三壺聞書/巻之十三
< 三壺聞書
三壺聞書巻之十三 目録
大御所御他界の事 一七六
光高公御誕生の事 一七七
金沢町立替り道橋等附替る事 一七七
芳春院殿御遠行の事 一七八
千勝丸殿並御息女御誕生の事 一七八
大坂御城御普請の事 一七八
金沢御城中火事並金沢芝居の事 一七八
伊勢踊の事 一八〇
利光公北の御方御遠行の事 一八一
御葬礼の事 一八二
玉泉院殿御遠行の事 一八三
江戸御局の事 一八五
家光公御任官の事 一八五
諸侯所替の事 一八六
大坂再御普請の事 一八六
【 NDLJP:98】三壺聞書巻之十三 慶長二十年六月中旬に、大御所は駿府へ御帰城被成けれ共、将軍は七月下旬まで伏見に御座ならせられ、町奉行・船手奉行・御城屋敷奉行条数を以て御仕置被仰付。別して堺の町人共は、両御所の御味方して大坂近に在りながら、秀頼公へ内通の事もなく、忠義不浅思召し、永代諸役御赦免あり難有存じ奉る。夫より江戸へ御帰城被成ける。然る所に駿河の大御所御機嫌例ならせ給はざりしかば、京・大坂の医師共被召寄、御保養の其の内に御慰の為とて御能被仰付。其の上に相撲の興行、其の外見物遊楽の品々にて御元気を取直させ給ひ、暮に至りて御快気被成ければ、公家・門跡天下の諸侯参観、或は名代の使者等、歳暮より年頭に懸けて差つどひ、春に至りて御相撲止む事なし。天下よりの寄相撲、国大名方より指上げらる。其の時分は浦方山方道中宿々より強力の者共被召置、何れも鬼神の如く拵へて俄に威勢づき、其の国々にて何方にても見物場とさへ申しければ、角力の者は札銭なしに臂を張りて見物致す。依之あたまがち成るを角力の衆かとぞ申しける。斯くて三月中旬の頃より又御不例と有りしかば、日本の大名小名指つどひ、療治祈祷の品々手を尽しありけれ共、八苦の世界上下の隔なきにや、御年七十五歳にて、元和二年四月十七日終に御他界被成ける。日本国中の逆徒を鎮め、八嶋の外まで聖帝の御代になし給へば、別けて御威光目出度き御大将にてましますとて、下野国日光山に移し奉り、御廟所を御造営なされ、東照大権現と勅号ありて、天台座主大僧正南光坊社参にて、香花を捧げ大法会を修せられ、公家・門跡八宗の僧録天下の諸侯追々に社参して、日光と江戸の間の道すがら茶屋番所立ちならび、五色の砂にて道を作り、参詣の行列美々敷して、安養浄土共云ひつべし。第七年の御年忌前に江戸不忍の池の上野に御廟堂を建立ありて、東叡山と号し、麓に止観の湖水あり、竹生嶋を勧請し、誠に天台四明山に不異。天下の諸侯より護摩堂・鐘楼堂・三重五重の宝塔・毘沙門堂・清水の観世音・廻廊・石の鳥居・仁王門に至るまで金銀をちりばめ、其の外数十ケ所の伽藍を建て寺領を附け、天台碩学の名僧を入寺せしめ、毎日〳〵大権現を供養なし奉る。毎十七日には別けて読経怠る事なし。御城御本丸に紅葉山と号し、東照大権現を御勧請ありて、日夜孝養の法灯をかゝげ、香花を備へ礼拝なさる。依りて諸国の御連枝門葉たる大名は、居城の内に東叡山と号し、金銀珠玉を以て飾りたてたる社堂を建立なし奉り、天台山より可然僧侶を呼び、寺領を附け、別当所と称し毎日勤行怠らず。毎月十七日には位階相応の装束にて参詣せられ、拝礼を勤めらる。古へは不知、中昔より以来斯る御威光よもあらじ。四海を照し給ふなるに、東照とは不足成りける尊号なりと、其の頃皆申しあへり。
