三壺聞書巻之十五 目録
 
佃源太郎事 二一七
 
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三壺聞書巻之十五
 
 
 
寛永八年十月上旬に、先年大坂陣に高名の者共大形に聞届け加増を遣す。元和二年に家中又者共迄手柄の次第聞届け褒美を遣すといへ共、唯今又委細に可被聞召の旨被仰出、古老の者共、御次にて覚の者共召寄せ、証拠を糺し其の場の儀を申上ぐるに付き、鑓合に前後の争ひ有り。首にもぎつけ・直首の違ひ有り。悉く口論に及ぶ族も有り。夫々に御吟味ありて恩賞厳密に執行はせ給ふ。弓箭の本意末代の面目也。岡山表にて鑓合せたる人々には、

伴八矢 安見右近 野村左馬 西尾隼人 篠原織部 津田勘兵衛 横山大膳 宮城采女 山田覚左衛門 後藤杢左衛門 丹羽織部

南条の辻にて鑓合せたる人々には、

葛巻隼人 古屋所左衛門 梶川弥左衛門 山森吉兵衛 脇田九兵衛 猪子九郎左衛門 半田治兵衛 氏家久兵衛 山本久左衛門 野村七左衛門 江守覚左衛門 横地忠左衛門 大野甚之丞 脇田帯刀 浅井八左衛門 葛巻平四郎 河合惣三郎 小川次郎九郎 沢田治左衛 門滝与右衛門 佐藤久右衛門 寺西主馬 北川久兵衛 浅野将監 和田助右衛門 森権太夫 浅野与右衛門 金子与右衛門

御鉄炮大将には、

石川茂平 同虎之助 同宮内 長瀬主計 玉井市正 水野次郎左衛門 同勘兵衛 高畠杢 野村小右衛門 渡辺助三郎 富田弥五作 富田兵部 石黒覚左衛門 長田市兵衛 栂大学 岡田隼人 不破加兵衛 井上勘左衛門 同右京

御馬廻には、

オープンアクセス NDLJP:111高畠左門 津田源三郎 中川久右衛門 湯原主水 大塚帯刀 山本主馬 板垣市右衛門 横山縫殿 長屋数馬 森伊右衛門 近藤監物堀内膳 同伊豆 高畠善太夫 同彦太夫 渡辺内匠 永井主馬 津田兵部 佐久間三右衛門 村瀬九右衛門 森左近 本庄主馬 津田甚三郎 生駒左門 帰山助右衛門 加藤半兵衛 村山太左衛門 佐藤弥右衛門 後藤瀬兵衛 森嶋長三郎 富永権之助 馬淵加右衛門 里村治兵衛 林弥次右衛門 丹羽平兵衛 富永甚十郎 原九郎兵衛 木村十兵衛 柴田柄漏 三輪次郎右衛門 岩田平蔵 吉田六左衛門 今井勘太夫 平野源左衛門 村井間兵衛 佐分利権太夫 藁科助五郎 林助兵衛 佐藤武内 河合吉左衛門 鈴木権左衛門 横山藤左衛門 青山勘解由 林孫九郎 久津見善兵衛 小塚半右衛門 加藤内匠 嶋田勘右衛門 佐久間弥右衛門 原伝左衛門 矢部孫右衛門 斎藤三太夫 半田八右衛門 長田庄右衛門 小幡囚獄助 原五郎左衛門 山崎吉左衛門 富田与五郎 原田外記 三階善左衛門 松田平太夫 羽田三右衛門 横井五郎兵衛 三田村庄兵衛 上田権之助 駒井民部 小林六左衛門 大平左馬 豊嶋八兵衛 長沢左馬助 柘植数馬 松崎左兵衛 宮田嘉右衛門 浅香隼人 平野主馬 小笹五左衛門 一村新之丞 岡田八郎兵衛 吉田主馬 柳田半助

此人々首数或は二つ或は三つ・四つの不同右の通也。

御扈従組には、

斎藤中務 山崎采女 国府掃部 今井作十郎 浅野治太夫 笹嶋掃部 浅加市正 小塚権太夫 佐々作十郎 笹嶋監物 河原隼人 下沢小内膳 菊田逸角 大橋小隼人 奥村三右衛門 藤掛又太夫 本保杢助 笠間九郎三郎 堀田左兵衛 平沢采女 杉本民部 渡部隼人 福田左京 遠田勘右衛門 久田儀左衛門 大嶋左太夫 行山主馬 山田大学 村井左近 斎藤市右衛門 神戸金太夫 千福権之介 田辺助太夫 寺西十蔵 小塚源左衛門 滝左源太 岡田伝左衛門 大井主馬 渡瀬弥次右衛門 石黒新十郎 大窪助之進 井上権左衛門 土肥庄兵衛 小林庄兵衛 小嶋八兵衛 河合伝次 笠間伝兵衛 窪田九郎兵衛 堀三郎兵衛 村田喜太郎 河口弥次右衛門 小幡民部 由比善右衛門 原治部 西村蔵人 堀勘兵衛 吉田五郎兵衛 桜井九右衛門 半井造酒 加須屋式部 小森内記 日夏三左衛門 橋爪半兵衛 中村弥五右衛門 吉田逸角 桜井丹助 福尾太兵衛 茨木助右衛門 神戸治太夫 浅加権之助 吉田左近 松原内匠 吉田平兵衛 平野善左衛門 佐藤兵部

此の人々右同断。

御弓の衆には、

久徳伝兵衛 井岡四郎右衛門 萩原助左衛門 山田庄太夫 名村十左衛門 大野権太夫 林勘右衛門 布施勘兵衛 横田十右衛門 吉田甚丞 村田久左衛門 武藤嘉兵衛 大瀬左太夫

