聖寵を得るには秘蹟は唯一の道でない、祈禱も要るが、秘蹟を授かる前後にも其時にも、祈禱は何より必要欠(缺)くべからざる條件である。
281●祈禱とは何でありますか
▲祈禱は天主に
[下段]
心を上げて、天主を讃美し、罪の赦叉は惠を願ふ事であります。
祈禱
は祈禱とも云ふが、早く云へば天主或は聖人等に物を申上げる事である。
天主に心を上げる
とは、此世に在りながら心を世事より引離して、恰も天主に謁へ且見奉るが如くに申上げる事であるが口ばかりの祈禱は本當(当)の祈禱でない、寧ろ天主に對して無礼と成る。
然て祈禱は願ふ事ばかりでない、先づ
天主を讃美し、
即ち天主が萬物の造主全知全能全善にて在せば、其限なき御徳に感じて礼(禮)拜し、最上の御主と崇め、讃称(稱)げ奉る事である。
恩を謝す
とは、或は人類一般に、或は直接間接に己に靈魂上肉身上賜りたる恩惠を感謝して、御礼(禮)を申上げる事である。例へば造られたる事、生存へさせられたる事。罪を赦されたる事、禍を逃れたる事等、叉何にも限らず御恩惠を一々
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感謝し奉る事である。即ち己が入用を忘れて、天主を讃美し感謝するのは、物を願ふよりも価値もあれば効験もある。
罪の赦を願ふ。
過った時、殊更に悔改めて、罪を赦される事、取消される事を願ふ事である。
惠を願ふ事。
即ち霊魂上救靈の爲、例へば天主を愛する事。掟を能く守る事、惡魔に打勝つ力、天國に至る惠、聖會の隆盛等を願ふ計りでない、肉身上も、例へば息災、病気全快、痛の和ぐ事、事業の成功、作物の結實、禍を逃れる事、何によらず殊更に天主の攝理による所の惠を願ふ事である。叉己の爲ばかりでなく他人の爲、親兄弟親戚友人仇敵の爲、死者の爲にも御惠を願ふ事である。
(註)祈禱は先づ二種あって口禱と黙禱とである。口禱は言を以てする祈禱であるが、黙禱は言を用ゐず、心ばかりでする祈禱である、例へば有がたさに耐へず天主を仰ぎ奉り、或は罪を悔込んで十字架等の下に黙して悔を表する時の如し。叉口禱に個人的祈禱と公式的祈禱とある。假令大勢一緒に誦
[下段]
へても、各人の目論見によってする祈禱は個人的であるが、公式の祈禱は聖會の制定、或は指図によって、司祭の主る祈禱である、例へばミサ聖祭の祈禱、行列等の如し。公式の祈禱が特別に功能あるは、申すまでもない事である。
282●祈禱は必要でありますか
▲然り、祈禱は聖寵と救靈を得るに最も必要であります。
一、人は理性が(與)与へられて居るから固より天主を拜み譽上げ奉るべきものである。叉聊でも誰かに世話に成った時、御礼(禮)を申さずには済まず、恩を知らぬならば放って置かれるやうに成るが如く、必ず天主の數々の惠に對しても感謝の務を尽す筈である。
二、叉聖寵も救霊も自分の力ばかりで得られるものでない(二百七十三の問を看よ)、超自然の惠でもあり、且始終之を要するので、天主より殊更に賜はるものなれば、必ず之を祈り求めねばならぬ。
三、遂にイエズス、キリストが「汝等誘惑に入らざるやう警醒して祈れ」と(マ テ オ 二六。四一)の命令あり、「願へ然らば与へ
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られよう」と(マ テ オ七。七等)の返すゞゝゝの御約束あり、御自分も例を示して、度々而も夜通し祈り給ふた事あり、聖人方は頻に祈禱を務め、叉昔も今も何の宗教でも祈禱を何よりも必要とする所を見れば、祈禱の必要なる事は疑入れられぬ。祈祷は靈魂が天に昇る両翼であり、叉呼吸のやうに怠るべからざるものである。
(註)キリストの御言に「祈らぬ中から天の父は汝等の入用を知り給ふ」と(マ テ オ六。八)あるのに、何故祈禱は必要か。然り然う仰せらたに、叉祈れと頻に命じ給ふた(譯)訳は、(與)与へる事は天主の義務でなく、祈る事こそ人の義務であって、己が入用を弁(辨)へ、天主より賜はらぬなら何も出來ずと覺り、謙って願ひ、有がたがって感謝すべき事を忘れてはならぬからである。