慶長十九年九月利光公の御内室姫君を御誕生あり。将軍家の御孫也。初ての御産也。かた〴〵以て一大事に、芳春院殿・玉泉院殿無御油断御指図にて御保養まします。殊更大坂冬御陣の御留守の事也とて、多くの女中・局を初め養育なし奉りければ、追日御機嫌能く御肥立被成、目出度き御事申すに不及。御一門中よりの御見舞御使者等、筆紙の及ぶ所にあらず。御名を亀鶴姫と申し奉る。追付き元和元年にも成りぬれば、春夏かけて又大坂御陣とて事さわがしく有りけれ共、何の御恙もましまさず。十月に至りて又若君御誕生被成ければ、御祖父利家公の御例になぞらへ、犬千代丸と号し奉り、御抱守には富田善左衛門・岡田十右衛門氏家蔵允・市川長左衛門を附けられ、夫より追付き、西尾隼人・浅井源右衛門、其の外歴々の者共を御用人として御附被成。五・六歳の御時池田松斎手本にて御手習被成、大文字の御掛字などを御前伺公の者共に拝領させられ、諸人頂戴仕り感じ入り奉る。
元和二年の頃滝与右衛門と云ふ者、石川・河北両郡裁許被仰付。夫に付き諸代官等も其の下知に随ふ。才川大橋より坂の上、畠にて所々に小松林有けるを、町中にはさまる諸寺等を泉野へ上げさせらる。河原町裏面の方の寺町、其の外方々より泉野に屋敷渡りて引越す。下口惣構の内の寺町等は、浅野川山の際に移さる。川がけの上茶園に被仰付。【 NDLJP:99】寺町は片原町にて相済む。夫より野田山への道筋は、利家公の御墓所へ参詣衆の往還なれば見苦敷とて、寺町の端より並木に小松をうゑさせられ、道に指添へ馬場を通し、野田の麓三本松の南に遠乗の為とて芝にて土手を築き、馬場を爰にも拵へたり。才川のがけの上野に柿畠・栗林・葡蔔の棚、山の傍に覆盆子畠を附けさせられ、野田道右手の野原に油木数十本植ゑさせられ、三ッ屋の在所に土蔵を建て木の実を取入れ、御城中の灯油に用ひ、宮腰の海道才川の方に有之て、御城より見おろせば九折にて見苦敷とて、極楽橋の上より目の下に見ゆる様に、広岡の町端に篝火をたき、宮腰の町口に又篝火をたき、其の間に四・五ケ所篝をたき、夜中に火の目あてにてばうじをさし、縄張を極め、道を直ぐに作らせたり。此の篝の火にて道を直ぐに通す事は、今枝内記指図を以て、滝与右衛門郡の人足を下知して出来す。此の年人持衆下屋敷等相渡り、面々に作事を営む。地子町・寺町立替り、賑成る事申すばかりなし。
元和三年丁丑七月十六日に、利家公北の御方芳春院殿御遠行被成。宝円寺伴翁和尚導師也。大法会を執行被仰付、才川・浅野川にて米施行、功徳甚深の御報謝共夥し。御戒名芳春院殿花巌宗富大禅定尼と号し奉る。御一門中は不及申、御名染のかた〴〵哀傷の悲涙袖をしぼり、御霊前参詣の人々筆紙に尽しがたし。
元和三年に千勝丸殿御誕生被成ければ、生駒内膳を御守に被為附、其の外子小将共夫々に前後を守護し奉る。同四年に姫君御誕生あり、於万様と名付け奉る。同五年に宮松丸殿御誕生、脇田帯刀を御附け被成、守護し奉る。
元和六年に大坂御城御普請として、諸国より奉行・役人集り、春より暮へかけて出来す。国々より家老共来り相勤む。加州よりは本多安房守・横山山城守罷登り、天下の御目付・奉行人へ対し思ひの儘に相談を相極め、御普請を致させければ、諸事はか行く事限りなし。本多威勢の程、天下の諸奉行浦山敷思はざるはなかりけり。
