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だい二十四くわ 肉身にくしん復活よみがへり公審判こうしんぱん

133●ひと肉体にくたい復活ふくくわつせぬか

ひと肉体にくたいをはり公審判こうしんぱんけるため復活ふくくわつし、霊魂れいこんともをはりなく賞罰せうばつけるはずであります。

使徒信経しとしんけうに「肉身にくしん復活ふくくわつしんたてまつる」とあるのは、イエズ

[下段]

ス、キリスト度々仰たびゝゞおっしゃったことばしたがって、面々めんゝゝからだは一旦腐敗たんふはいしても、かなら

をはり復活ふくくわつ

するとことであります。其訳そのわけひと霊魂れいこんばかりでない、霊魂れいこんからだあってこそ、汗水あせみづながしてはたらき、且様々かつさまゞゝくるしみ、をしまずひとみちつくしたもの、あるひおも骨折ほねおりをしみ、肉身にくしん快楽くわいらくかされて悪事あくじしたものゆゑ矢張体やはりからだとも

賞罰せうばつける

至当したうであります。しかるにからだ部分ぶぶん散々ちりゞゝり、ものにもへんじてるのに、うしてふたゝあつめられようか。かね我体わがからだったのは、元来絶間がんらいたえまなくおな部分ぶぶんおな分子ぶんしおな物質ぶっしつあっての我体わがからだではない、学者がくしゃとほり、うまれてからぬるまでに、其分子そのぶんし幾度いくどとなく入替いりかはったにもかゝはらず、我体わがからだはれたのは分子ぶんしでなく、其全体そのぜんたいであって、我物わがもの意識いしきしてこそ我体わがからだであったゆゑ復活ふくくわつしたとき矢張其通やはりそのとほり、物質ぶっしつ分子ぶんし皆異みなちがっても、我物わがもの我体わがからだとならば不足ふそくはない。それ復活ふくくわつするからだ霊魂れいこん似合にあったものであって、唯善人たゞぜんにんからだ光栄くわうえいび、悪人あくにんからだいやしくえるに相違さうゐありませぬ。

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134●公審判こうしんぱんとはなんであるか

公審判こうしんぱんをはりあた人間皆復活にんげんみなふくくわつして、イエズス、キリストからおほやけ善悪ぜんあくたゞされることであります。

公審判こうしんぱん

とはおほやけ審判しんぱん意味いみまた総審判そうしんぱん」ともふが、矢張やはり

人間皆にんげんみな

のこらずこれけるわけであります。

公審判こうしんぱんあるべきことイエズス、キリスト幾度いくどおっしゃったが、私審判ししんぱんでは一人宛にんづつに十ぶんであるにしても、社会しゃくわいには、すなは人間にんげんぱんにはぶんであるからであります。だい九十九のとひ一寸云ちょっといったが、尚試なほこゝろみおもへ、

だい一、ひと善悪ぜんあく影響えいけうそのだいかぎらず直進ずっ相続あひつゞき、幾許親どれほどおや子等こどもを、教師けうし弟子でしを、著書ちょしょ読人よみてを、ひとかゞみ真似まねひとあるひわるらせたかはぢきれず。

だい二、善人ぜんにんかへっ悪人あくにん見做みなされ、はづかしめられ、くるしめられ、あるひは一ぱん不自由ふじゆうったのに、これはんして悪人あくにん成功せいこうしておほいさかえ、我侭わがまゝとほし、快楽くらいらくきはめてすごしたやうにおもはれる。

[下段]

だい三、善悪ぜんあくはたらいたからだ私審判ししんぱんとき賞罰せうばつず。

だい四、イエズス、キリストさへも、非常ひぜうあいせられたまふたこともあれば、おほいきらはれたまふたこともあって、実際じっさい資格しかくみとめられてらず、信者不信者しんじゃふしんじゃ優劣ゆうれつ明瞭はっきりせず。

だい五、此世このよ善悪相当ぜんあくさうたう賞罰せうばつほどこされず、天主てんしゅ御計おはからひ度々不公平たびゝゞふこうへいなやうにそしられる事等ことなどつねにあるではないか。其天主そのてんしゅ公平こうへいおほやけらせるために、公審判こうしんぱんおこなはれるはずであります。りながらだい二十三のとひはれたごとく、時間じかんことではない、またゝにでもおほやけ発表はっぴょうされるものであります。

135●ひとは四しうこと屡々思しばしばおもはねばならぬか

しかり、あくぜんはげためしばゝゞしうことおもはねばなりませぬ。

しうことおも

とは、人間にんげんぱんいてよりは、自分じぶんいてはやかれおそかれ是非死ぜひしぬべきことれば齷齪求あくそくもとめつゝある財産等ざいさんなど否応いやおうなしに手離てばなしはず今余いまあま大切たいせつにする

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からだあてられぬほどみにくり、寄付よりつかれぬほどくさり、くさってしまはず今粗末いまそまつにする霊魂れいこんだけ活残いきのこはず叉何またなにいてもかなら審判しんぱんけ、てんあみのがれる事出来ことできぬ、いさゝかぜんでもわづかあくでも、かなら賞罰せうばつたねこと実際的じっさいてき屡考しばしばかんがへることであります。

これ

あく

ためで、これまさみちはない、聖書せいしょに「すべてのわざおいおのれ結局をはり記憶きおくせよ、らば何時いつまでもつみをかことあるまい」と(集会書 七。四〇)あるがごとし。あくけやうかとするときに、今犯いまをかつみかくさうとしてもかなら綿密めんみつ天主てんしゅよりはれる、其罰そのばつうしてもまぬがれまいとおもったならば、いかつみをかされやうか、また

ぜんはげため

すなはよわくてつとめきらぬとおもときこの困難こんなん打勝うちかつならば天主てんしゅ御心みこゝろかなひ、其代そのかはり何時いつまでも天国てんごくおいよろこたのしむに相違さうゐないとかんがへれば、かならはげみいて何事なにごと出来できことはない。

りながら「やとはれびと根性こんぜう」のやうに、おの損益そんえきばかかんがへてつとめるのは上策ぜうさくでない、たとへば天国或てんごくあるひ地獄ぢごく

[下段]

ったならばつとめまいとおもふがごとこゝろあいではないむし私欲しよくである。らばてんましま御父おんちゝたいし、イエズス、キリスト御苦難ごくなんたいして、おのれち、日々気にちゝゝきはげまし、ちからつくして、すべての義務ぎむはたすやうにするのが信者しんじゃ本分ほんぶんである。義務ぎむひとり、天主てんしゅ子等こどもり、イエズス、キリスト忠実ちうじつ信者しんじゃるのは我々われゝゝ天職てんしょくである。

いくつくしてもまんの一にもるまいけれども、報酬ほうしうかへりみず万事天父ばんじてんぷ打任うちまかせてもっぱ御心みこゝろかなためはげむならば、あまり、のぞみあまって、万層倍まんそうばいむくいられることわすれてはならぬ。