三壺聞書巻之二十一 目録
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三壺聞書巻之二十一
慶安四年には将軍家光公御他界、家綱公御任官、上下御閙敷最中に、加州利常公の御屋形も漸く出来して、御家中の長屋長屋も端々に立ちければ、町家より何れも追々に移りけり。利常公も利次公の御屋形に八月迄御座被成、二十一日には御移徙にてありければ、会所原田又右衛門・青木権右衛門・高田勘右衛門も新造の会所へ出座也。佃源太左衛門を被召、馬場の頭に長屋を建て、供廻りの者共を入可申旨被仰出。畏りて罷立、地形等を申付け、今枝民部へ足軽小頭を以て申しけるは、貴公の御入候御家は、先年滝野若狭に御物師共一所に作事被仰付、女中の家に候所に御拝領被成御人ある儀御尤也。惣廻りの長屋は、御料理人・御細工人・御歩などの長屋也。明日は取こぼち馬場へ取寄建申候間、御内衆を何方へか御出し候へと申遣す。民部は俄の事也、家来共何方へ可遣様もなし、此の長屋は其の儘指置可被申由被申遣所に、佃承り、滝野家こそ御拝領可有に、長屋の儀は其の儀不承、是非に取り可申由申遣し、翌日の未明に足軽五十人・御小人五十人申渡し、今枝長屋こほちに遣す所に、足軽ども其の由民部へ案内す。民部聞きて暫く待て、御意を得てこそとて、やがて古市左近を以て被申上所に、御意には、佃源太左衛門申す趣尤也。只今民部に長屋を被下也。指置可申旨、山本伊兵衛を以て源太左衛門に被仰下。佃承り、御意の上には、其の新宅なり共可被遣旨申上げて、別に取立て、御供中を入れにけり。此の佃はいかなる御縁やあらん、申上ぐる事一つとして御意に不応と云ふ事なし。時に依りて御意を返す事もありけれ共、猶御機嫌に応じけり。抑此の佃源太左衛門は、伊勢の六根と云ふ所にて、昔織田信雄卿に仕へ申す佃治部と云ふ者の子也。伯父は岩城の内藤帯刀殿に居住す。源太郎と申す時、利長公へ大橋九郎兵衛寄子にて、御鷹師に被召置、十八石被下、越中へ御隠居の時分迄御下行取也。三十六俵を九十三匁に払ひ、作と云ふ草履取、与作と云ふ小者両人にて、妻子も不持、金沢より高岡の御代まで相勤め、いつも紙衣にて御
【 NDLJP:162】前を徘徊す。或時高岡にて傍輩を切りて立退く者を、佃追懸けて其の敵を討留むる。比類なき手柄仕たる由利長公の御意ありて、五十石御加増知拝領致しけり。其の後銭湯の風呂屋に入り、高岡町人白銀屋左次と云ふ者と風呂にて口論致し雑言申合せ、源太郎かいげを以て左次が面を多くたゝきけり。左次無念に思ひ、風呂より上り、兄弟鴨嶋の町端に刀と棒を持ち、源太郎を待請け、覚えたるかと打つて懸る。さつしたりと云ふ儘に、抜合ひたゝき合ひ、左次が片こびんを切りて落す。弟是を見て、兄を打たせてのがすべきかと以てひらいて刀を打懸けたり。源太郎心得たりと請け流し、右のかいなを打落し、少しうつぶき、左にて刀を取る所を弱腰半分筋違ひて打伏せ、何国共なく立退きけら。相手は佃と隠れなし。町奉行団七兵衛・杉本覚之丞は、神尾図書・横山山城守両人に、源太郎を御成敗被仰付候様にと精をもむ。利長公仰には、宜敷計らひ候へと御意にて、佃には御内意ありて小松へ立退き、美作殿に隠れ在りける。町奉行の申分も爾々と御返事もなかりければ、扨は御赦免と心得て、重ねて其の沙汰もなかりけり。日数五十日も立ちて、小松より御詫言にて相済み、罷出で御奉公申上げにけり。其の後佃召仕の女の腹に娘一人あり。御城の女中方に仕はる。