-207-

だい四十八くゎ 祈 禱いのり

聖寵せいてうるには秘蹟ひっせき唯一ゆゐいつみちでない、祈禱いのりるが、秘蹟ひっせきさづかる前後ぜんごにも其時そのときにも、祈禱いのりなにより必要欠(缺)ひつえうかくべからざる條件でうけんである。

281●祈禱いのりとはなにでありますか

祈禱いのり天主てんしゅ

[下段]

こゝろげて、天主てんしゅ讃美さんびし、つみ赦叉ゆるしまためぐみねがことであります。

祈禱いのり

祈禱きたうともふが、はやへば天主或てんしゅあるひ聖人等せいじんたちもの申上まうしあげることである。

天主てんしゅこゝろげる

とは、此世このよりながらこゝろ世事せじより引離ひきはなして、あたか天主てんしゅまみ且見奉かつみたてまつるがごとくに申上まをしあげることであるがくちばかりの祈禱いのり本當(当)ほんたう祈禱いのりでない、むし天主てんしゅたいして無礼ぶれいる。

祈禱いのりねがことばかりでない、

天主てんしゅ讃美さんびし、

すなは天主てんしゅ萬物ばんぶつ造主つくりぬし全知全能全善ぜんちぜんのうぜんゞゝにてましませば、其限そのかぎりなき御徳おんとくかんじて礼(禮)拜れいはいし、最上さいぜう御主みあるじあがめ、讃称(稱)ほめあたてまつことである。

おんしゃ

とは、あるひ人類一般じんるゐいっぱんに、あるひ直接間接ちょくせつかんせつおのれ靈魂上肉身上賜れいこんぜうにくしんぜうたまはりたる恩惠めぐみ感謝かんしゃして、御礼(禮)おれい申上まをしあげることである。たとへばつくられたること生存いきながらへさせられたることつみゆるされたることわざはひのがれたる事等ことなど叉何またなににもかぎらず御恩惠おんめぐみ一々いち〱

-208-

感謝かんしゃたてまつことである。すなはおの入用いりようわすれて、天主てんしゅ讃美さんび感謝かんしゃするのは、ものねがふよりも価値ねうちもあれば効験きゝめもある。

つみゆるしねがふ。

あやまったとき殊更ことさら悔改くひあらためて、つみゆるされること取消とりけされることねがことである。

めぐみねがこと

すなは霊魂上れいこんぜう救靈たすかりためたとへば天主てんしゅあいすることおきてまもこと惡魔あくま打勝うつかちから天國てんごくいためぐみ聖會せいくわい隆盛等りうせいなどねがばかりでない、肉身上にくしんぜうも、たとへば息災そくさい病気全快べうきぜんくわいいたみやはらこと事業じげふ成功せいこう作物さくもつ結實みのりわざはひのがれることなにによらず殊更ことさら天主てんしゅ攝理おはからひによるところめぐみねがことである。叉己またおのれためばかりでなく他人たにんため親兄弟おやけうだい親戚友人しんせきゆうじん仇敵あだがたきため死者ししゃためにも御惠おんめぐみねがことである。

ちゅう祈禱いのり二種ふたどほりあって口禱こうとう黙禱もくとうとである。口禱こうとうことばもってする祈禱いのりであるが、黙禱もくとうことばもちゐず、こゝろばかりでする祈禱いのりである、たとへばありがたさにへず天主てんしゅあふたてまつり、あるひつみ悔込くやみこんで十字架等じかなどもともくしてくやみへうするときごとし。叉口禱またこうとう個人的祈禱こじんてきいのり公式的祈禱こうしきてきいのりとある。假令大勢たとひおほぜい一緒いっしょとな

[下段]

へても、各人かくじん目論見もくろみによってする祈禱いのり個人的こじんてきであるが、公式こうしき祈禱いのり聖會せいくわい制定さだめあるひ指図さしずによって、司祭しさいつかさど祈禱いのりである、たとへばミサ聖祭せいさい祈禱いのり行列等げうれつなどごとし。公式こうしき祈禱いのり特別とくべつ功能こうのうあるは、まうすまでもないことである。

282●祈禱いのり必要ひつえうでありますか

しかり、祈禱いのり聖寵せいてう救靈たすかりるにもっと必要ひつえうであります。

一、ひと理性りせい(與)与あたへられてるからもとより天主てんしゅをが譽上ほめあたてまつるべきものである。叉聊またいさゝかでもたれかに世話せわったとき御礼(禮)おれいまうさずにはまず、おんらぬならばってかれるやうにるがごとく、かなら天主てんしゅ數々かずゝゝめぐみたいしても感謝かんしゃつとめつくはずである。

