに可㆑候云云。円融院御㆓覧之㆒涕泣給、被㆑仰㆘可㆑有㆓恩許㆒之由㆖。中納言大称唯下㆑庭、拝舞退出給畢。職事殿上人等、皆悉相従云々。関白之間六ヶ年、薨卒之刻、已閉㆑眼之由以㆓浮説㆒、法興院令㆓参内㆒、堀川殿聞㆑之、存㆘被㆓来訪㆒之由㆖欲㆑譲㆓関白㆒而無㆓其儀㆒。渡㆓門前㆒被㆓参内㆒。堀川殿大怒忽被㆑扶㆓四人㆒、参内奏㆓事由㆒、譲㆓関白於忠義公㆒、法興院殿をば罷㆓大将㆒令㆑任㆓治部卿㆒云々。済時卿任㆓右大将㆒云々。
【 NDLJP:31】東三条院被㆑参㆓石山寺㆒之時、中宮大夫〈道長〉権大納言〈頼道〉・宰相中将〈道綱〉・左大弁〈惟仲〉等候㆓御共㆒。内大臣伊周乗㆑車候㆓御共㆒。於㆓粟田口㆒下㆑自㆑車、属㆓御車轅㆒、申㆓帰洛之由㆒。此間中宮大夫騎馬近立㆓牛角下㆒、人々属㆑目似㆑有㆓其故㆒云々。
御堂、師内大臣と同車にて、令㆑向㆓一条摂政許㆒〈一条摂政御堂養父云々〉之間、師殿の牛、逸物にて、辻の間などをありき廻りければ、御堂被㆑仰云、此牛はゆゝしき逸物かな。何所に候ひしぞやと云々。帥殿答云、祇園に誦経したりけるを、伝へ得候也云々。御堂かゝる事不㆑承とて、御指貫の左右を取りて、不㆑着㆑沓躍り下りて、人の門の唐居敷に、令㆑立給ひたりければ、帥殿はにがりて御座しけり。
御堂召㆓遊女小観童㆒。〈観童弟也。〉御出家之後、被㆑参㆓七大寺㆒之時、帰洛経㆓河尻㆒。其間小観童参㆓入入道殿㆒。聞㆑之頗頽面、給㆓御衣㆒被㆔返㆓遣之㆒云々。
法成寺殿金堂供養〈治安二年七月十四日〉日、入道殿執㆑盃進居㆓太政大臣〈公季〉前㆒。権大納言行成卿、執㆓瓶子㆒。入道殿被㆑仰云、久無㆔出㆓交盃酒座㆒。今日殊有㆑所㆑思。愁以勧盃。言未㆑了落涙難㆑禁云々。
宇治殿任㆓太政大臣㆒、申㆑慶給之日、及㆓拝舞之時㆒、内弁左大臣〈大二条殿〉跪地云々。春宮大夫 〈能信〉聞㆑之難云、未㆑聞㆓大臣跪地之例㆒云々。大二条殿又聞㆑之云、宇治殿可㆑存㆑親之由、入道殿慥所㆑被㆑仰也。跪㆑父者常礼也。如㆓春宮大夫㆒、争聞㆓入道殿仰事㆒哉云々。
宇治殿令㆓参内㆒給之間、陽明門内〈左近府前程也〉置道之頭有㆓大袋㆒、秉燭之後也。人落歟、以㆓御随身㆒被㆑見㆑之、入㆓束帯装束一具㆒。〈有文。〉其えり事外広、毎㆑物麁悪也。右大弁宰相経頼、之装束を落す歟。仍還御之後、相㆓具長絹廿疋㆒、経頼之許へ送遣す処、果有㆑実云々。
宇治殿於㆓殿上小板敷㆒、勘㆓発左大弁経頼㆒給。是譏㆓源右府事㆒云々。経頼流㆑汗退出之間、経長相㆓合南殿北庇㆒、経頼体如㆓死灰㆒。云、蒙㆓殿下勘発㆒運已尽也云々。其後不㆑経㆓幾程㆒受㆑病遂卒云々。
但馬守能道朝臣参㆓宇治殿㆒。〈衣冠〉。臨㆑晩被㆑召㆓御前㆒時、寄㆓于蔵人所置㆑物厨子許㆒、物を探りて、笏も不㆑被㆑置之御厨子哉とつぶやきけり。この能通は、大二条殿の後見也。
宇治殿使㆓土御門右府㆒、令㆑譲㆓摂籙於大二条㆒給之時、〈入道殿遣言趣云々、〉一度は猶不㆑被㆓信受㆒。第二度之時及㆓零涙㆒被㆓悦申㆒云々。而老衰之後、延久頃自㆓宇治殿㆒被㆑申云、於㆑今者如㆓契【 NDLJP:32】約㆒可㆑被㆑譲㆓摂籙於左府㆒。存命之時心安可㆓見置㆒云々。返答云、此事私難㆑申㆓左右㆒、可㆑伺㆓天気㆒とて奏聞の処、不㆑許云々。仍宇治殿被㆓遺恨㆒、遂薨給畢。大二条殿又薨逝之時、〈承保、二年〉御㆓約束於内府㆒。〈信長云々。〉仍左府愁歎欲㆓出家㆒。此間天皇渡御中宮御方。宮御削㆑櫛之間、御涙御はだへをとほりて、御畳ぬれにけり。主上令㆑奉㆑驚問給。宮令㆑申給云、左府も大納言も倶可㆓出家㆒云々。仍吾も失㆓面目㆒、不㆑能㆓祗候㆒之間退出、同可㆓出家㆒云々。依㆑之召㆓宮御方職事㆒、忽被㆔仰㆓下関白宣旨於左府㆒之由云々。
義親が首を被㆑渡ける時、人々多以見物。仍知足院殿可㆓見物㆒之由、大殿に令㆑申給ひければ、仰云、被㆑渡㆓貞任首㆒之時、可㆓見物㆒之由令㆑申㆓宇治殿㆒之処、仰云、死人之首不㆑能㆓見物㆒云々。仍不㆓御覧㆒云々。是又不㆑可㆘令㆓見物㆒給㆖云々。
八幡別当清成者、常に宇治殿へ参りけり。或日参りたりけるに、御料の御おろしを被㆑出たりけるを、蔵人所の台盤の上に置きたりけるを、清成手づかみにつかみ喰ひて、酒の銚子に入れたりけるを、皆飲みたりけり。近来之別当不㆑然歟。
知足院殿令㆑申㆓鳥羽院㆒給云。思㆓食御寿命事㆒者、毎月朔日可㆑有㆓御精進㆒。是一条左大臣説也云々。後日或人云、此事相㆓叶本説㆒歟。朔日奏㆓吉事㆒、不㆑奏㆓凶事㆒由、見㆓太政官式㆒。加之殷周之礼祭神之法以㆓月朔㆒為㆑最云々。
知足院殿仰云、我若少之時、小鷹狩の料に、水干装束を申しゝかば、大殿仰云、小鷹狩には、不㆑着㆓水干装束㆒事也。萩の狩衣に女郎花生衣など脱垂れて、袴は随身水干袴を取りてきて、疲駄に乗りて狩る也。大鷹狩にこそ結水干、末濃の袴などをば着すれ。惣右近馬場などにて馬馳の時、随身の袴を召して着用常事也云々。