此の人々右同断。

本多安房守手合にて手に遭ひたる人々には、

大津弥五左衛門 長井忠左衛門 舟木治部左衛門 森九兵衛 胸口三郎 滝八郎左衛門 堺太左衛門 大町与三右衛門 北野七左衛門 大瀬長左衛門 赤尾勘左衛門 磯野権之助 木村五郎左衛門 立川次左衛門 野瀬弥兵衛 玉木作左衛門 森川五郎右衛門 木村丹右衛門 高柳儀左衛門 石橋久右衛門 オープンアクセス NDLJP:112 横山山城守・同大膳の衆半分有之手合には、

木村権兵衛 伴太左衛門 伊藤左源太 松山助左衛門 岡本左門 長谷川五右衛門 広瀬宇右衛門 長谷川吉右衛門 斎藤兵部 松浦武左衛門 塚本伊右衛門 森田源之丞 荒屋松右衛門 長崎新右衛門 水沢清右衛門 吉田久右衛門 山本又助

此外鉄炮の者の内六人何れも首一つ宛討取。

富田下野手合、

西脇儀兵衛 俣野六兵衛 藤村忠左衛門

横山式部手合、

折田弥兵衛 加々井五兵衛

寺西若狭手合、

神野太郎左衛門 浦野庄兵衛

津田和泉手合、

佐久間太左衛門 山下甚左衛門

奥村周防手合、

中条又兵衛 石黒忠兵衛 河口嘉助 塚本文内

山崎長門手合、

山崎久兵衛 大塚金左衛門 三嶋半右衛門 西村次郎右衛門 窪田民部 岩田三左衛門 帰山外記 服部数馬 石原孫太夫

村井飛騨手合、

寺尾主計 稲川瀬兵衛

篠原出羽手合、

石黒明石 大窪助左衛門 不破権左衛門 平田金左衛門 五十嵐庄兵衛

神尾主殿手合、

山田縫殿 岸茂左衛門

永原土佐手合、

沢崎宗右衛門 同猪右衛門 沢崎九兵衛

中川宮内手合、

丹羽左太夫 鈴木十右衛門

安見右近手合、

飯田内匠 佐山主水 松高大炊 平井兵庫

前田備前手合、

森勘左衛門

此の外長九郎左衛門如庵法師は、如何なる存念や有りけん、手前の者共似合の高名仕る者有之けれ共、此の方吟味仕り、忠賞夫々にあたへ候へば、公儀へ書出し申すに不及とて出し不被申。依之此の帳面に被指除。

冬夏両度の合戦に討死の面々には、

矢野所左衛門 長瀬小右衛門 古沢加兵衛 堀田平右衛門 堀久右衛門 藤田内蔵允 山下勘兵衛 諏訪八兵衛 斎田七左衛門 小寺甚右衛門 大嶋織部 細野雅楽助 大河原助右衛門 杉野善三郎 河橋治左衛門 神子田五兵衛 沢庄兵衛 神戸蔵人 三吉左助 中村安右衛門 森覚右衛門 神田左門 服部左源太 大原忠閑 稲垣掃部 大河原四郎兵衛 改田久兵衛 真田勘解由 多田大学 笹田助左衛門 岡田助右衛門 富田市十郎 妻木左京 山川織部 富田甚十郎 青木権右衛門 桑原十兵衛 大橋外記 前波助丞 坂田権右衛門 鈴木忠兵衛 〆四拾壱人也。

則ち宝円寺に祠堂料を附けさせられ、御代々此の者共の牌前に茶湯霊供怠る事なし。難有かりける御事弓矢取る身の本懐也。

 
 
寛永八年十一月中旬に江戸にて御一門方より御内証の飛脚到来す。其の意趣は、金沢には新参の者共数多被召抱、其の上に先年大坂にて高名仕る者共吟味有りて加増被遣、人持に被成者共多し。其の上に城の堀・石垣等普請も有り。今程公方様も御不例也、無心元次第也と取沙汰も御座候間、早々御父子御参観可然旨申来る。其の時分迄は毎年代り時分の御参観と云ふ事なし。何れも不時の参観にて有りければ、光高公仰上げられけるは、我等参観可仕、春に成りて其の御元様御参観被遊候へと被仰所に、いや父子オープンアクセス NDLJP:113一度に参観せば公儀も可宜、一人残りては不可然と被仰、御父子俄に御参観と極り、十一月廿五日に御発駕、下通りは叶ふまじと上通に懸り、夜を日に継ぎ御急ぎ被成けり。彼の御供廻りの者共、足を踏損じ片腰引いて行くも有り。打またぎの馬に乗りて続くもあり。大橋市右衛門・神戸清四郎のみ相続き御供す。追付き十二月十日に御着被成、御老中へ御案内有りけれ共、御目見もなかりしかば、役人・足軽に被仰付、江戸中の植木共被召上、或は石などを車にて御取寄せ、御露地御普請夥敷、きやりの声本郷湯嶋の町をひゞかす。然る所に上使有りて屋敷留守居の者可致登城の旨申来る。奥村河内・今枝民部・横山大膳何れも御次に伺公し、誰を可被遣やと御意を伺ふ。利常公被仰出は、大膳参り聞いて来れと被仰に付き、畏りて登城せし所に、土井大炊頭被罷出、大膳を近付け、肥前守殿国元にて浪人共を数多被召抱事、先年大坂にて高名の吟味有りて加増を被宛行事、城中石垣等の普請被申付事、達上聞、大御所御不例の折節なれば御不審に思召すの間、申わけも有るべくやとありければ、大膳畏りて申上けるは、奉達上聞の条御不審偏に御尤の御事に候。併し大坂御陣の頃は肥前守若輩也、其の後天下泰平にして軍法の沙汰指置き、遊山慰のみに取まぎれ、骨折りたる者共に忠賞を行ふ事無御座、依之何れも年の寄るまで徒に日を送る事を少し遺恨にも存ずるやらん、何れも申合せ暇をもらひ可申旨内談致す由承り及候に付き、若し左様の場を存じたる者に無詮暇を遣す事は、上様へ御奉公を可申上様もなく、却りて不忠の至り也。依之其の節の働に応じて少宛の加増遣し申事紛れ無御座候。是併し上様御為と存ずる所也。又侍共召置候事、若年の時分より供廻りを勤候者、最早何れも年罷寄り申すに付き、若輩なる子供を歩行同事に召置き供廻り致させ申候。是等は則ち親の名跡に可成者共にて御座候。扨城中の堀・石垣の事、毛頭左様の儀は候はず。去年火事に破損仕候故少し繕り普請致し候。此の儀は御目付中被遣候へば実否慥に知れ候はん、何の御心許なき事の候べきと申上ぐる。大炊頭被申は、大御所御不例の時分、江戸中に隠なき屋敷の普請に事関敷躰あり。是はいかゞと被申ければ、大膳承り申しけるは、如仰遠慮もなき普請等にて江戸中ひゞかせ申す事、是れ上様の御為を奉存所忠。いかんとなれば此の御不例とて諸人心肝を労する事也。此の節肥前などが打しづまり有之候はゞ、江戸中に色々の風説あるべし。夫に応じて諸人のうたがひも生じぬらんかと、日用人足・大工・木挽共数多屋敷の内へ出入させ、露地普請等をいとなむ事、諸人の心を安んぜんがため也。能々御思案被成宜敷被仰上候へと荒らかに申しければ、大炊頭尤の次第也、早々可被罷帰とて奥へ入り、其の後いかゞあるやらん、追付き御目見と御内書ありて御登城被成、御懇の御事共也。横山返答の次第無残所申分かなと、殊の外御感ありて、御父子より御褒美とも不大形、末代までの面目也。
 
