三壺聞書巻之十一 目録
 
軍役御定の事 一五二
 
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三壺聞書巻之十一
 
 
 
慶長十六年大御所家康公御上洛被成、夫より大坂へ御出ありて秀頼公に御対面、色々の御進物、御附々の男女共に至るまで御懇の御事にて、上下の悦び御馳走申ばかりなし。加藤肥後守清正・大野修理・木村長門守、其の外何れも取持ちて大御所へ御礼申上げ、頓て御暇被為進、駿河へ御帰国被成ける。然るに利家公の御後室芳春院殿、いかゞ御内談や有りけん、大御所より酒井左衛門尉を御残し、芳春院殿伊勢御参宮被成路次の御馳走の為とぞ聞えける。頓て御用意出来し、御輿御供乗物・騎馬の供歴々共相随ひ奉る。金沢より附置かせ給ふ内にて橋爪縫殿介を可被召連との御意にて御供致し、道中人夫・伝馬大御所より御馳走なれば、御不自由成る事更になし。国々諸侯より進物を上げ奉り、名所々々を御覧じ、山田に於て福井土佐守・大夫与左衛門方に御入ありて、夫より内宮・外宮御心静に御社参被成、夫より直に鎌倉御見物ありて江戸へ御着被成、利長公の御屋形へ入らせ給ひけり。
 
 
慶長十七年に後陽成院の御子御年二十歳にて御即位あり。江戸・駿河両御所より諸事御取持御馳走共様々也ければ、院の御所も当今も、両御所へ諸事叡慮も深くして、目出度事限りなし。残月朝日に光を奪はれ、大坂は賑やか成る事もなく、秀吉公御取立の好色者共のみ、寄合々々世間の事を相談す。去れ共天道私なくば秀頼公の御運も御恙なく、江戸・駿河の両御所と御縁者にもならせ給へば、君の御代を妨げ給ふ事にもあらじ、御心易く思召せ、行くは目出度おはしますべきと申しながらも、下心には両御所威勢世に勝れ、世の中あやぶく御心に懸り、国々の宮社を御建立被成、慶長十九年には大仏殿の鐘を鋳させられ、東福寺清韓長老に鐘の銘を書付けさせ御寄進あり。此の鐘の銘に、日本の将軍左大臣秀頼とぞ書きにける。是わ秀頼公の一つの御誤とぞ成りにける。此の時分駿河の家康公より秀忠将軍へ御意有りて、天下の吉利支丹を御制禁被成、国々のばオープンアクセス NDLJP:83てれん道場を破却し、宗門をかはらざる者は御成敗被成、余宗に成る者はころばせ苦しからずと也。其の頃江戸に内藤飛騨守とて大名あり。吉利支丹の張本にて異国へ送り遣さる。此の者の甥に内藤徳庵とて、二千石の身代にて金沢に有りけるを、吉利支丹なれば是も被遣。其の時に加州に高山南坊二万石、宇喜多久閑千五百石、早川右兵衛千石、柴山権兵衛五百石、是等の者共宗旨をころぶ事仕間敷と申すに付き、何れも上方へ遣さる。高山南坊の惣領十次郎は、天下一の美少年にて、毎日能を致し諸人見物いたしける。其の頃はやり歌に、

  能を見やうなら高山南坊面かけずの十次郎を

加様に童部共うたひけり。十次郎妹を横山大膳に嫁娶の所に、一両年立ちて此の事起り、南坊より断ありて一所に上方へ同道す。哀なりける事共多かりけり。鈴木孫左衛門其の外余宗に替る者共は其の分に成りにけり。金沢の甚右衛門坂の下にばてれん有りて、是も南坊と一所に上方へ送られ、吉利支丹でいうすの根は絶えにける。慶長十九年三月下旬に、京都へ吉利支丹共上着し、板倉周防守請取りて西国へ送らるゝとぞ聞えける。然るに寛永の初、鈴木孫左衛門は江戸定詰にて金沢より引越し罷越し、重ねて吉利支丹御吟味の時、孫左衛門内心はころばざる由加州にて訴人有之、江戸より被召寄、魚津にて上下七人御成敗仰付らる。金沢に沢都と云ふ座頭夫婦、鈴木孫左衛門懇意也。其の外十人計所々より吉利支丹とて来り、泉野に座頭夫婦磔にかけ、残る者共首をはねて獄門に掛けさせられ、夫より此の宗旨の種は加州に絶えにけり。

