289●最 ( もっと ) も勝 ( すぐ ) れた祈禱 ( いのり ) は何 ( なに ) でありますか
[下段]
▲最 ( もっと ) も勝 ( すぐ ) れた祈禱 ( いのり ) は主禱文 ( しゅたうぶん ) であります。
主禱文 ( しゅたうぶん )
即 ( すなは ) ち天 ( てん ) に在 ( ましま ) すの祈禱 ( いのり ) であるが、其譯(訳) ( そのわけ ) は第 ( だい ) 一、之 ( これ ) はイエズス、キリスト が親 ( した ) しく教 ( をし ) へ給 ( たま ) うた祈祷 ( いのり ) だからである。聖人方 ( ) が作 ( つく ) った祈禱 ( いのり ) を大切 ( たいせつ ) にするならば、イエズス、キリスト が自 ( みずか ) ら作 ( つく ) り、教 ( をし ) へ且命 ( かつめい ) じ給 ( たま ) うたものは、尚更大切 ( なほさらたいせつ ) である。
第 ( だい ) 二、簡単 ( かんたん ) ではあるが、天主 ( てんしゅ ) の爲 ( ため ) 、我々 ( われゝゝ ) の爲 ( ため ) に、願 ( ねが ) ふべき一切 ( いっさい ) の事 ( こと ) を含 ( ふく ) み、其順序 ( そのじゅんじょ ) まで示 ( しめ ) されて居 ( ゐ ) る、即 ( すなは ) ち先 ( ま ) づ天主 ( てんしゅ ) の御光栄 ( ごこうえい ) を讃美 ( さんび ) し、後 ( のち ) に吾入用 ( わがいりよう ) を願 ( ねが ) ふやうに出来 ( でき ) て居 ( を ) る、第 ( だい ) 三、天主 ( てんしゅ ) に聞入 ( きゝいれ ) られ易 ( やす ) いから、従 ( したがっ ) て其功果 ( そのこうくわ ) もある筈 ( はず ) である。然 ( さ ) れば文章 ( ぶんせう ) の工妙 ( たくみ ) な祈禱 ( いのり ) よりも、主禱文 ( しゅたうぶん ) の意味 ( いみ ) を覺 ( さと ) り味 ( あぢは ) ひながら、落付 ( おちつ ) いて熱心 ( ねっしん ) に俑 ( とな ) ふれば、天主 ( てんしゅ ) の御心 ( みこゝろ ) に叶 ( かな ) ふに相違 ( さうゐ ) ない。
290◯何故此祈禱 ( なぜこのいのり ) を主禱文 ( しゅたうぶん ) と謂 ( い ) ひますか
△主 ( しゅ ) イエズス、キリスト が自 ( みずか ) ら此祈方 ( このいのりかた ) を教 ( をし ) へ給 ( たま ) うたからであります。
弟子等 ( でしたち ) はイエズス、キリスト に向 ( むか ) ひ、「主 ( しゅ ) よ我等 ( われら ) に祈 ( いの ) る事 ( こと ) を教 ( をし ) へ給 ( たま ) へ」と云 ( い ) ひたれば、「汝等 ( なんじら ) の祈 ( いの ) る時 ( とき ) に斯 ( か ) く云 ( い ) へ」と(ル カ十一。一)仰 ( おっ ) しゃって、「天 ( てん ) に在 ( ましま ) す」(英文、羅甸(ラテン)文の言い方「(天の~ of Heaven)我らの父(ノーストレ(アワー)・パーテレ(ファーザー))」の祈り)を習 ( なら ) はせて下 ( くだ ) さったが、是 ( これ ) が主禱文 ( しゅたうぶん ) 、
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即 ( すなは ) ち御主 ( みあるじ ) の祈方 ( いのりかた ) と名 ( なづ ) けられた。主 ( しゅ ) の命 ( めい ) じ給 ( たま ) ふ所 ( ところ ) であれば、聖會 ( せいくわい ) では之 ( これ ) を非常 ( ひぜう ) に重 ( おも ) んじて居 ( を ) る。然 ( さ ) れば、信者 ( しんじゃ ) も暗記 ( あんき ) して度々誦 ( たびゞゝとな ) へるやう努 ( つと ) めねばならぬ。此中 ( このうち ) 「日用 ( にちよう ) の糧 ( かて ) を今日与 ( こんにちあた ) へ給 ( たま ) へ、罪 ( つみ ) を赦 ( ゆる ) し給 ( たま ) へ」等 ( など ) あれば、日々誦 ( にち〱とな ) ふべき筈 ( はず ) であらう。