 
秀忠公御不例爾々共御座なく、次第に頼みすくなく見えさせ給ふ由、天下の諸侯在江戸にて種々取沙汰有りければ、町中も何となく落付かぬ様に存じけれ共、加州の御屋敷は無心許事更になしと、少し安堵の心地有之由風聞せり。其の頃日本橋に落書を立つる。

  武蔵野に碁打の下手の集りてしんだ共云しなぬとも云

寛永九年正月廿四日終に薨去とぞ聞えける。増上寺へ移し奉り、御葬礼被執行、万部の御経日本国の浄土宗集り、諸宗の惣録参詣し、納経・諷経・焼香残る所なく、公家・門跡・諸社の神職・神子・巫等に至るまで武蔵一国に充満せり。台徳院殿大相国公一品光蓮社尊儀と号し奉る。

 
 
御遺書に相添へ兼ねて被仰置通、

 こうせつの御太刀    宗三

 左文字の御腰物     豊後藤四郎の御脇指

 奈良柴の御茶入     捨子の御茶壺

 圜悟の御掛物      付り土井大炊頭

都合七種とぞ聞えける。

 
 
御遺物として御道具並に金銀可被下と思召し、御帳面被相調、金銀預る御土蔵奉行を被召、此の金銀可有之や否やと御尋の処に、奉行人承り、たとへを以て可申上と持ちたる扇をひらき、たとへば其の御帳面の御金出し申すは、此の扇一折の分にて御座候、残り九折ほど御座候由申上ければ、オープンアクセス NDLJP:114其の儀にて有るならば、相果候跡に相渡し可申旨被仰置に付き、役人を定め目録にて被遣事。左の如し。

    御遺物の次第

一、会津正宗御脇指・面壁御掛物園悟讃 尾張大納言
一、寺沢貞宗御脇指・初祖菩提西王一山 紀伊大納言
一、切刄貞宗御脇指・俊成定家両筆の掛物 水戸中納言
一、松井貞宗御腰物 加賀中納言
一、中川義弘御腰物 同筑前守
一、国綱御腰物 松平淡路守
一、加藤二字国次御腰物 松平宮松丸
一、細川正宗御腰物 越後仙千代丸
一、青木国次御腰物 越後伊予守
一、長光御腰物 備前宰相
一、御掛物 和泉守上るを 藤堂大学
一、御茶入 筑前守上るを 松平右衛門佐
一、御茶入 左馬介上るを 加藤式部大輔
一、御茶入 父土佐守上るを 松平土佐守
一、御茶入 下野守上るを 松平中務大輔
一、御茶入 讃岐守上るを 生駒壱岐守

    金銀拝領の次第

一、金弐千枚・銀壱万枚 中宮様
一、金五万両・銀弐万枚 天寿院様
一、金壱万枚・銀壱万枚 高田様
一、金百枚・銀千枚 松平新太郎母儀
一、銀千枚 高松殿内室
一、金千枚 松平新太郎内室
一、銀千枚 九条左大臣殿簾中
一、金百枚 九条殿簾中
一、金弐百枚 松平越前守内室
一、金百枚・銀千枚 細川越中守内室
一、同 松平阿波守内室
一、同 松平右衛門佐内室
一、同 京極丹後守内室
一、金百枚 松平土佐守内室
一、同 有馬左衛門佐内室
一、同 大久保加賀守内室
一、同 市場殿
一、金弐百枚・銀千枚 加藤肥後守内室
一、金弐百枚 松平長門内室
一、同 常光院殿
一、小判金 弐千両養寿院殿
一、同 相応院殿
一、同 一位殿
一、同 永松院殿
一、金百枚 即雲院殿
一、同 西雲院殿
一、銀弐千枚 おまん姫
一、同 おふう姫
一、金百枚 毛利甲斐守内室
一、同 小出大和守内室
一、同 鍋嶋信濃守内室
一、銀参万枚 尾張大納言殿
一、同 紀伊大納言殿
一、金六千参百枚・小判六万八千両・銀五万四千両 水戸中納言殿
一、銀壱万枚 加賀肥前守
一、同 松平陸奥守

