三壺聞書/巻之十二
< 三壺聞書
三壺聞書巻之十二 目録
加州利光公御出勢の事 一五九
利光公御帰陣の事 一六五
重て大坂陣起る事 一六六
両御所御出馬の事 一六六
法隆寺並堺の津を焼払事 一六七
信達合戦の事 一六七
古田織部が事 一六九
藤堂和泉守内渡辺勘兵衛が事 一六九
木村長門守討死の事 一七〇
後藤又兵衛討死の事 一七一
真田が軍法の事 一七一
大坂の士大将共討死の事 一七二
大坂落城の事 一七三
秀頼公の北の御方を退奉る事 一七三
秀頼公御家来共生害の事 一七四
正栄が事 一七四
秀頼公切腹の事 一七四
【 NDLJP:89】三壺聞書巻之十二 利光公御年二十二歳の御時也。器量骨柄千万人に秀逸被成し事なれば、花やか成る御出立にて、太く逞しき御馬に召され、御城御立の所に、御馬取不作法の儀有之、御馬の先にて引張切に被仰付。其の日十月十五日小松に御陣、十六日大正持へ被為人節、京都より両御所十二日に御上京、二条の城へ御入の由申来るに付き、水落迄駈着け給ひて暫く御陣を居ゑられ、人馬の息を継がせ給ふ。其の節横山山城・同大膳・同式部父子三人御勘気を蒙り、上方に立退き有之けるが、大坂へ御出勢の由承り、手勢引具し、上方より御迎に昼夜をかけて馳来り、水落にて御目見致し、御機嫌直り御念頃の御意にて御供す。十八日に海津へ御着き、御舟に召し、十九日の暁大津へ御上りありて御聞合せの処に、大御所廿二日膳所へ御人被成筈とありければ、御待合せ御目見被成、大津に御逗留の内、金沢勢追々に到着せり。廿四日に大津より嵯峨へ御陣をすゑられ、御人数行列を乱さず、きらびやか成る有様、洛中上下の見物人山をつきて、弥増り夥敷次第也。廿五日いまだ嵯峨に御座被成内地震ゆり、御見舞として早々二条へ御越し御目見あり。折節御能被仰付、利光公も御見物ありて御帰なり。地震見舞の御旗本衆、利光公の御宅へ群集せらる。廿九日に嵯峨御立被成、大和の内天神の森薪と云ふ所に御着き、一休の寺に御泊り、八幡の森を右に見て、河内飯盛の並び砂村と云ふ所に御着きの所に、雨夥敷降り、小屋共もり上下難儀致せり。四日御逗留の間に下々走廻り、方々へ乱妨に出づる事限りなし。五日に河内の高安に御陣を移さわ、六日小山に御着陣、上下共に屋陣取る事堅く御停止の処に、御馬廻一人屋陣取り、追放被仰付。七日摂津国田辺へ御着き、其の日は寒風甚敷、武者立御覧可有とて、左右の備をなし、暫時馬上仕りけり。病人並に若輩なる武者共は寒苦せりと聞えけり。八日は御逗留、敵地なれば各々苅田乱妨隙もなし。十日住吉の脇矢野と云ふ所に御着き、十三日並村阿部野に御着陣也。爰に御逗留ありて、十八日御所へ御見廻として住吉へ【 NDLJP:90】御出也。十九日大坂の穢多ケ崎を、蜂須賀阿波守・松平宮内少輔攻破る。御船奉行向井将監・九鬼長門守・千賀与八郎・小浜久太郎などは、新慶村の要害を破り、敵船多く乗取る。惣て大坂城の外に穢多・新慶村・博労ケ淵・野田・福嶋・篠岡山、此の六ケ所の砦大坂より拵へ、歴々の大将に与力相添へ堅固に守る。然るに穢多・新慶両所は少分の所なれ共、敵味方数千人討死す。残る四ケ所を破らんと何れも心懸くる所に、上意として永井右近大夫・水野日向守・堀丹後守・菅沼織部・山岡主計物見に出で見廻し、罷帰り申上げけるは、野田・福嶋に敵七八千相備へ有之由言上す。廿八日に本多下野守・成瀬隼人正・安藤帯刀に被仰付、廿九日浅野但馬守・蜂須賀阿波守・寺沢志摩守・加藤肥後守・松平宮内少輔、此の人々は野田・福嶋・博労ケ淵などへ討つて出で、悉く攻破り、首取りて献上す。平子主膳が首を宮内少輔内横川治太夫討取り、御感状下さる。博労ケ淵と申すは、西国舟手の大事の要害持口なる故、薄田隼人を犬将とす。是れ太閤御取立にて、常に御用に可立と広言の者なりしが、前夜町へ出で、遊女と酒盛して酩酊し、夜の明くるをしらず。然る所へ敵乱入し、一人も不残討取られ面目を失へり。福嶋と云ふ所に、大坂より小倉作左衛門に大野修理手勢を相添へ堅めたり。廿九日石川主殿頭・九鬼長門守・向井将監等、堤の陰より押寄せ、生捕三人、首七つ、兵船数多乗取る。大野道犬持口の所也。面目を失ひて城はづれの要害共焼払ひ、皆城中へ籠りける。同月廿六日、城の東北に大和川の流れに橋を渡す、是を京橋と云ふ。此の河上に今福と云ふ在所あり。川の南を鴫野と云ひ広野也。城の東は鷺嶋と云ひ、城際より深沼也。此方の寄手今福方は佐竹修理、今福・鴫野の間は堀尾山城守備へ、鴫野は上杉景勝、此の外小身衆相交る。時に大坂方より佐竹に向ふ大将には、木村長門守・後藤又兵衛・渡辺内蔵也。