三壺聞書/巻之十四
うき七日めぐり来にけり七車けふのりかふる花のうてなに
か様に詠みて大乗寺謙室和尚に披露有りければ、和尚奇特の思ひをなし、頌を作りて亡子の母に物せらる。
和歌一首助余哀 何事人間去不来
月白風高真面目 西方豈願別蓮台
如斯の大活現成の一句唱へられければ、人皆難有祖意の活法を尊みけり。主水母儀は横山山城妹にてありけるが、常に和歌の道に達し、剰へ参禅学道に心ざしをみがき、賢女の名を世に顕す人也と其の頃申しあへり。玉井市正御上洛の御供して、上方より妾一人相具し、下屋敷にて家老岸五郎右衛門家を明けさせ、五郎右衛門は外へ移り、其の跡へ彼の女を入れ、男女を付け賄はせ、折々市正通はれけるに、主水母儀より殊更念頃にして、毎日菓子・肴以下慰みの為とて贈り、旅泊の住居嘸不自由に候はんと申し被遣ければ、さすが上方の人なれば、其の御志又難有との水茎になんだを催す返事に、此のさよ衣の重ねづま御はもじなどゝ有りしかば、猶いと哀にや思はれけん、市正に被申けるは、我等すでに助太夫・主水・大学とて三人の男子、其の外娘も有り、何の不足の候べき。下屋敷の客来こそ泊り定めぬ海士【 NDLJP:107】小船、浦の笘屋の夕暮もさこそ寂しかるらんに、随分とはせ給へと折々の催促也。かゝる御方の又可有共思はれずと、諸人貴く思ひける。又是よりたうときは、市正娘を佐藤与三右衛門に嫁娶の時、成程眉目よき若女房を撰び召抱へて娘に相添へ、与三右衛門方へ遣しけり。是は娘気にあはぬ時は心易く召仕へとの事也き。娘のお乳は至つて是を妬みに思ひ、市正内室へさゝへ申ければ、内室曰く、夫婦の挨拶の悪敷成るは、恪気嫉妬より事起りて、身躰の邪魔に成り、家を破り命をたち、子供をうき目にあはせ、世間に悪人の名をとる。是皆嫉妬の致す所也。本妻は其の家にして崇敬してさへ置きなば、かまへて恪気は云ふべからず。悪女也とて侍の娘を離別する事なき者也。但日本一のたわけ者なる男は格別也と能々制し被申ければ、与三右衛門伝へ聞きて、御心人の程誠に以て聖賢の道とても是には過ぎしとて、一入妻女に念頃に致しけり。是等の人は、形は女性なれ共誠に此の世の男かな、変成男子疑なしと沙汰しけり。
同六年大坂御普請の御触有り、諸国より奉行・人足・役人等罷上り、御城を造営す。越中高岡には百五十人の出家にて、夏百日の廻向として置かせらる。惣奉行安見隠岐・永原土佐、小奉行嶋田清右衛門・古江次右衛門・池田弥次兵衛・市川長左衛門、其の外先年高岡衆何れも相詰め、御番以下代り〳〵に被遣相済みけり。此の年女帝御即位有りて寛永の帝と申し奉る。秀忠将軍の御孫にてぞおはしける。 此の年六月下旬の事成るに、前田孫四郎殿御子息肥後殿は利家公の御孫也、左右なく御一門中より崇敬被成。いまだ若年の時分也、ちやんふ彦右衛門・高畠又八は朝より罷越し、昼時分に成りて石黒権左衛門・神戸嘉助・桑嶋藤右衛門・兄の次右衛門方へ人を遣し呼寄せられ、夕飯を急ぎ済し、何れも同道し才川へ出で、中村の淵にて水をあび、未の刻に帰らるゝ。法船寺町は其の時分川除にて、富田右衛門前なる橋まで出づる間は侍町也。川除のきはに坂部次郎兵衛、其の次に水野小兵衛、鬼川の際に村瀬九右衛門也。