いまだ幼少なる故に御耳に立ち、御前をも走廻る折節、利長公御覧じて、汝が父源太郎は何をするや、頃日見えぬと御意ありければ、美作様へ御見舞に参り、早や五日程になり申す由申上げゝれば、扨々にくき奴哉、遠所へ断なしに行く事こそ大罪なれ、御成敗と思召せ共、御取立者の事なれば追放と被仰出、飛脚を以て呼寄せ、大橋九郎兵衛被申渡。畏りて候とて越後をさしてはせ行き、上総殿御犬引才次郎の弟に才兵衛有之と聞及び、彼を頼みて引込みけるに、才兵衛申しけるは、唐犬一疋才覚しておはしませ、頓て在付き給ふべしと云ひければ、心得たりと高岡へ夜通しに来り、御犬引才次郎方へ行き相談致しければ、才次郎夫こそ安けれと、生田四郎兵衛へ行き、しかじかの事を語りければ、四郎兵衛能くこそ申来れりと、御唐犬の内にて殊に秘蔵の犬を銀子を添へてあたへけり。佃此の犬を引きて越後へ行き、太閤の信長公へ直訴の事を思ひ出し、上総殿御鷹野より御帰の節、道の脇に犬引きて畏る。あれは誰ぞと御尋也。佃承り、高岡浪人にて御座候、被召抱被下候はゞ難有可奉存由申上ぐる。頓て被召置、御礼に唐犬を指上ぐる。よき犬を上げたりとて、其の晩百五十石の御折紙を頂戴す。其の年の蔵返しを取りて、明くる春出頭致しける所に、早や利長公の御耳に立ちて、慶長十七年の暮に越後へ御使者被遣、佃を被召寄二百石被下ける。寛永六年秀忠公御下屋敷御成とて、三年かけて御作事御普請等相続ぐ。此の源太郎諸事才覚なる故、御調物材木・釘・石・あら物等吟味す。御普請成就の後、二百石御加増にて四百石になり、夫より佃源太左衛門と云ふ。去れ共利常公は大かた源太郎と被召けり。夫より毎年五十石・百石宛の御加増にて、玉泉院様丸御普請の時七百五十石になり、御持筒足軽共吟味役、江戸にて足軽其の外御小人等迄裁許被仰付、諸事御意に応じければ、二百五十石御加増にて千石に被成けり。扨犬千代様御飼鳥の交籠出来の時、後藤木工左衛門材木の買手也。折々利常公へ御意を得んとて御下屋敷へ参り、佃に伺ひける時、殿の御意に入らんと思はれば、女房のいばりをする如く、裏へ廻る様なる御心持と思はれよと語り、御次の間にて荒木六兵衛と将棊をさすあひごとにも、殿の御意の様に、女房のいばりして裏へ廻る将棊の手やといつも云はれたり。或時金沢より役人代りとて、人持組・御馬廻の役人江戸へ来着す。本多房州より源太左衛門に、書状と筒鱈五本音信ありければ、其の返礼に中納言様御機嫌能く、小ねらのぬか返す様なり。御作事と御露地の普請に、拙者なども隙無御座御事に候。扨思召寄り御音信忝奉存候。併し先年大橋市右衛門承りにて誓紙を上げ申す前書の文言に、殿より拝領の外何方からも物を貰ふなと慥に覚申候故、返上仕候。則ち御役人中へ渡し進候間、御請取可被下と書送りたり。其の外種々興ある事共有之といへ共略せしむ。
同年笹田太右衛門・村田長助・栗山太右衛門と申す者三人、秋田・酒田・大石田へ御用ありて被遣。江戸へ罷帰りて言上する所に、御機嫌に応じ拝領物など被仰付、加州へ御用被仰渡御返し被成けり。金沢にて江守半兵衛・堀与左衛門を上奉行にて、右三人に足軽十五人被下、石川・河北両郡の内
【 NDLJP:163】難渋の在々を野廻りして耕作被仰付、作食・農具・人馬の入用被相渡、御取立被成所に、立毛の地をつゞまやかにして、江・堀・野毛・石塚等も発開し、寸地も損毛無之様に致させ申す所に、過分の未進等出来すべき道理なし。其の年の風俗を他にくらべて見る所に、作毛倍して見えければ、其の翌年よりも多羅尾寺村九郎左衛門・嶋尻村刑部・嶋の次郎左衛門・戸出村又右衛門・二塚の又兵衛、其の外三ケ国の年寄りたる長百姓どもに奉行人を立て被仰渡、段々に作食を被相渡、五・三年の内には御分国一統の御改作とぞなりにける。誠に難有被成様かなと、武士も百姓も忝く奉存、誠を尽し業々を勤めければ、農人といへ共義の道あるにや、未進毛頭仕ざるのみならず、分限相応に高物成を全うして、未進隠田私曲の申分なかりけり。