同年十二月廿四日の夜、御城中御奥御次の間置囲炉裏の底に火残りて、縁の下へ火廻り、ねだ敷・柱に燃付き、畳に徹し障子につきけれ共、寝入懸りし時なれば人皆知る事なし。番人煙の匂ひを聞きて高声に呼はり、何れもを起しける所に、早や天井板にもえ上り、下はさのみの火にてもなかりけれ共、天井の火を俄に消すべき様もなし。先づ御前様・若君様は三の丸興津内記屋敷へ入せらる。利光公は北の丸山崎美濃屋敷へ御入り、翌日横山大膳屋敷を明け、利光公並に御若君達御入あり。大膳は下屋敷へ引越しけり。御本丸表・奥方の御屋形のみ焼失して、類火の屋形はなかりけり。神谷式部・大橋九郎兵衛・中村刑部等に被仰渡、道具に少しも無構、人を損ず間敷旨御意あり。随分四方の戸障子・門々を打破り、男女共に引退き、玉泉院殿方へ入る人もあり、村井飛騨屋敷へ立退くもあり。当分御借屋にて御越年被成けり。昼ならば難なく火は可消所に、夜中の儀也、奥方より出る火也、御賄道具当分御用の家財共は焼けゝれ共、人にあやまちなく御機嫌もよかりければ、誰あやまりと御しかり可被成人もなかりけり。近々御作事可被仰付と思召す所に、結局幸の様に思召すこそ目出度けれ。年頭の御礼に波着寺法印登城して、御道具の義は不苦、上々様方御恙無御座段目出度奉存由申上ぐる所に、利光公の御意には、人も不損、道具の義も構なし、何よりをしき物は、其の方より上げたる火ぶせの札を不残焼たるをしさよと御意の所に、波着寺申しけるは、定めて御身に替り申すにて可有御座と御答へ申しければ、さもあらんと御笑被成けると、後々迄申伝へけり。御作事奉行辻助左衛門・松江次郎兵衛承りて、御分国は申すに不及、上方よりも細工人共参りつどひ、雪の中に御作事に取懸り、正月下旬にはや建家に成りにけり。春三月の中に御建具等出来し、卯月土旬に御移徙相済みけり。其の年六月十八日に将軍秀忠公の御姫君女御に立たせ給ふ。加州よりの御名代前田肥後を京都へ被遣、江戸へ御祝義御進物御使に奥村河内を被遣。其の御悦びとして、御城にて御家中御振舞、家々にて千秋万歳の酒宴の上に、馬鹿をどりと名付け、爰は三条か釜の座か一夜泊りてたゝら踏まう、佐渡と越後とすじむかひなどと云ふ歌の地流行り来る也。人持なども家中下屋敷にてをどらせ、町【 NDLJP:100】方は野はづれ河原にて夜を明す。去る元和の始より、利光公は御在江戸といふ事ましまさず。其の故いかんとなれば、折々の江戸御参観にも、御前様より御飛脚しきりに立ちて、早々御暇の御願ひ有之に付き、二・三ケ月にも不足して早速御帰城被成けり。御前様並に若君達の御慰とて、数ケ所の芝居を浅野川・才川両所に立並べ、操り・歌舞伎品々見物あり。折々登城して御城にても仕りければ、拝領物夥敷、其の聞え京都・大坂に隠れなく、色々の芸者共望み〳〵に参りける。其の中に才川辺鬼川の縁に女歌舞伎の座あり。大夫にはお吉・塩竈・十五夜とて三人の女あり。皆人是に異名を付け、楊貴妃・李夫人・勾当内侍と申しけり。其の外十六七・廿計の女共三十人ばかりありて、兵庫わげに前髪を置き、朱かいらぎの大小に、金銀すかしの鍔、真紅の下緒、印籠巾着を提げさせ、根本は女なれ共、出立はいつも若衆の出立にて、様々の踊に狂言をまじへ、天下無双の猿若にて随分面白くありければ、侍衆の奥方・子供・上下男女の嫌なく、札銭は灰吹のこま銀三分宛の事なれば、毎日数百人の見物あり。短冊を送るもあり。折には菓子・瓶子を送るもあり。芝居は八つに済みければ、暫く女共休息し、七つ過には早や一人・二人・三人あて屋敷〳〵へ乗物にのせ連行く程に、十日も前に約束せざれば逢ふ事成り難し。是を後々伝へ聞けば、年中に五・三度とも参会する方々は、大鷹一疋年中持つほど入りたる由さんげ物語也。奥方の小袖をかりて進物に遣す人々多かりけり。其の姓名は記すに不及。