291◯主禱文 ( しゅたうぶん ) は幾 ( いく ) つの願 ( ねがひ ) を含 ( ふく ) みますか
△主禱文 ( しゅたうぶん ) は七 ( なゝ ) つの願 ( ねがひ ) を含 ( ふく ) みます。
七 ( なゝ ) つの願 ( ねがひ )
即 ( すなは ) ち前 ( はじめ ) の三 ( み ) つは天主 ( てんしゅ ) の御光榮 ( みさかえ ) の爲 ( ため ) にして、後 ( あと ) の四 ( よ ) つは人 ( ひと ) の靈肉上 ( れいにくぜう ) の入用 ( いりよう ) を求 ( もと ) めるのである。
(註 ( ちゅう ) )七 ( なゝ ) つの願 ( ねがひ ) の外 ( ほか ) に始 ( はじめ ) には心 ( こゝろ ) を天主 ( てんしゅ ) に上 ( あ ) げる序文 ( じょぶん ) 、即 ( すなは ) ち前書 ( まへがき ) があって、終 ( をはり ) には結文 ( けつぶん ) 、即 ( すなは ) ち結 ( むすび ) がある。序文 ( じょぶん ) は「天 ( てん ) に在 ( ましま ) す我等 ( われら ) の父 ( ちゝ ) よ」と云 ( い ) ふ言 ( ことば ) であるが天主様 ( てんしゅさま ) を旧約時代 ( きうやくじだい ) の如 ( ごと ) く「יהוהyhvhアドナヰ」(主)とも云 ( い ) はず、叉今 ( またいま ) の如 ( ごと ) く天主 ( てんしゅ ) とか、造物主 ( ぞうぶつしゅ ) とか、造主 ( つくりぬし ) とも云 ( い ) はずして、殊更 ( ことさら ) に父 ( ちゝ ) と名 ( なづ ) けるのは、如何 ( いか ) にも親 ( した ) しみ深 ( ふか ) い有 ( あり ) がたい言 ( ことば ) で、人 ( ひと ) は何 ( ど ) う云 ( い ) ふ心 ( こゝろ ) を以 ( もっ ) て祈 ( いの ) るべきかを示 ( しめ ) して居 ( を ) る。此世 ( このよ ) の父母 ( ちゝはゝ ) は子 ( こ ) に生命 ( いのち ) を伝 ( つた ) へても、勝手 ( かって ) に之 ( これ ) を與(与) ( あた ) へたり、保 ( たも ) つ事 ( こと ) は出來 ( でき ) ない。天主 ( てんしゅ ) のみが出來給 ( できたま ) うが故 ( ゆゑ ) に眞 ( まこと ) の
[下段]
我等 ( われら ) の父 ( ちゝ ) にて在 ( ましま ) すのである。自然界 ( しぜんかい ) に於 ( おい ) て既 ( すで ) に我々 ( われゝゝ ) の父 ( ちゝ ) にて在 ( ましま ) すのに、超自然界 ( てうしぜんかい ) に於 ( おい ) ては聖寵 ( せいてう ) に由 ( よっ ) て我等 ( われら ) を子女 ( こども ) として引受 ( ひきう ) け、御一子 ( おんひとりご ) イエズス、キリスト を以 ( もっ ) て助 ( たす ) け、家督 ( かとく ) として天国 ( てんごく ) を約 ( やく ) し給 ( たま ) うたれば、尚更我等 ( なほさらわれら ) の父 ( ちゝ ) と云 ( い ) はねばならぬ。
然 ( さ ) て我父 ( わがちゝ ) と云 ( い ) はず我等 ( われら ) の父 ( ちゝ ) とあれば、自分 ( じぶん ) の事 ( こと ) ばかり思 ( おも ) はずして、皆兄弟 ( みなけうだい ) である事 ( こと ) 、皆心 ( みなこゝろ ) と力 ( ちから ) とを合 ( あは ) ぜて相互 ( あひたがひ ) の為 ( ため ) に祈 ( いの ) り、相助 ( あいたす ) けねばならぬ事 ( こと ) を示 ( しめ ) すのである。叉天 ( またてん ) に在 ( ましま ) すとあるは、天 ( てん ) を仰 ( あふ ) げば天主 ( てんしゅ ) の広大無辺 ( くわうだいむへん ) にて在 ( ましま ) し、此下界 ( このげかい ) よりは限 ( かぎり ) なく超越 ( てうえつ ) し給 ( たま ) ふ事 ( こと ) が解 ( わ ) かる。