師元参㆓知足院入道殿御前㆒之時言上云、陰陽師道信四月二日着㆓冬束帯㆒之由承置候。如何。仰云、有㆓急速召㆒時、衣装不㆑可㆑論㆓夏冬㆒也。御堂の不例に御座しける十月一日、宇治殿は、夏の直衣のなへたるにて、令㆑参給ひけり。二条殿は冬の直衣にて、令㆓参入㆒給ひたりければ、不例の人の傍に、かくてみゆる白物やあると被㆑仰けり。以㆓件例㆒我も堀川院不例に御座せし時、四月一日冬の直衣にて参入したりしか共、故院も兎も角も不㆑被㆑仰也。他人も無㆓云事㆒。我前駈などを
知足院殿仰云、四条大納言北山抄は神妙の物也。大二条殿を聟に取りて、九条殿の御記をも伺ひ見て候たる間、めでたき物にてある也。江次第に、後二条殿御料に候たる文也。末代之公事、不㆑可㆑過㆑其歟。但辟事ども少々相交也。
徳大寺大饗宇治左府令㆑向給之時、如法令㆑食給云々。事畢之後、別足之食様見習はんとて、人に群寄て見ければ、継目よりは上を少しわけて切りたりけるを、かゞまりたる方を、一口令㆑食給ひたりけり。
近衛院御時、〈小六条内裏、〉宇治左府参内之間、山上有㆓大袋㆒、其袋動之。以㆓随身㆒被㆑見之処、袋中有㆑人、開㆓見之㆒、中将行通朝臣也。出㆑袋共笑退散畢。此事殿上人遊戯のあまりに、於㆓頭中将教長宿所㆒、為通朝臣、鏡を見て、にくしうつくし、為通が鼻はうつくしき鼻かな。后のはなにしたりともねこからん、殊勝々々と被㆓自愛㆒けるを、師仲朝臣、さる后鼻はあらじとぞ、希有のはと也。まが〳〵しき后はなかなといはれけるに、行通も口入之間、我様なる小さき人は、袋などに入らばやとて、袋のありけるにつかみ入れて、人に御供にまゐれとて、為通袋を持ちて、山おざまへ出づ。遊行せし扈従入師仲・公重・教長・顕広。〈俊成〉。此間左府被㆑参。驚㆓前声㆒棄㆓袋於山上㆒逐電云々。仍件日左府日記云、今日参内懈怠、番衣は左着㆑袴立㆑池凶悪。小臣被㆑入㆑袋有㆑山云々。冷泉院中納言朝隆、蔵人頭の時、何事とかやに、公卿座末に居たりけるを、宇治左府被㆓追立㆒云々。事詞云、蔵人頭は、有㆑召之時こそ、座末には候へ。推参甚見苦きこと也。早可㆓罷立㆒云々。朝隆不㆑及㆑力とつぶやきて退起云々。
永久頃、法性寺殿内大臣にて、令㆑参㆓節会㆒給ひて、あげまきと云物を見るに、懸けて引寄せて令㆑食給ひけるを、久我大相国右大臣にて座列の間、奉㆑見申云、是は令㆑用㆓誰人説㆒給哉云々。御返答云、慥説侍也。但又令㆑存㆓何様㆒給哉云々。右府重申云、旬時懸㆑貝引寄也。主上御おろしを次第取下之故、用㆓浄貝㆒也。尋常節会には、依㆑無㆓取【 NDLJP:34】下之儀㆒、以㆑箸可㆓引寄㆒之由相存云々。爰内府被㆑仰云、尤有㆓其謂㆒。自今以後可㆑用㆓此説㆒之由御承諾云々。
法性寺殿令㆑書㆓所々額㆒給之間、自㆓御室㆒額を一依㆘令㆓申請㆒給㆖、被㆓書献㆒了。而陸奥基衡が堂の額なりけりと令㆑聞給ひて、争かさることあるとて、御厩舎人菊方を御使にて、被㆓召返㆒けり。基衡雖㆑迴㆓秘計㆒不㆓承引㆒。遂に責取りて、三に破りて持て帰参すと云々。菊方高名在㆓此事㆒。
松殿・九条殿左右大将にて、令㆑取㆓賭弓拳㆒給之時、共令㆑着㆓搔練重㆒給。左大将殿をば裏を打ち、〈法性寺殿御沙汰、〉右大将殿のは裏を張りに、〈中御門内府御沙汰、〉搔練重文色各別云々。以㆑何為㆓文色㆒哉不㆓分明㆒。
高家者業平之末葉也。業平朝臣為㆓勅使㆒参㆓向伊勢㆒之時、密㆓通於斎宮㆒云々。懐姙生㆓男子㆒、依㆑有㆓露顕之怖㆒、令㆓摂津守高階茂範為_㆑子、師尚〔高イ〕是也。世隠秘不㆑議㆑之云々。茂範者神祇伯岑緒孫、兵部少輔令範息也。師尚者従四位下備前守也。高二位成忠者師尚孫、宮内卿良臣之男也。
業平朝臣盗㆓二条后㆒〈宮仕以前〉将㆑去之間、兄弟達〈昭宜公等〉追至奪返之時、切㆓業平之本鳥㆒云々。仍生㆑髪之程、称㆑見㆓歌枕㆒発㆓向関東㆒。〈見㆓伊勢物語㆒。〉宿㆓奥州八十島㆒之夜、野中有㆘詠㆓和歌上句㆒声㆖。其詞云、秋風之毎㆑吹般穴目云々。就㆑音求㆑之無㆑人、只有㆓一之髑体㆒。明旦猶見㆑之、件髑髏の目穴より、薄生出でたりけり。毎㆓風吹㆒薄のなびく音、如㆑此聞えけり。成㆓奇怪思㆒之間、或者云、小野小町下㆓向此国㆒、於㆓此所㆒逝去。件髑体也云々。爰業平垂㆓哀憐㆒、付㆓下句㆒云、小野とはいはじ薄生ひけり云々。件所を小野といひけり。此事見㆓日本紀㆒。
有国以㆓名簿㆒与㆓惟成㆒云々。驚云、藤賢式太往日一双者也。何故以如㆑此。有国答云、入㆓一人之跨㆒、欲㆑超㆓万人之首㆒云々。
俊賢為㆓五位蔵人㆒之時、中関白被㆑問云、誰人補㆑頭為㆓公家㆒可㆑有㆓忠節㆒哉。俊賢答云、無㆘ 過㆓於俊賢㆒者㆖。仍為㆓五位頭㆒。今度斉信得㆑理、自必存㆓可㆑補之由㆒参内。於㆓明義門下㆒会㆓俊賢㆒畢。可㆑被㆑補㆑頭云々、誰人哉云々。答云、俊賢也云々。斉信頼面退帰畢。斉信後為㆓蔵人頭㆒、所行甚高。召㆓随身於小庭㆒仕㆑之、毎度如㆓大将㆒。誦㆓鳳凰池上之月之句㆒【 NDLJP:35】徘㆓徊禁庭㆒、人莫㆑不㆔歎伏為㆓神仙中人㆒。