慶安四年の秋より、会所原田又右衛門・青木権右衛門は御免ありて金沢へ被指遣、青山織部・村兵助会所へ出座也。其の翌年の春会所にて、勤の次第御聞被成、寺岡与兵衛・杉本九右衛門・岩本善右衛門、其の外清水八郎右衛門に御知行百石宛被下ける。同五年の四月下旬には、小松へ御発駕被為成、信州丹波嶋柳嶋六左衛門方に御休みにて、道中道橋掃除、御馳走の方々へ御進物被遣、信州松代の城主水野大和守殿へは八講布十疋被遣。御使者は高槻勘兵衛也。御口上を承り、小払奉行山田弥五左衛門・木村弥兵衛に、白布を包ませ熨斗添へて渡され候へ、請取可申旨申達す。弥五左衛門承り、此の方は小払と御進物品々取込に候間、夫にて紙を御請取り、坊主共に包ませ御越候へと云ふ。高槻聞きて、我等はあなたへ参り御口上申達す役儀也。其の方包みて渡せと云ふ。弥五左衛門聞きて仰尤に候へ共、江戸・小松などにては左様に致し候へ共、爰は旅宿の御事也、紙は御右筆の所にあり、のしは御台所にあり、請取りて包ませ御持参あれと云ふ。高槻聞きて、扨々合点のわるき男哉、たわけ者共也と云ひ捨て御次へ入る所を、木村弥兵衛聞兼ねて、いかに勘兵衛殿何と宣ふとて、脇指抜き追懸る。藤懸宗句夫に在合ひて木村を抱留めたり。宗句脇指に手障りて少し疵付き血を流す。去れ共木村に脇指さゝせて押留め、御耳にも立つまじき所に、宗句を御前へ召さるゝ由津田内蔵助承りて呼び被申ければ、手のあかを拭ひ包みけるまゝ、是非に不及御耳に立ち、竹田市三郎・津田内蔵助・奥村因幡などに被仰渡、中直りさせ可申由にて、両人を呼寄せ、中直りの盃を取かはし致し事済みにけり。去れ共木村弥兵衛心とけやらず、道中所々にて心懸けゝれ共、勘兵衛運や強かりけん、何の異儀もなく越後・越中の境へ八つ時分御着にて、何れも宿々に休足す。卯月晦日七つ半時頃の事なるに、大橋又兵衛奉行にて杉浦仁右衛門を被指添、木村弥兵衛を御本陣へ被召、両人被申渡は、今度丹波嶋にて他国と云ひ、我儘なる仕合せ御近所をも憚らず上を恐れぬ所也。切腹可仕旨被仰出。我も人も士は加様の事ある物也、男道の事なれば弥兵衛可為満足といはれし時、弥兵衛承り、御尤の次第也、高槻勘兵衛は如何と尋申しければ、大橋曰く、勘兵衛も被仰付間心易く思はれよとて、杉浦・大橋・木村三人同道して木村が宿所へ被参けり。折節河合弥助は大筒の鉄炮の望にて、言上仕り加州へ下る。木村・山田に指加りて同役なり。弥五左衛門河合弥助に申しけるは、御用ありて召されなば、此の弥五左衛門こそ可被召寄に、弥兵衛召さるゝ事無心許儘参りて見んとて出でにけり。十間計にて弥兵衛に行逢ひければ、木村はいかに弥五殿、拙者は被仰付候也、不及是非、我れ四十に余り五十に及ぶ、今幾程ありても別に替る事あらじと宿へ行き、行水致し、大橋殿に申上度事御座候、父方へ書状を遣し度しと申しければ、夫程の間は安き事、状を寛々と調へられよとて宿の後さゑん場に縁取敷並べ、何れも着座して待居たり。木村は親の方へ書状一通、娘の事を申遣す。妻女の方へ名残の文通傍輩中へ連判借銀の事一通、三通事念頃に書納め、敷皮の代に木綿ぶとんに着座して、自我偈一巻読上げ、拙者いまだ切腹の法をしらず、先年日夏市郎右衛門切腹の時少見て候、手際不調法なるべし、介錯は誰人ぞと尋ねければ、大橋被申は、我に替らぬ家来にて松永宗左衛門を申付けたり、能く心得て仕れと云ふ。畏りて宗左衛門は左の脇に畏る。弥兵衛申しけるは、同じくは高槻一所に被仰付下候へ、一目見て一同に仕度しと云ふ。大橋被申は、具足を肩に懸けぬ法もあり、毛頭偽はなし、定めて早や事済可申といはれければ、御老躰の御誓言疑ひなし、勘兵衛が様子