坂部次郎兵衛向ひに内藤助右衛門、其の次に外科の不乱坊、村瀬九右衛門向ひに辻助左衛門と不乱坊間に横井清右衛門、鬼川越えて橋際に松江次郎兵衛、向ひは神戸蔵人也。惣構の方へ横田弥五兵衛・山本治部、向ひは半田五郎左衛門、如斯有りけるに、肥後殿鬼川の橋際へ何れも同道し行懸り給ふ所に、村瀬惣領四郎右衛門・坂部惣領市郎右衛門両人連れて、鬼川の橋へ行懸り、坂部市郎右衛門橋の爪へ渡り懸り、肥後殿も渡り懸り、橋の真中にて刀の鞘と鞘とはつしと当る。肥後殿扇子を取直し、市郎右衛門が肩をひしとうち、せがれ如何と宣給へば、市郎右衛門刀を抜き心得たりと云ふ所を、石黒権左衛門市郎右衛門を後よりかき抱き、橋より道へ押落す。肥後殿家来川へ飛入り、橋向ひなる村瀬四郎右衛門を取籠めたり。四郎右衛門は刀を抜き、肥後殿橋を渡り道へおり給ふを待かまへたりしが、取まはされてたゝき合ひ、大勢なれば四郎右衛門・松江次郎兵衛前にて討留る。坂部は権左衛門にかゝへられ刀を振るに付いて突放すを、何れも寄合ひ討留る。其の間に肥後殿は何れも引包み、半田五郎左衛門門へ引入り、裏伝ひに富田右衛門方へ入り給ひ、表門へ出で給ひて高岡町へぞ引取り給ふ。村瀬九郎右衛門は其の時湯殿に行水して有之所へ、四郎右衛門乳兄弟左太郎と云ふ者走り入りて、四郎右衛門殿こそ喧嘩被成討れ給ふと申しければ、九右衛門聞きて、浴衣の上に手拭帯して長刀追取りかけ出し、せがれを討ちて何方へかのがし可申とて山本治部前まで追懸る。肥後殿家来共立帰り、追つまくりつ戦ひけるが、肥後殿歩行の者二人討たれ、草履取跡にさがつて後より九右衛門のよわ腰を切る。九右衛門長刀取直すかと見れば、此の草履取胸元より首筋半分かけ倒さるゝ。肥後殿歩行頭市川六兵衛しばし戦ひ、真甲切られけれ共九右衛門を討留めたり。其の時坂部次郎兵衛は宿に在合ひけれ共、程隔りて聞くや否や鑓追取りて出けれ共、早や何れも引入りて見物人のみ多ければ、無是非妙慶寺へ引込み法躰して上方へぞ登りける。村瀬九右衛門二男忠蔵十六・七歳の頃也。是非に出でんと刀を追取り出けるを、母・乳母など引留る。其の弟乱助はいまだ若衆にて十三・四歳也。村瀬四郎右衛門乳兄弟左太郎は、少し手負ひけれ共軽くして別義なし。追付き江戸へ言上有りけれ共、肥後殿手前別条なし。去れ共敵討もあらんかと、一代気遣油断はなかりけり。肥後殿後に三左衛門と云ふ。【 NDLJP:108】保科肥後守殿出来しての事也。後には小幡宮内聟に仰付けらる。村瀬妻子共は江戸へ引取りける。森川出羽守殿姪聟なれば江戸へ引越す。二男忠蔵は水野甲斐守殿へ在付き、弟乱助は旗本衆へ児小姓に出でけるに、若年の頃器量殊の外いみじく、見る者毎に執心し、引手数多に成りぬれば申分出来し、乱助後に浅草にて討死す。此の由兄忠蔵聞付け、相手を打とらんとて走り廻りて渡合ひ、糀町にて討死す。此の事、四郎右衛門乳兄弟の左太郎弟石松と云ふ者加州より被召連、兄弟の果を見て又金沢に来り語りけり。彼の村瀬四郎右衛門は新蔵と申し、坂部市郎右衛門は権八と申して長久寺にて手習し、十九・二十歳の頃前髪取り、其の翌年の事也。