俊賢卿蒙㆓中関白恩㆒、五位而補㆓蔵人頭㆒、越㆓多人㆒。思㆓此恩㆒而入道殿蒙㆓内覧宣旨㆒給日、睡眠云々。傷㆓帥殿事㆒之故云々。空眠りうちしてゐたり、帥内大臣事故云々。
宇治殿少年の時、俊賢卿と遊㆓覧北山辺㆒、於㆓或所㆒欲㆑入㆓堂中㆒。俊賢云、無㆓左右㆒不㆑可㆓入給㆒。近曽北方不塞、恐有㆓慮外之事㆒歟云々。俊賢先入廻見之処、堂北庇死人入㆑車立㆑之。俊賢自讃云、若入㆓堂中㆒定有㆑穢歟云々。
一条院御時、実方与行成於殿上口論之間、実方取行成之冠、投棄小庭退散云々。行成無㆓繆気㆒、静喚㆓主殿司㆒取㆓寄冠㆒、擺㆑砂着㆑之云。左道にいまする公達哉云々。主上自㆓小蔀㆒御覧じて、行成は召仕ふべき者なりとて、被㆑補㆓蔵人頭㆒。〈于㆑時備前介前兵衛佐也。〉実方をば、歌枕見てまゐれとて、被㆑任㆓陸奥守㆒云々。於㆓任国㆒逝去云々。行成補㆓職事㆒任㆓弁官㆒、多以失礼、漸尋知之後勝㆓傍倫㆒。已携㆓文書㆒之所㆑致也。
行成卿不㆑堪㆓沈淪㆒、将㆓出家㆒。俊賢為㆑頭之時至㆓其家㆒。制止曰、有㆓相伝之宝物㆒哉。行成曰、有㆓宝劔㆒云々。俊賢早沽却可㆑修㆓祈祷㆒。我将㆓挙達㆒。仍為㆓下臈無官㆒、〈前兵衛佐備前介、〉四位被㆑補㆑頭、任㆓納言㆒之後、暫雖㆑為㆓俊賢上臈㆒、依㆑思㆑恩遂不㆑着㆓其上㆒云々。
或人夢に、赴㆓冥途㆒たりけるに、可㆑被㆑召㆓待従大納言行成㆒之由、有㆓其沙汰㆒ければ、或冥官云、件行成は為㆑世為㆑人、いみじく正直の人也。暫不㆑可㆑被㆑召云々。仍不㆑被㆑召云々。正直者冥官の召も遁るゝ事也。
済時大将を、こうばいの大将といふ故は、女子の女御を后にたてんと被㆑申けるを、勅許あるぞと被㆑存て、無㆓左右㆒下㆓庭上㆒被㆓拝舞㆒畢。然而無㆓立后㆒。仍空き拝の大将と世人いひけり。而不㆑知㆓案内㆒の人、紅梅と知る也。
経信卿参㆓円融院御八講㆒之時、北野前不㆑下㆑車、成㆓不審㆒問人ありければ、答云、弾正式云、四位は不㆑拝㆓二位㆒云、神不㆑亨㆓非礼㆒。若し下らば還て以㆑似㆑不㆑知礼歟云々。
宗通卿童殿上之時、可㆑給㆑官之由、於㆓殿上㆒議定之間、経信卿申云、宇治関白牛飼こそ、土左目には任じて侍りしか云々。于㆑時満坐含㆑咲、仍無㆓沙汰㆒云々。
小野宮の室町面には、古四足ありき。件門常に閉ぢたりけり。是小野宮殿御坐之時、経㆓件之門㆒天神渡御、終夜御対面故云々。又大炊御門面にははた板を立て、穴を【 NDLJP:36】あけたる処ありけり。それに菓子などを令㆑置給ひければ、京童部集りて、天下の事共を語申しけり。其中に名事ども多く聞きけり。
小野宮左府於㆓女事㆒不堪之人也。如封〔対イ〕有㆑井、下女等多称㆓清冷水㆒集汲㆑之。相府択㆓其中少年女㆒、被㆔招㆓寄於閑所㆒、已有㆓定所㆒。宇治殿聞㆑之、侍所雑仕女中、択㆘有㆓顔色㆒之者㆖令㆑汲㆑水。相誠云、先汲㆑水之後、若有㆓招引㆒者、其後棄㆓水桶㆒可㆓帰参㆒云々。果如㆑所㆑案。後日右府、被㆑参㆓宇治殿㆒之次、公事言談之間、宇治殿仰云、彼先日侍所水桶主、今者可㆓返給㆒云々。相府迷惑頳面無㆑所㆑申止。
小野宮大臣、愛㆓遊女香炉㆒。其時又大二条殿愛㆓此女㆒。相府香炉被㆑問云、我与㆑髯愛㆑何乎。汝已通㆓大臣二人㆒。〈二条関白、髯長之故称㆑之。〉
小野宮殿薨給之時、京中諸人集㆓門前㆒悲歎云々。此事見㆓一条摂政記㆒云々。
九条民部卿顕頼弁官之時、有㆓公事㆒之日、早旦参㆑陣、漸及㆓深更㆒之間、已臨㆑飢。仍於㆓床子座㆒喚㆓雑色㆒示㆓其由㆒了。頃之雑色黒器といふ物に、みそうつく毛立ちたる一盃と、薯蕷の焼きたる二筋とを持来与㆑之云々。黒器物をばひきそばめて、皆啜りくひて、只今ぞ人心地するとて、いもをばつとよそへとて授㆓師光㆒〈大外記〉云々。床子座は腋陣とて、如㆓然事㆒無㆑憚之所云々。
中院入道有㆓六ヶ能㆒云々。第一松若と、第二双六、第三末々木、第四舞曲、第五笙、第六職者也と被㆓自称㆒云々。
但馬守隆方は、於㆓任国㆒逝去。然而秘㆓国人㆒称㆓重病之由㆒。舎弟の僧の声気色似たりけるを、輿に乗せて上道。死人をば入辛櫃相具云々。是国人之心為㆑不㆑変也。仍死人をば摂津国拝東郡内六瀬といふ所に埋畢。今有㆓其墓㆒也。
二条帥長実着㆓水干装束㆒、遊女〈神崎君目古曽〉に、いかゞ見ゆると被㆑問ければ、目出度御坐之由申㆑之。重被㆑問云、水干装束にてよかりし人、又誰をか見る哉云々。遊女申云、肥前守景家と申す人こそ、見え候ひしかと、詞未㆑了、前忽解脱云々。件景家水干装束の時は無双。布衣之時似㆓田舎五位㆒。束帯之時は諸人咲㆑之云々。常は小鳥柿の水干、無文の袴紅衣を着て、赤つかの刀のまふたきに、貝摺りたる差してぞ家中には居たりける。最期に何事か思置く事ある哉と問ふ人ありければ、無㆓別之遺恨㆒、但大殿大饗【 NDLJP:37】の時、山鳴の醤焦り被㆑召の時、山嶋のなくて、みやま鷯のひしほいりを、まゐらせたりし事なん遺恨云々。