今福堤を堀切りて、矢野和泉守と云ふ鉄炮大将相守る。然る所に佐竹義宣の先手渋井内膳と云ふ者下知して、明方の紛れに堤の陰を忍寄り、不意に押寄せ足軽七・八人討取る。矢野無念に思ひ、大に働き討死す。佐竹勢大に利を得て、鬨をどつと作り退く時、木村長守門生年廿三歳にて、器量勝れたる勇者成るが、大に怒り佐竹備へ進む所に、渋井内膳木村と鑓を合せ、内膳を突伏せ首を取りて、木村大にきほひ懸り、佐竹陣所へ押寄する。佐竹は態と謀事に弱々と引とらせ、堀際まで越させて、一人も不残可討取と思ふ故、敵に後を見せて引く所に、堀尾山城守生年十六歳にて、容貌人に勝れ天下無双の美少年、父の業を請け勇士たるに依りて、佐竹は敵に後を見せて逃ぐるかと思ひ、備を崩し横合に討つて懸り、敵を思ふ儘に打取り、手の者三十余騎被討けれ共、大坂勢を討取り、残る者共散々に成る。木村長門守・後藤又兵衛は堀尾が陣を立退き鴫野へ向ふ。景勝が臣に杉原常陸と云ふ七旬に余る老武者、花やかに出立ちて、心も若やぎ先に進んで城方の兵に向ひ、田辺与石衛門・川田六左衛門両人と渡合ひ、互に名乗り鑓を合せける所に、両人共鉄炮に中り、漸くに引退きにけり。杉原も少々鉄炮手負ひ退く。渡辺内蔵助は常々武勇自慢にて、争論などには随分いさぎよき躰なる故被撰出、此の手の大将也しが、殊の外厳敷合戦故、いつの間にやら退去す。然る所に鴫野合戦無心許思召し、上使として御使番矢代右衛門参りて、景勝に向ひ上意の趣申渡す。景勝床机に居、麾を持ちながら御請け申上げければ、反逆の躰かと奉存と申上げければ、家康公聞召し、汝しらずや、今日鴫野の大将なれば、予とひとしく麾を持ち、床机より下りて匍匐すべき義にあらず。さすが謙信が法を請来りし也と仰せらる。人々御尤と存じ奉る。廿七日御本陣へ佐竹・堀尾・上杉を召して、御次にて合戦の評議あり。佐竹備の御目付安藤治右衛門進み出で申上げけるは、昨日堀尾山城守御軍法を破り、我が陣をほぐし、佐竹先手を横合に討破り、味方も多く討死仕り、佐竹は手を失ひ申す由申上ぐる。其の時佐竹進出で、わざと謀事に引入りて方便を仕る所に、山城守は若気なりとも家老共可存所也、御軍法を背き申す上は急度被仰付可被下由申上ぐる。堀尾山城守聞きて進出で、私若気の至り御免被下候へ、家来のわざにも候はず、常々心懸くる所は、敵を討ちて味方をすくひ申す事、いつとても望にて候。佐竹が人数敵に追ひこまれ追討にあふ所を眼前に見ながら、我が請取になしとて見物して罷在る事難成候。左様の時は幾度も御免被下候へ。横合に打懸り佐竹人数を助くる上は一礼も可有所也。存じの外なる被仰様と存ずる也。乍去御目付などの御批判の上なれば、是非に不及切腹【 NDLJP:91】被仰付ば奉畏旨申上ぐる所に、老中も是を聞き、若武者の事なれば左様の義尤也、重ねて可被仰出とて各罷立ちにけり。天下無双の弓取とて皆人誉めけるが、惜哉翌年病死せられければ、両御所右の義共被仰出、別けて御落涙被成けり。真田左衛門佐昌幸は、関ケ原の時高野山へ引籠り、唯今大坂籠城と聞きて馳来り、秀頼公へ御目見申上げ、一命を君に奉ると、東南の篠山に出丸を築き、楠が兵法の術を学び、四方に堀をほり、柵を振り逆茂木引き、鉄炮挟間一つに六挺宛間々に仕懸け、越前・加賀の持口に向うたり。十二月四日朝霧深く物の色見えざるに、時分よしといふ儘に加賀・越前両国の人数先手共、柵を越へ堀を渡りて塀下へ付く所を、真田引請け思ふ図に成りければ、鉄炮にて能き武者ばかりねらひ打にする程に、加賀の先手山崎閑斎・同長門大に働く。足軽大将大河原助右衛門霧のまぎれに柵を破り越ゆる所を、両玉にて只中を打ちて馬より逆様に落つ。せがれ四郎兵衛少し脇に在りけるが、父討たれたりと聞くより、父が死骸の本へ来り大音上げて、大河原助右衛門せがれ四郎兵衛と云ふ者也、我と思はん者あらば来りて首とれと呼はれば、真田昌幸聞之、親子武者と見え比類なき勇士也、あれ討ちて益なし、不可討と矢ごめしてありけるか、何くより来りけん矢一つ来て、馬より下に打落され、父子一つ枕に伏したりけり。鉄炮大将岡田助右衛門・大橋外記大に働き討死す。越前の軍兵共何れも手いたく働きけるに、松平出羽守生年十五歳、猩々緋の羽織にて柵を切払ひ、堀を越え塀下へ付きて、逆茂木押分け〳〵上る。城中より是を見て、若武者の勇々敷有様比類なし、かまへて不可討と矢留して見物す。然る所へ上使として安藤帯刀馳来り、両国の大将、真田出丸力攻にては不可叶、人数打たせて詮なし、早々引きとれと触れて廻りければ、上意に任せ引取り、出羽守も疵を蒙り本陣へ引入り給ふ。