【 NDLJP:164】無心許奉存由申す所に、長谷川庄太夫参りければ、木村急度見て、如何に庄太、勘兵衛はいかゞと尋ねければ、勘兵衛ははや埒明けて是へ参りたる由申しければ、弥兵衛聞きて、あら嬉しや更は長谷川殿、去年より御式台にて毎日咄し、只今御目に懸る事三世の奇縁也。其の方介錯頼入る由申しければ、庄太夫辞退す。大橋は頼に候間庄太夫仕れとありければ、畏りて候とて弓手の脇に畏る。宮崎豊左衛門か渡辺七左衛門か村山五郎兵衛か、三人の内一人にても逢ひたけれども見得ずとて、脇指をいたゞき心元に立つるど、長谷川抜打に致しける。大橋被申は、高槻は閉門にて、はや小松へ罷越也。木村に空誓文して聞かせ安堵致させたり。何れも向後は仕も遂げざるそら喧嘩は無益也とて、何れも宿々へ引入りけり。木村弥兵衛父は木村宗右衛門とて、前田重丸の家老也。せがれを山崎長門与力に被召出、江戸御供にて参りけり。父の宗右衛門法躰して寺へ引込み申すなり。根本此の申分は山田弥五左衛門仕出しけれ共、弥兵衛にゆづりて構はざりけるを能き思案とぞ申しける。翌年御参覲の節善光寺の渡し場にて、高槻は長谷川庄太夫乗りたる舟に荷物をのせまじきとて争ひければ、長谷川申しけるは、いかに勘兵衛殿、木村弥兵衛と此の庄太夫は違ふべし。余りおごり給ひなば、庄太夫命塵よりも軽し、同道申さんと云ひければ、高槻少しもかまはず脇へ参りけるを、おとなしきと是も人皆ほめにけり。
慶安五年の十月改元ありて承応元年と云ふ。今度江戸より御帰りの節、御大工伊右衛門を山崎へ被遣、遠州指図の数寄屋を指図被仰付、御大工八右衛門を南都へ被遣、利休指図の数寄屋をうつさせ、直に上方より小松へ帰着す。此の二つの数寄屋を、九里覚右衛門と山本清三郎に被仰付、其の年秋中かけて作らせらる。御横目に篠原大学を被仰渡、作事毎日見廻り申さるゝ。利常公毎日御出被成、山崎松屋源三郎数寄屋と遠州座敷と申しけり。其の時山本清三郎に百石の御加増にて二百五十石になり、御小将組に被仰付也。
同年十月上旬の頃、小松にて侍屋敷に明家あり。是は子細ありて跡目なし。然る故にたや番に、いやしき侘人ありてうかれ女を置き、町人共四・五人出入して酒宴を催す。近所の者是を見て、人集めする事憎き仕合とて、幾度もしかりけれ共事ともせず。見れば町人見えつると、源太夫に申しけれ共其改めもなし。結局源太夫はいはれざる吟味哉とあざむく由を聞きて、近所の者共腹を立て、頓て書付を以て言上す。利常公聞召し、殊の外なる御立腹にて、浅野藤左衛門に被仰渡、町人同類共四・五人捕へて籠舎被仰付、岡嶋兵庫・平岡志摩に被仰渡、家財闕所をなし封を付け、御吟味の所に、町人共広田源太夫も兼ねて存知の所にて、私共いたづらに出合を仕るに候はず、たや番は日傭すぎの者なれば折々雇仕申候。又日傭を頼度時分は、此の者余人を雇ひくれ候故目をかけ申候由申上ぐる。浅野藤左衛門は終に左様の出合仕る事不存由被申上、広田源太夫は藤左衛門殿へ申入れたる由申上ぐる。色々御吟味の所に、広田源太夫は町中よりまひなひを取り不吟味する由御聞に達し、にくき仕合也とて源太夫父子切腹被仰付。たや番人御追放にて、町人共何れも小松にて歴々なる者なれば、出頭衆より宜しく被仰上けるにや、頓て御赦免被仰付けり。此の広田源太夫事、町中より銀子十枚宛の合力銀を被下、さして分際もなき奉公人にて、町人といへ共歴々の者共を家来同事のあひしらひ、脇より見ての見苦しさ。然れ共町人は猶以て頭を地に付け馬鹿慇懃にうやまひけり。成程位高に覚え横柄なれば、町人共うやまふと心得て、おごりの致す所也と憎まぬ者はなかりけり。