二、叉聖寵またせいてう救霊たすかり自分じぶんちからばかりでられるものでない(二百七十三のとひよ)、超自然てういしぜんめぐみでもあり、且始終之かつしじゅうこれえうするので、天主てんしゅより殊更ことさらたまはるものなれば、かならこれいのもとめねばならぬ。

三、つひイエズス、キリストが「汝等なんぢら誘惑いざなひらざるやう警醒けいせいしていのれ」と(マ テ オ 二六。四一)の命令めいれいあり、「ねがらばあた

-209-

られよう」と(マ テ オ七。七等)のかへすゞゝゝの御約束おやくそくあり、御自分ごじぶんれいしめして、度々而たびゝゞしか夜通よどほいのたまふたことあり、聖人方せいじんがたしきり祈禱いのりつとめ、叉昔またむかしいま宗教しうけうでも祈禱いのりなによりも必要ひつえうとするところれば、祈禱いのり必要ひつえうなること疑入うたがひいれられぬ。祈祷いのり靈魂れいこんてんのぼ両翼れうよくであり、叉呼吸またこきふのやうにおこたるべからざるものである。

ちゅうキリスト御言おことばに「いのらぬうちからてんちゝ汝等なんぢら入用いりようたまふ」と(マ テ オ六。八)あるのに、何故祈禱なぜいのり必要ひつえうか。しかおほせらたに、叉祈またいのれとしきりめいたまふた(譯)訳わけは、(與)与あたへること天主てんしゅ義務ぎむでなく、いのことこそひと義務ぎむであって、おの入用いりよう弁(辨)わきまへ、天主てんしゅよりたまはらぬならなに出來できずとさとり、へりくだってねがひ、ありがたがって感謝かんしゃすべきことわすれてはならぬからである。

283●祈禱いのり聽容きゝいれられるにはとほりいのらねばなりませぬか

信心しんゞゝ希望きぼうとをもっいのらねばなりませぬ。

イエズス、キリストいのことしきりすゝめ、かなら聽容きゝいれられる

[下段]

幾度いくどとなくやくたまふたにかゝはらず、祈禱いのり効験きゝめのないことは、あるひしきながら、あるひしきことを、あるひしくいのるからである。こゝろみにおもひとてきであるあひだは、其人そのひとからねがひ聞届きゝとゞけられるはずがない、叉不爲またふためことおやねがうてもあたへられない、叉人またひとものねがふに放心ぼんやりして、ことさへらぬ狀態ぜうたいねがってはかへっ無礼ぶれいり、撥付はねつけられるはずではあるまいか、天主てんしゅたいたてまつ祈禱いのり尚更其通なほさらそのとほりである、聽容きゝいれられぬことつぶやくよりは、むし祈方いのりかたわるくはないかとかへりみるが大事だいじである。

使徒等しとたちイエズスむかひ「しゅいのこと我等われらをしたまへ」と(ル カ 十一。一)ねがうたごとく、いのみちまなばねばなりませぬ、よくいのるに必要ひつえうこと信心しんゞゝ希望きぼうとをもってすることである。

284●信心しんじんもっいのるとはなにでありますか

信心しんゞゝもっいのるは、つゝしんで他念たねんけ、きよこゝろもっひとへいのことであります。

つゝしんで

とは、たっと御方おかた御目おめにかゝるときえりたゞごとく、いのとき態度たいどこゝろつゝしんで、落付おちついて、片言かたことはず、叮嚀ていねい発音はつおんするなどことである。

-210-

他念たねんける

とは、祈禱いのり精神せいしんめて、餘所事よそごとおもはず、こゝろらさぬやうにつとめることである。しかおもはずこゝろるやうなときには出來できるだけこれいましむればる。唯口たゞくちまかせて、ところらず、後前あとさき間違まちがへたり、片言かたことうては、本当ほんたう祈禱いのりらず、かへっ天主てんしゅ無礼(禮)極ぶれいきわまことる。ればこゝろまなこひらいて天主てんしゅ見奉みたてまつり、あるひことば意味いみけて、しんからとなふべきである。