誉めぬ人こそなかりけれ。加賀の足軽大将四人討死す。稲垣掃部・加藤石見・才伊豆・奥村備後・小幡播磨・生駒監物・上田六左衛門・相八兵衛・山田大炊九人は、手を負ひ引退く。其の中に相八兵衛と山田大炊は、御小姓なるが、備をたがへ先へ出で御軍法を背く故、其の科に切腹被仰付けり。本多・横山・長・山崎汗水に成り人数を下知して、急に出丸を乗とらんとせしか共、上意きびしければ両国一統に引取りけり。十月十四日夜の事なるに、大坂方より蜂須賀が陣所へ夜打を入える。大野主馬・塙団右衛門・米田監物・御宿越前・上条又八・二宮与三郎・下沢彦太夫・岩田七左衛門、此の者共竹束裏へ押寄せて俄に打つて懸り、散々に切乱す。蜂須賀が軍兵共あわてさわぎて出向ふ。阿波守も自身に働き、寄手も多く討とらる。家老中村右近長刀にて橋爪まて追懸け切まくる所に、敵一人踏留り、中村を突伏せ首をとらんとせし所を、稲田九郎兵衛十五歳にて敵の諸除打落し、右近首も不渡敵を討とる。扨夜明けて其の場の矢印を見れば、夜討の大将塙団右衛門と書付けたる故、塙一人の様に申しあへり。追つて此の時の事御吟味ありけるに、阿波守家臣に稲田修理せがれ九郎兵衛十五歳也、山田織部・樋口内蔵・森甚五兵衛・其の子甚太夫・岩田七左衛門、此の七人に御感状被下。中村右近は打死す。穢多・仙場両所の軍功も御文言に書のせらる。九郎兵衛十五歳なれば、童子に似合ひたる名を付けたきもの哉、童子名の感状末代迄の誉れならんと上意ありしとかや。古田織部は佐竹の陣所へ見廻に行き、咄抔し、茶を呑まれ候へと濃茶出でけるに付き、甲をぬぎ茶を呑み、かうべをかたむけ、竹束の中に茶杓竹やあると尋ねし所へ、鉄炮来てこびん先を打ち、向ひの陣所へあたる。織部は頭より血流れける故、服紗にてぬぐひけり。さすが数寄者と云ひつべし。織部いきを継ぎて申しけるは、向後数寄屋にても甲を着して入るべしと興じけり。松平左衛門督の仕寄せに、鉄の楯を四・五挺町口の橋の上までつきよせけるに、城中よりほうろくを二挺ならべて打倒す。軍兵共は楯を捨て竹束の内へ迯入る。城中よりどつと笑ひ、其の楯捨てゝ置くならば天下に無隠臆病者也、取りて行けとぞ申しける。河田太郎左衛門と云ふ大力走り出でゝ、五挺の楯を一枚宛取重ね背負ひて、河田太郎左衛門楯を取りて行くぞと大音上げて呼はり、三十人計にても持つまじき楯を一人して持ち、しづ〳〵と引きければ、城にも寄手にもえいやつとぞ誉めにける。斯くて秀頼公の御母公天守に上らせ給ひ、四方の敵を御覧ずるに、早や出丸共は皆落ちぬ。城下へ大方付いて見えければ、老功の者共を召され、何卒してあつかひにもなれかしと思ふ也、秀頼一命恙なくばいか【 NDLJP:92】様にも計らへと涙にむせび給ひけり。日頃は浅井備前守娘也、信長公の御姪也、姿は女なれども心はわるびれたる事あらじと、諸人に力を添へさせ給へ共、大軍を御覧じて、つよからぬは女の心也と、貫之が言葉の如く見えさせ給へば、いとゞ哀に堪へ兼ねて、大野修理秀頼公へ参り、御歎の通り申上げければ、から〳〵と打笑ひ、女ははかなきもの哉、討つもうたるゝも夢のたはむれ、此の度運を可開にあらず、父秀吉公の厚恩を忘るゝ輩と共に命を延べて詮なし。何れも相心得可申旨御意ありければ、士卒共まで御尤也と一致に死をぞ極めける。御母公天守より下りさせ給ひ、御殿に入らせ給へば、稲留喜太夫はうろくを城中へ打入れ、御殿もひゞきゆるぎければ、女中共は絶入るばかりに見えにける。去る程に将軍家は大御所へ被仰上は、諸軍勢城下に着て候、近々惣攻可被仰付やと伺はせ給ふ所に、大御所は、いやとよ此の城卒爾に力攻になる城にあらず。先年門跡籠城の時、信長三年攻め給へ共落去せず。其の後太閤能く築かせ給ふ儘、中々一旦に攻め難し、我に任せ被申よと上意にて、唯討やめて日を送り、本多佐渡守を召して汝計らへと御諚あり。佐渡守畏り、京極若狭守に申談ず。京極は織田有楽へ内意申遣すに、城中も次第に戦労す、和睦にもなれかしと願ふ人々も有りけるにや、秀頼公御母公の御妹に常高院、並に織田有楽・大野修理後藤庄三郎など相談せしめ、兎角和睦の儀可然とて、常高院と後藤庄三郎両御所へ参り御内意を伺ひ奉る所に、御許容ありて上意には、秀頼母を証人に出すか、惣堀を埋め平均になすか、両様の内何れにても同心に於ては和睦すべしと被仰。其の通を秀頼公並に御母公へ申上ぐるに、秀頼公は何れの道も叶ふまじ、骸を城外にさらさんにはしかじと御立腹ありければ、何れも申上げけるは、御尤の儀に候へ共、早や玉薬兵粮もつきて見え申候、其の上国大名の内に太閤御厚恩の者ども多く候へ共、今まで城へ一人も入る者なし。