 
 
慶長十九年の春の頃より、北国高岡の肥前守利長公、例ならぬ御心地にて、金沢の医師等さしつどひ、御療治御油断なかりけれども、次第々々に重らせ給ふ。金沢より利光公を初め奉り、御一門其の外人持・物頭等高岡に相詰め御機嫌を奉伺といへ共、御快気の御心もましまさず。御遺言夫々に被仰置、五月廿日卯の刻に、御年五十三歳にて終に御逝去被成けり。北の御方を初め奉り、上下の歎き言語に絶し奉る。金沢より宝円寺伴翁和尚被召寄、御葬送あり。御戒名瑞龍院殿贈亜相聖山英賢大居士と号し奉る。御菩提所御建立有りて、則ち瑞龍寺と名付け、毎月の御命日には利光公金沢より御参詣の事なれば、高岡衆は別して勤の隙を考へ参詣怠る事なし。北の御方も御ぐしおろさせ給ひて、御小袖の色も替へさせ給ひければ、玉泉院殿と号し奉り、頓て金沢へ御引越被成、当分横山大膳屋敷へ入らせられ、大膳は下屋敷住居也。西の丸に新宅を御造営有りて、秋中の頃御移り、玉泉院様丸と名付けたり。
 
 
同年六月上旬の事なるに、江戸にて芳春院殿はつく物を案じ見給ふに、今は利光の代也、利長空敷成り給へば、我等江戸に相詰めて詮もなし。利光の母上是にましませば、我等には御暇被下候へと言上の所に、御尤の由上意にて、公儀より伝馬・人足被仰渡、御発駕を急がせ給ひ、六月中旬高岡へ着かせ給ひて、金沢へ御案内有りければ、人持・物頭御用人共、利光公の御使者進上物道中せきあふばかりに御馳走あり。十日計高岡に御逗留ありて、御霊前に於て恩愛の御子離別愁傷の御涙にむせばせ給へば、御供の女中一度に啼立て、今更聞伝へ高岡中の人民共声をばかりに歎きけり。御涙諸共に香をもり花をさゝげ御回向ありて、頓て御発駕、金沢の御本丸に入らせ給ふ。其の内に二の丸に御屋形をあらたに御造営ありて、八月上旬に御移徒あり。御本丸より御慰の為にとて、音曲諸芸の検校・ごぜなど被遣、日々夜々の御馳走は、山海の珍物を山の如くに上げさせ給ふ。御一門中数多ましませ共、女ならねば御目見も成り難く、唯御進物上げて御機嫌伺ひ奉る。村井飛駅内室・宇喜多中納言殿御後室などは御娘子達の御事也、申すに及ばず。小身者の中にては土肥左京母末森殿・藤田八郎兵衛内室・山田道伴の後室杯は、日々夜々に御次まで相詰め、尾張以来の御物語共申上げ慰め奉る。御本丸にて御前様・玉泉院様御座被成ば、御城中賑やかなる事申すに不及、町方山里に至るまで、御用繁く相詰る者共の暫時の間に富家となり、千秋万歳の寿のみにて、非人と云ふ事更になき世と聞えけり。才川・浅野河原にて芝居を初め、をどり子・あやつり品々の見物場を立て、折々御城へ被召呼、吉松が立舞、あみだのむねわり、牛王の姫などいふ浄るり也。別して浄瑠璃姫の十二段、此の時分専ら盛に時行けれオープンアクセス NDLJP:84ば、山里までも口ずさみ、はやり歌にも、つゝじつばきは山の端を照す城の女中衆は極楽橋を照すと、声々に諷ひければ、御繁昌なる事おして知るべし。目出度かりける御代なりけり。
 