宇右衛門・雅楽之助が浄瑠璃あやつり、喜太夫・孫太夫が能あやつり、藤村蔵人が踊子の座、油屋与次郎が蜘舞の座、あやつりの唐人歌舞伎は放下の座、磯之助が薩摩ぶし、金太夫が投ぶしとて、寛永の中頃まで品々有之ければ、武家は勤のいとまに見物し、町人は商売の透々に見物して、賑か成る事申すばかりなし。宮腰・大野より馬足の便とて、浅野川下安江と云ふ所まで堀川を通じ、舟のかよひ有りければ、則ち堀川町とて傾城を置きて、其の所の有様は兵庫や須磨・明石に異ならず。中河原町に風呂屋有りて湯女と名付けて女を置き、江戸芝口・下谷とやらんに相似たり。
元和七年夏の初より伊勢をどりと名付けて、天下とも流行り来て金沢にうつり、子共の踊神明へかけて御城へ上り御見物有りければ、町方より思ひ思ひに中町組・新町組などゝて目覚しき出立して、神明へかけて御城へ上り、夫より人持衆へ思ひ〳〵に参り、踊りすまして帰る程に、頓て武家に移りて、人持等より右の通りに、面々家中の者にて役人不足すれば、一門中出入の者馳走として加勢す。江戸山王の祭・浅草の祭の如し。され共作り歌をふし付けて拍子に合せければ、装束拵る間に、歌舞の場ならし数日懸けて習ひける。後には御城より御踊出でければ、能登・越中より見物に罷上り、御城御門の口より神明までの其の間、いなばきを敷事町幅也。先をどりは銀の棒に金の団扇を持たせ数百人ねり行き、水色のかたびらに覆面とり、御馬をやろかお輿をやろか、御馬もいやよおこしもいやよ、我が思ふ人に手をひかれう、天下泰平国土安穏と、拍子を揃へて諷ひ、神明にて惣郭に立ちて警固す。其の次に米搗をどり、金のつき臼車にのせ、銀のきねに金の柄をつけ、きねの頭のつく所に一寸四方の穴をあけ、内へ銀ばく切入れたり。紫の絹にてわげ包みさげたる女三十人にきねをかたげさせ、覆面にてだてかたびら、赤地の緞子を前掛にして、幅五分宛に切りさげ、重ねて用に不立事を専とす。其の次に宮内殿唐人をどり、村井飛騨殿鐘引をどり、其の外の人持衆より、御入用は御城より出でけれ共、役付なれば何れも罷出で、其の役を勤めらる。十月初迄所々よりをどり追々出で止みにけり。
元和八年三月利光公の北の御方御産の後、御違例爾々無御座、諸人心肝を悩ます。江戸・金沢の其の間は、昼夜のさかひもなく人馬の通ひやむ事なし。神社の祈願は八大龍王もおどろき、医療の法は医王善逝の瑠璃の壺の底を払ふ。然りといへ共生者必滅の悲しみは、上下をゆるさぬ習にて、御年二十三歳にして七月三日に御遠行をぞ被成ける。十五歳にて初産あり。九歳の姫君を頭として六人の御子まします。此の度の御産に姫君御出生、御産後御煩終にをはらせ給ふゆゑ、扨々つらきは此の御姫様やと云ふ者もあり。御子様方は申すに不及、御年は御盛也、御果報は天下無双也、扨々と申して上下おしなべ山も里も歎きければ、さこそ日【 NDLJP:101】本国中共に斯くこそあらめと思ふばかりに見えにけり。
当座に御遺骸を納め奉り、八月八日は三十五日に当りければ御葬送と相極めさせ給ふ。昼夜をかけて細工人共数百人懸り拵立て、小立野にて執行せらる。今の御墓所に三間四方九品に蓮台の火屋を建て、白土にて挙塗し、白綾の水引を廻し、四本の柱を白絹にて包み、やらいを外構に結ひ廻し、発心・修行・菩提・般若の四門を立て、極彩色に色どりたる額を打つ。