還りて城中の者敵へ内通仕る者も有之よし承り候。然れば即時に落去疑ひなし。唯御母公の御為、士卒の為に御和睦被成、関東に御随ひ可然奉存と、何れも達て申上げければ、此の上は是非もなし、いか様共と被仰、御本丸へ入らせ給ふ。其の通り達上聞所に、さらば堀を埋めよとて、十二月廿一日御和睦の儀調ひ、廿二日より本多美濃守・同豊後守・滝川豊前守・松平下総守・佐久間河内守・山代宮内少輔・成瀬隼人正、此の人々奉行にて手合せしてこそならしけれ。両御所二条へ入御被成、廿五日に織田有楽・大野修理御礼に登城す。廿八日茶臼山の御陣屋を、板倉内膳正・松平右衛門尉・加賀爪甚十郎御奉行として焼払ひ、掃除して上洛す。秀頼公の御母公は、城の惣堀一円に平等にならすを御覧ありて、小少将の局を奉行人方へ被遣、外構の堀をこそならすべきに、本丸の堀まで埋め申す事沙汰の限り也、指除き申せと被仰遣。御使成瀬隼人正へ申しければ、隼人正承り、扨々いみじき御方かな、御名は何と申すやなどゝたはむれければ、赤面して乗物に乗り、城中へ引入りける。明くれば元和元年乙卯正月三日に、大御所二条の城御発駕、駿河へ御帰陣被成ければ、将軍秀忠公は同廿五日伏見の御仕置等被仰置、江城へ御帰陣とぞ聞えける。
利光公は十一月十三日より十二月五日迄、廿三日の間阿部野に御逗留、其の内池田外記・森権太夫・西尾隼人に被仰付、御家中の馬共被改帳面に付け、子小将・中小将に乗らせ御見物なさる。正月朔日井伊掃部頭嘉例の鉄炮つるべ放し致しければ、何れも不審しあへり。二日将軍へ御礼被仰上、三日御所を御立被成、大坂の堀普請御見舞ありて御帰り、御家中老中を始め御振廻。十四日将軍より御使者有之、鯉御拝領あり。十五日京蒔絵師与兵衛御膳を上ぐる。十六日辰の刻地震夥し。此の日右兵衛督殿・常陸介殿大坂御立被成。十七日生駒主水御折檻。十八日大坂より伏見へ将軍還御に付き御目見あり。十九日前田七郎兵衛五千石御加増にて備前と改む。小幡宮内五百石の御加増也。廿四日木村より本能寺へ御越し、廿六日将軍御参内にて、廿八日膳所へ入御被成、少進法印御振廻御能被仰付。老松・清経・野宮・道成寺・春栄・善知鳥御見物。晦日利光公越前守方へ御見舞、夫より古田織部方へ被為入、御茶を上ぐる。二月朔日京御立ち、其の日和邇に御泊り、二日今津、三日疋田、四日今庄、此の所にて越前守殿より御振廻、五日大正持、六日金沢御着城、出入百十日也。金沢上下賑敷、千秋万歳の寿き、推賞の声止む事なく、目出度かりける次第也。
【 NDLJP:93】 元和元年又大坂の一乱起り、秀頼公御生害まします由来を尋ぬるに、抑秀頼公の御母公と秀忠公の御台所は御兄弟也。又秀頼の御台所は将軍の姫君也。かた〴〵親敷まします所に、諸浪人共にかたらはされ野心を起し給ふは、秀頼公の御運の程こそうたてけれ。去年冬の騒動に、近国の在々所々へ乱妨致し、食物衣類家財等悉く奪取り明家にして置きければ、家に帰りて餓死する事おびたゞし。然るに依りて河内・摂津・和泉内のより一粒も収納をせざれば、士農工商共に難儀せり。秀頼公より大蔵卿に青木民部少輔を被指添、関東へ被遣、御扶持方助成被成下候様にとの御訴訟也。然る所に大御所の上意には、年内和睦して惣軍勢引取る上は、浪人共扶持放し、国替抔も申渡す様にと内意も可有所に、浪人共を介抱して情をかけ置き、あまつさへ合力せよなどゝは存じの外なる断也。逆心の不止所也と大に御腹立被成ければ、重ねて可申上様もなく、無是非罷帰り、其の通り申上ぐる所に、秀頼公聞し召し、扨は無念至極なる次第也、去年可相果所に、計略にあひ和睦する事偏に不運の所也。此の上は何事も頼みなし、いざ〳〵討死用意せよと、金銀財宝の底を払ひて取出し、兵粮の用意して、石垣普請・堀・塀・柵・逆茂木等、夜と共に開敷ぞ成りにける。織田有楽・大野修理など色々に諫言を申すといへ共、曽て御承引なく、此の上には某が首を取りて関東へさゝげ、いか様にもせよと被仰ければ是非に不及、大坂中又上を下へと騒動して、事急にこそ成にけれ。
此の由関東へ聞えければ、松平下総守・本多美濃守を王城守護として被遣。大坂の城には伏屋飛騨守・三原石見守を奉行にて、秀頼公も出でさせ給ひ、天王寺・岡山などの要害を仰付らる。京都には大坂方より町中を焼払ふと取沙汰あるに付き、醍醐・山科・八瀬・小原・鞍馬の方へ家財等を持はこび、禁中にはかまひ有間敷とて、内裏・院の御所・女院・宮々等の中庭に、洛中の町人共妻子を小屋懸して、家を立退き是へ入り、詰籠の如くに住居をなす。大御所には卯月四日に駿府を御立被成、同十八日に二条へ入御ありければ、将軍は同十日に江城を御立ち、廿四日伏見へ御着き、諸国の軍勢共淀・鳥羽・畿内野山に尺地もなく、家々の旗共ひるがへし陣取りあへり。加州筑前守利光公は、其の節御在江戸にて、上通り御帰城、越前今庄に御泊りの日未の刻に、江戸より飛脚到来、両御所御出馬と申来る。今庄より一日がけに金沢へ御帰着、追付き御出馬ありけるに、大坂岡山口の御先手と定り給ふ。