きよこゝろもっ

とは、なにより自慢じまん野心やしんられぬことである。目的もくてきもっぱ天主てんしゅ御爲おんため御心みこゝろかなこと靈魂れいこん利益りえきことねがひたい、若我願事もしわがねがひごと天主てんしゅ御心みこゝろかなはぬ場合ばあひには、只思召たゞおぼしめしまかするこゝろいのらねばならぬ。

ひとへいの

とは、罪人つみびとであればてられるはずおぼえ、へりくだってあだか貧乏人びんぼうにんほどこしねがふがごとこゝろからいのことである。

ちゅう信心しんゞゝもっいのるとは、唯信心たゞしんゞゝ容子ようすあらはばかりでなく、天主てんしゅ御心みこゝろかなひ、叉祈禱またいのり聞届きゝとゞけられるやうに心掛こゝろがけることである。なみだながして熱心ねっしんいのっても、こゝろたゞしくなければ、

[下段]

聖書せいしょに「此人民このじんみんくちびるわれたふとべど、其心そのこゝろわれとほざかってる」と(マ テ オ十五。八)あるがごと次第しだいゆゑこゝろ態度たいどそろはねばならぬ。

285●信心しんゞゝもっいのため如何どうせねばなりませんか

こゝろしづめて、天主てんしゅ尊前みまへこと無上むぜうしゅ御話おはなしすることとを記憶おぼえねばなりません。

聖書せいしょに「祈禱いのりさきだって靈魂れいこん準備じゅんびせ」と(集 会 書十八。二十三)あるがごとく、なん準備じゅんびもなしに突然とつぜん祈禱いのりはじめても熱心ねっしんいのことむづかしい。それ

こゝろしづ

ねばならぬ、こゝろしづめるとはこゝろ内外ないぐわい邪魔者じゃまものけることであって、殊更ことさらつみ愛着あいちゃくすなはつみこのこと種々いろゝゝ仕事しごと事等ことなど祈禱いのりあひだかんがへないことである。イエズス、キリスト御言おことばに「いのるにおのしつり、ぢてひそかいのれ」と(マテオ六。六)ある。でいのるには出來できるだけ雑沓ざっとうさわぎけるが大事だいじである。こゝろつねしづまったひとは、さわぎうちでもいのこと出來できるけれどもるたけこれけて、しづかなところつゝしんでいのほうがよい、内心ないしんさわぎなら祈禱いのり邪魔じゃまにはらぬ、假令たとひ其時祈禱そのときいのりいやがるこゝろおこって

-211-

も、辛抱しんぼうしていのればさわぎおのづかしづめられる。イエズス、キリストゲッセマニおいみづかかなしみおそれおそはれて、こゝろさわあせたらほどっても、耐忍たいにんしていのつゞたまふたのをてもあきらかであり、模範もはんである、自分じぶん

天主てんしゅ尊前みまへるのだとおもはねばならぬ。

人前ひとまへ無礼(禮)ぶれいおもはれるやうなことして天主てんしゅ尊前みまへおいてはこれけ、からだ姿勢しせいたゞし、いと叮嚀ていねい且謙かつへりくだって、出来できるだけひざまづいていのるがい。

無上むぜうしゅまうたてまつるのだとおもはねばなりません。

けだ國王こくわう大臣等だいじんなどはなこと名譽めいよとするならば、して天主てんしゅ萬物ばんぶつ御主おんあるじいのこと如何程高いかほどたか名譽めいよであり、歡喜くわんきであらうか。ゆゑうやゝゝしくおそれながら祈禱いのり申上まうしあげるはずである。

286●希望きぼうもっいのるとはなにでありますか

希望きぼうもっいのるとは、いのところ実際益じっさいためになるものならば、天主てんしゅかなら聽容きゝいたまふとたのもしくおもっていのことである。

[下段]

希望きぼうもっいのるとは

たのもしきこゝろもって、

すなはねがひ聞届ききとゞけられるとのふか信賴しんらいもっいのことである。

いのところ實際益じっさいためになるものならば

とは、自分じぶんではためになるつもりいのるけれどもあるひ危険きけんり、あるひ禍災わざはひ滅亡ほろびもとって、実際じっさいためにならぬこと度々たびゝゞある。かゝ場合ばあひ天主てんしゅこれたまはらず、其代そのかはり恩惠めぐみを、たとへばあきらめて耐忍たへしのちからたまふのは、かへっ祈禱いのりかなうたしるしになる。

かなら聽容きゝいたまふとおも

とは、こゝろもって、ことねがへば、聽容きゝいたまふに相違さうゐない、叉大勢心またおほぜいこゝろそろへて気長きながしきりいのり、またイエズス、キリスト御名みなによっていのれば、殊更ことさら功能こうのうあるはずである。

