127●天国とは何であるか
▲天国は天主を見奉りて、天主に愛せられ、終なく楽む所であります。
天主を見奉る
とは、来世で霊が霊を見るのは、現世で顔と顔とを見合ふ如くであるから、天に在す我等の父と呼び奉りました天主の三位を見る計りでなく、我主イエズス、キリストをも、聖母マリア、諸天使、諸聖人の霊魂をも見る事が出来ませう。
天主に愛せられる
とは、子等が親から愛せられるよりも、国王から子等のやうに愛せられるよりも、尚有がた
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い、尚嬉しい事でありませう。聖パウロ曰く「天主が之を愛し奉る人々に備へ給ふた事は、目も之を見ず、耳も之を聞かず、人の意にも考出す事到底出来ぬ」と(コリント前書二。九)天主を見、天主より愛せられるのは天国の福楽であって、其が出来れば何処に居っても矢張天国に成ります。例へて云へば一国の王様の拝顔を得るには誰に取っても深く望む所、喜ぶ所、名誉とする所で、之が為には力を尽し、伝を求め、機会を探るが常であって、偶ま行幸でもある時は道の遠近を問はず、宛がら蟻の群る如く四方から駈集り、人の山を築くが、若しも此時拝顔を得る計りでなく、御目に止って格別に愛せられるやうな事があったならば何とも云はれぬ身に余る幸福として有がたがり、感泣するではあるまいか。
偖て天国は其よりも尚有がたく、尚身に余る幸福でありまして、全世界の一番珍しい物を見た時を天主の限なき美善美徳を見奉るに比べれば、大海の一滴に過ぎぬと云っても未だ足らぬ譬であります。今より約八十年前(一八五八年)ルゝドに於てベルナデッタと云ふ処女は、十八回も聖母マリアを見
[下段]
るの幸福を得た時、己を忘れ、見蕩れて、傷けられるをも覚えず、容子は変って殆ど天国に居るやうな姿であったが、之でも未々天国ではない、玄関に過ぎぬのであった。飽く事なく、聊か不満足の曇もなく、楽尽きず、日に日に新に成ってこそ天国と云はれる。併し天国に在って皆同じく天主を見、天主に愛せられ奉ると云っても、皆身に余るほど快楽に耐へぬけれども一様ではない、此世で愛し奉りました次第、天主の為に身を惜まず、己に克ち、尽した程々に成る事を片時も忘れてはならぬ。其で一時の働、苦、奮発等を以て日に日に終なき天国の種を植ゑられるを喜び、毎度之を殖すやうに励むべきものであります。
128●如何な人が天国に入るか
▲成聖の聖寵を以て死んだ人は天国に入ります。
成聖の聖寵の事は第二百七十八の問に説明するが、先づ天国に往かれるのは
成聖の聖寵を以て死んだ人
に限る、即ち天主を信じ、且希望し、且愛敬し奉りながら此世を去った人ばかりであります。
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129●地獄とは何であるか
▲地獄は悪人が天主から棄てられて悪魔と共に終なく苦む所であります。
悪人は地獄に処せられる時「咀はれた者よ、我を離れて終なき火に往け」と(マ テ オ二五。四一)云はれる筈と、イエズス、キリストは仰しゃった。之を見れば地獄の罰は、「損失の罰」即ち
天主から棄てられ
る事と「苦痛の罰」即ち
終なく苦む
事との二に極る。
第一、損失の罰。天主より棄てられるのは何程憂いかと云ふ事は、様々の迷に目を暗まされる此世の中では悟りかねるも、霊魂は肉身を離れるや直ぐ、天主を如何ほど愛すべきか、自分は天主の為のみに造られて天主の外に喜と成るものはないと明かに悟って、頻に見奉りたい、愛し奉りたいと思へども暗無に棄てられて了ふのは、他の苦よりも憂く、乳房を強請る小児が親から撥付けられるよりは幾層倍も憂いに相違ない。
……
[下段]
……………………
(註)地獄の刑罰の終の無い事は、罪を悔改むべき恩寵なく、叉強情の人を屈せしめるに、外に道がないからである。何うあっても天主に従はずとする時に、終なく其刑罰を凌ぐ外はない。
130●如何な人が地獄に入るか
……
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……………
(註)然りながら大罪は如何なるものかと云ふ事は知れゝど、各に取って何程の罪に成るかは、心中を看行す天主の外に知る者なきを以て、人が愈よ地獄に入ったと云ふ事は断言しかねる。唯ユダに就てはイエズスが「此人は生れぬ方が宜かった」と仰しゃったによって、地獄に居る事と思はれる、地獄を免れたならば生れた甲斐があるからであります。常の人に就いて知れぬのは、其愛人が暗無に悲み、叉失望する事のない為かと思はれる。
131●煉獄とは何であるか
▲煉獄は罪の償を果すまで霊魂の苦む所であります。
イエズスは地獄と煉獄とを別けて仰しゃらず、唯「後の世で
[下段]
も赦されぬ罪がある」と(マ テ オ十二。三二)仰しゃった計りであります。併し赦されぬ罪があるとすれば、叉赦される罪もある筈。其処を明かに別ける為に、赦されぬ罪の罰せられるのを専ら「地獄」と云ひ、赦される罪の罰せられるのを「煉獄」と名けた。其で
煉獄
は小罪を償ひ、或は罪赦されても其償の不足を補ふ為に、
霊魂の苦む所
と云はれる。
イエズスの御言の通りに、煉獄と地獄との苦は異はぬにしても、地獄では終なく棄てられて、愛も希望も出来ぬのに、煉獄では信望愛あって、如何ほど苦んでも道理な事である、軈て天国に上る筈と能く知って居れば、地獄とは天地の差に成る。
132●聖寵を以て死んだ人は皆直に天国に入るか
▲否、小罪あるか或は罪の償を果さぬ霊魂は先づ煉獄に入ります。
夢にも忘れてはならぬのは、天主の御心に叶はぬ事、云はゞ聊の罪でもある間は其侭決して天国に入る事出来ぬ。其で
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僅な罪でも、所謂小罪でも、先づ前に償って居らねばならぬ。叉假命赦された罪でも、其傷の全く癒って居らぬ間は、何うしても天国に入り得ぬ。若し犯した罪を一心に悔み嫌って、之を立派に償ふやうに精一杯励んだ時は、必ず罪と共に其罰も悉く赦されて了う事は疑ない。雖然痛悔激しからず、改心鈍くして、償が不十分であった時には、假令罪の赦を受けて、終なき罰は免れても、未償ふべき所の残る事は多い(第三百八十四の問に尚詳しく見える)。乃が聖寵を有ちながら死んでも、直に天国に行かれぬと云ふ訳であります。