一、銀五千枚宛の人々には。

松平伊予守 松平宮内少輔 佐竹右京大夫 毛利美作守 細川越中守 松平長門守 加藤肥後守 浅野但馬守 松平右衛門佐 上杉弾正大弼 京極若狭守 福嶋信濃守 藤堂大学頭 加藤式部少輔 松平新太郎 井伊掃部頭

一、銀参千枚宛の人々には。

松平阿波守 堀尾山城守 松平土佐守 松平中務少輔 生駒壱岐守 有馬玄蕃頭 寺沢志摩守 南部信濃守 松平越中守 松平下総守

一、銀弐千枚宛の人々には。

京極丹後守 宗対馬守 毛利甲斐守 立花飛騨守 丹後五郎左衛門 伊達遠江守

オープンアクセス NDLJP:115一、金五百枚 細川三斎

一、銀千枚宛の人々には。

松平出羽守 松平石見守 松平式部少輔 奥平美作守 鳥井左京大夫 酒井宮内少輔 松平丹後守 牧野右馬允 内藤左馬介 真田伊豆守 堀丹後守

一、銀五百枚宛の人々には。

松平大和守 松平右近将監 中川大膳 黒田甲斐守 稲葉民部少輔 小出大和守 稲葉淡路守 伊藤修理亮 一柳監物 松浦肥前守 古田兵部大輔 加藤出羽守 池田備中守 有馬左衛門佐 石川主殿頭 本多伊勢守 松平五郎 大久保加賀守 相馬長門守 戸沢右京大夫 浅野采女正 脇坂淡路守 仙石兵部 秋田河内守 津軽平蔵九 鬼長門守 本多下総守 諏訪因幡守 保科肥後守 水野隼人正 松平大膳大夫 溝口出雲守

一、銀参百枚宛の人々には。

黒田市正 織田出雲守 金森出雲守 片桐出雲守 松平土佐守 松倉長門守 山崎甲斐守 木下右衛門大夫 嶋津右馬介 秋月長門守 小出対馬守 亀井帯刀 木村松千代 遠藤伊勢守 本多因幡守 分部左京 市橋伊豆守 毛利伊勢守 織田内蔵助 京極修理大夫 戸川土佐守 本多飛騨守 土岐山城守 内藤帯刀 小笠原左衛門 丹羽式部少輔 北条出羽守 戸田因幡守 西郷若狭守 松平玄蕃頭 水谷伊勢守 加藤式部 大輔新庄越前守 佐久間日向守 岩城左兵衛 大関出羽守 松平佐助 細川玄蕃頭 織田百助 六郷兵庫頭 真田河内守 松前志摩守 土方彦三郎 大田原左兵衛 水沢美作守 佐久間大膳 前田大和守 溝口伊豆守 遠山刑部少輔 真田内記 本多三弥 酒井長門守 水野遠江守 松平外記 浮楽甚三郎 内藤豊前守

一、銀弐百枚宛の人々には。

桑山左門 五嶋淡路守 片桐石見守 来嶋越後守 青木甲斐守 土方木工頭 平岡石見守 長谷川式部 武部三十郎 池田内蔵助 伊丹丹後守 谷大学 蒔田権之助

此の外小身衆役人等不及記。人々拝領せられ、家中へ割符して被出ける。誠に広大無辺の御恩志也。

 
 
森川は御代々久しき侍たるに付きて、寵恩にほこり諸事我儘に有りければ、勘当を蒙り沈淪の処に、流石御譜代の者成る故不便に思召し、又被召出、殊の外御懇に有りし故、悲歎難忘して御供と志し、両殿へ遺書一通如左。

相国様御他界、公私之歎不過之。然ば私儀御勘当御赦免之上に、過分の御恩賞難有奉存、御供仕事に候。当上様御前宜預御取成度候、恐惶謹言

   正月廿四日 森川出羽守

    酒井雅楽頭殿

    土井大炊頭殿

此の外相番衆小堀遠江守・竹中采女正・水野河内守へ状三通調へ遣し、終に切腹をぞ被遂ける。出羽守内室かくなん。

森川とひとつ流れと思へども跡をとへとて残しおきしに

 小堀遠江守

伝へたゞ又こそきかねなくて世にかゝる歎はありし昔も

 
 
其の頃西丸追手の御門に金銀をちりばめたる札板に、落書をかけて置きにけり。

 腹きらでかなはぬ者は長井して清くすみたる森川の水

 追腹は習ときけど大蔵が出羽にきられて信濃わるさよ

 森川の水にてつらを洗へかしいつまで命大炊すべきぞ

 修理してもならぬ体を持ながらさわして渋き山口の柿

 公方すき土井を酒井に固めつゝ用心かたくするぞ将軍

 世の中に伊達をばよしといひ勝る其証拠には鑓は掃部よ

国々目出度御心易可被思召候。何事も後世、人は八オープンアクセス NDLJP:116人青草の中に馬は二十疋。但はだせにてはなれ申候、以上。

 
 

、御台様御とふらひに公儀より金子を請取、悪銭を出家に相渡す事。

、今度の御法事膳部を入札にして町賄に仕事。

、少宛被下置知行に悪所を渡し、能所を蔵入に仕事。

、年々の米を蔵に籠置、在江戸の諸侯難儀に及事。附、足軽の扶持方二斗俵を渡す事。

、前代より五斗俵に定所に、江戸俵と号し三斗三升入れて、切符に俵数渡す事。

、日本国の御蔵入高めにしかけ、高未進いたさせ、妻子牛馬を滅却せしめて迷惑に及す事。

、町用人より礼儀・礼銭取こむ事。

右の条々の外不届なる事有之、所帯を被召上蟄居被仰付しなり。

 
 