287◯何故希望なぜきぼうもっいのらねばなりませんか

イエズス、キリストは「ねがらばあたへられる」と(マテオ七。七)約束やくそくたまふたからである。

それのみならず福音書ふくいんしょに「すでいたゞいたがごとくに感謝かんしゃしていのれ」と

-212-

(マルコ十一。二十四)あるから、せいヤコボいましめとほり、めぐみけるものと確信かくしんもっいのらねばならぬ。

288●何時祈いついのはずでありますか

しば〲いのらねばなりませぬ、こと朝夕あさゆうおもなるわざまへ霊魂れいこん肉身にくしん危険きけんとき御堂みだう時等ときなどであります。

しばしば

どころではない、イエズス、キリストは「えずいのりてまざるべき」ことを(ル カ十八。一)をしたまひたれば始終祈しじゅういのるが本當(当)ほんたうである、これ仕事しごとめてもっぱ祈禱いのりとなへるとことではない、仕事しごとうちにでも叉何またなにてもくるしみなやんでても、こゝろイエズス、キリストあはせて、苦樂くらくともにし、絶間たえまなくさゝげるとことであるが、じつなが祈禱いのり不熱心ふねっしんとなへるよりも、みじかいのを熱心ねっしん度々たび〲申上まうしあげるはかへっ功能こうのうがある。みじか祈禱いのり射禱しゃたう(orationes jaculatorise)となづけられるが、のやうに眞直まっすぐ天主てんしゅおくるからである、たとへば「イエズスあはれたまへ」「しゅ苦労くらうさゝたてまつる」「しゅ我心わがこゝろ御心みこゝろあやからしめたまへ」等心などしんから申上まうしあげるいのりである。

[下段]

こと朝夕あさゆふ

あさ天主てんしゅをがみ、おんしゃし、今日けふおもひのぞみことばおこなひ苦樂くらくさゝげ、本日ほんじつうへ御恩惠おんめぐみ呼下よびくだためゆふこと其日そのひいたゞいた恩惠めぐみしゃし、をかしたつみゆるしねがひ、夜中やちゅう御保護ごほごためであるが、かならずしも祈禱文きとうぶんせたるなが祈禱いのり申上まうしあげることかぎらぬ、それ手本てほんであって、それとなへるはなによりこと相違さうゐないけれどももっみじか祈禱いのりでも、熱心ねっしんとなへればつみまぬがれるが、朝夕あさゆふすこしのいのりとなへないならば、つみまぬがれない。叉一人またひとり々々でなく、一家擧いっかこぞっ朝夕あさゆふ祈禱いのりとなふれば、一家いっか益々ますまむつまじくなり、全家ぜんかうへめぐみいたゞき、これこそイエズス、キリスト家庭かていうちとゞまたまこともとめるみちである。御言おんことばに「二人或にんあるひは三人我名にんわがなによってあつまればわれ其等それらうちる」と(マ テ オ一八。二〇)おほせられたとほりである。

おもなるわざまへ

すなは仕事しごと勉強べんけうをしへ稽古等けいこなどまへに、つとめてためことねがふのである。

靈魂肉身れいこんにくしん危険きけんとき

靈魂れいこん危険きけんとは、つみおちいやすことである。たとへば惡魔あくま誘惑いざなひしき友人ともだちすゝめ私欲しよく

-213-

おこ時等ときなど肉身にくしん危険きけんとは、怪我けが災難さいなん天災等てんさいなどため生命いのちうしな危険きけんときに、天主てんしゅ殊更ことさら御助おんたすけねがことである。

御堂みだうとき

これこそ大事だいじであって、聖書せいしょことばに「我家わがいへ祈禱いのりいへばるべし」と(マ テ オ二十一。十三)あるがごとく、御堂みだう祈禱いのりをすべきところである。ことイエズス、キリスト聖體(体)せいたいましまし、我等われら祈禱いのりって、これ聞届きゝとゞけたいとの思召おぼしめゆゑ御堂みだううちはいときそとまったこゝろ入替いれかへて、イエズスさまるがごと心地こゝちもっ熱心ねっしんいのり、彼方是方あちこち見回みまはことず、叉人またひとため不行儀ふかうぎれいとならずして、一心いっしんいのるは至當(当)したうである。

など

とあれば、始終祈しじゅういのれとはれたこといてしるしたるとほりである。