非常の赦は、為㆑人極悦の事なれば、九条殿の御流は、詔書の草を奏る時、清書以前召㆓仰其由㆒也云々。
播磨守経平下㆓向任国㆒之時、反閉置㆓逆鞍㆒、而厩司馬允憲行不㆑令㆑知㆑人、為㆑試披露、以㆓件馬舎人等㆒忽遣㆓隠岐国㆒了。仍無㆘知㆓此事㆒之人㆖。依㆑之在国間、更無㆓其徴㆒。経平任㆓太宰大弐㆒之後、憲行兄憲重語㆓此事㆒云々。
業房亀王兵衛之時、夢に御前を奉㆑被㆑追、却門外へ被㆓追出㆒と見て後、朝康頼に、かゝる夢を見つる、年始にふくたのしき事なりといひければ、康頼云、極吉夢也。可㆑任㆓靱負尉㆒之夢也。靱負陣門外之故云々。果十ヶ日中拝㆓左衛門尉㆒云々。
伴大納言善男者、佐渡国郡司の従者也。於㆑国善男夢に見る様、西大寺と東大寺とを跨げて立ちたりと見て、妻女に此由を語る。妻云、其股こそはさかれんずらめと合すに、善男驚きて、由なき事を語りてけるかなと恐れ思ひて、主の郡司宅へ行き向ふの処、郡司極めたる相人にてありけるが、日来其儀もなきに、事の外饗応して、円座とりて出向ひて、召し昇せけれは、善男怪をなし、我をすかしのぼせて、妻女のいひ見てけり。而無㆑由人に語りてけり。必ず大位には至るとも、定依㆓其徴㆒、不慮之事出来有㆓坐事㆒歟云々。然間善男付㆑縁京上、果至㆓大納言㆒。然而猶坐事、不㆑違㆓郡司言㆒云々。
清和天皇先身為㆑僧、件僧望㆓内供奉十禅師㆒。深草天皇欲㆑令㆑補㆑之。而善男奏以停㆑之。件僧発㆓悪心㆒、奉㆑読㆓法華経三千部㆒。願曰以㆓千部功力㆒、当生宜㆑為㆓帝王㆒。以㆓千部功力㆒為㆓善男卿㆒成㆓其妨㆒。残千部功力当㆑蕩㆓妄執㆒、可㆓離苦得道㆒。此僧命終無㆓幾程㆒、清和天皇誕生給。雖㆑有㆓童稚之齢㆒、依㆓先世之宿縁㆒、触㆑事令㆑悪㆓於善男㆒。善男見㆓其気色㆒語㆓得修験之価㆒、令㆑修㆓如意輪法㆒。仍則為㆓寵臣㆒。然而宿業之所㆑答、坐㆓事件大納言㆒。坐事之日大納言南淵年名・参議菅原是善等、奉㆓於勘解由使局㆒推㆓問之㆒。更以不㆓承伏㆒、即詐令㆓人謂㆒云、息男佐己以承伏畢。何独不㆑然哉云々。善男聞㆑之、口惜き男かなとて承伏す【 NDLJP:38】云々。
儀同三司配流者、長徳二年四月廿四日事也。宣命云、趣㆓罪科三ヶ条㆒、〈奉㆑射㆓法皇㆒、奉㆔咒㆓咀女院㆒、秘㆓行大元法㆒等科云々、〉 左衛門権佐元亮・府生高宗等為㆓追下㆒向㆓其所㆒。〈中宮御在所所謂二条北宮。〉入㆑自㆓東門㆒、経㆓寝殿北㆒
就㆓西対㆒。〈帥住所歟。〉仰㆓含勅語㆒而申㆘依㆓重病㆒忽難㆑赴㆓配流㆒之由㆖、差㆓忠宗㆒令㆑申㆓其旨㆒、無㆓許容㆒。載㆑車可㆓追下㆒之由、重有㆓勅命㆒云々。固関等事右大将行㆑之。此間仰㆓左右馬寮㆒、合㆑引㆓御馬㆒。堪㆓武芸㆒之五位依㆓宣旨㆒、令㆑候㆓鳥曹司㆒云々。
配流
太宰権帥正三位藤原伊周〈元内大臣〉・出雲権守従三位同隆家〈元右少弁〉・伊豆権守高階信順〈元中納言〉・淡路権守同道順〈元右兵衛佐木工権頭〉
被㆑削㆓殿上簡㆒人々
左近少将源明・藤原頼親〈帥舎弟〉右近少将藤原周頼〈帥弟〉・源方理
勘事
右馬頭藤原相尹・弾正大弼源頼定〈為平親王男〉
権帥候㆓中宮㆒之間、不㆑従㆓使催㆒之由、元亮雖㆓再三奏聞㆒、被㆑仰㆘猶慥可㆓追下㆒之由㆖。二条大路見物車如㆑堵。中宮与㆓師相㆒双不㆑離。仍不㆑能㆓追下㆒由奏㆑之。京中上下挙㆑首乱㆓入后宮中㆒、見物濫吹殊甚。宮中之人々悲泣連㆑声。聞者無㆑不㆑拭㆑涙。隆家同候㆓此宮㆒。両人候㆓中宮㆒不㆑可㆑出云々。仍下㆓宣旨㆒擬㆑破㆓夜大殿戸㆒之間、不㆑堪㆓其責㆒、隆家所㆓出来㆒也。依㆑称㆑病令㆑乗㆓網代車㆒遣㆓配所㆒。但随身可㆓騎馬㆒云々。於㆓権帥㆒者己逃隠。令㆔宮司捜㆓御在所㆒。及㆔所々已無㆓其身㆒云々。被㆔召㆓問信順等㆒之処、申云、左京進藤原頼行権師近習者也。以㆓件頼行㆒可㆑令㆑申㆓在所㆒者、即召㆓問頼行㆒之処、申云、帥一昨日出㆑自㆓中宮㆒、道順朝臣相共向㆓愛太子山㆒。至㆓頼行㆒者自㆓山脚㆒罷帰了。其乗馬放㆓棄於彼山辺㆒云々。仰云、元亮召㆓具頼行㆒、尋㆑跡可㆓追求㆒。若所㆑申有㆓相違㆒者、可㆑加㆓考訊㆒者。仍元亮朝臣・右衛門尉備範・左衛門府生忠宗等、馳㆓向彼山㆒尋㆓得鞍馬㆒云々。中宮乗㆓権大夫快義之車㆒出給。其後使官人等参㆓上御所㆒、捜㆓検夜大殿及疑所々㆒。放㆓組入板敷等㆒皆実検云々。奉㆓為后宮㆒無㆑限之恥也。中宮已落飾出家給云々。信順等四人籠㆓戸屋㆒以㆓看督長㆒令㆔守㆓護之㆒。此間已経㆓十ヶ日㆒。五月四日員外師出家帰㆓本家㆒、尋求之使者尚在㆓【 NDLJP:39】西山㆒。