寛永九年三月下旬の頃なるに、子小将中間に申分出来し、既に可討果の所に、御目付より早速申上げゝれば、老中に被仰渡御吟味被成けり。此の申分根元は、柳田長三郎がおこせり。長三郎は斎藤中務二男にてありけるを、柳田九郎右衛門七百石の跡へ聟養子被仰付、柳田の家を継ぎ、子小将にてありけれ共、其の時分は三十の内外まで前髪を置かせ給ひ被召仕。長三郎にはや男子二人ありけるが、久々江戸に相詰めける中間の内青木主膳に語りけるは、吉田左門・荒木小隼人は入魂なり、大窪伊織と青木主膳とは別心有り、常に心を許す事なかれと語る。両人は誠と思へり。又或時荒木小隼人と吉田左門に語りけるは、大窪・青木は各と隔心有り、常に油断し給ふなと語る。各は誠と思ひ、口には出さゞりしかども、色外に顕れてはや別隔に成り、柳田をば両方共に一味と思へり。其の年の前年より金沢才川に若衆歌舞伎の座あり。其の狂言にはやし物あり。はんま千鳥の友呼ぶ声はちりやちり、如此はやす事ありければ、上下老若聞習ひて口ずさむ。彼の子小将共出でぬれば、一方よりちりやちりと云ふ程に、互に心にありて口にはいはず、ちりやちりと云ひあひて其の儘申分に成り、堪忍成難く、芝口浅草の野辺へ出可相果と約談す。御目付衆密に内聞して注進に及ぶ。御吟味の所に、柳田両舌に極り、早々五人ながら加州へ帰し休ませ可申よし被仰出。何れも帰国致しければ、柳田は極楽寺にて切腹被仰付、男子二人殺害す。大窪・青木・荒木・吉田は浪人致し、終に其の儘朽果ぬ。荒木小刑部・吉田覚右衛門・大窪覚兵衛・青木方斎四人の惣領共にてぞ有りける。
 
 
寛永九年卯月上旬の事なるに、江戸に於て今枝民部歩行の者山本九郎右衛門と云ふ者、本郷の内にて公儀同心衆の内に借屋してありけるが、宿の妻女と密通す。度々に及んで互に色外に顕れ、亭主耳に入り、近日討取りて公儀へ断り、加州の家老衆へも案内可申入とすきまを伺ふよし、彼の男に女の方より密に聞かせければ、或夜忍び入り同心の者を打殺し、何く共なく落行きける。同心頭へ聞届け、早や評定所の沙汰に成る。利常公へ御一門方より御案内有りければ、大に驚かせ給ひ、先づ国へ人を遣し、請人一門のしまり被仰付。先づ可成程彼の者を尋可申旨御老中より申遣し、彼の男を見知りたる者共撰び出し、都鄙遠国のきらひなく人を廻し尋ねけれ共行方なし。別して横山家・前田対馬などは、今枝家とのがれぬ中なれば、民部為を大事に思はれ、談合評定とり也。請人は前田対馬内飯田次郎左衛門也。走り人の母も小松にあり。先づ捕へ召こめらる。其の頃小松玉龍寺八代の住持徳岩叟文尭和尚は、恵覚和尚に玉龍寺を被相渡、金沢へ隠居せられ、才川の端薩摩金太夫芝居のある内に屋敷二千歩拝領せられ、龍淵寺を建立せられ、源峯・源古・源心御一門の位牌など立てられければ、前田党、岡嶋党、今枝弥平次同九蔵・安見隠岐其の外の人々、源峯・利斎御夫婦の御命日には参詣あらずと云ふ事なし。東堂は納所坊主春長を被召連、下男共に下知して、河原屋敷の石を取除け、花畠の用意などしてまします。寺の留守には小田伝兵衛と云ふ者、いまだ左吉とて幼少也。磯野六兵衛とて前田丹後家来の子千太郎、山田九郎右衛門を虎之助と申す時、三人寄合ひ物語などして有之所に、三十余の大男編笠深くかぶり、大小指して旅装束にて寺の玄関をのぞき廻る。小田左吉、あれおそろしや盗人こそ来りけれ、門前の者を呼ばんと云ふ。千太郎・虎之助申しけるは、此オープンアクセス NDLJP:117の白昼に何の盗人来るべき、誰にて渡り候やと申しければ、男申す様、東堂様に逢ひ申度由申ける。早々左吉参りて同道す。男笠をぬぎ、わらじをぬぎ式台へ上る。東堂いか成る御人ぞ、何の用ぞと被申ければ、彼の男申しけるは、我は今枝民部家来山本九郎右衛門也。江戸にて人をあやまり立退候へ共、請人と母など召こめらるゝと承り、代り可申ために罷越す。御公儀の事東堂に奉頼と申しけり。和尚は横手を打ち、扨も侍は斯くこそ可有事なれ、武勇の致す所也、奇特と被申、納所を早や横山城州へ被遣。山城聞き給ひ、手を打ちて悦び、早や割場へ申遣さる。寺には彼の男に盃出し、冷食など進められ、小松表の咄に成る。其の間に虎之助男の耳に指寄りて、先づ刀・脇指を東堂に被預可然旨密に申しければ、目まぜ致し、刀・脇指をぬきて東堂へ指出し、見苦敷候へ共相果候はゞ茶湯被成可被下由申しける所へ、御小人頭中村喜兵衛・風間次兵衛両人に、御先番の小者二十人龍淵寺へ来りけり。御城中へ御普請致す御小人百人、ひたと龍淵寺の屋敷惣構を取巻く。喜兵衛・次兵衛彼の男と近附に成り、奇特なる御越やと申しければ、男申しけるは、此の上には縄を御赦免被成下候はゞ難有可奉存旨申しけり。両人申しけるは、是迄御来儀の上何のあやしき事あらん、併し御公儀の御事也、民部殿為と申しながら、且は殿様の御為にも、いかにも大事に懸申す様に、聞えの為にも候間、そと人目ばかりに可仕心易かれとて捕りて縄づけにして、大勢引包み、駕籠へ入れ、追付き江戸へ被遣御断被仰上、御成敗有りて相済みける。是より同心衆人宿仕る事御停止に成り初めたり。
 