其の間四町去りて伽善堂を四間四方に立て、天井には百花をゑがき、四方に曼陀羅華・曼樹華・摩訶曼陀羅華・摩訶曼珠婆華・天人・迦陵頻伽・管絃の絵、金石糸竹の鞄土革木の有様あり〳〵敷彩色、四方の軒に金銀の華曼瑶珞風にひゞかせ、金襴の旗にて柱をかくし、其の堂の真中に八方龕を台にすゑ置き奉る。御龕は惣金にして、蓮華のほり物、金銀の風鈴・瑶珞を蕨手と軒端に懸けならべ、善の綱を四方に付けて、四町の間幅六尺に大唐竹にて垣を結ひ、六地蔵を両向に立てたり。六尺毎に百目蠟燭の銀みがき、三寸角を八角に削り、蠟だめのわたり七寸に削り、朱を以て惣塗にぬり、垣の内に畳を敷き、其の上に白布をとぢて敷詰めたり。諸宗の長老・同宿数千人、七条・九条の袈装・色衣・爰を晴と出立ちて善の綱に取付き奉り、笙・第策・太鼓・鉦鼓・銅鑼・鐃鉢を御経にまじへて鳴渡り、白綾の灯籠・幡六旒十二本に、龍頭を動くばかりに作り付け、天蓋は惣て蜀江の錦なり。小旗等も一色にして、沈香の柱に火を付け前後四箇所に為持たり。金銀にてみがきたる花籠に、金銀の箔を切入れ、三間棹にて所々に四ケ所立てければ、風に散ぬる切箔、才川・浅野川まで散り行き異香薫じて花降るとはかゝる事をや申すならん。御名代として御位牌・香炉・花立・松明等、冠装束にて御一門衆持たせらる。御若君達御揚興に召し、伽善堂まで御座被成、善のもと綱に御手を懸けられ戴き給へば、御供の人々も数千万の拝衆も、一同に声を上げて泣きければ、流るゝ涙に袖をあてゝ見奉る事もならず、夢現共わきまへず。夫より又御興に召され、火屋まで御座被成、式次第相済み御焼香被成、何れも御名代相済み御供致し帰りける。御介添の人々は、五日も十日も目を泣きはらし居られける。宝円寺伴翁和尚の次尊雲尭和尚導師にて、御戒名は天徳院殿乾運淳貞大禅定尼と号し奉る。夫より御寺御造営あり。則ち天徳寺と号し、関東より泉滴和尚を招請ありて、五百石寺領を付けられ、孝養修行申す計なし。第三年忌には百五十人の大衆にて廻向被仰付、郡中より野菜等を持運す。百日の御賄夥敷次第共申ばかりはなかりけり。
玉泉院殿御年五十歳にて元和九年二月廿四日に御遠行あり。根本利長公に御実子ましまさず。御夫婦共に御心に懸けさせられ、妾の女中方数多被召置、いか成る方にも其の覚も目出度く、末つむ花の種も哉、若紫の色々に神や仏に祈願有り。寅まち・日待様々の御祈を密々に被成けるが、いつの程よりか御夫婦の御中御踈々敷ましませば、提の水は湯となりけれ共、御歴々の習にて色にも出し給はず、かならず気鬱のかたまりとなる。いつも御心持例ならせ給はざりけれ共、金沢へ入らせられて、御家長久の御願として、常善寺と云ふ遊行寺にて天満天神堂を御建立被成、月次の連歌を御祈祷の為に被仰付、料米を附けらる。御家は菅家の末流なれば、別けて天神を御崇敬あり。斯くて御遠行の時節、老中より獅子之助と云ふ御相撲の者を宝円寺へ遣し、玉泉院様御遠行の案内として被遣、早々登城して御遺骸の御前へ御茶湯などいとなみ申され候へと申遣しける。獅子之助其さますさまじき大男、大撫付にて長き刀をさし、宝円寺に早々とすゝむれば和尚急度見て、夜中にては有り、是は正しく盗賊共の我をさそひ、何方にてか打殺し衣をはぎとらん謀事成るべし、卒爾に出てはあしかりなんと心得て、和尚被申は、玉泉院殿御遠行ならば、老中か御一家方より、しかと書札にて御使者等の有るべきに、和殿が躰は先年利長公の高岡に御在世の時、歌舞伎者共数十人捕へて磔に仰付けらるゝ夢のそろ右衛門・三昧骨右衛門・闇の夜の団三郎・石垣掛羅左衛門・不世の非之助など、加様成る有様の者なるか。何者ぞ名をなのれ。