同年大聖寺にて在々所々五人・七人の同類にて夜盗に入り、家内の者をしばり置きて取りて出づるもあり。切殺し取りて行くもあり。御吟味ありて捕へんとすれ共知れざりけり。或時下栗津村の肝煎方へ押入りて切殺し、家に火をかけ立退きにけり。又或時潮津村の肝煎兵左衛門所へ七人忍び入る所を、亭主心得たりと起上り、来国光の二尺八寸是にあり、一人もあます間敷とて、刀を抜きて出でければ退散して見えざりけり。或時江戸詰の足軽家へ乱入り、女と子供二人切殺し、家の内に埋めて家財を引きまるげ取りて行く。玉井市正・織田左近其の外の人々、憎き次第也、いか
【 NDLJP:165】にもしてあらはさんと日々夜々の談合の所に、下粟津村の百姓其の焼込の夜に人影を見て、大聖寺へ跡を付け入り見てあれば、渡辺八右衛門預りの足軽町へ入ると見届け、覚束なくは思へ共、卒度家老中へ内通す。渡辺八右衛門内に馬捕に耳の聞えぬ者あり。三年耳ふさがりて更に物を聞く事なし。此の者常に人々の言葉を聞けば、預り足軽共いたづらすると思入りて、猶耳聞えぬ躰也けり。盗人共二・三人寄合ひて、彼足軽の宿へ馬捕を連れ行き、道具を持たせて来りけり。猶仲間はしらぬ躰にて、何を預けて置きたるやとしらぬ躰にもてなし、是は大事なるべしと俄に耳明になりて、八右衛門に密に品々の事を告知らせ、此の三年の間耳つぶし罷在といへ共、誠の耳聾にて候はず。夫故言葉の末を聞請けて委細に申上ぐる由申しければ、八右衛門能くこそ知らせたれ、猶耳をつぶし居よとしばし思案せらるゝ所へ、家老中より召に付き登城し、相談を聞き、我等に御任せ候へとて宿へ帰り、大将とかしづく戸沢長右衛門と云ふ足軽を居間まで呼び、爰へ近くよれ御用可申渡とて、近々と呼びければ、足軽は脇刺をぬき傍に置き側へ寄る所を、八右衛門押へて縄を掛け、奥の露地へ連行き、柱にくゝり付け置き、又中林弥七郎を右の通にして搦捕り、同所にくゝり付け置き、四人まで捕へ、又二人は式台に帳と十露盤を置き勘定してありけるを押伏せ、手分けしてからめ取り、六人の内に成長の子供二人、是も家々にて搦捕り、十九人籠舎させ御吟味被仰付所に、一々白状に及ぶ。然る所に潮津村兵左衛門所へ入りたる事を物語す。急ぎ兵左衛門を召呼ばる。兵左衛門心に思ひけるは、先年金物・土の物に古き道具あらば早々可被召上との御触也。来国光の御尋かと恐しながら罷上りけるに、夜盗の事を尋ねらる。いかにも盗人申す通りに御座候、則ち其の国光の刀を差上げ申すとて指上ぐる。手柄を致し盗人を追返す事無比類次第也、刀を上ぐる代として銀子五十枚被下て帰りけり。扨九人の夜盗共、下口の山際に並べて火罪に被仰付、幼少の男子を盗人共の目の前にて首を打ち、親どもに投付けゝれば、其の首を抱へ黒焼になつて死しけり。夫より盗賊少しもなく、御領国の者共心易く臥しにけり。其の翌年は利治公御勝手御不如意に付きて、中納言様へ御意を得させ給ひて、一万五千石分金沢へ被召返、人々は玉井市正・織田織部・由比五兵衛・水越三右衛門・杉若九左衛門・平野源左衛門・水野内匠・長屋五郎右衛門・同源右衛門・毛利又助・渡辺八右衛門也。綱利公より扶助なし被下、忠勤油断なかりけり。