 
利長公の御部屋住より、御奉公申上げつる人々寄合ひ物語致しけるは、乍憚此の殿様御心も短慮におはしまし、物事被仰出御意の下より埒明けざれば相応し奉らず、喧嘩は両成敗と大御所より御定被成けれ共、理非に依つて御助け被成、姓系図の御構ひなく武勇たくましきを御取立て召仕はる。第一御身軽く御持なし、さのみ華麗を御好みなく、奥深くましまさず、和光同塵の結縁を施し給ふ故、上下しんたいひとしく、世のならはしもやすくして、下々の申分も御聞き被成ければ、皆難有奉存る。別して不思議なる事は、常に御舟をすかせ給ふに、いかなる難風といへ共、御座舟出づるに忽ち順風にぞ成りにける。徃来の旅人も御上下の便を待ち、肥前様風とて仰ぎ奉る。不思議成る御事とぞ申しける。利長公は永禄五年の御誕生にて、尾張にて御成長被成、天正三年に越前府中へ利家公と御一所に御越し、同八年に能登御拝領の時、信長公の姫君を利長公へ御縁辺也。同十一年に石川・河北御加増の時利長公松任に御入城也。同十四年に越中三郡御加増の時、利長公守山に御入城也。文禄三年まで前後九年の間に新川郡御加増也。其の時富山の城へ御出で、慶長四年まで前後六年也。此の年又金沢へ御入城同十一年に富山へ御隠居、同十四年高岡へ所替被成、六年の間御在世、同十九年五月廿日御逝去被成ける。
 
 
去る慶長三年に太閤御他界ありて、家康公・利家公御後見にて、秀頼公六歳に成給ふより御預り也。同四年に利家公逝去也。同五年に石田謀叛にて、秀頼方の頼になさる侍共悉く死罪・流罪に被成。去れ共秀頼御幼少なれば御構なく、同八年に秀忠公の姫君を秀頼公へ御嫁娶也。其の年家康公将軍の宣旨を蒙り給ふ。同十年に秀忠公将軍の院宣を蒙り給ふ。同十一年と十二年の間に、駿河の府中と武蔵の江戸に、御城を築かせ給ひ、江戸・駿河の両御所と号し奉り、日々夜々に御威光普く弥増り、天下の諸侯崇敬せらる。秀頼公には御家来の知行のみにして、御台所入りの御知行もなく、万事不自由に御暮しなりけれ共、太閤より相伝る金銀諸道具有之ければ、其の余慶を以てとやかくと月日を送り給へ共、公家・武家・寺社・町人等に至るまで、江戸・駿河こそはもてはやしもせめ、大坂は唯物さびしきのみ也。然れ共秀頼公は、我が成長の後は天下を持つべき身なる物をと思召し、江戸・駿河をば底心にうとみ果てさせ給ふ。両御所は又将軍たる上は、秀頼も江戸へ参覲などもせられて、諸事下知をも伺ひ給ふべき物なるを、疎意の仕合は我々に野心を立てんとの分別ならんと推量被成おはします。既に秀忠公と秀頼公の御中不和にならせ給ふにより、駿河の御所より大坂へ飛脚被遣、渡辺内蔵介母正栄と、大野修理母大蔵局並に片桐市正まで被召寄ける。大坂には何事の子細ぞやと無心許思召すに付き、三人に宜様に取りつくろひ可申上旨、秀頼公も御母公も仰渡さる。三人畏りて駿河の府中に着きけれ共、家康公御不例にて、二ケ月逗留の後被召出御対面ありて被仰渡けるは、秀頼若輩故家臣共野心を企つると思ふ也。いかんとなれば秀忠を疎意にせらるゝのみならず、大仏鐘の銘にも将軍調伏の詞あり。最前石田反逆にも一味せらる。其の時埓を明けさせ可申処に、幼少の義なればと存じ、其の上太閤のひとへに頼むとの事故に哀憐を施し置き、縁者にもなし、以来は取立て、一廉の国所領をも可宛行と存ずる所に、還りて反逆の事沙汰の限り也。但し市正など取立の儀にては無之哉、汝等所存申上候へと仰出さる。何れも謹みて何とも不申上得。重ねて上意には、先づ宿所へ帰り追て可申上旨被仰、奥深く入らせ給ひけり。毎日御振舞昼夜の御馳走申すばかりなし。両人の尼公は市正に申しけるは、太閤御他界の刻別けて其の元を頼み居給ふ事なれば、御為可致人外になし、宜被仰上候へと再三申すに付き、重ねて市正登城して、いか様共御諚の趣諫言を加へ可申旨申上げければ、其の方指図を申上候へ、其の儀に随ひて可被仰出旨上意也。市正重ねて申上げるは、乍恐愚案に奉存候所は、秀頼公の御母公を人質に在江戸被仰付、其の上に秀頼公は国替など被仰付可然候はんやと申上げれば、御次の人々、扨々市正殿被仰上様御尤の儀かなと申しける。扨上聞に達しければ、いか様共両様の内秀頼勝手次第に仕るオープンアクセス NDLJP:85べし。汝は京都板倉方へ用事の儀有之とて、一日逗留にて名物の御脇指を頂戴す。両尼は先へ御暇被下罷立ち、大坂にも着きければ、両尼は御母公の御前へ参り、声を上げて泣き口説く。扨情なき御事也、御母公は人質に在江戸被成、秀頼公は国替可被成談合に市正申談じ罷越す。頼む木の本に雨洩りて、市正心替りの事なればいかゞならせ給ふべきと申上げければ、御母公も諸共に倒れ伏してぞ泣き給ふ。然る所に片桐市正罷登り、右の趣を申上ぐる。弥々両尼申上ぐる所偽りなしとて、大野修理・木村長門守・渡辺内蔵介を使者として織田常真へ被遣、市正反逆前代未聞の次第也、早々刑罰可被成旨被仰遣所に、常真被申は、市正刑罸の上は両御所を敵に引請け給ふべし。然れば天下を敵に請け、何として御運を開かるべき。両尼など女の智恵を用ひ給ふ事笑止千万也。唯いか様共関東へ御随ひ、御静謐に和睦被成候はゞ、以来は又目出度おはしますべきと、理を尽し被申けれ共、秀頼公一円御同心なく、運を天に任せ、先づ市正を刑罰可有とひしめき給へば、市正息主膳諸共に五百余騎を引具し、大坂を立退き茨木城に引籠る。夫より大坂中さわぎ出し上を下へ返しける。扨大坂の城へは、籠城の用意として金銀を取出し、諸浪人共を呼寄せ、五畿内近国の兵粮等を買入れ、武具品々の用意、砦の城々昼夜をかけて作り、関東勢の寄せ来るを待居たり。
 