283●祈禱が聽容れられるには何の通に祈らねばなりませぬか
▲信心と希望とを以て祈らねばなりませぬ。
イエズス、キリストが祈る事を頻に勸め、必ず聽容れられる
[下段]
と幾度となく約し給ふたに拘らず、祈禱に効験のない事は、或は悪しきながら、或は惡しき事を、或は惡しく祈るからである。試みに思へ人の敵である間は、其人から願を聞届けられる筈がない、叉不爲に成る事を親に願うても与へられない、叉人に物を願ふに放心して、云ふ事さへ知らぬ狀態で願っては却て無礼と成り、撥付けられる筈ではあるまいか、天主に対し奉る祈禱は尚更其通である、聽容れられぬ事を呟くよりは、寧ろ祈方が惡くはないかと省みるが大事である。
然て使徒等がイエズスに向ひ「主よ祈る事を我等に教へ給へ」と(ル カ 十一。一)願うた如く、宜く祈る道を學ばねばなりませぬ、よく祈るに必要な事は信心と希望とを以てする事である。
284●信心を以て祈るとは何でありますか
▲信心を以て祈るは、謹んで他念を避け、浄き心を以て偏に祈る事であります。
謹んで
とは、貴き御方に御目にかゝる時は襟を正す如く、祈る時に目も態度も心も謹んで、能く落付いて、片言を云はず、叮嚀に発音する等の事である。
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他念を避ける
とは、祈禱に精神を籠めて、餘所事を思はず、心を散らさぬやうに努める事である。然し思はず心が散るやうな時には出來るだけ之を警むれば足る。唯口に任せて、云ふ所を知らず、後前を間違へたり、片言を云うては、本当の祈禱に成らず、却て天主に無礼(禮)極る事に成る。然れば心の眼を開いて天主を見奉り、或は言の意味に気を付けて、心から誦ふべきである。
浄き心を以て
とは、何より自慢や野心に驅られぬ事である。目的は專ら天主の御爲、御心に叶ふ事、靈魂の利益に成る事を願ひたい、若我願事が天主の御心に適はぬ場合には、只思召に任する心で祈らねばならぬ。
偏に祈る
とは、罪人であれば棄てられる筈と覺え、謙って恰も貧乏人が施を願ふが如き心から祈る事である。
(註)信心を以て祈るとは、唯信心の容子を現す計りでなく、天主の御心に叶ひ、叉祈禱の聞届けられるやうに心掛ける事である。涙を流して熱心に祈っても、心が正しくなければ、
[下段]
聖書に「此人民は唇で我を尊べど、其心は我を遠ざかって居る」と(マ テ オ十五。八)あるが如き次第に成る故、心と態度が揃はねばならぬ。
285●信心を以て祈る為に如何せねばなりませんか
▲先づ心を鎭めて、天主の尊前に在る事、無上の主に御話する事とを記憶えねばなりません。
聖書に「祈禱に先だって靈魂の準備を爲せ」と(集 会 書十八。二十三)あるが如く、何の準備もなしに突然祈禱を始めても熱心に祈る事は難かしい。其で
先づ心を鎭め
ねばならぬ、心を鎭めるとは心の内外の邪魔者を除ける事であって、殊更に罪の愛着、即ち罪を好む事、種々の仕事の事等を祈禱の間、考へない事である。イエズス、キリストの御言に「祈るに己が室に入り、戸を閉ぢて窃に祈れ」と(マテオ六。六)ある。で祈るには出來るだけ雑沓や世の騒を避けるが大事である。心の常に鎮まった人は、騷の中でも祈る事が出來るけれども成るたけ之を避けて、静かな所で愼んで祈る方がよい、内心の騷なら祈禱の邪魔には成らぬ、假令其時祈禱を否がる心が起って
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も、辛抱して祈れば騷は自ら鎭められる。イエズス、キリストがゲッセマニに於て自ら悲懼に襲はれて、心は騷ぎ血の汗を滴す程に成っても、耐忍して祈り続け給ふたのを見ても明であり、善い模範である、自分は
天主の尊前に在るのだと思はねばならぬ。
人前に無礼(禮)と思はれるやうな事は況して天主の尊前に於ては之を避け、体の姿勢を正し、最も叮嚀に且謙って、出来るだけ躓いて祈るが可い。
無上の主に白し奉るのだと思はねばなりません。
蓋し世の國王や大臣等に話す事を名譽とするならば、况して天主、萬物の御主に祈る事は如何程高い名譽であり、歡喜であらうか。故に恭しく恐れながら祈禱を申上げる筈である。