大和国法隆寺と申すは、上宮太子仏舎利を安置し給ふ伽藍たり。秀頼公多勢を遣し焼払ひ、僧俗男女までなで切に仰付らる。是は去年の冬陣に、大工の大和が関東へ秀頼公の御事を支へたりとの御憤とぞ聞えける。堺の津と申す所は、八百年以来繁昌し、富人集り、異国の名物倉庫に持貯へ、諸宗の寺院いらかを並べ美々敷所也けるを、秀頼公より大野道犬を被遣、風上より火をかけ悉く焼まくる。九鬼長門守・向井将監・小浜久太郎船にて堺へ押廻し、道犬人数に渡合ひて悉く討とる。其の時秀頼公天王寺に御陣を取り、関東勢来らば防ぎ給はんとの詮議也。大野修理・後藤又兵衛・真田左衛門佐、七手組を被召連、瓢簞の馬印さし揚け、太くたくましき馬に召され下知被成ける。秀頼公を見る人驚き奉り、言語器量骨柄聞きしに増る大将かなと誉めけるが、船手奉行の働に大坂勢も手をとり、ほう〳〵本陣へ引入り給ふ。
大坂落城の前四月上旬の事なるに、大野修理領分の地は和泉国佐野川と云ふ所也。此の近辺の地下人共に一揆を起させて、大野修理大将にて、紀伊国和歌山の城主浅野但馬守を攻落さんと申合す、此事浅野の方へ聞え、卯月十八日に和歌山より和泉の信達と云ふ所へ打つて出づる。先手は浅野左衛門・同右近大将にて佐野川に陣取也。大野修理侍に大野茂右衛門・中村善太夫と云ふ両人を舟に乗せ、佐野川へ遣し、早々地下人共打立てよとの使也、舟より上る所を浅野の先手共取廻して、大野茂右衛門は討取り、中村善太夫をば生捕る。かゝる所に大坂より大野修理弟主馬・御宿越前・岡部大学・長岡与五郎・塙団右衛門、四万余騎にて和泉の堺濫妨に押寄する。岸の和田へ押すかと見れば、直に紀州へ押寄する。小出大和守は身用心して不取合。大坂勢は四【 NDLJP:94】里半の所を押寄せ、南貝塚と云ふ所に着陣す。浅野方の先手ども聞伝へて、物見を出し見る所に、敵佐野川に押来る。其の通り則ち大将但馬守へ注進するに、但馬守武功の士なれば、其の猛勢を平地にて戦はん事叶間敷、信達へ引取り、樫井河原へ敵を引請け、信達山の岸の上より打立つて討てと言遣す。先手共尤と思ひ信達へ引取る。敵共案の如く押寄する。先手浅野左衛門、足軽大将亀田大隅は安松村を前にかた取待受たり。敵は蟻通の森の前より味方の左の方安江村の裏へ押寄する。亀田鷺の蓑毛の胴肩衣を着し、五十人の足軽に鉄炮を立てさせ防ぎける。大阪勢入れかへ〳〵戦ふ儘に、亀田は玉薬つきて引退く所に、敵追懸ること七八町、樫井里へ入らんとす。上田宗箇が郎等多胡助左衛門、主従二人樫井の町口に踏留る。能き武者二人町うらへ向ふ、是れ塙団右衛門・松浦作左衛門也。亀田言葉をかけ、鑓を構へ進む。多胡助左衛門も弓にて射進む。団右衛門・作左衛門三十騎許にて宿の内の垣の手へ引入る。亀田其の間に町の中横小路より出向ひ、以上三人にて敵を防ぐ、亀田は高股を深手負ひ、宗箇は団右衛門と組合ふ。団右衛門宗箇を組伏せ首をとらんとせし所へ、宗箇家来横関新三郎出向ひ、団右衛門を押伏せたり。浅野家の足軽頭八木新左衛門渡合ひ、団右衛門が首を取る。永田次兵衛・松宮勝助つゞいて組打して首を取る。岡部大学金の馬櫛の指物にて、馬上に麾を振り下知をなす所に、鉄炮にて唯中を打たれ馬上より落ちければ、紀州方は悦び、大坂勢は叶はじと引取る。紀州方へ首数二百余討取る。其の内に甲付十二也。大坂勢殊の外軍に仕つかれ、蟻通の辺にかたまり居る。浅野但馬守は服部閑斎・高野道斎両人を遣し見せしめけるに敵は千騎にたらず、殊の外草臥れたりと申す。但馬守家老共を集め、いかがせんと有りければ、種村背推寺と云ふ者申すは、是非に討取り給ひ候へといふ。故長政取立の侍熊沢兵庫と云ふ者進出で申す様、某へ一組御捨に被成被仰付候へと申す。然る所に浅野左衛門是非御無用に被成可然と云ふに付、先づ止めけると也。熊沢兵庫と云ふは、此の度に不限度々の覚あり。去年紀州有田・日高両郡の盗賊五味善鬼等大将として、熊野の小川にて一揆を起す。熊沢是を討鎮め、大将の五味を討取る。此の時も名を揚げたり。種村背推寺は、先年柴田勝家侍大将の内種村三郎四郎と云ふ者也。柴田の後前田利家公へ御招の所に、太閤へ望をかけ参ざりけるに、琵琶ずきと聞及び給ひ、白雲と云ふ琵琶を贈り被遣ければ、もだし難くて参りけるが、越中佐々内蔵助と御取合の時、朝日山へ高畠九蔵などゝ被遣、越中にて働あり。利家公御逝去の時御暇申し、浅野家へ参りけり。白雲の琵琶浅野家に留りありと聞えけり。扨紀州和歌山より信達の陣所へ飛脚到来す。山口喜内と云ふ者一揆共と一味致し、人質を奪ひとらんとせし所を、何れも寄合ひ、喜内一族共搦取り籠舎申付候由申来る。紀州勢驚き急ぎ引返し、一揆共並喜内一類誅伐して、五月五日に獄門にかけしが、五月七日の夜に早や大坂落城と申来る。八日の未明に但馬守打立ちて大坂へ馳行き、将軍伏見に御座の節御目見をぞ致しける。