 
大野修理亮・同信濃守・同主馬・渡辺内蔵介・小出播磨守・織田有楽斎・同上野介・伊藤丹波守・福屋飛騨守・堀図書・後藤又兵衛・木村長門守・同主計頭・細川讃岐守・中嶋式部少輔・青木民部少輔・同主水正・藤掛土佐守・木村対馬守・速水甲斐守・同美作守・佐々木宮内少輔・伊藤美作守・山口伊予守・長曽我部宮内少輔・生駒図書・村井右近・野々村豊前守・吉田玄蕃頭・木村豊前守・黒川対馬守・佐藤主計頭・別所蔵人・津川左近・津田監物・平塚左助・野々村伊予守・真野豊後守・竹田永翁、真嶋玄蕃頭・山川帯刀・三原石見守・薄田隼人・明石掃部介・長与五郎・真田左衛門佐・岡部大学・塙団右衛門・井上小左衛門・伊木七郎左衛門・佐久間蔵人・松浦左京・神保出羽守・滝川儀太夫・今木源右衛門・結城雅楽助・渡辺数馬・松浦弥左衛門・萩田藤五郎・下方市左衛門・上田兵部・三上外記・羽柴河内守・石川肥後守・大野道犬・松岡図書・仙石宗也・伊丹因幡守・山名左馬・生駒宮内、此の人々は一国一郡の大将物頭たるべき歴々也。此の外彼是六万余騎とぞ聞えける。大坂の城と申すは、西は海、北は川、東はふけ、一方陸地にて一片の雲の如く、外には大堀・柵・逆茂木、土手の上は八寸角にて塀を振廻し、矢挟間・鉄炮挟間数千万、咸陽宮と申す共是には過ぎじ。日本一の名城なれば、六十余州押寄せて多年経る共落し難しと、皆々頼母敷思ひ、請取々々に大筒を仕かけ、勇み進んで備へたり。
 
