273●人は自分の力計で能く教を守り救霊を得る事が出來ますか
▲否、聖寵によらねば、能く教を守り救靈を得る事は出來ませぬ。
第一、
人は自分の力計で能く教を守り
得ぬのは、教は固より人の力に及ばぬと云ふ訳ではない、天主は力に及ばぬ事を決して命じ給ふ筈はない、唯人は種々の邪欲に目を暗まされ易く叉悪魔に騙され易いので、始終之に敗け
[下段]
ず少しも罪を犯さにやうには努めかねる。聖人達がよく教を守ったのは、絶えず用心し叉聖寵に力を合せて、己が全力を擧げて勵(励)んだ爲である。聖パウロ曰く「我が今の如くなるは天主の恩寵によれり」(コリント前書十五。十)と。
第二、
自分の力計で救靈を得られぬ
のは、救靈とは取りも直さず天主を見奉り、天主より子女として愛せられ、天国で終なく樂む事であるからである。人の力の足らぬ所は、聖寵によって出來るやうになる。聖寵は天主と人の力の足らぬ所は、聖寵によって出來るやうになる、聖寵は天主と人との間を隔てる淵を埋め人を天主と結合せしめるものである。
274●聖寵とは何でありますか
▲聖寵は救靈の爲に天主の賜ふ超自然の恩惠であります。
故に聖寵に付ては次の三の事を認めねばならぬ。(一)聖寵は天主の恩惠、(二)超自然の御恩惠である、(三)与(與)へられるのは此世の爲でなく永遠の救靈の爲であると云ふ事。
第一、先づ聖寵と云ふ語は、天主の寵、天主より愛せられると云ふ事であるが、被造物たる人間が其創造主天主より子
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として愛せられるのは自然の事ではない。全く天主の限なき御慈悲によって施される特別の御恩惠である。
第二、人間に生れたのも、智惠、能力、叉何も角も与(與)へられるのも、皆固より天主の御恩惠である、唯然人間である以上其丈は自然に賦与(與)されたる所謂「自然の恩惠」である、聖寵は自然ではない、全く人間の身に餘るもの、即ち自然に超えた恩惠である。由て之を「超自然の恩惠」と云ふのである。茲に於て超自然と云ふ語を能く了解するのは大事である。例へば水は氷と成り湯気(氣)と成り雲に上るのは自然の事である、蠶は蛹と成り蝶と成るのは、不思議であっても造物主より定られた順序で自然である。貧乏人が金滿家に成り、尾張の田舎の百姓の息子に生れた日吉でも漸次豊臣秀吉、大閤秀吉のやうな大人物に成ったのは、幾ら珍しくても矢張人間性を超えた事ではないから、超自然とは云はれぬ。若し石に花が咲き、花が鳥に成り、猿が人に成ると云ふならそれは其物の本来の性を超えた事であるから超自然と云はねばならぬ。乃で貧乏人が富家の養子になったり、国王の養子になったりする
[下段]
事は同じ人間同志ゆえ超自然の事とは云はれぬ、併し人間が天主の子女になるのは(イザヤ、9:6「永遠の父」マタイ伝、6:9「我等の父」)是こそ人間性に似合ず、身分を超えた事と言はねばならぬ之ぞ超自然と云ふべきものである。叉骨折って金を儲けられるのは当然なれど其働で天国に行って天主を見奉り、天主より愛せられ、終なき幸福を得られるのは当(當)然でない、即ち超自然であって天主の忝なき御愛憐、殊更の御恩恵による。聖寵は其なものである、棄てられる筈なのに罪を赦され、天主の子女に成り、御心に叶ひ、御共に終なき幸福を得られるのは、人間の生付に超えたもの故超自然と云ふ外なし。然れば聖寵は人間から請求する事は到底出來ぬものであって唯天主の限なき御慈悲、叉イエズス、キリストが我々を救うて下さった結果蒙り得るものである。徳に就いても、超自然徳と云はれるのは、其徳を行ふ事が人間自然の理由に基かず、人間以上の原因によるからである。
第三、他の恩寵は主に此世の為に与へられるが、聖寵は唯永遠の救靈の爲に与(與)へられる、即ち聖寵は天国に於て天主を直觀する幸福を得せしめる。而して、天主より之を賜るのは、
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全くキリストの御功力によるのである。
(註)一体聖寵とは羅典語のGratiaを訳した言であるが寧ろ「恩寵」と云ふのが適当でらう。
275◯聖寵に幾種ありますか、
聖寵に二通あります、助力の聖寵と成聖の聖寵とであります。
助力の聖寵、
即ち力を助けて加勢になる聖寵との意味、