拙僧は辱くもはぎれ伴翁の一の弟子雲尭と申して、馬に乗る事を得て長刀もつかひ得たり。心ゆるすな大男と被申ければ、獅子之助興さめて立帰り、其の由申上げければ、和尚申す所も理り也とて、御使番を被遣しに、和尚参りて其のつとめせられ、御葬送の【 NDLJP:102】用意出来し、宝円寺導師にて其の執行有り。御戒名は先年高岡にて利長公の御導師広山和尚の血脈にまかせ、玉泉院殿松巌永寿大姉と御廻向を遂げらる。然るに第三年忌の前年の十月、藤沢の遊行上人加州へ廻り来れり。其の先三十代目の遊行上人は、西方寺金沢才川惣構の際に有りて、常善寺は小庵にてありし故、西方寺にて百日計勤行せられのぼられしが、此の度は三十五代目の上人也。其の頃常善寺も玉泉院様より御祈祷料連歌の料として繁昌し、少し寺も広くなり、遊行上人是に留り、弟子一人歌道に達したるを寺にすゑられ、是をにぶやと申しけり。さて玉泉院殿三年忌に成りぬれば、利光公如何思召されけん、玉泉院殿別して御念頃成る寺にて、殊に天神堂も安置す。此の寺にて三年忌の御法事執行せらるべきとて、常善寺に被仰付、御入用品々金銀米銭を被遣、御奉行人被仰渡、御法事尤御念頃に、数百人の遊行の僧侶に御布施御小袖をほどこし、丁寧に被成けり。其の時遊行上人訴訟被申上、常善寺と云ふ寺号を除きて玉泉寺と改めらる。寺の向ひと横丁野町の際まで寺の門前を被下ければ、夥敷地子を取上げ寺の雑用と成りにける。其の後明暦元年は三十三年忌にならせ給へば、前年より玉泉寺屋敷替有りて大伽藍を御建立被成、元の寺屋敷は浄土宗浄覚寺に相渡り、其の時門前町は被召上、玉泉寺にて三十三年忌御法事の節は、小松より中納言利常公御参詣被成ける。誠に御父母に御孝養御懇なる事、乍恐上下感じ奉る。扨玉泉院様御遠行の時、宝円寺獅子之助にあひて夜盗と思はれしに、利常公も和尚の申す所もありと御意被成事は、其の正月の末に、浅野川の山の根に如来寺ありて、一薦に祖閑と云ふ坊主あり。塔頭に小寺を造り、其の奇麗なる事、都の古跡の寺に同じ。囲炉裏のふちなど梨地蒔絵にして、諸人出入り致し慰みける。しかも手前富貴なる人にて有りければ、夜中に亡者を送り度由申来る。祖閑けさ衣にてこしらへ、同宿一人・草履取一人にて檀那と連立ち、馬谷の奥三昧へ参りければ、同宿・小者を追払ひ祖閑を切殺し、けさ衣をはぎて置きけるを、其の暁寺より尋ね見付けたり。其の頃出家方には、夜中にむざと導師に出づる事を吟味して、慥ならねば出ざりけり。雲尭和尚も強力坊主にて早馬乗の上手也、弁慶をも欺く和尚なれ共、聞おぢせられしをかしさよと諸人申あへり。あまり馬にすきてはね落され、腰打折りて腰引になられしが、小僧の時より芳春院様御取立の出家子とて御念頃成る故、宝円寺へ住持被仰付、其の後鶴来に隠居せられ、白山権現を勧請有りて明白山宝円寺と寺号す。扨如来寺の祖閑を殺したる者後々に聞えけり。吉田頼母と云ふ御小将の番頭あり。其の家来林藤左衛門と云ふ者の女は浄土宗にて祖閑日那也。常々参詣して祖閑と密通してけるを、男聞きて祖閑をたばかり出し、則ち女もたばかり出し、一つ所にて切殺し、加州を立退きけると後に聞えたり。