大坂より、世に徒者と沙汰するあぶれ者十人頼み、金銀をとらせ、大御所四月廿八日淀まで出陣ある其の跡に、京中に火をかけ焼払ふべしとの御事也。然るに大御所御出馬も延引也。彼火つけ共かなた此方とうろつき廻る所を、反忠の者ありて捕へられ拷問に及びける。此の火付の大将は古田織部家来宗喜入道と云ふ者也。落城の後吟味被仰付、古田織部父子六人御成敗、火付十人獄門にかけらる。古田は道具の目利と違ひ、見付けざるこそむざんなれ。是も秀頼公の御運のよわき所とぞ申しける。
越中には常高院殿様々の御噯ひありて、両御所へも被仰上ければ、大和国を可被遣旨被仰入といへ共、一向秀頼公御承引なく、早速打つて出で討死せんにしくはなしと、士卒共を催促被成に付き、関東方御先手井伊掃部頭・藤堂和泉守・松平下総守・本多美濃守三万余騎を引率し、鬨を上げて討つてかゝる。大坂勢木村長門守・山口左馬・増田右衛門・同兵太夫・薄田隼人・長曽我部等、井伊の先手へ打向ひ、弓鉄炮の音天地もひゞくばかり也。藤堂和泉守は八尾の堤を東に向ひ、藤堂先手辺渡勘兵衛、敵に近付き合戦を初めんとす。和泉守本陣七八町隔てしが、本陣より軍使を立てさへぎつて、不可攻、少し退去すべき由申遣す。渡辺は只【 NDLJP:95】今こそ合戦すべき時節也、早々後詰被成よと申遣す。和泉守返答せず。八尾道へは藤堂宮内・同仁右衛門、桑名弥次右衛門・渡辺掃部也。若井村に木村長門守屯し、中よりどつと藤堂人数へ渡り合ひ、互に息継兼ね、火花を散し戦うて敵味方多勢討死す。藤堂新七・同玄蕃を初め四十七騎討たれたり。此の場の合戦相引にして、南二道先かけ八尾町へ乗入る所に、長曽我部堤のかげより不意に出で、藤堂仁右衛門・桑名弥次右衛門、此の外十人許歴々の者共討取らる。依之和泉守本陣も危かりし所に、渡辺八尾の堤を越え来り、どつと懸りて攻戦ふ。敵大勢たりと云へ共、両度の戦労に堤を越えて敗北す。追打思ふ儘にして首数多討取る。渡辺勘兵衛堤の上にあがりて見れば、久法寺・八尾の間の大橋を後にして、長曽我部二千計にて本陣を備へたり。渡辺が兵高名したる者は、首を持ち本陣へ行き、討死手負多くしてわづか五十人計なるが、敵を近々と見て不進法なしと、長曽我部が陣に向ふ。敵小勢と見て我れ先にと進み来る。勘兵衛堤をかたどり相待つ所に、勘兵衛が嫡子長兵衛は本陣近く居けるが、朝より同座せざれば、父を見て急ぎ走り来り横合に打入る。此の外心懸の若武者爰かしこより馳来り、三百余騎に成りければ、渡辺備を立て、互に鉄炮打入れける所に、和泉守方より八尾の堤に火をかけ、早々可引取旨追々に申来れ共、敵を突留めて是を其の儘退くならば天下の嘲成るべし、後詰せさせ給へ、打破るべしと度々申遣すといへ共返答なく、斯くする内に集る勢六七百騎に成り、渡辺麾を振立て真丸になり、もみにもんで攻懸る。長曽我部軍兵共は寄武者也、戦ふべき様もなく、戦ひあぐみ日暮に及び皆引入りけるを、天王寺辺まで五十町追討に、首三百四十余討取り、勝鬨上げて渡辺は心地よげに引退く。或人曰く、此の時渡辺、すさまじき戦場にて命危き折からなるに、和泉守後詰せられざる事は、渡辺に討死せよとの心得ならん、近頃不頼母敷主人也とて、京へ引込み浪人す。方々より二万石・三万石にて抱へ度しと望の衆数多なれ共、和泉守構ありて在付く事なりがたく、浪人にて暮す。惜き士かなといへり。法躰して推庵とぞ申しける。