 
京・伏見より江戸・駿河へ聞えければ、将軍御出馬可被成とて、十月十一日に秀忠公江戸御進発、同廿三日駿河より家康公御出馬と相触れて、御供へ召加はる国郡の大名物頭には、尾張宰相・同常陸介・徳川三河守・松平下総守・松平武蔵守・同筑前守・同三河守・同隠岐守・同越中守・同土佐守・同宮内少輔・同周防守・同出雲守・同出羽守・同伊豆守・同阿波守・同左衛門尉・同甲斐守・同丹後守・酒井雅楽頭・同左衛門尉・同讃岐守・同越中守・同出羽守・同宮内少輔・同摂津守・本多下野守・同佐渡守・同美濃守・同周防守・同縫殿之介・同大隅守・同豊後守・同出雲守・同左京・同平八・同下総守・本多三弥・同信濃守・同美濃守・同中務大輔・嶋津大隅守・伊達陸奥守・同遠江守・毛利長門守・細川越中守・黒田右衛門佐・同市正・福嶋左衛門尉・同信濃守・同兵部・同加賀守・同備後守・池田武蔵守・同左衛門尉・同越後守・上杉喜平次・佐竹修理亮・加藤肥後守・同左馬之介・同式部少輔・同右近・藤堂和泉守・浅野但馬守・同采女・鍋嶋信濃守・同備後守・寺沢志摩守・堀尾山城守・蜂須賀阿波守・京極若狭守・同丹後守・森右近大輔・井伊掃部頭・同監物・榊原遠江守・生駒讃岐守・金森飛騨守・桑山伊賀守・同左衛門佐・石川主殿頭・小笠原右近将監・同信濃守・同兵部・同能登守・稲葉美濃守・同彦六・阿部備中守・牧野豊後守・同駿河守・同飛騨守・安藤対馬守・大久保相模守・脇坂中務少輔・同淡路守・戸田左門・立花左近将監・永井右近大輔・同信濃守・土井大炊頭・同出羽守・水野日向守・鳥井左京亮・堀丹後守・内藤帯刀・水野谷伊勢守・板倉豊後守・奥田三郎右衛門・竹中伊豆守・松下石見守・秋田城之介・稲垣淡路守・奥平美作守・九鬼長門守・大須賀出羽守・吉田大オープンアクセス NDLJP:86膳・一柳監物・仙石兵部・真田河内守・新庄越前守・市橋下総守・菅沼織部・伊藤修理・土岐山城守・西尾豊後守・原田丹後守・分部左京・徳永左馬之介・石寺長門守・羽柴右近、関主馬・伊幸多伊予守・根津庄九郎・森伊勢守・六郷兵庫・相馬大膳亮・木下右衛門佐・小出大和守・同信濃守・石川伊豆守・阿部備中守・能勢伊予守・池田備後守・南部山城守・近藤石見守・千賀孫兵衛・小浜久太郎・青山伯耆守・井上半九郎・中川内膳・水野監物・松浦肥前守・岡部美濃守・秋月長門守・高橋右近・三浦志摩守・近藤対馬守・向井将監・長谷川主膳・花房志摩守・片桐市正・同主膳、此の外御馬廻・御小姓・物頭五百石より一万石までの人々数不知、思ひの出立、天もかゞやく行列、中々筆にも及び難く、都合有増三十万騎に余りけり。慶長十九年十一月十五日家康公二条の城より御立ありて、伏見の城へ入らせられ、十六日には又大和法隆寺へ御陣をすゑられ、十七日には摂州住吉へ御着あり。秀忠公は平岡へ懸り、平野に御着。十八日大御所天王寺に御着陣、御軍配を御定あり。諸将めいの家の紋幕・旗を風に翻し、白雲万里にたな引き、芳野の桜満々と咲乱れたるが如し。
 
 
利光公は、十月上旬に江戸御発駕、同十日越中境に御着の所、江戸より飛脚到来し、大坂へ早々御出勢可有旨の御事なれば、急ぎ申の刻に境を御立ち、十一日に金沢へ御入城、中二日御逗留にて、其の内御触状ありて軍役を御定め、先手の人数は十三日に金沢を発足す。利光公十四日に早や御出陣とぞ聞えける。金沢城代には奥村伊予守永福入道快心、小松城代前田対馬守長種人道源峯、大正持津田遠江重久入道道空並に近藤大和、越中魚津は青山佐渡、今石動笹嶋豊前、富山津田刑部、七尾三輪藤兵衛・大井久兵衛、各々与力余多被附置。
 