天 ( てん ) は我等 ( われら ) が終 ( つひ ) に父 ( ちゝ ) を見奉 ( みたてまつ ) る爲 ( ため ) に召 ( め ) される所 ( ところ ) であれば、我々 ( われゝゝ ) は心 ( こゝろ ) を常 ( つね ) に下界 ( げかい ) より引上 ( ひきあ ) ぐべき事 ( こと ) を覺悟 ( かくご ) し、主禱文 ( しゅたうぶん ) としては最 ( もっと ) も相應 ( ふさわ ) しい序文 ( じょぶん ) である。
292◯「願 ( ねがは ) くは御名 ( みな ) の尊 ( たふとま ) れん事 ( こと ) 」をとの意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△天主 ( てんしゅ ) の御名 ( みな ) が汚 ( けが ) されずして普 ( あまね ) く世 ( よ ) に知 ( し ) られ崇 ( あが ) められる事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふの意味 ( いみ ) である。
天主 ( てんしゅ ) を讃美 ( さんび ) するにも冒瀆 ( ぼうとく ) するにも其名 ( そのな ) を出 ( いだ ) すものであれば、
御名 ( みな )
は天主 ( てんしゅ ) と同一 ( どういつ ) のものと見 ( み ) る事 ( こと ) が出來 ( でき ) る。然 ( さ ) て天主 ( てんしゅ ) の御 ( み )
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名 ( な ) が
汚 ( けが ) されずして
とは、第 ( だい ) 百五十五の問 ( とひ ) に云 ( い ) はれた通 ( とほ ) り、天主第 ( てんしゅだい ) 二誡 ( かい ) を以 ( もっ ) て誡 ( いまし ) められたる冒瀆等更 ( ぼうとくなどさら ) に無 ( な ) くして、全世界 ( ぜんせかい ) に、天主 ( てんしゅ ) を知 ( し ) らぬ人 ( ひと ) は数 ( かぞ ) へられぬ程 ( ほど ) あるから、何 ( ど ) うか何國 ( いづく ) にも御名 ( みな ) が知 ( し ) れ、萬國萬代 ( ばんこくばんだい ) に人々 ( ひとゞゝ ) が天主 ( てんしゅ ) は如何 ( いか ) に尊 ( たふと ) び難有思 ( ありがたくおも ) ひ其御旨 ( そのおんむね ) に從 ( したが ) ふべきものであるかを弁(辨) ( わきま ) へ、崇 ( あが ) め、善徳 ( ぜんとく ) を以 ( もっ ) て聖 ( せい ) とせられん事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふ謂 ( い ) はば布教 ( ふけう ) の成功 ( せいこう ) を祈 ( いの ) るのである。
293◯「御國 ( みくに ) の來 ( きた ) らん事 ( こと ) を」との意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△公教會 ( こうけうくわい ) が盛 ( さかん ) になり、人々 ( ひと〲 ) 一般 ( ぱん ) に天國 ( てんごく ) の福樂 ( さいはひ ) を蒙 ( かうむ ) る事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふの意味 ( いみ ) である。
御國 ( みくに )