同五日井伊掃部頭、飯森海道若江村を向うに当て押寄する。大坂より木村長門守・山口左馬・内藤新十郎・薄田隼人・増田兵太夫、二千余騎にて道明寺口へ寄せ来る。別して長門守花やかなる出立、甲の緒を能く留めて先を切捨て、大坂の名残を惜み出でたりしが、井伊掃部頭に渡り合ひ、互に火花を散す。井伊は究竟の兵を入れかへ〳〵攻めけるに、大坂勢過半討たれ、残る軍兵共散々に成る。木村長門守も数多手負ひ、堤の柳陰に腰懸けたる所に、井伊が家臣安藤長三郎来り、何者ぞといへば、我は道明寺口の大将木村長門守也、首をとらせん間、取りて掃部に見せよと首を延べて申しければ、長三郎取りて掃部に指上げける。山口左馬は長門守が姪聟にて、木村と一つ枕と常に心懸けゝるが、其の詞をたがへず、其の近所にて大なる働して討死す。薄田隼人は去年穢多ケ崎にておくれを取り、無念至極なる故に、此の度は耻辱をすゝがんと、味方落行くといへ共、留りて多くの首を取り、手も負ひければ終に討死遂げにけり。増田兵太夫は増田右衛門尉長盛が子也。関ケ原の以後関東に在りて、今度将軍の御供して上りけるが、太閤の御時父右衛門尉を五奉行の内に被召加、今我れ有甲斐もなく、秀頼公へ弓ひかん事浅間敷心底也と思ひ籠城せし所に、秀頼公御感ありて、若し理運にならば大和国にて四十万石可被下と御朱印を頂戴し、六日に平野口へ向ひ、朝の内多くの首を取り、二度のかけに討死す。
後藤又兵衛・明石掃部・井上小左衛門・真田左衛門・伊木七郎右衛門・渡辺内蔵介、此の者共道明寺表大和路に懸り、大御所の先手衆に相向ふ。和州口は水野日向守案内者故、大和衆被相添、後陣は越後少将・松平陸奥守、歴々の武将前後を乱さず備をもうけ押行く所に、六日の明方に後藤又兵衛先手に渡り合ひ、互に討つ討れつ入乱れ戦ふ。松倉長門守後藤を目に懸け取籠むる。後藤は松平下総守押寄する所へ駈入りて戦ひ、終に討死を遂けにけり。後藤は黒田筑前守の家臣なるが、浪人して大坂へ籠る。大野修理姪聟になり有之しが、関東へ内通すると諸人つぶやくを聞きて腹を立て、六日の合戦に深入して討死す。
大坂方の大将歴々討死し、今は真田幸村一人となり、残の【 NDLJP:96】大将共と寄合ひ談合す。毛利豊前守・大野主馬・真田三人示合せ、六日の晩に相究るは、最早合戦は明日に相極る。城中に在りては働なり難し。明暁どつと突懸り、花やかに討死せん、各尤也と同心す。真田は茶臼山御所の先手へ向ふ。毛利豊前守は天王寺表、大野主馬は岡山表と相定め、数万騎の中より究竟の武士を撰びて、三組を手分して、明日の合戦に命を捨ずんば、日本国中に死する所なし、戦場叶ひ難き人々は立退くべし。只今京橋口は心易し、落行候へ、とく〳〵と申しけれ共、上下共に此の度死を遁れて何方にか面をさらさんやと、死用意こそ致しけれ。
秀頼公も両御所の陣前にて華やかに討死被成、豊臣の神慮に御叶可有と、金の瓢簞の御馬印立てさせられ、大野修理を被召具、天王寺口へ御出馬ならば、御先手弥々勢力を励まし、幾千万の敵にても切崩すべきと一決して、五月七日の明方城門を開き、六万余騎一度にどつと突懸る。御所の先手兼ての心得なれば、鑓ぶすまを作りて突懸るに、本多出雲守・小笠原兵部大輔・同信濃守・同右近・安藤帯刀父子一番に進む。毛利豊前守渡合ひ、火花をちらすに、本多・小笠原討死し、右近は手をおひ引退く。真田は御所の本陣へ討懸る。去れ共加藤・細川・黒田等御前に在りて守護せしな。毛利は本多・小笠原を打取る勢に乗じて、真田と一手に成り、曳声出し地煙立てゝ突懸るに、御先手悉く乱れ、御所もかけ廻りて御下知被成。此の時加賀・越前両国の大将数万騎にて横合に打懸り、真田・毛利と十万余騎もみ合ひ、敵も味方も入乱れ、世界も中天にひらめき、坤軸もくだくる時節なりけるが、御所の御運鉄石の如く、秀頼公の御運命尽きて、真田と堅き約を違へて御出馬不被成故、諸軍戦ひ労れけれども入替る勢なき故、早や打太刀もよわり、口惜し〳〵と歯がみすれども不叶。かゝる所に終に真田を鉄炮にて馬より下に打落す。越前勢の内西尾仁左衛門駈出し、幸村が首をぞ取りにける。大野主馬は岡山口加州の先手の備に押向ふ。加賀勢兼ねて期したる事なれば、鑓ぶすまを作り入乱れ相戦ふ。此の時高名分捕討死、地煙にまじへて太刀の光矢さけびの声、天地もひゞく折節、大野主馬も攻めあぐみ城中へ入らんとするに、追打に六万余の首をとられ、手々にひつさげ〳〵息継ぎかねて見えにけり。大野主馬城へ入らんとすれば、門をさして有りける故、青屋口へと発向す。城中より北村五助ほうろくを打出すに、加賀勢火矢に打立てられて手負死人あり。大野は青屋口南条の辻にて、終に討死いたしけり。
秀頼公は将軍の陣に向ひて尋常に討死せんと思召し、桜の門を開かせ出馬可被成とせし所に、大野修理申上げゝるは、真田と筈取り申す事御座候間、先使を被遣、其の返答に依りて御出馬被成候へと留め奉る故、床机に腰かけさせ給ひ、案内を待ち給ふ。然る所に真田ははや天王寺口へ出でたる由申来る。秀頼公御馬に乗り給ふ所に、真田子息大助走せ来り、御味方敗軍仕り、城中より出でたる大将共討死の由申候間、今は御出馬益もなく候、御旗を天守に立置き、本丸へ入らせ給へと申しける故、先づ千畳敷へ入り給ふ。真田が申す通り早々出馬あるならば、関東の大勢を追散し、目覚しき戦して、後代迄も名を残し給ふべきに、臆病の名を得給ふ事こそ哀なれ。