 
同年夏中の事成るに、御城火事の砌町中に水の手大切にして、不自由なる事被思召付、何共致し才川の上より水の上がるたくみの可有之やと御談合有之に、長九郎左衛門内に毛利半右衛門と云ふ大工は、昔伏見の河せぎに九郎左衛門裁許の時、たくみの上手なる事隠なく、此の者早々登城被申付様にと、九郎左衛門方へ御使を立てさせ給へば、早や二・三年以前に病死仕由申上げらる。小松町人板屋兵四郎と云ふ者算勘の上手にて、左様のかねを見る事上手也と御耳に立ち被召寄、川上へ参り地がね・さげすみを以て考へ罷帰り、何の造作もなく小立野へ水をのぼせ可申由申上ぐる。さらば急ぎ致させ可申由奉行人被仰付、役人を以て用水河堀の御普請とて、夏中よりほり懸り、役人一日に四度宛の賄をさせて、四度食と云ふ事是より初る。事急なる御普請の故也。毎日出来の様子江戸へ飛脚を以て言上す。川の上に上辰巳と云ふ在所あり。夫より山の根を掘廻して、無程小立野へ水上がる。奥村河内屋敷の北の方へ水を流し懸けて、金沢町中へ広まりけり。其の時分は町の中に川を通し、越前福井の如く有りけれ共、後には埋樋に成りて所々へ水を取る。小立野並に下段の荒地其の時より田地に成る。栗の木林・七ツ屋村・上笠舞の田地是より初る。其の後正保三年に田中覚兵衛と云ふ浪人小松へ言上申し、寺津村の石嶋と云ふ所より別に川をほり上げて、土清水の山の腰を掘廻し、馬坂の上野と土清水野と田地に発開せしむ。又寛永十一年に、内川のわれいはといふ所より大桑村の山の腰を掘廻し、野田山の麓泉野・長坂の下六斗林悉く田地に発開せられつゝ、在々所々の倒れ者新百姓に取立てられ、農具・家財・作食等を御渡し、野田の麓に在所を立て入れさせ給ふ。是れ併し世間の非人共御救の為なれば、皆難有存じけり。誠に聖君の御代也とて諸人感じ奉る。
 
 
寛永九年十二月廿七日宵の間の事なるに、江戸にて松平新太郎殿屋形より出火して、近所の大名屋敷悉く類焼す。利常公は神田の屋敷に被成御座、御出馬可有とて御供中も揃ひけれ共、早や鎮り申由聞えければ、先づめでたしとて、夜詰も過ぎて供衆小屋に帰り休息す。然る所に又焼出でたる由注進に及び、俄に御出被成ければ、山田市左衛門は御長刀持ちて御供す、神戸清四郎・湯原太左衛門・武藤長左衛門・矢野所左衛門・中村喜左衛門・丹羽次郎兵衛、急ぎあわてゝ御供に出でけるが、御持柄一筋も見えざれば、御歩行の青木半兵衛鑓を持ちて御供す。先きへ人を触れさせ、本郷・湯嶋の町屋にある侍共、髪を草たばねにして出づるもあり。乱髪に鉢巻して出づるもあり。筋違橋へ御座の処に、多羅尾六兵衛馳来り、御姫様達を御供仕罷越候由申上ぐる。利常公御覧有りて、火はいかにと御尋有りければ、御門に付いて候を見て参候由申上ぐる。葛巻隼人を召オープンアクセス NDLJP:118して、六兵衛一所に子供連れて神田へ送り届可申旨被仰渡、鷹匠町へ御懸りの所に、御鉄炮の者牧野又兵衛走来り、御広間より御台所へ火の懸り候を見て参候由申上ぐる。利常公聞召し、古家なれば幸也、よいぞと仰せられ、直に御城下馬の竹橋へ御座被成ければ、光高公輪乗被成ておはします。利常公へ被仰上けるは、私是に罷在候間御馬入れさせられ候へと被仰上処に、今少しありて可罷帰の由御意の処、国々の大名衆御見舞として登城を心懸て被参。筑前守是に罷在候、其通り慥に言上可仕、早々御帰可有とて、坂津左兵衛・脇田九兵衛・河合数馬などに着帳被仰付る。然る所に松平伊豆守私宅より被罷出、利常公御父子に御挨拶被成、はや御帰に可被成由被申、城中へ引入れらる。次に阿部対馬守・酒井讃岐守被罷出、利常公御父子へ、類火の事苦々敷御仕合の由被申ければ、利常公御意には、古家にて候へば筑前は不苦候へ共、残る衆可為迷惑由被仰。扨御老中は城中へ引入り給ふ。御父子も暁方に成りて、最早火は鎮りたり、いざ神田へ可帰とて、頓て御下屋敷へ入らせ給ふ。正月二日より御大工中嶋甚左衛門に指図被仰付、はや斧初ありて、佃源太郎は御材木を年内より八町堀・霊巌嶋をかけ廻りて、毎日五十輻・百輻充の車にて運びけり。惣奉行は古屋所左衛門・宮城采女、小奉行数百人、役人は数不知、請取の役儀を勤む。加州は不及申、上方並に方々より大工・木挽昼夜急ぎ到着し、三千六・七百人宛毎日入りて急ぎける。近代稀なる大作事とぞ申しける。内々より御内談ありて水戸中納言殿の姫君を、当将軍家光公の御養女に被成置、光高公へ采納の御祝儀も済みければ、御一門中並に国々の大名小名より、鶴・白鳥・雁・鴨・塩引等山の如くに参りつどひ積置けるに、火事に逢ひても不焼して有りけるを下々へ取寄せ、御家中並に足軽・小者まで取来り、神田の御屋敷中下々は二・三月迄も料理致し給べにけり。
 