左衛門志為信〈守㆓護本所㆒之者〉欲㆑令㆑申㆓事由㆒之間、権帥又乗㆑車馳㆓向離宮㆒。為信着㆓藁沓㆒於㆓清和院辺㆒追留。此間公家差㆓左衛門権佐孝道・左衛門尉季雅・右衛門府生伊遠等㆒、令㆔馳㆓遣帥所㆒。帰㆓本家㆒翌日発㆓向配所㆒。権師依㆓出家㆒被㆑改㆓官符㆒云々。権帥隆家等依㆑病難㆑赴㆓各配所㆒之由、領送使申㆑之。頭弁行成朝臣勅を奉じ、権帥病之間、安㆓置播磨国便〔使イ〕所㆒。出雲権守隆家安㆓置但馬国便〔使イ〕所㆒。各領㆓国司㆒取㆓其請文㆒、可㆓帰参㆒者。被㆑奉㆑射㆓花山院㆒之根元者、恒徳公三女は、伊周之妻室也。而四女を法皇令㆑通給ふを、伊周、四女は僻事也。三女にてこそあるらめとて、相㆓語隆家卿㆒、被㆔示㆓合不㆑安之由㆒。爰中納言安き事なりとて、両三人相具して、法皇自㆓鷹司殿㆒騎馬令㆑伺給ふを、奉㆑射之間、其矢御袖より通りにけり。然而還御了。此事見苦事也とて有㆓秘蔵㆒、無㆓沙汰㆒之処、公家聞召して、太上天皇は無㆑止事也、而此院御心不㆑静御坐之間、如㆑此事出来也。雖㆑然不㆑可㆓黙止㆒。又伊周私修㆓太元法㆒。件法者非㆓公家㆒者不㆑修之法也。又奉㆔咒㆓咀女院㆒云々。依㆓此等事㆒左遷云々。
同年十月八日、権帥密々京上、隠㆓居中宮㆒之由、自㆓去夜㆒有㆓其聞㆒云々。仍差㆓右衛門権佐孝通㆒、被㆑申㆓事由於中宮㆒之処、已被㆑奏㆓無実之趣㆒。孝通朝臣以下使官人等候㆓彼宮㆒、差㆓季雅・為信等㆒遣㆓播磨㆒被㆔実㆓検権師有無㆒。又帥上洛告言。既有㆓其人㆒。彼宮大進生昌云々。帥先日依㆓出家㆒、被㆑改㆓官符㆒、而尚不㆑剃㆑頭云々。播州使等未㆓帰洛㆒以前、権帥候㆓中宮㆒之由已露顕、八旬母氏乍㆑沈㆓病㆒、懇切期㆓今一度之対面㆒、死にやらぬ上、中宮懐姙、今月当㆓産期㆒之間、密々上洛云々。於㆓今度㆒慥被㆔追㆓遣太宰府㆒云々。同三年四月、両人被㆔召㆓返之㆒。今上一宮誕生給之故云々。長保三年閏十二月十六日、許㆓本座㆒出㆓仕公庭㆒、被㆘宣㆗下可㆑列㆓内大臣下大納言上㆒之由㆖。寛弘七年正月卅日薨、春秋卅七。」郁芳門院根合之時、右方有㆓五丈之根㆒云々。件根備前国牟古計の狭戸にある似㆓菖蒲㆒物之根云々。凡菖蒲根の長不㆑過㆑尺〔丈イ〕也。前例尤長、根杜若根也云々。
賢子中宮者、寵愛異㆑他之故、於㆓禁裏㆒薨給也。雖㆑為㆓御悩危急㆒、不㆑被㆑許㆓退出㆒也。閉㆑眼之時、猶抱㆓御屍㆒不㆘令㆓起避㆒給㆖云々。于㆑時俊明卿参入申云、帝者葬遭之例未㆓曽有㆒候。早可㆑有㆓行幸㆒云々。仰云、例は自㆑此こそ始まらめ云々。
待賢門院は白川院御猶子の儀にて、令㆓入内㆒給。其間法皇令㆓密通㆒給。人皆知㆑之歟。【 NDLJP:40】崇徳院は白川院御胤子云々。鳥羽院も其由を知食して、叔父子とぞ令㆑申給ひけり。依之大略不快にて、令㆑止給畢云々。鳥羽院最後にも、惟方〈于㆑時廷尉佐〉を召して、汝許ぞと思ひて被㆑仰也。閉眼之後、あな賢、新院にみすなと仰事ありけり。如㆑案新院奉㆑見と被㆑仰けれど、御遺言の旨候とて、掛廻不㆑奉㆑入云々。
清少納言零落之後、若殿上人あまた同車渡㆓彼宅前㆒之間、宅体破壊したるを見て、少納言無下にこそなりにけれと、車中にいふを聞きて、本より機敷に立ちたりけるが、簾を搔揚げ、如㆑鬼形之女法師顔を指出すと云々。駿馬の骨をば不㆑買やありしと云云。〈燕王好㆑馬買㆑骨事也。〉
四条宮女房大弐局、栴檀は唐土にもありと云。他之女房達、皆天竺之物也、不㆑然云云。此事相論之間、伊房卿宮司之時、被㆑尋㆑之処、天竺に有㆑之云々。大弐局猶論㆑之。仍経信大納言許遣尋㆑之処、同㆓伊房之説㆒。女房達弥令㆓指南㆒。然而大弐局者、猶不㆓信伏㆒之間、重令㆑問㆓実成卿㆒之処、答云、唐土にもあるなり。赤栴檀は天竺に有㆑之、余紫檀白檀等皆唐土之物也云々。仍大弐局終勝了。于㆑時女房云、此事者参河前司季綱が申しゝを、慥承㆑之也。赤栴檀は本体也。紫檀は栴檀之黒也。白檀は梅之白也。沈者栴檀之沈也。薫陸は栴檀のしるなりと云々。
頼光朝臣遣㆓四天王等㆒、令㆑打㆓清監㆒之時、清少納言同宿にてありけるが、依㆑似㆓法師㆒欲㆑殺之間、為㆑尼之由いふ。えんとて忽出㆑開云々。
九条殿遺誡云、凡不信之輩、非常天命前鑒已近。貞信公語云、延長八年六月廿六日、霹靂清涼殿之時、侍臣失㆑色。吾心中帰㆓依三宝㆒、殊無㆑所㆑怖。大納言清貫・右中弁希世、尋常不㆑尊㆓仏法㆒。此両人已当㆓其妖㆒、以㆑是謂㆑之、帰真之力尤逃㆑災。殊又信心貞潔智行之僧多少随堪㆔相㆓語之㆒。非㆓唯現世之利㆒、是後生之因也。
中関白以㆓酒宴㆒為㆑事。賀茂詣之時、酔而寝㆓車中㆒、冠抜在㆑傍、臨㆓欲㆑下㆑車之期㆒、入道殿被㆑驚申、驚而以㆓扇妻㆒搔㆑鬢猶如㆓水鬢㆒。以㆓朝光・済時等㆒常為㆓酒敵㆒。仍曰極楽に按察小一条等あらば可㆑詣。不㆑然者不㆑及㆑願云々。
白川院競馬之日、頭中将資房之上に、行経朝臣任㆓位次㆒居けり。仍後朱雀院に被㆑愁申しければ、令㆓