五月八日秀頼公の御近習の士共臆病神付きあら〳〵になり、其の中に大野修理、何とぞして秀頼公の御命を乞請け遠流せられば、我等一所に立退かんと思ふ心のはなれ難く、秀頼公を城外へ出し不申、剰へ御母公にも隠密し、秀頼公の北の御方を才覚し、古乗物に乗せ参らせ、御召仕の女中五・七人にて二条の城へ送り奉る。是を忠節にいたし、一命をもたすからんとの所存也。其の時御乗物をかきたる者、一人は安彦半兵衛とて江戸より来る浪人也。一人は富田越後若党なるが、前年勘気を蒙り浪人して大坂へ来る浜名弥五右衛門と云ふ者也。上聞に達し、江戸に在るならば千石宛可被下。他国へ望有之ば、其の国主に被仰渡知行とらせんと上意にて、安彦は江戸にて千石被下、浜名は加州へ行きて富田越後に乗打して慰まんと思ひ、加州へ来り四百石被下、御馬廻に被成、馬一疋飼置きて方々勤に引かせ廻りしが、越後を見ては馬に打乗り駈廻りしが、後々は摺切りて馬も随分やせ、後には馬もなくなりし。内藤助右衛門・速水武左衛門など番所にて、いらぬ越後に腕押せんより、【 NDLJP:97】江戸にて千石よからん物をと笑ひければ、其の時弥五右衛門もされば〳〵と後悔致しけり。
斯くて秀頼公並に御母公・大蔵卿・内侍局・二位局、宮内卿・大野修理・速水甲斐守・竹田永応・氏家内膳、僧には清閑長老、二十人計天守の下土蔵へ入りおはします。馬廻頭真野蔵人・中嶋式部少輔・野々村伊予守・堀田図書・郡主馬・毛利河内守・織田兵蔵等土蔵の前後を守り、寄する軍兵共払退け大に働きけり。秀頼公よりさして御恩もなき者なれ共、此の時に至りて何方へか落行くべきと、妻子共を土蔵の内にて指殺し〳〵、何れもいさぎよく切腹す。速水甲斐守・津川左近・毛利豊前守・武田左吉・森長三郎・伊藤武蔵守・加藤弥平太・城対馬守・真田大助・古橋山三郎・同庄三郎・土肥藤五郎・寺尾藤右衛門・片岡十右衛門・真原八蔵・同三十郎・小室茂兵衛・中嶋将監・同半三郎・萩原道喜、此の人々何れも土蔵にて切腹す。京極備前守・今木源右衛門・別所孫右衛門三人は立退きたりと聞えけり。
渡辺内蔵助は子供を召具し、母正栄に対面して、京極橋より落行く者は咎なし。京まで先づ〳〵落行き給へ、同道申さんと云ひければ、母大に怒り、扨々汝は去年鴫野にて赤耻かき逃走り、又只今も左様の心得にて、何方にて耻をさらさん。両御所も御存じの我々子孫を乞食させ見事ならんや。急ぎ子供を殺し自害せよ、我れ介錯せんと申しければ、内蔵助返答もせず、子供を指殺して切腹す。母介錯して其の身も自害す。明石掃部は城に火の懸るを見て、敵陣へ駈入り討死す。秀頼公の頼み給ひたる長曽我部土佐守・大野主馬・同道犬・仙石宗也等、何方共不知立退き、縁引次第寄手に便るもあり、在々所々へ隠れ忍ぶも多かりけり。
井伊掃部頭は土蔵に秀頼公ましますと聞きて、早々切腹を急ぎ給へと申遣す。二位の局を以て大野修理申遣すは、太閤の好みを思召し、秀頼公並に御母の御命を御助け、遠流させられ候へと申遣す。掃部頭聞きて、此の場に至り何の詫言といふ事やあらん。大野は臆病者也。速水甲州はおはせぬか、早々と申遣し、其跡より鉄炮打かけ、天守も火矢にて焼上がる。秀頼公是非に不及切腹被成、速水甲斐守・薬研藤四郎にて介錯仕り、其の身も切腹す。大野も切腹し、中一人女不残も自害して焰の中へ飛入る。哀なりし事共也。長曽我部は禁野の里葭原にて搦捕り、洛中を引渡し獄門に懸る。道犬は堺へ渡し磔に掛る。秀頼公別腹の若君に八歳に成り給ふが、容顔美敷を西国衆拾取り、伏見の町人に取らせ置きしに、上聞に達し、三条河原にて殺害す。名を問へば殿様といふと宣ひける。哀なる事共也。両御所は諸大将の首共御吟味ありて上覧あり。何れも式次第首を改め実検に備へ奉る。中に木村長門守首を御覧の所に、忍びの緒を結びて端を切捨てたり。緒を解きて見てあれば、甲のかけばりの内へ香具を入れ、髪には伽羅を留め、匂ひ芬々たり。一方の大将木村長門守と書付けたり。見る人感涙をぞ流しける。夫より天下悉く関東に随ひ、国々の武将両御所へ御礼被申上、追々御暇給り、各々帰陣せらる。両御所も京・大坂・伏見の御仕置被仰付、大御所は六月中旬駿府へ御帰陣、将軍は大坂の諸奉行御定め、七月下旬に江戸へ御着城、天下太平に成り、畿内の町人共各還住して、頓て富家とぞ成りにける。目出度かりける次第也。