286●希望を以て祈るとは何でありますか
▲希望を以て祈るとは、我が祈る所が実際益になるものならば、天主は必ず聽容れ給ふと賴しく思って祈る事である。
[下段]
希望を以て祈るとは
賴しき心を以て、
即ち願を聞届けられるとの深き信賴を以て祈る事である。
我が祈る所が實際益になるものならば
とは、自分では益になる積で祈るけれども或は危険に成り、或は禍災や滅亡の原と成って、実際は益にならぬ事が度々ある。斯る場合に天主は之を賜らず、其代に他の恩惠を、例へば諦めて能く耐忍ぶ力を賜ふのは、却て祈禱の叶うた印になる。
必ず聽容れ給ふと思ひ
とは、善き心を以て、善き事を善く願へば、聽容れ給ふに相違ない、叉大勢心を揃へて気長く頻に祈り、叉イエズス、キリストの御名によって祈れば、殊更に功能ある筈である。
287◯何故希望を以て祈らねばなりませんか
△イエズス、キリストは「願へ然らば与へられる」と(マテオ七。七)約束し給ふたからである。
其のみならず福音書に「既に戴いたが如くに感謝して祈れ」と
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(マルコ十一。二十四)あるから、聖ヤコボの誡の通り、惠を受けるものと確信を以て祈らねばならぬ。
288●何時祈る筈でありますか
▲屢祈らねばなりませぬ、特に朝夕、重なる業の前、霊魂肉身の危険の時、御堂に居る時等であります。
屢
どころではない、イエズス、キリストは「絶えず祈りて倦まざるべき」事を(ル カ十八。一)教へ給ひたれば始終祈るが本當(当)である、是は仕事を罷めて専ら祈禱を誦へると云ふ事ではない、仕事の中にでも叉何を爲ても苦に悩んで居ても、心をイエズス、キリストと合せて、苦樂を共にし、絶間なく献げると云ふ事であるが、實は長い祈禱を不熱心に誦へるよりも、短いのを熱心に度々申上げるは却て功能がある。然う云ふ短い祈禱は射禱(orationes jaculatorise)と名けられるが、矢のやうに眞直に天主へ送るからである、例へば「イエズス憐み給へ」「主よ我が苦労を獻げ奉る」「主よ我心を御心に肯らしめ給へ」等心から申上げる祈である。
[下段]
特に朝夕
朝は天主を拜み、恩を謝し、今日の思、望、言、行、苦樂を獻げ、本日の上に御恩惠を呼下す爲、夕は殊に其日に戴いた恩惠を謝し、犯した罪の赦を願ひ、夜中御保護を乞ふ為であるが、必ずしも祈禱文に載せたる長い祈禱を申上げる事に限らぬ、其は手本であって、其を能く誦へるは何より宜い事に相違ないけれども尚と短い祈禱でも、熱心に誦へれば罪は免れるが、朝夕に少しの祈も誦へないならば、罪は免れない。叉一人々々でなく、一家擧て朝夕の祈禱を誦ふれば、一家は益々す睦まじくなり、全家の上に惠を戴き、之こそイエズス、キリストが家庭の中に止り給ふ事を求める道である。御言に「二人或は三人我名によって集れば我は其等の中に居る」と(マ テ オ一八。二〇)仰せられた通りである。
重なる業の前
即ち仕事、勉強、教の稽古等の前に、能く努めて益に成る事を願ふのである。
靈魂肉身の危険の時。
靈魂の危険とは、罪に陥り易い事である。例へば惡魔の誘惑、悪しき友人の勸、私欲の
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起る時等。肉身の危険とは、怪我、災難、天災等の爲に生命を失ふ危険の時に、天主の殊更の御助を願ふ事である。
御堂に居る時。
是こそ大事であって、聖書の言に「我家は祈禱の家と呼ばるべし」と(マ テ オ二十一。十三)あるが如く、御堂は祈禱をすべき処である。特にイエズス、キリストは聖體(体)に在し、我等の祈禱を待って、之を聞届けたいとの思召し故、御堂の内に入る時は外と全く心を入替へて、イエズス樣を見るが如き心地を以て熱心に祈り、彼方是方見回す事を為ず、叉人の為に不行儀の例とならずして、一心に祈るは至當(当)である。
等
とあれば、始終祈れと云はれた事に就いて記したる通りである。