惣構の河岸ばた其の時分まで町屋也。鞘師徳兵衛と云ふ音頭とりの名人也。此の者の所へ鞘を頼みに両人参りたる折節也。何れも若き者共と、をしまぬ人はなかりけり。 同八年三月六日に寿福院殿御遠行被成ければ、江戸にて御遺骸を寺町へ御移し、日蓮寺へ納め奉り、池上に御墓所を御建立有りて、加州へ早速御飛脚到来し、天徳院様の御例になぞらへ、御葬礼を小立野にて執行せられ、善尽し美尽せり。則ち経王寺導師にて規式相済みけり。御法名寿福院殿花岳日栄大姉と号し奉りけり。 同年三月三日宝円寺に於て大法会を御執行被仰付、三ケ国の禅宗は申すに不及、諸宗の惣録諷経の衆、上方諸宗諸門跡諷経の使僧夥し。其の頃まで寺にて膳部被仰付、昼夜三度・四度の御賄に、木具・野菜品々郡中より持参す。畳の裏に数千串の豆腐をさし、廻廓の庭に炭を起し、数畳立て並べて焼かゝる。大い成る事共なれば商売人織るが如くに参りつどひ、人民御報謝の徳に依りて豊かに世を渡り、尤施行・牢払、閉門・蟄居も開門し、尊霊の牌前に参詣し奉る。三月十日には二の丸に於て御能被仰付、御家中並に出家衆まで御振廻を被下けり。 同年四月十四日寿福院殿御葬送の灰塚もいまだ不納、番人を附置かせらるゝ所に、大風吹いて天気能く、から風にて世間も騒敷思ふ所に、巳の刻に至りて才川橋爪法船寺の門前町二軒の間に火をはさみ焼上りて、法船寺の薬師堂に付き、夫より客殿・庫裏に付きければ、河原町を一面に押来り、南風は強く、中河原の大橋を焼落し、寺町より東をさして惣構の外を竪町より焼払ひ、惣構の外の火藪の内長九郎左衛門・山崎長門家に付く。大家の火なれば仙石町・堂形一面に火通りて、煙暗うして中天まで闇の如し。御城御本丸の上に人雲霞の如く、筵を以て懸る火の粉をあふぐを見るに、中々肝魂も消ゆるばかりに思はれけり。後には黒煙有頂天に棚引き、城の形も見えざりけり。然るに奥村河内屋形に火懸りて城を打越え見えければ、是は〳〵と云ふ内に、御城たつみの矢倉に火懸りて御本丸焼け、火の粉江戸町を焼払ひ、田井口悉く焼通り、金屋町にて火留る。御城の火は明日四つまで消えざりけり。肥前守様は北の丸飛駅様丸へ入らせらる。堂形米共上こげして煙匂ひし御用に難立に付き、御扶持人たる者の火事に逢ひたる者共に五石・十石宛被下、足軽・小者に割符し、外は惣町中へ被下けり。江戸へ此の由相聞えければ、上使として徳山五兵衛・桑山左衛門に、御夜着・ふとん・御小袖・御帷子為持被遣、五月十一日に金沢へ着き、御本丸へ上り焼跡見物申されけり。利常公御父子御同道にて御城を見物し、徳山五兵衛被申は、扨々此の御城は昔佐久間玄蕃頭暫く在城の後、利家公築かせ給ふ御城なるが、あの茶臼山の目の下にて、殊に小立野も城の為には宜しからず。上口より五千、下口より五千程有るならば、余り手間も入間敷と被申しは、御挨拶と何れも申ならしけり。其の火事に南町の片町は焼けざれば、金屋忠左衛門近所二・三軒の町屋へ上使を入置き、御賄仰付けらる。其の時分御通ひ子小将に柳田長三郎・佐藤伊織・安彦兵部、其の外五・三人替り〳〵に被参けり。やがて御暇申上げ、拝領物有りて江戸へ被罷帰けり。 