初等科國語 六/土とともに
一 土とともに
編集ひでり
編集 今年は、ひでりだ。
- 「この村に、きつと不信心者がゐるんだ。」
- 「だれだ。」
- 「だれだ。」
農夫たちは、口々にそんなことをいつた。
畠の土が、ぽこぽこに乾ききつてゐる。黄色な土が、すつかり白つぽくなつた。せと物のやうに固くなり、ひびがはいつた。
花をつけようとした麥が、そのまま枯れて、見えるかぎりの麥畠は、しらがになつた。
たべる物が、だんだんなくなつて來る。大事にしまつておいた
- 「張さん、何か惠んでください。うちの子どもが、うゑてゐます。」
張は、自分の二人の息子のことを思ひ、倉には、ほとんど物のないことも思つた。それでも、張は、倉から麥粉を出して來た。
- 「ありがたうございます。これで、子どもたちは、生き延びませう。」
井戸の水も、かれて來る。
- 「おとうさん、どこかへ行きませう。」
二人の子どもは、かういつてせがんだ。けれども、張はだまつてゐた。
- 「おとうさん、御飯のあるところへ行きませう。」
- 「──」
- 「おかあさんも、いつしよに行きませうね。」
張は、突然大きな聲でどなつた。
- 「どこへ行かうといふのだ。干ぼしになつても、ここを離れることはできない。」
大水
編集ある年は、雨續きであつた。來る日も、來る日も、ざんざん降つた。
- 「これでは大水だな。」
張は、遠くを流れてゐる川の音に、耳をすました。
一たび、この川があふれたが最後、ここらあたりは、海のやうになつてしまふ。畠はもちろんのこと、家でも、
- 「水には、かなはない。立ちのかう。」
張は、夜具をかつぎ、手に麥粉と塩をさげ、妻は、なべや、やくわんや、布ぎれなどを持つた。二人の子どもは、茶わんや、紙や、油や、マッチを持つた。
- 「もう、こんなところには來ないね。おとうさん。」
- 「おとうさん、わたしも、こんなところはいやだよ。」
- 「何をいつてゐる。水さへ引けば、すぐここへもどつて來るのだ。」
水を逃げて行く農夫の群が、あちらにも、こちらにも、雨に打たれて動いてゐた。
いなご
編集- 「おお、今年こそは豐年だ。」
張は、よく實のりかけた麥畠を見渡しながら、「何年ぶりかで、倉がいつぱいになるな。」と思つた。
張は、子どもたちと約束した物を、ふと思ひ出した。たこがあつた。笛があつた。なつめの砂糖づけもあつた。
こんなことを思ひながら、地平線を見た。すると、にはかに黑い雲がわいて來た。それが、みるみる近づいて來る。
雲ではなかつた。
- 「いなごだ、いなごの大群だ。」
- 「おうい、おうい。いなごだぞう。」
- 「いなごだぞう。」
農夫たちは、はうきを持つたり、たいまつを持つたりしたまま、うはのそらで、天を見てゐるばかりである。
いなごの群は、雨のやうに、ざあつと畠に降つた。作物は、ひとたまりもなく、むざんに食ひ荒されてしまつた。
明月
編集 五風十雨、今年は、何とありがたい年であつたらう。
今日は夜明けから、張の家では、麥刈をやつてゐた。いくら汗が流れても、樂しい汗であつた。いくら、腰や腕がつかれても、こころよいつかれであつた。
- 「これで、もう大丈夫。こんどこそ安心。」
長い麥の一うねを刈りあげるたびに、こんなひとりごとをいつた。子どもたちとの約束が、果せると思つただけでも、張はうれしくてならなかつた。
畠から大きな月が出て來た。
庭へ出した机の上に、
らふそくには、火がともつた。風のない靜かな月の出である。二人の子どもは、笛を合はせて吹いてゐる。
張は、しみじみと幸福にひたつた。