とは來世 ( らいせ ) の天國 ( てんごく ) を斥 ( さ ) すのではない、寧 ( むし ) ろ天國 ( てんごく ) の入口 ( いりくち ) なる此世 ( このよ ) の公教會 ( こうけうくわい ) を斥 ( さ ) すのである、旧(舊)約 ( きうやく ) の預言者 ( よげんしゃ ) 、洗者 ( せんしゃ ) ヨハネ 、イエズス、キリスト も「天主 ( てんしゅ ) の國 ( くに ) 」とか「天國 ( てんごく ) 」とか殊更 ( ことさら ) に名 ( なづ ) け給 ( たま ) ふた。秩序 ( ちつじょ ) の整 ( とゝの ) うた國 ( くに ) に於 ( おい ) ては國民 ( こくみん ) は、國 ( くに ) の法律 ( はうりつ ) を自 ( みづか ) ら進 ( すゝ ) んで守 ( まも ) ると同樣 ( どうやう ) に、人間 ( にんげん ) は皆天主 ( みなてんしゅ ) の教 ( をしへ ) に歸(帰)服 ( きふく ) すべきものである。
キリスト は此國 ( このくに ) を建設 ( けんせつ ) する爲 ( ため ) に天降 ( あまくだ ) り給 ( たま ) ふたことを、種々 ( さまゞゝ ) の
[下段]
譬話 ( たとへばなし ) を以 ( もっ ) て、其原因 ( そのげんいん ) 、其性質 ( そのせいしつ ) 、其徳 ( そのとく ) 、其國民 ( そのこくみん ) の義務 ( ぎむ ) を述 ( の ) べ、天主 ( てんしゅ ) を國王 ( こくわう ) 、家父 ( かふ ) 、判事 ( はんじ ) に譬 ( たと ) へ、当分 ( たうぶん ) は善 ( よ ) いものも惡 ( わる ) いものも混 ( こん ) じて入 ( い ) って居 ( を ) るけれど、必竟審判 ( つまりさばき ) を受 ( う ) けて善人 ( ぜんにん ) のみが天國 ( てんごく ) に歸(帰) ( き ) すべきものであると仰 ( おほ ) せられた。其國 ( そのくに ) は既 ( すで ) に來 ( き ) ては居 ( を ) れど、未 ( ま ) だ世 ( よ ) に一箇処 ( かしょ ) でも一人 ( にん ) でも之 ( これ ) に從 ( したが ) はぬ者 ( もの ) のある間 ( あひだ ) は我々 ( われゝゝ ) は御國 ( みくに ) の來 ( きた ) らん事 ( こと ) をと祈 ( いの ) る筈 ( はず ) である。
294◯「御意 ( みむね ) の天 ( てん ) に行 ( おこな ) はるゝ如 ( ごと ) く地 ( ち ) にも行 ( おこな ) はれん事 ( こと ) を」との意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△天 ( てん ) に於 ( おい ) て天使 ( てんし ) 聖人 ( せいじん ) が天主 ( てんしゅ ) の御思召 ( おぼしめし ) を遂 ( と ) げつゝある如 ( ごと ) く、地 ( ち ) に於 ( おい ) ても凡 ( すべ ) ての人 ( ひと ) が天主 ( てんしゅ ) の御思召 ( おぼしめし ) に従 ( したが ) ふやうになる事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふの意味 ( いみ ) である。
御意 ( みむね )
とは思召 ( おぼしめし ) とも御心 ( みこゝろ ) とも云 ( い ) はれるが、聖 ( せい ) パウロ は羅馬書 ( ろましょ ) 十二章 ( せう ) 二節 ( せつ ) に之 ( これ ) を善 ( ぜん ) と御心 ( みこゝろ ) に叶 ( かな ) ふ事 ( こと ) と完全 ( くわんぜん ) との三 ( みつ ) に分 ( わ ) けて居 ( を ) る。善 ( ぜん ) とは善悪 ( ぜんあく ) を區別 ( くべつ ) する天主 ( てんしゅ ) の誡命 ( かいめい ) 、御心 ( みこゝろ ) に叶 ( かな ) ふとは人 ( ひと ) が宜 ( よろ ) しく守 ( まも ) るべき天主 ( てんしゅ ) の御勸 ( おんすゝめ ) 、完全 ( くわんぜん ) とは天主 ( てんしゅ ) の御望 ( おんのぞみ ) までを云 ( い ) ふが、
天 ( てん ) に於 ( おい ) て
天使聖人 ( てんしせいじん ) が己 ( おのれ ) を思 ( おも ) はず、天主 ( てんしゅ ) のみを思 ( おも ) ひ、唯天主 ( たゞてんしゅ ) の御心 ( みこゝろ ) を全 ( まった ) うする事 ( こと ) のみを勵(励) ( はげ ) むが如 ( ごと ) く、