 
二月下旬の事なるに、将軍家光公御鷹野御成とて、徃還をとめ人しづまり有之所に、加賀の御屋敷は数百人の大工・木挽・役人の声々、鑿鎚の音をまじへ、天地もひゞく計に聞えげれば、大目付衆と相見えて歴々たる人裏門よりつゝと入り、只今上様御成にて門外御通被成所に、其の構ひもなく鳴渡る事憚入る所也。奉行人は何と申す者ぞ、是へ被出候へと大に怒りければ、諸奉行人共爰かしこにかゞみ居て出あはず。然る所に大山五郎左衛門は、竹杖突き大工の横目を仕有りけるが、柿手拭の鉢巻取りて腰に狭み、謹んで申しけるは、此の奉行人は私にて、大山五郎左衛門と申す者にて御座候、御覧被成候へ、此の作事出来次第姫君様御入輿に付きて、当年中に出来候様にと春日局より御催促にて御座候。それ故四千人に及ぶ大工・木挽の手を半時にても留め候へば、幾らのおくれに候故如此に御座候。宜様に被仰上候はゞ忝可奉存、若迷惑可被仰付は、此の五郎左衛門可奉畏由急度申ければ、御目付も道理には候へ共、余り御前まで鳴り渡り申すに付てと申して出でけるとかや。其の時大山を樊噲なりとぞ誉めにける。
 
 
此の御作事に幾千万の御入用夥敷、其の中に御守殿の破風に孔雀・鳳凰、大台所の破風に獅子に牡丹の彫物を惣金にみがきければ、金箔調奉行大塚帯刀走廻り、江戸中の金箔を買尽し、京・大坂へ調へに遣し又買尽す。箔置せ奉行武藤長左衛門・矢野所左衛門にて、取りあつかふ程の細工人数百人かり催し、位牌屋までも呼寄せたり。四方の長屋の軒の甍を金にてみがき、腰板上下の桁に牡丹唐草、一間一間に梅鉢の御紋、何れも惣金に瑪瑞の行桁・玻璃の壁と申す共是には過ぎじと云ひあへり。利常公荒木六兵衛を召され、長屋の箔下地遅く出来す、早々急がせ箔を置申す様にと佃源太郎に申候へと御意有りければ、佃承り、先に仕る事跡に成り跡に仕る事の先になる、御存知もなき御好事に草臥果申由被仰上候へと申しければ、荒木聞きて、左様の御返事いかにして申上げらるべき、不興なる申分哉と申しければ、御大工中嶋甚左衛門承り、近日出来仕り箔置奉行へ可相渡由被仰上候へと申しければ、其の通り六兵衛申上ぐる。諸奉行数百人有りけれ共、此の佃と甚左衛門と両人して諸の棟梁を致しけり。然るに依りて申度き儘にて有りけれ共、何れも両人の気を計らひ勤めけり。表・奥方惣棟数九十六軒也。中昔より以来にかゝる御屋形終に不見不聞ど、諸人見物朝夕徃来を留めて市をぞなしにける。
 
 
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御屋形大方に出来し、掃除以下相済みければ、春日局に御家の様子見て参れと上意あるに付き、御上屋敷へ被参、御化粧の間・地震の間・御産の間・長局・大台所・湯殿・物置等無残所見物なり。然るに御産の間・御広式の住居、春日局の案に相違して、奉行人を呼よせ、此の御台所の建て様勝手左右に成りて殊の外悪敷なり。台所は建直し可申と大音にて怒られければ、奉行人仰顛して途方に暮れ、物をもいはず頭をさげて有りける所へ、本多安房守来り、いかに春日殿今程天下泰平にして御静謐なればこそ、かゝる御家も世にあらめ。日本国にかゝる御普請のあらばこそ。いつの功を以て春日殿の好まれ候や。又半年も懸りて御台所は出来せん、遠慮ましませと被申ければ、局聞きて是非共にと申すにあらず、左様ならばよからんと申す事にて候ぞ、荒見事なる御屋形とて頓て登城被致ける。其の頃天下にはやり物、めつた揚弓・中将棊・春日局にひぜんかさとて、うへこす人はなかりしに、本多にめいりぬると皆人感じ申しけり。

 
 
