186●第六誡の文は如何
▲汝姦淫する勿れ。
第六誡は貞徳を保護するものである。
姦淫
とは、夫婦ばかりに許された事を、夫婦の外に為遂げる事であります。
187●第六誡には何を禁ずるか
▲第六誡には、総て邪淫の行為ばかりでなく、猥褻な事を楽に見、聞き、言ふ等をも禁じます。
[下段]
邪淫
とは、邪の淫と云ふ意味で、許されぬ淫事であるが、夫婦の間に許された事は邪淫ではなく正淫(正しき淫事)と云ひます。
総ての邪淫の行為
とは、許されぬ醜い仕業手業を、人と共に、或は一人で為る事である。
猥褻な事
とは、見苦しく、聞苦しい、猥な言や行である。
楽に
とは、悪いと思ひ乍ら、好んで、心を任せて、との事。
楽に見る
とは、詮方なしにでもなく、叉実際益に成る事でもなく、見てはならぬと思ひ乍ら、醜体、見悪い事、裸体画等を見たがり、目を掛けて眺め、或は悪しき書物を読むが如き事である。斯る書物を貸し、画を見せ、醜体を態と見せるのも、別に重要な訳なくして、唯楽の為ばかりならば矢張罪に成る。
楽に聞く
とは、止を得ずして耳に入るのでなく、面白がって耳を藉し、猥褻な話や歌等を喜んで聞く事である。
-144-
楽に云ふ
とは、益に成る訳でなくて唯笑はせる為、面白がらせる為に、猥褻な話を為し、猥褻な歌を唄ふ事である。其話を為し、歌を唄ふ人は、聞く人の罪を蒙る。
188●邪淫は大罪であるか
▲凡そ邪淫を楽とするのは、何事でも大罪に成ります。
養生や真面目な訳でなく、何かに託けても、
邪淫
の心を以て
楽
に致す事が
大罪に成る
のは、些細な事と云はれず、天主が個人の楽の為でなく、人類一般の為に定め給ふた最も大事な目的を破るからである。邪淫を許されるならば、本当の婚姻を為る者は無く成る。
(註)然う云はれたのは、邪淫に就いてのみであると忘れてはならぬ。正淫、即ち夫婦の間に子供の出来る務は、固より許されてあるから、正しくさへすれば楽に為る事も、喜ぶ事も、望む事も罪ではない。
189●第九誡の文は如何
▲汝人の妻を恋ふる勿れ。公教会では、人の妻を恋ふる事と、人の財産を貪る事とを別
[下段]
けてあるが、原文には一緒にしてある。
190●第九誡には何を禁ずるか
▲第九誡には、邪淫に係る思や望を起す事を禁じます。
邪淫に係る思
とは、人を好く情と異ひ、邪の淫事を心に考へ、或は目で見るが如く思廻す事である。
邪淫に係る
望
とは、猥褻な事を見たい、聞きたい、致したいと、心の中に望む事である。
之を
起す事
とは、其な思や望が自然に起る事と異って、自分で故と之を起し、或は起った時に、之を心に止めて、面白く楽しく考へ、其機会を求めたい事である。
猥褻の思や望は心を乱し、邪淫の罪の根に成るから、天主は之も禁じ給ふのである。
(註)十誡は法律と異ひ、外面の業を禁ずる許りでない、心根に在る事までも天主は誡め給ふによって、本当の敎訓に成るものである。