地 ( ち ) に於 ( おい ) て
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も
凡 ( すべ ) ての人 ( ひと ) が身 ( み ) を惜 ( をし ) まず、天主 ( てんしゅ ) の誡命 ( かいめい ) 、御勸 ( おんすゝめ ) 、御望 ( おんのぞみ ) までに従 ( したが ) ふやうになる事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふ意味 ( いみ ) である。
(註 ( ちゅう ) )主禱文 ( しゅたうぶん ) は此通 ( このとほ ) り翻訳 ( ほんやく ) されるが、原文 ( げんぶん ) を見 ( み ) れば、「天 ( てん ) に於 ( おけ ) る如 ( ごと ) く地 ( ち ) にも」と云 ( い ) ふ言 ( ことば ) は第 ( だい ) 三の願 ( ねがひ ) のみならず、三 ( みつ ) の願 ( ねがひ ) を共 ( とも ) に包含 ( ほうがん ) するやうに見 ( み ) える。其 ( それ ) で云 ( い ) はゞ「御名 ( みな ) は聖 ( せい ) とせられかし御國 ( みくに ) は來 ( きた ) れかし、御意 ( みむね ) は行 ( おこな ) はれかし、天 ( てん ) に於 ( おけ ) るが如 ( ごと ) く地 ( ち ) に於 ( おい ) ても」との意味 ( いみ ) らしい。
295◯「我等 ( われら ) の日用 ( にちよう ) の糧 ( かて ) を今日我等 ( こんにちわれら ) に與(与) ( あた ) へ給 ( たま ) へ」との意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△我等 ( われら ) の靈魂 ( れいこん ) と肉体 ( にくたい ) との爲 ( ため ) に必要 ( ひつえう ) なものを、日々天主 ( にちゝゝてんしゅ ) から与 ( あた ) へられる事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふの意味 ( いみ ) である。
糧 ( かて )
と云 ( い ) ふ代 ( かはり ) に原文 ( げんぶん ) にはパンとある。パンはイエズス、キリスト の時代 ( じだい ) に國 ( くに ) の常食 ( ぜうしょく ) であったので、日用 ( にちよう ) の糧 ( かて ) とは日々要 ( にちゝゝい ) る食物 ( たべもの ) の謂 ( いひ ) である。
其 ( それ ) は主 ( おも ) に四 ( よつ ) の意味 ( いみ ) に取 ( と ) られる、第 ( だい ) 一体 ( からだ ) を養 ( やしな ) ふ食物 ( たべもの ) 。第 ( だい ) 二イエズス、キリスト が「人 ( ひと ) の活 ( い ) きるはパンのみによるにあらず、
[下段]
叉天主 ( またてんしゅ ) の御口 ( みくち ) より出 ( い ) づる凡 ( すべ ) ての言 ( ことば ) による」と仰 ( おほ ) せられた天主 ( てんしゅ ) の御教 ( みをしへ ) 。第 ( だい ) 三生命 ( いのち ) のパンと稱(称) ( せう ) せられたる聖體(体) ( せいたい ) (ヨハネ六。四一、四八、五三、五六)。第 ( だい ) 四終 ( つひ ) に天主 ( てんしゅ ) の子女 ( こども ) たる生命 ( いのち ) を維持 ( ゐぢ ) する助力 ( じょりき ) の聖寵 ( せいてう ) である。
今日 ( こんにち )