成聖の聖寵、
即ち人を聖ならしめる聖寵との意味である。兩方の異ふ所を今説明する。
276●助力の聖寵とは何でありますか
▲助力の聖寵は惡を避け善を行はせる為に、人の心を照し強める天主の御助であります。之も天主の助力とも云ひます。
助力の聖寵は
善を行ひ惡を避ける爲に
与(與)へられる。其で始終ではない、一時的の加勢であるから、要る時だけ、即ち殊に善を爲す筈の時、或は惡を避くべき時だけである。
助力の聖寵の働は二、即ち(一)心を照す、(二)心を強める
[下段]
ことである。
第一、
心を照す。
人は世の事に就いて明るくあっても善惡に就いては、妙に明盲のやうで、是が善い、斯う爲ねばならぬ、其が惡い、然うしてはならぬと、良心に諭されながら哀れ向ふ見ず、或は私欲に目を暗まされる爲に爲すべき善は爲さず、爲すべからざる惡を爲る場合が多い。助力の聖寵は先づ目を覺させて、愈よ爲ねばならぬ、爲てはならぬと云ふ事を尚明かに諭し、心を引くのである。聖パウロが改心する爲に目を覺させたのは其である。
第二、
心を強める。
曉りながらも力弱くて善を爲きらず、惡を避けきらず、惡魔に世間に叉己に敗けて、脆くも罪に陥る事は度々ある、之に打勝つやうに、[方]力の足らぬ所を与(與)へるのは聖寵であって、其で助力の聖寵と云ふ。聖パウロ曰く「我を強め給ふ御者に於て一切の事我が爲し得ざるはなし」(フィリッピ四。十三)と。聖人達が熱心に努めたのも、殉教者達が苦に敗けなかったのも天主の助力による。
(註)、第一、助力の聖寵を受けるのは信者ばかりでない、人
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皆であって、心の内ばかりに起る時、例へば善き考、善き望、良心の勸も呵責も、之を「内部の恩寵」と云ふ。外来の刺激、例へば善き話、善き模範、或は困難、失敗等を以て動かされるのは、殊に「外部の恩寵」と云ふ。
第二、實際は天主の助力の足らぬ事はない、人の之に應じて勵(励)む事の足らぬのが常である。其で聖寵に照され強められながら罪に陥るのは、己が力を聖寵に合せず、却て之に反するからである。故に何より大事なのは聖寵に逆はず之に應じて勵(励)む事である。
第三、聖寵によって善い事を勸められるのは、「恩寵の勸」と云ふが、之に耳を藉さず、從はぬのは「恩寵に逆ふ」と云ふ。恩寵に逆へば天主の恩惠を蔑にし、折角の御助力を棄て、遂ひ恩寵の感は鈍く成り、益々目を暗まされ、心惡に固り、罪は癖と成り、特別の助力がなければ亡に到る。
277●成聖の聖寵とは何でありますか
▲成聖の聖寵は霊魂を潔め、御心に叶はせる天主の御恩恵であり
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ます。之を特に聖寵とも云ひます。
其で成聖の聖寵の働は主に二、(一)靈魂を潔める(二)天主の御心に適はせる。此二の要件を以て聖人に成られる、故に成聖の聖寵、即ち聖ならしめる、聖人に成らしめる聖寵と名けられてある。
第一、
成聖の聖寵は霊魂を潔め。
大罪がある時でも聖寵を蒙れば罪は全く赦されて心が潔く成る。預言者の言に「假令汝等の罪は緋の如くなるも雪の如く白くならん」と(イ ザ ヤ一。十八)あるが如し。大罪がない時即ち聖寵の状態にあって、更に聖寵を蒙れば聖寵が増し心が益す潔くなり天主との一致は益々親密になる。
第二、
御心に適はせる。
即ち大罪を以て敵であったのに、聖寵を戴けば天主の愛子と成る。既に愛子で居る人は聖寵を蒙れば益々御心に適ふ者と成る。
之を特に聖寵と云ふ。
例へば天使祝詞に「聖寵充満てるマリア」と云ふが如し。其意味は聖マリアの霊魂すみ〲まで潔くして、全く天主の御心に適って居られるとの事
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である。
(註)第一、本當(当)に云へば聖寵と愛德とは必竟一のものに成る。即ち天主を眞実に愛し奉れば、罪は赦され、天主より愛せらる、是ぞ聖寵である。イエズス、キリスト曰く「人若し我を愛せば我言を守らん。斯て我父は彼を愛し給ひ、我等彼に至りて其中に住まん」と(ヨ ハ ネ十四。二三)。叉使徒聖ヨハネ曰く「天主は愛にて在す、而して愛に止る者は天主に止り奉り、天主も亦之に止り給ふ」と(ヨ ハ ネ壹(一)書四。十六)。然れば天主を愛すれば愛する程益す御心に適ふ者と成り、愛を破れば聖寵を失ふ。