此の清正は秀吉公御母公の姪聟に加藤八兵衛と云ふ者の子也。尾州中村にて出生し、八兵衛死去の時虎之助とて五歳に成り、母抱きて秀吉公の母上に参り、此の子を御介抱被成下候へと申しければ、太閤へ被仰入御育置き、幼童の内御傍に被召仕。度々武勇有りて元服被仰付、主計頭と申しけり。高麗への先手被仰付しに其の働比類なかりしかば、朝鮮人共恐をなし、鬼上官とぞ申しける。肥後一国を治められ、日蓮宗を貴み洛陽本国寺を取立て、天下無双の伽藍を建立し、千僧供養をとげ天下の人の目を驚す。既に寺内の寺数百十余ケ寺ありければ、去る元和九年御上洛の時、利常公の大軍にて此の本国寺へ入り給ふ。還御の時まで上下此の寺に旅宿せしに、余り人多き様にもなかりしと諸人感じけり。清正は太閤御他界の後は御当家へ対し忠節有りし故、関ケ原御陣の後小西跡を被下、肥後一国の主として六十万石の身代なり。殊に御当家の御縁者に被成、随分の御懇なり。大坂御陣の前ゝ正病死有りて、子息虎之助へ遺跡被仰付、肥後守忠広と申しけり。大坂御城御普請等天下に沙汰ありて働あり。然るに御停止の大船を造り、其の上秀忠公御他界に付き、試みの為に土井大炊頭廻文を認め肥後守へ密談せしに、忠広謀事とは不知して一味同心の判形す。依之領知召上、羽州庄内鶴ケ岡と云ふ所へ被移、一万石扶持せらる。其の時一聯の詩を吟ぜらる。

  人間万事定不定  身似明星西又東

  三十一年如一夢  覚来庄内破簾中

斯くて肥後守跡へ細川越中守を被遣、細川肥後守とぞ申しける。寛永九年六月中旬也。

 
 
忠長卿は秀忠公の御次男にて、文武二道の達者御器量も無双也。去れ共御存念の程無御心許思召す事ありて、去る寛永八年十月中旬に江戸御参観の節、品川に上使を被為置。是より直に高崎へ被為入様にと上意の趣申上、御供中は押留めて駿州へ追返し、公儀の人数引廻して高崎へ入れ奉り、安藤右京に御預置き被成けり。秀忠公御存生の内、度々御詫言京都より勅諚ある由。然れ共是非に於て助置くべからずと御怒り深くましませば、御遺言に任せ、寛永十年十一月上旬に酒井讃岐守・阿部対馬守・井伊掃部頭を高崎へ被遣、御切腹被成候様にと安藤右京に申渡す。右京承り、各の御越し上意の通り毛頭偽は御座有間敷候へ共、小事の儀にあらず、正しき天下の御公達御連枝の御事也。上様の御墨付拝見仕度旨達て申すに付き、各も理に伏し江戸へ申上げ、奉書御判をなし下さる。安藤頂戴し、是非に不及御切腹被成、御跡を納め奉る。誠に天下を治め国家を帰服せしむる事、大なる義の道無私事、恐るべしと諸人舌を振ひけり。扨江戸芝口に御菩提所ありて、御屋形を以て被再建、黄金をちりばめたる御門の跡のみ存せり。是こそ御名の跡なりと見る人涙を催せり。扨駿河久能の御蔵に金銀有之故、毎年御譜代衆御番を相勤め、入用御扶持として上下共に身代一倍に被成遣けり。
 
 
寛永十年十二月五日に将軍家光公の御姫君光高公へ御嫁娶の御輿入とぞ聞えける。松平伊豆守・酒井讃岐守・阿部対馬守・酒井雅楽頭御供にて、御規式憚なから申すに及ばず、千秋万歳の御祝天下に聞え渡りて見えにけり。此の時光高公は十八歳、姫君は七歳にていまだ御幼年の御事なれば、折々は入らせられ、又或時は御登城にて、御城と加賀御屋敷オープンアクセス NDLJP:120の其の間上下男女馬かごの徃来は、織る糸筋より繁かりける。牛込に数千歩の御屋敷相渡り、長屋を建て、姫君の御用人数百人居住す。加州より御広式番其の外役人数百人江戸へ被召寄、牛込の屋敷へ引越して御前様御用相勤む。御前様御家老には塚原次左衛門を公儀より附置かせられ、諸事御用等達上聞調へ上げ奉る。或時光高公へ利常公被為入、利次公・利治公・安芸守殿・前田右近殿、何れも御一門寄らせられ御咄の折節、御前様俄に御登城可被成とて御供中ひしめく。御局被申は、中納言様へ御暇乞被成、御登城あそばし候様にと申上げれば、さらば表へ出で御暇乞申さんとて出でさせらる。附々の女中・子小将被召連、御座敷へ出でさせ給ひ、只今御城へ上り申由被仰。利常公聞召し、今少し御遊び候はんやと御意被成ければ、御前様御聞ありて、是にゆる居参らせ候ても、筑前様の御用も承り候はねば、先登城仕り、近き内に参り候はんと被仰ければ、若殿達は立ちて脇へ入らせ給ふ。御客も御供の女中も興を催し、何れも御機嫌よかりしとかや。御家の御威光天下に普く、光高公御登城の折節は、所々御番所下座致し奉敬事、将軍家の御成同事に見えさせ給ふ。目出度かりける次第也。
 
 
寛永十一年の春より、六条の末寺造営として三ケ国郡中町中寄進勧進相調ひ、屋敷平均おびたゞし。先年は御城西北に当つて後町と云ふ所にあり。火事以後侍屋敷になり、奥野紀伊屋敷へ家を買居ゑにして渡りける。一向一心の信心の者共、金銀・米銭・糸・綿山の如くに持運び、請取に石場の石或は板・角・釘・金物幾百人宛持積みて、異形異類の出立にて、三階矢倉の石搗の台を拵へ、二・三ケ所にて地形を百日計もつきにけり。其の後石ずゑになりて、老若男女集り普請を急ぎければ、誠に不可称不可思議不可説の大功徳に依りて、奉行人もなく催促もせざれ共、此の御普請に洩れぬれば此の度成仏難成とて、八・九十計の祖父・祖母、孫や子供にかつがれて、石搗の縄に手を懸けいたゞき奉り急ぎければ、墓行く事限りなし。北国無双の大伽藍にてぞ有りけると、諸人見物市をなす。近所の者共此の本願の利益にひかれて、頓て富家とぞ成りにける。