承応二年の春は利常公御参覲也。如例年御上屋敷にて御膳被召上御登城被成、方々への御進物、御使者数人馬代土産を毎日持参、日々夜々の御振舞限なし。六月二十三日午の刻に内裏炎焼して、類火の公家衆数多也。施薬院・菊亭殿・炉庵老・烏丸殿・日野中納言殿・毘沙門堂門跡・中山中将、其の外町家数百軒也。追付き天下より御造営被仰付、翌年夏御移徒也。其の年の秋天子崩御ならせられ、中年一年過ぎて、明暦二年正月花町親王御即位、当今とぞ申し奉りけり。
承応三年正月十二日犬千代様御年十一歳にて加賀守四位少将に御任官被為成、利常公と御同道にて御登城被成、口宣の御書御頂戴ありて、公方様より来国次の御腰物御拝領被成、御上屋敷にて御一門・御出入衆千秋万歳の御祝儀万々の後、神田の御屋敷へ入らせられ、御一門・御出入衆不残御来駕、京都の役者も相詰めたり。五々三の御振舞の上に御酒盛になり、役者立ちて仕舞を仕る。御代を治め給ふ事一万八千歳とかやと御祝言半時分、蓬萊山の御盃台を利常公より加賀守様へ進ぜらる。其の時太郎作正宗の御腰物、愛染国俊の御脇指を、岡田将監披露にて御頂戴被成、富山侍従利次公より来国行御腰物、安芸侍従光晟公より二字国俊、弾正大弼光広公より長谷部国重を進ぜらる。少将様より公方様へ粟田口国安、中納言様へ一文字、利次公へ新藤五国広、安芸守様へ長吉、弾正様へ二字国俊、何れも御脇指を進ぜらる。利常公より公方様へ備前秀光の御脇指に御樽肴添へて上げさせらる。今枝民部を始め、其の日御上屋敷に在合ふ人々、御歩行算用人まで御振舞被下。此の頃まで御幼君にてましますに、斯く御成長被成、此の御祝儀に逢ひ奉る事誠以て難有奉存けり。夫より中三年過ぎて、万治元年十二月二十七日に正四位中将に任ぜられ、将軍家の御諱の字被進、綱利公と申し奉る。千秋万歳万々歳と上下押なべ悦び奉る。
【 NDLJP:166】
承応三年には利常公小松へ御帰城被成、御領分中の高・物成と御印を御改め、御郡中へ書きあたへらる。然る所に御歩行多田権内と云ふ者は、利常公御幼少より被召仕、守山・小松にて御奉公を勤めし故、金沢御在城の時縁を御ゆるし被成、随分御前もよかりけり。年寄りて病死の時せがれを権内に被成、長谷川大学・小林豊右衛門・瀬川五郎兵衛会所の時、留書致させ可申旨被仰渡、会所に罷在る。妹二人ありて半藤三太郎・上田半左衛門に妻合す。又権内舅は御歩行伊藤喜兵衛也。然るに権内あてめもなく、岡本小左衛門払付の御城米を妹聟に連判致させ借用して、御取立の時分になりければ御耳に立ち、御催促の上に迷惑可被仰付と兼ねて心得、欠落をぞ致しける。妹聟共年々の御下行を以て沙汰仕るべくと、唯両人の迷惑とて何の子細もなかりけり。然るに権内越前より忍びて小松海老町の茶屋に隠れ、存知の大工助三郎を招き、舅の喜兵衛方におのれが妻女あるを、其妹一人添へて盗み出させ、二人の女を連れて別宮より山越えに越前へ行きけり。半藤三太郎・上田半左衛門密に聞きて喜兵衛方へ参り、娘共を尋ねけれ共在合はず。両人是は大事と心得て、頓て言上す。然らば伊藤喜兵衛・せがれの七左衛門両人拷問可被仰付とありし時、私共も娘の行方不存候。爰に大工助三郎と申す者、権内別懇の者にて御座候、此の者無心許奉存旨申上ぐる。則ち助三郎を召寄せ、大橋又兵衛・金子権右衛門・山本清三郎吟味せらるゝ所に、大工助三郎夫婦の談合にて、海老町の不閑坊所を中宿にして女子共を盗出し、権内に相渡す由白状に及ぶ。伊藤喜兵衛父子を山崎長門に御預け、大工は籠舎也。