 
武者奉行        松平伯耆康定・水野内匠

旗奉行         富永勘解由左衛門・大塚壱岐

翌年旗奉行       岩田内蔵助・井上勘左衛門

御馬廻左備組頭     浅加左馬・江守半兵衛

  旗赤く扣黒、左といふ字白く。

御馬廻左備組頭     岩田勘右衛門・不破源六

  旗赤く扣黄、左といふ字白く。

同           滝川玄蕃・大西金右衛門

  旗赤く扣白黒半づゝ、左といふ字白く。

同右備         不破壱岐・吉田頼母

  旗赤く扣白朱丸、右といふ字白く。

同           高畠五郎兵衛・板坂市右衛門

  旗赤く扣白段々、右といふ字白く。

同           一色主膳・平野弥次右衛門

  旗赤く扣白黒筋段々、右といふ字白く。

惣馬廻腰指物金の小旗長五尺幅壱尺。

翌卯の年は少し馬廻組頭替りけり。

平野弥次右衛門・滝与右衛門・吉田頼母・江守半兵衛・岩田勘右衛門・河池才右衛門・一色主膳・山下兵庫・不破壱岐・松崎庄左衛門・大西金右衛門・長瀬主計・佐藤与三右衛門・大塚壱岐。

右十四人にて、寅・卯の年両年に違ひあり。馬廻組は猩々緋羽織也。御近所の備には小小将・中小将・大小将、紫母衣金の出し勝手次第、卯の年大小将紺の小旗長七尺、金段々に、首に左右の字を切ぬき、思ひの心印。御近所には横山山城・同大膳・同式部・石川茂平・水越縫殿・堀田平右衛門・杉江兵助・安彦左馬・平野弥次右衛門・滝与右衛門・神戸蔵人・高畠木工・三輪主水・水原清左衛門・石黒覚左衛門。

定番頭          岩田勘右衛門・富永勘解由

  馬上に弓五十張  馬上に鉄炮五十余挺

浮武者  前田七郎兵衛・浅野将監・河原兵庫・西村右馬。

卯の年は小小将百五十騎、赤繞に金の出し思ひ也。番頭には斎藤中務・堀田左兵衛・小幡宮内・多賀大炊・生駒主水・宮井太郎右衛門・行山主馬・不破忠左衛門・伴雅楽。

大小将小旗、紺地金丸七、仮名書。

番頭  篠原織部・恒川監物・田丸兵庫・荒木六兵衛・熊谷勘解由・津川外記。

使番には黒母衣、出し思ひ

成田助九郎・不破加兵衛・大野金右衛門・森権太夫・津田外記・西尾隼人・北川久兵衛・生田四郎兵衛・前田刑部・青地四郎左衛門・葛巻隼人・山森伊左衛門・帰山助右衛門・脇田帯オープンアクセス NDLJP:87刀・今井左太夫・佐藤忠兵衛・宮崎蔵人。

金のばんとり、腰指物しなへ長六尺、色紺、面々の仮名白く染入。

三栗屋伊右衛門・佐藤忠兵衛・平岩弥右衛門・柳田半助・神保主計・不破加兵衛・北川久兵衛・津田外記・伴雅楽助・宮城采女・西尾隼人・森権太夫・脇田帯刀・葛巻隼人・生田四郎兵衛・水野内匠・稲葉左近・梶川弥左衛門・林助八・古屋所左衛門・岩田勘右衛門・山森伊織・津田二郎左衛門・塩川孫作・進士作左衛門・藤田刑部・恒川監物・岩田内蔵助・林弥次右衛門・平岡志摩・河村五右衛門・滝助兵衛・中村彦助・大平左馬・後藤勘兵衛・中村弥五左衛門・片岡三右衛門・三山市兵衛・有沢采女・在山忠右衛門・山崎次郎兵衛・長井五郎右衛門・小川孫左衛門・福岡甚右衛門・笠間義兵衛・黒田久左衛門・内藤助右衛門等也。

 一本、小川笠間除之、桜井九右衛門を入る。

先陣一組、山崎閑斎・同長門・岡嶋備中・同帯刀・村井兵部・小塚淡路・安見右近・高畠左京・津田勘兵衛。足軽頭  安原隼人・藤田八郎兵衛。

一組 本多安房・長九郎左衛門・奥村摂津・成瀬内蔵・水野内匠。足軽頭 上坂因幡・安藤長左衛門。

一組 篠原出羽・富田越後・同下野・神谷信濃・奥村備後・奥野紀伊・生駒監物・奥村周防・小幡駿河。足軽頭 大橋外記・大河原助右衛門・同四郎兵衛・野村小右衛門・稲垣掃部。

一組 奥村河内・前田美作・同丹後・奥村玄蕃・神尾主殿・同図書・今枝内記・同民部・中川修理・同大隅・加藤石見。足軽頭 後藤又助・野村左馬・佐藤義兵衛・岡田隼人、富田弥五作・松田左門・才伊豆。