とあるは、明日 ( あす ) まで活 ( い ) きぬかも知 ( し ) れぬ、明日 ( あす ) の事 ( こと ) まで思煩 ( おもひわづら ) ふに及 ( およ ) ばぬと、キリスト は仰 ( おほ ) せられたからである。之 ( これ ) を以 ( もっ ) て先々 ( さきゞゝ ) の爲 ( ため ) に貯 ( たくは ) へ置 ( お ) く事 ( こと ) を禁 ( きん ) じられたのではない、唯生命 ( たゞいのち ) の一日 ( にち ) でも主 ( しゅ ) の御手 ( みて ) にあって、生存 ( ながら ) へる養 ( やしなひ ) は全 ( まった ) く天主 ( てんしゅ ) の日々 ( にちゝゝ ) の賜 ( たまもの ) なる故 ( ゆゑ ) に日々其御摂理 ( にちゝゝそのごせつり ) に依頼 ( いらい ) すべき事 ( こと ) を教 ( をし ) へ、天主 ( てんしゅ ) は肉体霊魂 ( にくたいれいこん ) に要 ( い ) る物 ( もの ) を、今日 ( けふ ) さへ下 ( くだ ) されば可 ( よ ) いと日々祈 ( にちゝゝいの ) らせるのである。
296◯「我等 ( われら ) が人 ( ひと ) に赦 ( ゆる ) す如 ( ごと ) く我等 ( われら ) の罪 ( つみ ) を赦 ( ゆる ) し給 ( たま ) へ」との意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△我等 ( われら ) に対 ( たい ) して過失 ( あやまち ) を冒 ( をか ) した者 ( もの ) を我等 ( われら ) が赦 ( ゆる ) す如 ( ごと ) く、天主 ( てんしゅ ) からも我等 ( われら ) の過失 ( あやまち ) を赦 ( ゆる ) されん事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふの意味 ( いみ ) である。
主 ( しゅ ) の御言 ( みことば ) は明 ( あきら ) かである、即 ( すなは ) ち「宥 ( ゆる ) せ然 ( さ ) らば汝等 ( なんぢら ) も宥 ( ゆる ) されよう」と(ル カ六。三七)、叉 ( また ) 「汝等若 ( なんぢらも ) し各心 ( おのゝゝこゝろ ) より己 ( おの ) が兄弟 ( けうだい ) を宥 ( ゆる ) さずば
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我天父 ( わがてんぷ ) も亦汝等 ( またなんぢら ) に斯 ( かく ) の如 ( ごと ) く為 ( な ) し給 ( たま ) ふべし」と(マ テ オ十八。三五)。然 ( さ ) れば此願 ( このねがひ ) も「如 ( ごと ) く」とあれば条件付 ( でうけんつき ) になって、我等 ( われら ) が他人 ( たにん ) に宥 ( ゆる ) さぬならば天主 ( てんしゅ ) も我等 ( われら ) には宥 ( ゆる ) し給 ( たま ) ふ事 ( こと ) なかれとの意味 ( いみ ) になる。宥 ( ゆる ) すべきは受 ( う ) けた損害 ( そんがい ) や權利 ( けんり ) を冒 ( をか ) される事 ( こと ) ではない、遺恨 ( ゐこん ) である、遺恨 ( ゐこん ) さへ含 ( ふく ) まぬなら、損害賠償 ( そんがいばいせう ) 、權利回復等 ( けんりくわいふくなど ) 、請求 ( せいきう ) しても可 ( よ ) い。若 ( も ) し心 ( しん ) から遺恨 ( ゐこん ) を棄 ( す ) てて、罪 ( つみ ) を痛悔 ( つうくわい ) すれば、是 ( これ ) で小罪 ( せうざい ) が赦 ( ゆる ) されるに相違 ( さうゐ ) ない。
297◯「我等 ( われら ) を誘試 ( こゝろみ ) に引 ( ひ ) き給 ( たま ) はざれ」との意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△我等 ( われら ) を凡 ( すべ ) ての誘 ( いざなひ ) から逃 ( のが ) れさせ、且之 ( かつこれ ) に堪 ( た ) へる助力 ( ちから ) を下 ( くだ ) し給 ( たま ) ふ事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふの意味 ( いみ ) である。
誘試 ( こゝろみ )
とは、心 ( こゝろ ) を動 ( うご ) かされて罪 ( つみ ) にでも引 ( ひ ) かされる事 ( こと ) であるが、