宇治殿関白をば、直に京極殿に奉㆑譲と思して、上東門院にも其由令㆑申給ひければ、女院御くしけづらせて、御とのごもりたるが、此事を聞食して、不受之気色御坐して、俄令㆑起給ひて、御硯紙召寄せて、忽令㆑進㆓御書於内裏㆒給ひけり。其状云、おとゞ被㆑申事候とも、不㆑可㆑有㆓御承引㆒。故禅門慥被㆓申置㆒之旨候也。仍不㆑被㆑許㆓譲事㆒。遂後冷泉院御宇被㆑譲㆓大二条㆒云々。
隆国卿於㆓宇県㆒参㆓仕宇治殿㆒之時、真実の小馬に乗りて、乍㆓騎馬㆒出入云々。大納言被㆑申云、此は馬には候はず、足駄にて候へば、可㆑蒙㆓御免㆒云々。宇治殿令㆑入㆑興給ひて許容云々。
長季は、宇治殿若気也。仍大童まで不㆑加㆓首服㆒云々。久不㆑参之時は、いみじく令㆑怨給ひけり。大飲之間依㆓酒事㆒、御おぼえはさがりにけり。
堀川左府、知足院殿を聟に奉㆑取、賞翫之余、常被㆔奉㆓仕陪膳㆒。毎㆑進㆓汁物㆒先づ啜り試みて、気味調ひたるに飲を漬けて被㆑奉ければ、無便とおぼしながら食ひ給ひけり。
其由大殿に被㆑語申しければ、暫御案ありて被㆑仰云、左府も可㆑然之人也、有㆓何事㆒哉云々。
知足院入道殿御㆓座宇治㆒之時、左府之息奉㆓祇候㆒。于㆓御前㆒御物語間、肥前々司頼季参来居㆓右大将〈兼長〉後㆒。大将不㆑動、而入道殿勘発被㆑仰云、人の来りて居後之時、不㆓居向㆒事やはある云々。大将恐㆑之、頼季又頽面云々。
師遠任㆓摂津守㆒、参㆓知足院入道殿㆒、申㆓慶賀㆒之時、不㆑持㆑笏三度奉㆑拝㆓入道殿㆒、自㆓中門連子㆒令㆓御覧㆒被㆑仰云、尚師遠也云々。〈御感之心也。〉入㆓禅室㆒之時不㆑把㆑笏云々。此謂歟。
惟頼卿被㆑参㆓妙音院㆒之時、入道殿被㆑仰云、孝博者自㆓故殿㆒〈知足院〉有㆑名参上之時、着㆓紫織物指貫㆒、白髪にて中門廊に候ひけり。侍等奇㆑之云々。近代無㆓如㆑然之者㆒、遺恨事也。
宇治七郎こそ、いみじくさやうになりぬべき者なれ。如㆓孝博㆒
勘解由長官有国、当初父輔道豊前守之時、相具して下向之間、父俄病悩忽逝去。于㆑時有国泰山府君祭を如説勤行。輔道経㆓数刻㆒纔蘇生語云、予雖㆑参㆓炎魔庁㆒、依㆑備㆓美【 NDLJP:42】麗之饗膳㆒、可㆑被㆔返㆓遣之㆒由有㆓其定㆒。爰或冥官一人申云、雖㆑被㆔返㆓遣輔道㆒、於㆓有国㆒者早可㆑被㆑召也。其故者非㆓其道㆒者勤㆓行祭㆒、非㆑無㆓罪科㆒云々。又在㆑座之人申云、有国不㆑可㆑有㆓罪科㆒、無㆓道人㆒遠国之境にて、不㆑耐㆓孝養之情㆒、勤行之輩更不㆑可㆑処㆓罪科㆒云々。仍冥官併同㆑之、依無為所㆑被㆓返遣㆒也云々。
大入道殿被㆑議㆘以㆓関白㆒可㆑譲㆓何子㆒哉之由㆖。有国申云、町尻殿可㆑宜。〈為㆑思㆓花山院御出家之事㆒令㆑申歟。〉〈[#底本にある手書きの返り点修正を適用]〉惟仲申云、任㆓次第㆒中関白可㆑宜云々。国平申云、何捨㆑兄用㆑弟哉云々。就㆓両人之許㆒遂被㆔譲㆓申中関白㆒云々。我以㆓長嫡㆒当㆓此任㆒、是理運之事也。何足㆓真悦㆒、只以㆑可㆑対㆓有国之怨㆒為㆑悦耳云々。仍無㆓幾程㆒及㆓除名㆒、父子被㆑奪㆓官職㆒云々。雖㆑然有国長徳以㆑拝㆓太宰大弐㆒、経㆓廻鎮西㆒之時、帥内大臣下向之間、使㆓広業於事表㆒、丁寧供㆓進種々物等㆒云々。 〈中関白時人称、於㆓関白㆒勝容体云々。〉
俊賢民部卿、為㆓参議㆒書㆓定文㆒之時、不㆑覚㆓斎然之育之字㆒、仍頗黒書㆑之。一条左大臣〈雅信〉為㆓一上㆒、見㆑之云、是は斎然之斎字歟、又敦歟云々。俊賢以㆓此事㆒為㆓終身之恥㆒云々。
実方経㆓廻奥州㆒之間、為㆑見㆓歌枕㆒、毎日出行。或日あこやの松見んとて欲㆑出之処、国人申云、あこやの松と申す所、この国に候はねと申すの時、老翁一人進み出でて申して云、君は、いづべき月のいでやらぬかな〈此歌みちのくのあこやの歌にこがくれて〉と申す古歌を思召して、被㆓仰下㆒候歟。然らば件歌は、出羽陸奥未㆑堺之時、所㆑読之歌也。被㆑堺㆓両国㆒之後者、件松出羽国方に罷成候也と申しけり。又彼国依㆑無㆓菖蒲㆒、五月五日水草は同じ事とて、かつみを被㆑葺けり。其後国習于㆑今如㆑斯。〈新撰陰陽書云、五月五日可㆑葺㆓水草㆒云々。〉実方中将怨㆑不㆑補㆓蔵人頭㆒、雀になりて居㆓殿上小台盤㆒云々。
御堂令㆑煩㆓邪気㆒給之時、小野宮右府為㆑奉㆑訪令㆑参給。邪気聞㆓前声㆒託㆑人云、賢人之前声こそ聞ゆれ。此の人には居あはじと思ふものをとて、示㆓退散之由㆒云々。御心地即平愈。
富小路右大臣、〈顕忠〉時平御子也。毎夜出㆑庭奉㆑拝㆓天神㆒云々。又以㆓倹約㆒為㆑事、銀器楾手洗等永不㆑被㆑用。又出仕之時、全無㆓前駈㆒、只車後如㆑形被㆓相具㆒云々。大饗之日、小野宮殿、為㆓尊者㆒殿さたなげなり。無㆑由之所に来にけりとおぼしける程に、車宿に毛づるめなる馬二疋引㆓立之㆒、皆額白云々。尊者自㆓幕隙㆒見㆑之、令㆑咲給云々。額白馬【 NDLJP:43】を、無㆑術令㆑好給ひける。此大臣五十八薨云々。而補任には六十九云々、如何。