後殿 前田修理・同七郎兵衛・不破彦三・同彦五郎・石野讃岐・寺西若狭・大音主馬也。

   御軍役

壱万石  旗七本 馬乗二十騎 馬印一本 鉄炮三十目一挺 二十目一挺 小筒二十挺 弓五張 鑓五十本持柄共

七千石  旗六本 馬乗十四騎 馬印一本 鉄炮三十目一挺 小筒二十挺 弓四張 鑓三十五本

五千石  旗四本 馬乗十騎 馬印一本 鉄炮二十目一挺 小筒十三挺 弓二張 鑓二十五本

四千石  旗三本 馬乗六騎 鉄炮二十目一挺 小筒十挺 弓二張 鑓二十本

三千石  旗二本 馬乗四騎 鉄炮小筒八挺 弓一張 鑓十五本

二千石  旗一本 馬乗二騎 鉄炮小筒六挺 鑓十本

千石   旗一本 鉄炮小筒三挺 鑓五本

五百石  鉄炮小筒一挺 鑓三本

  右之通也。

   一本曰、加州知行御軍役

壱万石  旗七本 馬乗二十騎 小馬印一本 鉄炮二十五挺 弓五張 鑓五十本持柄共

七千石  旗五本 馬乗十四騎 小馬印一本 鉄炮十八挺 弓三張 鑓三十五本

五千石  旗三本 馬乗十騎 小馬印一本 鉄炮十三挺 弓二張 鑓二十五本

                     四千石  旗三本 馬乗六騎 鉄炮十挺 弓二張 鑓二十本

三千石  旗二本 馬乗四騎 鉄炮八挺 弓一張 鑓十五本

二千石  旗二本 馬乗二騎 鉄炮六挺 鑓十本

千石   旗一本 鉄炮三挺 鑓五本

五百石  鉄炮一挺 鑓三本

    能州・越中知行御軍役

壱万石  旗七本 馬乗十五騎 小馬印一本 鉄炮二十挺 弓五張 鑓四十本持柄共

七千石  旗五本 馬乗十五騎 小馬印一本 鉄炮十四挺 弓三張 鑓三十五本

五千石  旗三本 馬乗七騎 小馬印一本 鉄炮十挺 弓二張 鑓二十本

                                    四千石  旗三本 馬乗四騎 鉄炮八挺 弓二張 鑓十五本

三千石  旗二本 馬乗三騎 鉄炮六挺 弓一張 鑓十二本

二千石  旗一本 馬乗一騎 鉄炮四挺 鑓八本

千石   旗一本 鉄炮二挺 鑓四本

五百石  鉄炮一挺 鑓二本

オープンアクセス NDLJP:88右最前両度之就御陣、御家中諸道具何茂損申由に候条、連々可致用意旨被仰出者也。

  元和二年九月十一日

    大筒之定

二万石 五十目一挺 二十目二挺 前田対馬守長種
一万三千七百五十石 三十目一挺 二十目一挺 前田修理利好
五千五百石 二十目一挺 前田七郎兵衛利貞
五千石 二十目一挺 前田美作直知
三万三千石 五目一挺 三十目一挺 二十目一挺 長九郎左衛門連頼
五万石 五十目二挺 二十目一挺 本多安房守政重
三万石 五十目一挺 三十目一挺 二十目一挺 横山山城守長知
一万七千石 三十目一挺 二十目二挺 村井飛騨長光
一万五千六百五十石 三十目一挺 二十目一挺 篠原出羽
一万五千石 三十目一挺 二十目一挺 山崎長門長鏡
一万千石 三十目一挺 二十目一挺 富田越後
一万三千六百石 三十目一挺 二十目一挺 奥村河内守栄明
九千石 二十目二挺 神谷信濃守
一万千七百五十石 三十目一挺 二十目一挺 岡嶋備中
一万四千七百五十石 三十目一挺 二十目一挺 青山豊後
八千石 二十目二挺 松平伯耆
八千石 二十目二挺 神尾主殿
八千百二十石 二十目二挺 富田下総
一万千七百石 三十目一挺 二十目一挺 近藤甲斐
五千五百石 二十目一挺 津田和泉
七千二百五十石 三十目一挺 三輪志摩
七千石 三十目一挺 小塚淡路
七千石 三十目一挺 〈利光公の命に依て永原と改む〉 赤座土佐孝治
五千石 二十目一挺 中川宮内
五千五百石 二十目一挺 奥野紀伊
五千石 二十目一挺 横山式部
七千石 三十目一挺 寺西若狭
七千石 三十目一挺 小幡駿河
五千石 二十目一挺 高畠左京
四千五百石 二十目一挺 生駒監物
四千九百八十石 二十目一挺 奥村周防長光
六千五百石 三十目一挺 石野讃岐
六千五百石 三十目一挺 不破彦三家光
六千石 二十目一挺 今枝内記
六千石 二十目一挺 安見右近元勝
一万石 三十目一挺 成瀬内蔵助
五千五百石 二十目一挺 奥村備後易英
四千石 二十目一挺 大音主馬
四千石 二十目一挺 山下兵庫
四千石 二十目一挺 不破彦五郎
四千石 二十目一挺 玉井市正