それは惡魔 ( あくま ) の勸 ( すゝめ ) と邪欲 ( じゃよく ) ばかりではない、靈肉上 ( れいにくぜう ) の困難 ( こんなん ) も幾許 ( いくら ) か然 ( さ ) うである。天主 ( てんしゅ ) が我々 ( われゝゝ ) を救靈 ( たすかり ) の危険 ( きけん ) に成 ( な ) るものより逃 ( のが ) れさせ、叉通例 ( またつうれい ) は人間 ( にんげん ) の欲心 ( よくしん ) より起 ( おこ ) り又功績 ( またこうせき ) の機會 ( きくわい ) にも成 ( な ) るからとの思召 ( おぼしめし ) ならば、従 ( したが ) って能 ( よ ) く之 ( これ ) に堪 ( た ) へ、立派 ( りっぱ ) に打勝 ( うちか ) つ助力 ( ちから ) を賜 ( たま ) はる事 ( こと ) を祈 ( いの ) るのである。聖 ( せい ) ヤコボ 曰 ( いは ) く「誰 ( たれ ) も誘 ( いざな ) はれるに
[下段]
當(当) ( あた ) って天主 ( てんしゅ ) より誘 ( いざな ) はれると云 ( い ) ふべからず、蓋 ( けだ ) し天主 ( てんしゅ ) は惡 ( あく ) に誘 ( いざな ) はれ給 ( たま ) ふ事能 ( ことあた ) はざれば、誰 ( たれ ) をも誘 ( いざな ) ひ給 ( たま ) ふ事 ( こと ) なし、各 ( おのゝゝ ) の誘 ( いざな ) はれるは、己 ( おのれ ) の欲 ( よく ) に惹 ( ひ ) かれ惑 ( まどは ) されてとある、斯 ( かく ) て欲 ( よく ) の孕 ( はら ) むや罪 ( つみ ) を産 ( う ) み、罪 ( つみ ) の全 ( まった ) うせられるや死 ( し ) を生 ( せう ) ずる」と(ヤコボ書一。十三、十五)叉聖 ( またせい ) パウロ 曰 ( いは ) く「汝等 ( なんぢら ) に係 ( かゝ ) る試 ( こゝろみ ) は人 ( ひと ) の常 ( つね ) なるもの耳 ( のみ ) 。天主 ( てんしゅ ) は眞實 ( しんじつ ) にて在 ( ましま ) せば、汝等 ( なんぢら ) の力以上 ( ちからいぜう ) に試 ( こゝろ ) みられる事 ( こと ) を許 ( ゆる ) し給 ( たま ) はず、却 ( かへっ ) て堪 ( た ) へる事 ( こと ) を得 ( え ) させる爲 ( ため ) に、試 ( こゝろみ ) と共 ( とも ) に勝 ( か ) つべき方法 ( ほうはふ ) をも賜 ( たま ) ふべし」と(コリント前書十。十三)
268◯「我等 ( われら ) を惡 ( あく ) より救 ( すく ) ひ給 ( たま ) へ」との意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△凡 ( すべ ) ての惡 ( あく ) 、即 ( すなは ) ち禍災 ( わざはひ ) と罪 ( つみ ) と地獄 ( ぢごく ) とを免 ( まぬが ) れる事 ( こと ) を願 ( ねが ) ふの意味 ( いみ ) である。
悪 ( あく )
とは、惡 ( わる ) い事 ( こと ) ばかりではない、主 ( おも ) に害 ( がい ) に成 ( な ) る
禍災 ( わざはひ ) と罪 ( つみ ) と地獄 ( ぢごく ) と
であって、是皆天主 ( これみなてんしゅ ) の御助 ( おんたすけ ) を以 ( もっ ) て逃 ( のが ) れ、或 ( あるひ ) は能 ( よ ) く之 ( これ ) に堪 ( た ) へる事 ( こと ) を祈 ( いの ) るのである。然 ( さ ) りながら世 ( よ ) の禍災 ( わざはひ ) を悉 ( ことゞゝ ) く免 ( まぬが ) れしめ給 ( たま ) へと願 ( ねが ) ふ訳 ( わけ ) には行 ( ゆ ) かぬ、天主 ( てんしゅ ) が禍災 ( わざはひ ) を取除 ( とりの ) け給 ( たま ) はぬ理由 ( りいう ) は第 ( だい ) 二十五の問 ( とひ ) に見 ( み ) える。