斯くて御城御造営有るべき所に、俄に御材木もあらざれば、其の時分六条の末寺建立の為に、数万の材木末口物幾千本も年々に宮腰に積置きけるを、御借用被成、京都車牛十疋言上有りて被召下、彼の末口物・大材木を車にとらせらる。宮腰の馬借共是を迷惑がりて訴訟申上ぐる所に、此の末口物・大材木十四・五間も通りて、さし渡し二尺・三尺・四尺あ【 NDLJP:109】るをば、何共して馬にてつけのぼすべしと被仰渡ければ、還りて御記言申上ぐる。北国七ケ国の大工共集り、其年・翌年両年かけて御屋形出来す。序を以て侍屋敷町なみ悉く建直り、屋敷替共有りて開敷事共也。 法船寺権誉上人の前師は妙慶寺へ移り、其の跡の住持にて、談義は北国に第一也。頓て寺を建立せんとて材木共夥敷積置かれ、大工の隙を窺ひ有之所に、火事に及び難儀の上、火元なればとて牢舎被仰付。扨門前の者御吟味の所に、我の人のと論になり、二軒の家主牢舎となり、火事の節盗賊数多にて道具共取らるゝ者多し。何方にも道具を拾ひ、又はのけたる道具あらば持出すべき旨、御触日々に廻りければ、友吟味に成りて隠し置く事成り難く、不審成る者有りて申出づる者には御褒美可被下旨御触なれば、我も人も大事と云ふ折節、或寺の門前にまづしき小者奉公人有り。不時に近所の者を振舞ひ、俄に有徳に見えたり。又不思議成る事共有り、旁隠し置き難く、以来の為を思ひて密に奉行所へ注進す。頓て公儀へ被召寄御吟味の所に、早速白状に及びけり。大原次郎右衛門役人にてぞ有りける。不参銀重り難儀仕り、つけ火致し、騒動のまぎれに河原町米屋より米を五斗盗取りて宿におろし、又立出で長九郎左衛門殿式台より長筒の鉄炮一挺取りて立帰り、坂の上より見てあれば、御城に火ぞ懸りける。見るより其の儘腰ぬけて立つ事難し。漸く垣の竹をぬきて杖につき帰申候。天命にて顕れ是非に不及申候由申上げれば、女子共に三人を牛にのせ、金沢町を引廻し、十四日の火付なりと呼はり、泉野にて火罪せられ、其の後法船寺は牢舎御赦免、門前の火元二軒ながら御追放、法船寺には才川の下にて河原を屋敷に被下けり。此の権誉上人は北国無双の談義者にて、暫く小屋掛の内にて談義せられしかば、頓て諸旦那寄進して大伽藍を建立せられ、追付き万人講を立て寺造営を補益し、其の後出入の座頭坊主宗寿と云ふ者発心し、裏屋敷に念仏堂を建て引籠る。其の内に諸国道心坊主集り、昼夜念仏怠る事なし。宗寿は泉野へ上りて小庵を結ぶ。彼の念仏堂相続繁昌して、自然と万日講と成りて、延宝年中に万日の廻向として江戸新智恩寺来駕有りて、国中一宗の智識此の廻向にあひぬ。三十三年以後の万日廻向発起せらる、奇妙と云ひつべし。先づ過分の材木をよせ置きて、夫を四月十四日に灰塵となし、下の河原に追付き寺造営せられける。弥陀本願の難有故とは云ひながら、権誉上人の智力による。善導大師の三尊を吹出だされけるよりも、此の上人の弁舌を以て伽藍を造立せらるゝ事猶貴しと申して、諸人崇敬致しけり。 此の年中納言利常公は北の丸に御座被成、筑前守光高公は本多安房守屋形にまし〳〵て、御本丸の御作事を仰付けらる。然るに大橋市右衛門を召して被仰出けるは、供廻りの小将共年寄りて若き者まれ也。