作者索引: と 東條耿一
(1915年 (大正4年) 4月7日 - 1942年 (昭和17年) 9月4日)
東條耿一 (とうじょう こういち) は、昭和初期に活動した詩人・小説家である。群馬県は宇都宮の近くの出身[1][2]で、生家は地主で造り酒屋をしていたが、火事で家が焼け落ち、更に一家にハンセン病患者が出たため移住せざるを得なくなり、日光の近くへ移り住んだ[1]。画家志望だった[1]が、若くしてハンセン病を発症、東條の兄もハンセン病を患っており、カトリック神山復生病院に兄と共に入院した[2]。その影響でカトリックに入信してはいたが礼拝堂にも通わない、聖書も読まない不信心な信徒だった[3]。その後、一時退院し、故郷の近くの線香工場に住み込みで働いた[4]。20歳の時の徴兵検査で不合格になり、翌日カルモチンによる睡眠薬自殺を図るが未遂に終わった[5]。その後、出奔し家族あてに自殺を決行する旨の手紙を書き送り、山の中に入りカルモチンで再度自殺を試みるが失敗、苦しくて山を歩き回っている内に山から落ち、民家の屋根に転落、警察に通報されハンセン病であることがばれ[5]、1933年4月21日に全生病院 (のちの多磨全生園) に送られた[6]。また、妹の立子も同じ病にかかり、耿一とほぼ同じ頃の5月4日に入院してきた[2][5]光岡良二によると、入園当初は、絵、音楽、詩などなんでも手がけ、器用だったという[2]。北條の日記からも、東條は詩作だけでなく絵も描いていたことがわかる。性格は直情的で気性が激しく、また虚無的で、そこが北條民雄と共通していて、互いを結びつけたのだろうと光岡は言う[2]。全生園内の詩サークル、全生詩話会ではきわだった存在で、「一椀の大根おろし」「爪を切る」などの詩は、川端康成の推薦により、日本では最高の詩誌である『四季』に掲載された。北條民雄の親友で、北條は東條のことを「いのちの友」と呼んでいた。北條の最後をみとったのも東條である。晩年はカトリック信仰に回帰し、未発表の原稿も自身で破棄してしまった。また、全生園内で寮母をしながら作家としても活動した津田せつ子は、東條の妹の筆名である[7]。数はわずかだが、津田のエッセイは『ハンセン病文学全集 第4巻 記録・随筆』(皓星社、2003年) に、また、晩年の直話が高山文彦の『火花』(飛鳥新社、1999年) に収録されている。津田せつ子のエッセイによると、東條の死の直前、兄妹は看護婦からきわめて冷酷な扱いをうけている[8]

作品一覧 編集

小説 編集

随筆 編集

跋文 編集

出典 編集

  1. 1.0 1.1 1.2 高山文彦『火花 北条民雄の生涯』飛鳥新社、1999年、194頁。ISBN 4043708017
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 光岡良二『いのちの火影』新潮社、1970年、59頁。
  3. 高山『火花』p.184.
  4. 高山『火花』p.195.
  5. 5.0 5.1 5.2 高山『火花』p.196.
  6. 盾木氾編・著『ハンセン病に咲いた花 戦前篇』皓星社。ISBN 4-7744-0280-X
  7. 光岡良二『いのちの火影』新潮社、1970年、196頁。
  8. 光岡『火影』pp.195-196.
 

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