新庭雑感
新庭雑感
ひとまたぎほどの小さな堤が、ゆるやかな線を描いて、私の住んでゐる舎の周囲をかこんでゐる。堤の上には、一間程の隔りを見せて、つゝじと玉ひばが交互に植ゑてある。堤の柴は青く芽ぶき、つゝじはいま花ざかりである。この堤は、つひ先頃、何もない素枯れた庭の淋しさに、少しばかりおもむきを添へようと、義弟と一緒に築いたものである。絶えず眼の痛みにおそはれてゐる私は、部厚な繃帯を顔に巻きかさねて、痛みをこらえながら、土盛りをしたり、柴を張ったりしたのであつた。不自由な自分には、このやうな仕事は無理だなと思ひながらも、生来、庭いぢりが好きなのと、草々の深い緑のにほひ、やはらかな土のしめり香などに誘ひ込まれて、いつか眼の痛みも忘れてしまってゐる自分に気がつくのである。夜、床についてから、あれこれと庭の設計をする。あそこには何を植え、入口はこのやうにしたら、などと考へ始めると、もう凝り性の私には、眠られぬ夜になってしまふ。翌朝、夜の明けるのを待っ〔ママ〕て庭に飛出し、昨夜の設計に従つて、こつこつと庭の装幀に取掛る。これは私の最も娯しいものゝ一つである。
しかし、時折、私は庭つくりの手をやすめて考へることがある。亡くなつた北條君は庭つくりなど、これに類したことには凡そ手出さぬ男であつた。彼の生前、私はかつて彼のそのやうな姿を見たことがなかつた。そういへば、Bもやらない、CもDも嫌ひのやうである。北條君にせよ、現在の友の誰彼にせよ、彼等は、私が庭つくりや小鳥とたはむれてゐる間にも、こつこつとその第一義的な、創作や読書や思索に耽つてゐる。それなのに私はこれで良かつたのだらうか、と。
しかし、それがたとへどのやうな生活態度にせよ、不断に娯しむことが出来たらそれで充分である。喜びに大小はあつてもその本質には何の変りもないであらう。さう思つては、また小さな庭師になり、花と土とにたはむれてゐる自分である。
小堤に包まれた庭には、ほどよい自然木の間に、恰好な築山がある。私はこれを男体山と称んでゐる。故郷の山になぞらへて作つたからだ、築山に添へて、粗末な禽舎と、小さな花圃がある。花圃にはグラヂオラスが一寸ほどに芽ぶき、築山には枯れかゝつた小松と、北條君の形見の沈丁花が、緑の色褪せた幾枚かの固い葉をつけて、頂きを占めてゐる。禽舎には白文鳥がつがひで棲んで居り、雌はいま卵を抱いてゐる。雄はその雌の態度が、気に掛るやうな、掛らぬやうな、ひどく手持無沙汰の態に見える。これが私のところの庭の全風物である。
しかし、これらの貧しい眺めも、私には恒にまあたらしく愉しい景観なのだ。それら物自体の匂ひや、色や、形やは、それらの醸し出す気分と相挨つて、不思議なほど、私の五官〔ママ〕に妖しい働きを示すのである。殊に、その色彩が添へるところの趣きと味はひとには、また格別なものがある。色そのものを美学的に云々することは私には出来さうにもないが、色の持つ本質的な美しさ、と云つた風なものを、最近、私は眼を悪くしてからいつそうしみじみ感じるやうになつた。おぼろげな視野のなかに入つて来る、平凡な木の肌の色、名もない一茎の草の色、一握の芥のはなつ地味な色、水の色、空の色、土の色を、私は心しみじみ美しいと思ふ。いつまで娯しんでも足りぬ思ひだ有難いと思ふ。この私の気持には、あゝまだ物の色が判る、といふ眼病者のみの持つ一種の、喜びから来るものも手つだつてゐようがしかし、決してそればかりではない。
色彩の有難さを、人は案外忘れがちなのではあるまいか。若し、距離といふものが無かつたら、風景はあり得ない、とアランは云つてゐるが、色彩がなくても、風景は存在しないであらう。われわれは色彩を創造した神に感謝すべきだ。
庭の一隅にルゝドの洞窟をつくっては、といふ義弟の言葉に、それは良からう、と私もすぐに賛意を表し、早速、その材料を揃へることにした。小さな庭の事であるし、それに怪しげな庭師の腕を以てしては、到底、大がかりなものは出来ないに定つてゐるが、手を染める前に、まづその材料調達に困惑した。私は、ふと、復生病院で見たルヽドの洞窟を思ひ出した。それは二間程の高さの岩窟の内部に、等身大の見事なクリストの立像が、いかにも厳かに生彩をはなつてゐた。それに較べると、いま私の脳裡に描かれてゐるわれわれのルヽドは、余りに貧しくさゝやかである。私は義弟と相談した結果、岩窟はそのほんの内部だけを石でつくり、その周囲を四五尺の高さに土と柴で築くことにした。それで洞窟は一応出来ることになつたが、
ひと思案の後、御像はK神父から戴いた八寸程の十字架を以て充てることにした。これは茶褐色の台に、銀製のクリストの裸像が、かつてのゴルゴダのイエスのごとく釘付にされてゐる。
柴は直ぐ前の山に在るし、石も手頃の物が三個はど附近の草むらの中から見付け出した。何かの土台物に使用したらしく、半面にところどころセメントが附着してゐる。私はこころみにその一つを持上げてみた。七八貫もあらうか、ずつしりとかなりの重さである。私はその重量の裡にふつと幼い頃の事を思つた。それはまだ六七才頃の事であったやうに記憶する。どんな小さな石にも、石自体の生命があつて、石は生きてゐるのだといふことを信じてゐた。従つて、石は絶えず成長してゐるといふことも信じてゐた。河原などに遊んで、ふと小石を手にしたりすると、こんな小つぽけな石ころでも、やがて自分が年を取つて、お爺さんになる頃には、この石も苔むしたお爺さん石になるんだな、などと考へる、すると、急にてのひらの小石がむくむくと動き出すやうに思はれて、ひどく気味わるがつたりしたものである。門柱に鏤めた玉石や、或ひは土台石などの類ひを見てもこれがやがて大きくなつて、門柱からぬけ落ちたり、家をひつくり返すやうになるかも知れない、と途方もないことを考へたものだ。石に対するこの考へは、小学校を卒へる頃まで、私の脳裡に棲んでゐた。今でも何かのはづみに当時の事をふつと思ひ出したりする。私には娯しい思ひ出の一つだ。
この生きてゐる? 石をうまく利用して、恰好なルヽドの洞窟をつくる喜びを前に、私はまた眠られぬ夜の中で、小さな庭師の頭脳を動員して、その設計をせねばならない。 (五月五日)
出典
編集- ↑ 東條耿一『いのちの歌』作品一覧
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