実資大臣者、依㆓大入道殿恩㆒、至㆓大位㆒之人也。依㆑思㆓其恩㆒、彼御遠忌日、必被㆑参㆓法興院㆒。御堂仰云、あつき頃也。何強如㆑此被㆑参哉云々。右府云、なにか令㆑知給。我者依㆓彼御恩㆒如㆑此人に成畢。為㆑報㆓其御恩㆒参仕也。不㆑可㆓令㆑知給㆒云々。
俊明卿奉㆓行公事㆒之時、次第忘却して不㆓随身㆒之時は、以㆓今案㆒被㆑行けるに、旧儀に塵計も無㆓相違㆒云々。同卿造㆑仏之時、箔料にとて、清衡令㆑献㆓砂金㆒云々。彼卿不㆑請㆑之即返㆓遣之㆒云々。人問㆓仔細。答曰、清衡令㆔押㆓領王地㆒、只今可㆓謀叛㆒者。其時は可㆑遣㆓追討使㆒之由、可㆓定申㆒也。仍不㆑可㆑請㆑之云々。
堀川右府は、依㆓四条中納言㆒、談経致㆓練磨㆒。〈有元都云々。〉上東門院有㆓好色女房㆒、〈或説小式部内侍云々、〉堀川右府与㆓四条中納言㆒共愛㆓此女㆒。然間或時右府先㆓入件女房局㆒、已以懐抱。其後納言 〈于㆑時間弁云々〉伺㆓件局之処㆒。已知㆓会合之由㆒、納言読㆓方便品㆒帰了。女聞㆓其声㆒不㆑堪㆓感歎㆒、背㆓右府㆒啼泣。丞相枕亦霑。丞相窃思、万事不㆑可㆑劣㆓定頼㆒、不㆑安之事也云々。因㆑之忽発心被㆔覚㆓悟八軸㆒云々。
定頼卿自㆓禁裏㆒退出、不㆑入㆓内方㆒、先誦㆓法華経第八巻㆒之時、四月月影朦朧、樹陰繁茂。小透長尺許物負したる聳㆓樹上㆒、不㆑見㆓何正体成㆒、怖畏止㆑声了。又小透ありつるよりもさがりて庭樹の枝中に、如㆑初聳渡之後、即高欄之上有㆓如㆑影之者㆒、異香薫㆑室。乍㆑恐問云、彼何。答曰、仙人揚勝に侍る。自㆓本山天台嶺㆒指㆓金峯山㆒飛渡之間、遥聞㆓御音㆒所㆓参向㆒也。不㆑可㆘令㆓怖畏㆒給㆖云々。只恨不㆓聞給㆒云々。納言依㆑此重誦㆑経。仙感荷之余言云、楊勝の侍る所には御座さん哉云々。納言云、所庶幾也。但何様にして可㆑至哉。仙云、可㆘令㆑乗㆓揚勝背㆒給㆖云々。相互承諾畢。爰納言有㆘可㆓示承㆒事㆖とて入㆓内方㆒。其時仙人、心きたなくいましけりとて帰去畢云々。
近衛大将騎馬之時、番長騎馬先頗令馳之、為㆔追㆓払雑人㆒也云々。而八条大将保忠為㆓桃尻㆒、就㆓前馬㆒走出之間落馬、落冠及㆓恥辱㆒之後、件礼永止云々。
源大納言顕行幸供養之時、頗近目之間、馬を引きたるを見失ひて、被㆑尋けるを、忠教卿騎馬して近被㆓打立㆒たりけるが、馬はあめるはとて、頗笑ひ給ふ云々。爰亜相怒云、何事いふ、行家がまらくそめがと云々。戸部頳面閉口云々。行家、忠教之継父【 NDLJP:44】也。若有㆓実父之疑㆒歟。
大治五年十月五日、参議四人師頼・長実〈中将〉宗輔〈中将〉・師時等任㆓中納言㆒。〈去保安四年已後違之死闕于㆑今未㆑被㆑任。〉 于㆑時伊通参議右兵衛督中宮権大夫四人皆上臈也。然而不㆑堪㆓愁緒㆒、翌日辞㆓所帯等㆒、於㆓大宮大路㆒破㆓焼檳榔車㆒、白昼着㆓褐衣水干㆒、貲布袴騎馬被㆑渡㆓神崎遊女金許㆒。又年来所㆑被㆓借置㆒蒔絵弓、返㆓遣中院右府㆒とて、
八年まで手ならしたりし梓弓返るを見てぞ音は泣かれける
何かそれおもひすつべき梓弓又ひきかへすをりもありけり
長承二年九月廿一日、自㆓前参議㆒直任㆓中納言㆒。〈陣座除目任㆓公卿㆒事、自㆑此始之。又自㆓前官㆒任事、宇治大納言隆国自㆓前中納言㆒直任㆓大納言㆒之例云云。〉 同十二月五日、勅授帯劒云々。
師頼卿多年沈淪、籠居拝㆓任中納言㆒。後勤㆓仕釈尊上卿㆒。作法進退之間、於㆑事成㆓不審㆒、粗問㆓於人㆒。其時成通卿参議之時列坐云、年来御籠居之間、公事御忘却歟。うゐ〳〵敷被㆓思食㆒之条、尤道理也云々。師頼卿不㆑謂㆓返事㆒、顧眄時独言云、入㆓大廟㆒毎㆑事問者奈云々。〈論語文。〉成通卿閉口止。後日逢㆑人云、無㆓思分之方㆒出㆓不慮之言㆒畢。後悔千回云々。
嘉承元年十二月廿七日、右大弁家忠・左大弁基綱・左中将能俊等〈以上三人皆下臈也〉任㆓中納言㆒。于㆑時師頼参議右兵衛督第一座也。仍避㆓武衛㆒籠居。大治五年十月五日任㆓中納言㆒。 〈件頃天変重畳、諸道勘文云、被優才学之沈淪者叶㆓天心㆒歟云々。依㆑之所㆑令㆑任也云々〉同七年任㆓大納言㆒。
同大臣〈俊家〉除目を大殿に被㆑奉㆑習。九条太政大臣〈信長〉被㆑申云、何令㆑教給哉云々。大殿被㆑仰云、俊家をば誰人と被㆑存哉。然らば我も習ひ給へかし。
花山院右府〈家忠〉奉㆓仕除目之執筆㆒之時、高松中納言実衡任㆓参議㆒、而衡字忘却之間、奉㆑問㆓法性寺殿㆒。被㆑仰云、ゆきの中の魚云々。仍ふる雪の中に魚を書入れんとせられけれども、さる文字もなかりければ、黒字に被㆑書云々。
中院右府禅門与㆓左馬権頭顕定朝臣㆒常会合、多年無㆓隔心㆒。禅閣契約云、雖㆓夢後㆒所㆑願並㆑墓談話無㆑変云々。依㆑之顕定逝去刻、禅閣墓所〈久我〉傍掘㆓埋顕定㆒云々。仍于㆑今雨夜深更などには、物語して被㆑咲之声人多聞㆑之云々。