第二、聖寵は原人祖アダムに特別に賜ったのに人祖は天主の誡に背いて、自分にも子孫一般にも失うたれば、漸くイエズス、キリストの御贖の功力によって聖寵の狀態に回復するに至った。而して人は、洗禮(礼)に由て之を戴く。
第三、成聖の聖寵と助力の聖寵との重に異ふのは(イ)助力の聖寵は一時的であるに成聖の聖寵は衣を纏うたが如く心に止る。(ロ)成聖の聖寵は義人ばかりにあるに、助力の聖寵
[下段]
は義人にも惡人にも与(與)へらる、即ち義人は義の狀態を續ける爲に之を受け、惡人は悔改める爲に之を受ける。(ハ)成聖の聖寵を保てば必ず天國に行ける、助力の聖寵は然うまでは行かぬ。
278◯成聖の聖寵を有てば如何な益がありますか
▲成聖の聖寵を有てば、天國に入るべき天主の愛子と成り、其善行は凡て終なき福樂を受くべき功力を有するものとなる。
聖寵を有つ
と云ふ事は、「聖寵の狀態に在る」ことで別の言で云へば大罪の無いことを云ふ。
第一、
天國に入るべき天主の愛子と成る。
聖寵なき間は天主の愛子と云はれず、寧ろ敵のやうなものである。聖寵を戴いてこそ愛子と成る、愛子ならば家督として天國の福樂を受ける筈。
第二、
終なき福樂を受くべき善業を爲すを得る。
即ち聖寵を以て天主の愛子ならば、善を爲れば
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爲るほど天國で終なく報いられるべきものである、然れば祈禱、善業、働、悲、苦、何事も快く献げれば一々永福の種を天國に積む事になる。
279●成聖の聖寵を喪ふ事がありますか
▲大罪を犯すと成聖の聖寵を喪ひます。
大罪
は大事に就いて全く承諾して天主に背く事であれば、之を犯す時は
聖寵を喪ひ
天主の敵と成り、其まゝの狀態に留まるならば、終なく棄てられるものと成る。若し天主の御憐によって大罪を赦されゝば再び聖寵を蒙り、叉天主の愛子と成り大罪を以て喪くした動功を回復する事が出來る。
(註)第一、大罪を犯しても天主の子たる資格を失ふのではない、唯不孝極る子と成り、父より勘当を受ける者と成る。然れば其までに如何ほど功績を爲した人でも其功績皆無と成り、地獄に遣られる外はない。而して大罪ある間に行ふ善は恰ど宝物を底の抜けた袋に入れると同樣であって、天主を離れて居る間は價値がない。然し其でも無益と思ってはならぬ、
[下段]
務むべき事、例へば祈禱、ミサ拜聽等を怠っては罪はます〱重り、愈よ天主より棄てられるべき者と成る故、何より恐るべき禍である。其で大罪ある時でも愈よ棄てられて了はぬやうに天主の御憐を願ひ一刻も早く悔改めて罪の赦を蒙らねばならぬ。
第二、諺に「生命あっての物種」と云ふが、生きてこそ働く事出來る、死んだ時は食物も藥も用に立たず、働く事も身動さへも出來ぬものと成る。其の如く聖寵のある間は天國の爲に働く事が出來るけれども之を喪ふ時は何事も益に成らぬので、聖寵は殊更に「靈魂の生命」と云はれてある、勿論人たるの自然の生命ではない、之に加へられた天主の子たる超自然の生命であります。恰ど靈魂と肉身とが一致するのは人たるの自然の生命に成るが如く、靈魂が聖靈を以て天主と一致すれば天主の子たる超自然の生命を蒙ったものと成る。
第三、生れる時の自然の生命を得て、其から壯健に成ったり、不工合に成ったりする如く、洗禮(礼)を以て受ける聖寵の生命も、祈禱、善業等を以て盛に成り、怠慢、小罪等を以て衰へ、大
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罪を以て無く成る。其で大罪は靈魂の死と云はれる、それは靈魂が大罪を以て超自然の生命を喪ふからである。
280●何を以て聖寵を得ますか
▲聖寵は殊に祈禱と秘蹟を以て得られる然れど成聖の聖寵を得るには完全な痛悔、洗礼、悔悛に限ります。
祈禱と秘跡
の事は後に説明するが、成聖の聖寵を得る道に付て一言すれば成聖の聖寵を蒙るには祈禱だけでは足らず、叉唯の秘跡でも足らず、之を施すに極った秘跡は洗礼(禮)と悔悛だけであって、其が叶はぬ時は之を授かりたいとの望と共に、完全な痛悔を起すに限る。(第三百六十一の問を看よ)