    定

、家中長旗は赤く、扣思ひの事。

、鉄炮頭吹貫白く、紋黒く又赤く思ひの事。

、鉄炮小頭二本しなへ赤、上に紋思ひの事。

、馬廻指物金の熨斗、長五尺幅一尺の事。

、大小将地赤、金の段々、絹幅にして長七尺、左右書の事。

、中小将・小小将、紫母衣、金の出し思ひの事。

、使番黒親、金の出し思ひの事。

、馬廻頭猩々緋羽織の事。

、甲立物思ひの事。

、鑓長二間半、黒塗、先六尺金の笛巻の事。

、家中馬乗指物、並鉄炮指物、思ひの事。

 以上

    軍法定

、武者押並陣取の次第一組宛、先繰々々不入込様に可申付、備を離私として陣取散々在之族、可為越度事。

、旗本騎馬次第定置の通り不可有相違、主人下立候共右の次第馬を為引可申事。附舟渡可為同前、若猥就相交は可為曲言事。

、武者押の時脇道通り候義一切有間敷事。

、敵陣に近く先手へ為見廻相越候義、小将・馬廻後備の面々堅令停止候。惣て他の備に相交義可為曲言事。

、先手の者共並旗本の面々、我々背下知備を崩、卒爾の働仕義に付て、縦雖為高名可為曲言事。

、諸事奉行人申付義は不可有違背、自然不届の輩対奉行人及申分ば、不立入理非、其者可為越度事。

オープンアクセス NDLJP:89、為当座の使いか様の者指遣す共、不及異議可随其沙汰事。

、於陣中馬を取放においては、其主人過銭百疋可出事。

、先手頭々並旗奉行人の儀は、馬上にて可致下知事。

、浪人衆誰々によらず、他所衆当家の先手へ相加へ候事一切停止の事。

、喧嘩口論仕出輩有之者、任法度双方可成敗。若手過者於見逃は、其場に在合は可為越度事。

、御当家対御昵近衆、若致慮外者有之ば、於以来聞次第可為曲言事。

、侍・小者によらず家中走者、何れの家中に在之共、於当陣中捕候儀一切不可有之。自然曲人見届候者、主人に預置、後日に断可申事。

、於味方之地、下々迄狼藉不仕様に可申付、宿賃以下如御定可相渡事。

右之条々若違脊輩、可為曲言所如件。

   慶長十九年十月十三日

諸事御軍法被仰渡、十四日金沢御立。御先手行列は鉄炮頭。長瀬小右衛門・丹羽織部・長田市兵衛・後藤又助・野村小右衛門・石黒覚左衛門・稲垣掃部・岡田助右衛門・水越縫殿・上坂久兵衛・安彦左馬・堀田平右衛門・藤田八郎兵衛・石川茂兵衛・成田半右衛門・野村左馬・河村五右衛門・玉井頼母・後藤又右衛門・大河原助右衛門・大河原四郎兵衛・安原隼人・大橋外記・堀才之助・渡辺治部・長屋平左衛門・本庄主馬、此等段々に御供也。

鑓奉行、小幡囚獄之介。

旗奉行、大平左馬。

弓大将、吉田小左近・久田儀左衛門。

右如件。

一本、後藤某・大河原四郎兵衛除之・富田弥五作・同主計・杉江兵助等入之。且又御先手行列とは不書之、鉄炮頭と有り。

或本曰、小幡は山崎閑斎一組の鑓奉行。大平是又同組の大平是又同組の旗奉行也と云ふ。