不㆑作㆑詩之人、昇㆓卿相㆒事、始㆑自㆓顕雅卿㆒云々。不㆑書㆓消息㆒之人昇㆓卿相㆒事、始㆑自㆓俊忠卿㆒云々。〈此事伊通被㆑進㆓二条院㆒、造帋中之中有㆑之云々。〉【 NDLJP:45】師頼卿為㆓淳和院別当㆒之時、彼院鐘不㆑槌鳴五六日。白昼人々行向見㆑之。全無㆓槌人㆒然、而自然有㆓其声㆒云々。大納言聞㆓此事㆒令㆑卜㆑之処、可㆑有㆓慶賀㆒云々。無㆓幾程㆒被㆑兼㆓春宮大夫㆒、存㆓符合之由㆒之間、又無㆑程被㆓薨去㆒畢。吉凶之叵㆑量事也。
遠江守盛章朝臣、熊野御山造㆑塔之時、引地之間、大鳥無㆑毛なるを、自㆓地中㆒掘出したりけり。不思議事也。いかゞすべきと評定の処、少納言入道〈通憲〉折節参会したりけるに、云合せければ、彼は猿の事侍るなり。権現の侍者とならんと誓ひたる者、社壇の辺土中などに、受㆑生事侍也。早如㆑元可㆓埋置㆒と被㆑示ければ、即埋畢云々。
小野皇太后宮者、後冷泉院后犬二条殿三女也。生年十四。随㆓舎兄静円僧正㆒、窃受㆓習諸経㆒。其後毎日読㆓誦法華経一部㆒、人敢無㆑知。春秋十六入内。治暦四年四月十九日立后。此夕帝崩。自㆑爾以来偏発㆓道心㆒、念仏転経之外、無㆓他之営㆒。於㆓二条東洞院亭㆒手自書㆓写最勝王経㆒。雲雨俄降霹靂入㆑殿。時奉㆑経奉㆑筆如㆑存如㆑亡。雷騰天晴開㆑眼見㆑経、空昏焼而字残、御身燃而身全。帰法之志自㆑此弥深。承暦元年落飾出家、以㆓良真座主㆒為㆓戒師㆒、一従㆓入小野之寒雲㆒、再不㆑見㆓長秋之暁月㆒、遂㆓往生之素懐㆒云々。
賢子中宮広寿聖人〈上灯之人歟〉後身云々。件聖人云、順次雖㆑可㆑遂㆓往生㆒、此御山無㆓依怙㆒。仍生㆓於貴人㆒、可㆕沙㆔汰出㆓依怙㆒云入滅。其節件后所㆓生給㆒也。中宮薨給之後、被㆑上㆓御骨於彼山㆒、被㆔建㆓立園光院㆒、被㆑寄㆓越前国牛原庄等㆒云々。
進命婦壮年之時、常参㆓詣清水寺㆒之間、師僧〈浄行八句者也。於法華経転読八万四千部と云々。〉見㆓此女房㆒発㆓欲心㆒、忽病成己及㆓死門㆒之間、弟子等成㆑奇問云、此御病体非㆓普通事㆒、有㆓令㆑思給事㆒歟、不㆑被㆑仰者自他無㆑由事也云々。此時僧云、実には自㆑京被㆑参御堂之女房、近き馴れて物を申さばやと思ひ給ひしより、此三ヶ年成㆓不食病㆒。今は已に蛇道に入りなむとする心浮事也。爰弟子一人向㆓女房許㆒、示㆓此由㆒之処、不㆑廻㆓時刻㆒来㆓臨病室㆒。病者不㆑剃㆑頭送㆓年月㆒之間、鬢髪已如㆓銀針㆒、其児不㆑異㆓鬼形㆒。然而此女敢無㆓怖畏之気㆒。年来奉㆑憑之志不㆑浅。雖㆓何事候㆒争奉㆑背㆑命哉。如㆑此御身くつほれさせ不㆑給之前、などか不㆑被㆑仰哉云々。此時病僧被㆓舁起㆒、執㆓念珠㆒おしもみて曰、嬉しく令㆑来給ひたり。八万余部之転読法華最第一之文、お前にたてまつる。俗を令㆑生給はゞ、関白摂政を令㆑生給へ。女を令㆑生給はゞ、女御后を生み給へ。僧を令㆑生給はゞ、法務大僧正を生み給ふべ【 NDLJP:46】しと、祈畢即以命終云々。其後此女房寵㆓愛于宇治殿㆒之間、果奉㆑生㆓京極大殿四条宮覚円座主㆒云々。
惟成弁清貧之時、妻室廻㆓善巧㆒、不㆑令㆑見㆑恥云々。而花山院令㆓即位㆒給之刻、離㆓別之㆒、為㆓満仲之聟㆒。因㆑玆件旧妻成㆑忿、請㆓貴布禰㆒祈申云、不㆑可㆓忽卒㆒、只今成㆓乞食㆒給へといひ、百ヶ日参詣之間、夢に示し給はく、件惟成無㆑極幸人也。何忽成㆓乞食㆒、哉。すこしき有㆓可㆑構事㆒云々。不㆑歴㆓幾程㆒、花山院御出家、惟成同出家、行㆓頭陀㆒云々。爰件旧妻弁入道、長楽寺辺にこそ乞食すなれと聞き得て、饗一前白米少々随身して、隠れ居て抱き入れて談㆓往事㆒。或哭或怨云々。入道承諾云々。
破㆓焼檳榔車㆒之事、九条大相国、〈信長〉為㆑列㆓京極殿之上㆒、拝㆓太政大臣㆒、有㆓公事㆒之日、着㆓装束㆒欲㆓参仕㆒之間、或人告云、関白被㆑下㆓一座宣旨㆒云々。仍今者不㆑能㆓出仕㆒とて、横榔車を引㆓出大路㆒被㆑焼㆑之。
頼光於㆓殿上㆒、息男可㆑補㆓蔵人㆒之由蒙㆓天気㆒云々。知章云、我子既為㆓進士雑色㆒、乍㆑置あしく被㆑申哉云々。仍頼光忽帰㆓参御前㆒申㆓返之㆒云々。
昔惟成之許に、文書之雲客等来集之日、只有㆓四壁㆒而市に餉を交易して、相㆓具甘葛煎㆒指出云々。又無㆑侍件妻を、
惟成為㆓秀才雑色㆒之時、花逍遥に、一条一種物しけり。惟成には飯を宛てたり。而長櫃に飯二、外居に鶏子一、折櫃に擣塩一杯納之て、仕丁に令㆑担て取㆓出之㆒。人々感声喧々。其夜与㆑妻臥して、手枕入れて探㆓下髪㆒皆切㆑之。此時驚き問ふ処、其時太政大臣と申す人、御炊に交易して、其長櫃仕丁して令㆓担出㆒云々。件妻敢無㆓歎愁之気㆒。
常咲云々。件女後為㆓業舒妻㆒云々。順業は外孫也。高名歌読也。有㆓郭公之名言㆒云云。
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