天徳院様御局常々御前様へ対し不忠の義共有之、殊更御不例の内に猶不届成る事多かりければ、御夫婦共ににくき次第と思召しけるにや、江戸にて将軍家へ上聞に達せられしに、御成敗いか様共可被仰付旨任上意、山々里々へ被仰渡、蛇を生きながら瓢に入れ曲物に入れ持参す。御持筒の者に被仰付、請取り置く事五樽計集りける。まむし・烏蛇・やまかげなどゝ云ふ毒蛇共第一と取上ぐる。其の中に耳ある蛇もあり、足あるもあり、両頭の蛇もあり、二尾の蛇も有之由。其の期にのぞんで局を裸になし桶に入れ、桶のくれに数百の穴をくり、四尺四方計の箱の中へ桶を入れ、釘にてとぢ、箱の隅に四寸廻計の穴をすじちがへにこそ明けにけれ元和九年八月下旬の事成るに、或山陰に密に役人に被仰付、彼の箱を埋み、箱の穴より毒蛇共をとり込め、其の中へ高岡酒二樽流し入れ口を板にて釘付にして、深き土中に其の儘埋めて帰りけり。天下に上こす人もなき果報いみじき局にてありけれ共、戒行つたなき者の寵恩におごり、上を犯せし天罰恐れても猶余りあり。世にある時はへりくだりて天道を猶恐れ、下を恵み施を専にせば、たとひ尊霊はましまさず共、御若君様達数多なれば、栄華の上に成仏得脱の身たるべきにと、聞く人毎に念仏するより外はなし。其の時の役人物語するを聞き書記す。其の時分は死骸を江戸へ被遣由取沙汰にて有りけれ共、右の通りとぞ聞えける。
元和九年七月十三日家光公御上洛被成、征夷大将軍に任ぜ【 NDLJP:103】らる。三代将軍是也。其の年女御御安産、姫宮御誕生ありければ、是を寛永様と号し奉る。七歳にて寛永七年に女帝に立たせ給ひ、御即位とぞ聞えける。秀忠将軍の御孫也。此の度の御上洛に天下の諸侯任官の衆多かりけり。中にも加賀筑前守利光公は肥前守利常にならせらる。夫より高岡瑞龍院様の御俗名を可奉申ときは、古肥前様とぞ申しける。
同年の秋より暮春へかけて、国々引越の人々あり。中国安芸の広嶋は福嶋左衛門大夫に太閤より下し置き給ふの所に、悪行様々ありて大酒を好み、酔狂の余りに人を殺害せらるゝ事虫を殺すよりも安し。国中迷惑に及ぶ由上聞に達しければ、上意として信州河中嶋へ一万石にて蟄居被仰付、其の跡へ紀州和歌山の城より浅野但馬守を御加増にて被遣紀州一国に伊勢半国相添へ、秀忠公の御舎弟頼宣公を移し給ふ。是を紀伊大納言頼宣公と号し奉る。此の頼宣公に御子数多まします。惣領は中納言光貞、二男松平左京大夫頼純と申しけり。一条の亜相と松平相摸守・松平左兵衛督、此の三人は御聟達にてまします也。常陸国水戸の城佐竹冠者義澄を秋田へ移し給ひて、秀忠公の御舎弟頼房を水戸の城へ移し、水戸中納言頼房公と申す也。是にも御子数多まします。惣領は宰相光圀、二男松平讃岐守頼重、三男松平刑部頼元、四男松平播磨守頼隆也。姫君二人まします。一人の姫君は家光将軍の御養女にて、加賀筑前守光高公の御内室也。次の姫君は本多出雲守へ嫁娶也けれども、早世とぞ聞えける。紀伊大納言殿御惣領の中納言光貞に御子出生被成、徳川常陸介とぞ申しける。水戸中納言殿の惣領は宰相殿の御子にて徳川采女と申し、何れも少将に任ぜらる。尾張・紀伊・水戸是を御三家と名付け、家康公の御子成るに依りて天下に肩を双ぶる人なし。此の御妹姫蒲生飛騨守殿御内室たりけれ共、飛騨守殿逝去の後御年も若ければ、浅野但馬守へ嫁娶被仰付、但馬守殿子息方多けれ共、大御所の御孫子の御腹なれば、安芸守殿を跡職に被仰付、加賀中納言殿の御娘於万様を秀忠将軍の御養女に被成、寛永十一年に御祝儀相済みにけり。
寛永元年甲子の年、重ねて大坂の御普請として、天下の諸侯より家老・奉行人役々を定めて人足以下集り、年中かけて出来す。京二条の御城は、公方様より御自分に日やとひ人足を以て成就す。其の頃天下共に生民業を専にして栄耀奢を知らざれば、世渡の事安くして、非人と云ふ事なかりけり。