子供・兄弟・甥たる者の無足にて有之者三十人計見立て、由緒を取りて指上ぐべし、召抱へ供廻り勤めさすべき由御意に付き、御家中へ触れければ、由緒一門付を調べ大橋市右衛門に持参す。一々御覧に入れ奉る、利常公御披見被成御点を被成、早々御目見可申付旨にて、何れも難有存じ、日限相極り、礼銭にて御目見仕る。則ち御一行御調被置、御前に於て頂戴す。人持・物頭・小将・馬廻・組外の無御構被召抱ける故、御知行もひとしからず。その被召出人々は、不破七兵衛・野村四郎左衛門・中尾宗兵衛・中村喜左衛門・矢野所左衛門・今村久兵衛・武藤長左衛門・脇田三郎四郎・湯原太左衛門・橋爪新兵衛・同宗右衛門・佃次兵衛・神戸清四郎・湯原又助・谷与右衛門・嶋田又八・丹羽次郎兵衛・宇野五左衛門・河内山半助・加藤九郎右衛門・田辺五左衛門・中村長右衛門・原三郎左衛門・青木新右衛門・岡田弥五郎・横地三郎右衛門・稲垣弥三郎・笠間新助・嶺喜右衛門・古江猪右衛門・同五兵衛、此等の人々江戸御供の用意として、親・一門兄弟より夫々に致用意、岩乗の為とて小松へ往来し、倶利伽羅・石動・高岡へ行き、富山へはせ、道の稽古を勤めけり。大橋市右衛門に被仰渡けるは、随分の大男と聞きけれ共、皆子小将上りの様なる若輩者と見えける由御意の所に、市右衛門承りて申上げるは、御意の通り相違無御座奉存候。併し初て御前へ上下を着し罷出候へばすくみて見え申候。旅出立など仕候ては能き器量共にて御座候由被申上。其の時分御家に大橋市右衛門・佃源太左衛門程なる申度きまゝの出頭人又ともなかりけり。其の年の暮に上通り御参覲の節、彼の三十人の者共旅の出立の半着【 NDLJP:110】物、本綿にて薄鼠又は空色に染めさせて着し、二尺二・三寸の大脇指一腰宛にて、腰に小さき馬柄杓・小瓢簞を帯に挟み、手拭を縄になひて腰に挟み、御乗物の先に進みければ、何れも背かいらぎに金鍔又は好みの太刀拵へ、誠に花々敷見えければ、利常公仰には、市右衛門申す通り能き器量の者共也と仰せらるれば、御意の通りに御座候と市右衛門申上げ面目を施しけり。東海道に至りて御昼休の節、大橋市右衛門御本陣へ出で、御供の人々を見渡せば、皆草履取に髪をゆはせ居たりけるを、市右衛門急度見て、扨々其の方達少分の身代にて、人に髪を結はする事沙汰の限り也。夜中にも自髪にゆひて御点にあふ事第一也。向後自鬢にて無之ば、急度申上候はんと高声に被申ければ、夫より何れも自鬢にこそは成りにけれ。扨道中御急ぎの事なれば、或時御弁当所へ着かせ給ひ、御本陣へ御乗物を舁入れんとするに、直に通せと御駕籠の底をたゝかせ給ふに付き、直に御駕籠を通しけるに、大橋市右衛門御乗物の棒ばなを追取りて、跡へ押戻し申しけるは、御供廻の者共草臥て見え候へば、他国路にては叶ふまじ、御乗物を舁入れとて御宿の式台まで無理に押やり、式台へ御乗物を押向けれ共、利常公は物をも不被仰、御駕籠より御出もなく、御鬢の髪さかさまに御眼色かはりて御座被成けれ共、其の間に御供廻りに早々支度させ、皆々食事等済み早速罷出ければ、御乗物を出せと市右衛門下知して、御泊まで一息にそ御着なる。其の節の市右衛門気色は樊噲・張良・安禄山と申すとも、是程には有るまじとぞ申しける。