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299◯「アメン」との意味 ( いみ ) は如何 ( いかゞ )
△「アメン」とは然 ( しか ) あれかしとの意味 ( いみ ) であります。
アメン
とはヘブレオ 語 ( ご ) であって、前 ( さき ) に云 ( い ) はれた事 ( こと ) を繰返 ( くりかへ ) して、之 ( これ ) を承諾 ( せうだく ) するとの意味 ( いみ ) である。使徒信経等 ( しとしんけうなど ) では、本当 ( ほんとう ) の祈禱 ( いのり ) でなく、信 ( しん ) ずべき事等 ( ことなど ) を述 ( の ) べるのであるから然 ( しか ) り、私 ( わたくし ) も愈 ( いよい ) よ然 ( さ ) うであるとの意味 ( いみ ) になる。祈禱 ( いのり ) の終 ( をはり ) では、然 ( しか ) あれかし、即 ( すなは ) ち私 ( わたくし ) も然 ( さ ) う祈 ( いの ) り奉 ( たてまつ ) るとの意味 ( いみ ) である。小 ( ちひ ) さな一言 ( げん ) ではあるが斯樣 ( かやう ) に意味深 ( いみふか ) いものであるから常 ( つね ) に心 ( しん ) から恭 ( うやゝゝ ) しく誦 ( とな ) へる筈 ( はず ) である。
300●聖母 ( せいぼ ) マリア に対 ( たい ) する祈禱 ( いのり ) の中 ( うち ) 、最 ( もっと ) も優 ( すぐ ) れたものは何 ( なに ) でありますか
▲天使祝詞 ( てんししゅくし ) の祈祷 ( いのり ) であります。
天使祝詞 ( てんししゅくし )
とは、慶 ( めでた ) し聖寵 ( せいてう ) 充満 ( みちみ ) てるマリア との言 ( ことば ) を以 ( もっ ) て初 ( はじま ) る祈祷 ( いのり ) であるが、大天使 ( だいてんし ) ガブリエルが御告 ( おつげ ) の爲 ( ため ) に天主 ( てんしゅ ) より聖 ( せい ) マリア に遣 ( つかは ) されて、挨拶 ( あいさつ ) に用 ( もち ) ゐた言 ( ことば ) ゆゑ、其祈禱 ( そのいのり ) は天使祝詞 ( てんししゅくし ) と名 ( なづ ) けられた訳 ( わけ ) である。
[下段]
天使 ( てんし ) の言 ( ことば ) は、汝 ( なんぢ ) は女 ( をんな ) の中 ( うち ) にて祝 ( しゅく ) せらる、迄 ( まで ) に至 ( いた ) るが、慶 ( めでた ) しとは本当 ( ほんたう ) の挨拶 ( あいさつ ) であって、原語 ( げんご ) では、安 ( やす ) かれとの意味 ( いみ ) であるが、羅甸語 ( ラテンご ) ではアヴェ即 ( すなは ) ち健 ( すこやか ) なれ、希臘語 ( ギリシャご ) では、喜 ( よろこ ) べとの意味 ( いみ ) ある通常 ( つうぜう ) の挨拶語 ( あいさつご ) を以 ( もっ ) て譯(訳) ( やく ) されて居 ( ゐ ) る。
偖 ( さ ) て慶 ( めでた ) しの祈禱 ( いのり ) は、挨拶 ( あいさつ ) と祈願 ( きぐわん ) との二部 ( ぶ ) に分 ( わか ) たれる。挨拶 ( あいさつ ) は大天使 ( だいてんし ) ガブリエルと聖母 ( せいぼ ) の親族 ( しんぞく ) エリザベト との言 ( ことば ) で成立 ( なりた ) つ、即 ( すなは ) ち「女 ( をんな ) の中 ( うち ) にて祝 ( しゅく ) せらる」までは大天使 ( だいてんし ) の挨拶 ( あいさつ ) であるが、次 ( つぎ ) の「御胎 ( ごたい ) の御子祝 ( おんこしゅく ) せられ給 ( たま ) ふ」とは聖母 ( せいぼ ) に訪問 ( ほうもん ) された親族 ( しんぞく ) エリザベト の挨拶 ( あいさつ ) である。祈願 ( きぐわん ) はそれから終 ( をはり ) までゞあるが、之 ( これ ) は公教會 ( こうけうくわい ) で凡 ( およ ) そ十六世紀 ( せいき ) の頃 ( ころ ) に加 ( くは ) えられたのである。