伊藤喜兵衛に悪女の娘あり。年長けて夫なし。それ故に腰引の不閑坊主にとらせて、海老町の端に茶屋を致しありけるが、何れも権内と相談の所也。果して伊藤父子・大工夫婦御成敗被成けり。此の不閑坊と云ふ坊主、幼少の時元和の頃禅龍寺の弟子にて、学文能く致し春蔵主と云ふ。寛永の初の頃宮腰に寺を建て達磨寺と云ふ。半狂人の短気者にて寺を持損じ、能美郡吉竹村にて道場坊主へ聟入し、一向坊主になりにけり。其の時江戸より吉利支丹に指し来るに依りて江戸へ被呼寄、御公儀へ出で拷問せらるゝ。其の時腰の骨折れて腰引になりける。去れ共吉利支丹にてなき旨言ひのがれ、光高公の御前へ被召出、祖師西来の意を語りければ、弁口坊主のよし御意ありて加州へ御返し被成けり。御隠居の時分小松にて其村に居て、あなたこなたを口たゝき、一日暮しにありけるが、伊藤が聟になり、世界をのがれて黄泉に入る。扨権内は、女共を越前の三国にて傾城に売りて世渡る由取沙汰しけれ共、重ねて御かまひもなかりけり。父権内が忠功の事共を思召すにやと、諸人泪を流し難有存じけり。半藤喜助・上田半左衛門は、近頃まで連判を補ひ、無足の勤致しける。
明暦元年二月二十四日は、玉泉院殿三十三回御忌に当らせ給へば、其の前年玉泉寺屋敷替被仰付、三千歩の地面を被下、御寺御建立。殊更天神堂を第一に御造営ありて、其の祥月には御法事被仰付御執行ありて、利常公も小松より御参詣被成、金沢老中寺に相詰め、御門の外まで御迎に被出、御目見せられけり。
明暦元年三月中旬に利常公江戸へ御参覲被成、綱利公も御母君も御対面にて、例年の如く御登城並に諸方御勤等相済みけり。然る所に清泰院様より利常公へ、白山の社御建立被成度由被仰遣に付き、金沢老中へ被仰人、寺社破損奉行人に御大工横江太郎兵衛被相添、白山へ被遣指図を究め、尾添の者杣取申付、材木等も切寄せ御用意ありしに、越前の領村牛首の者共、十六ケ村の名主牛首の藤兵衛大将として何れも罷出で、加州より此の社御建立の謂なし。是は越前の社なれば、中々其の方よりいろふ事思ひも不寄と争論に及ぶ。尾添の者共は十六ケ村を打絶やし社を建てんと云ふ。いやまて暫し、下にて埒の明く事不可有と、奉行人・御扶持人・大工其の儘捨置き、金沢へ帰りて其の通り老中へ申上ぐる。又尾添村より何れら金沢へ参り、私共に御任せ被成、御存知なき躰に被仰付被下候へ。十六ケ村の奴原を悉く打亡し、此の方存分に達し可申旨訴へ申しければ、老中怒りて、にくき奴原の詮議哉、下として申分仕る者有之ば、悉く礫に懸けんと被申ければ、無是非山へ帰り、はがみをなして居たりける。かゝる所に越前伊予守殿
【 NDLJP:167】江戸より帰国にて、追付き使者を以て金沢老中への口上の一紙左の如し。
為御立願今度越前国白山社頭御造営可被成由に付、人夫少々登山旨、所之者申来候。左候はゞ此方へ可有御断儀如何と存内に、越前守御暇被下就帰国申達候へば、御立願とある上は、何れの国の社頭造営も可有之事歟。然共古来より国之守護修覆申来儀、其上今度従公儀御預領之事に候へば、左様之儀越前守年若にて難心得候間、寺社奉行へ相断、無子細可為造営筈に候はゞ、幸杣取牛首・風嵐之者仕来、遷宮平泉寺賢聖院執行之儀、前々より例に候へば、所之者申付、人足等御馳走可申由越前守申候間、左様に可被仰上候、以上
七月三日 本多内蔵助
狛伊勢守
有賀小右衛門
加州御老中
右の通り口上書小松まで持参す。小松にて老中は金沢に罷在り、中納言殿は在江戸也、是より御返札可申とて使者を越前へ返し、夫より金沢老中へ紙面を達す。披見せられて披見せられて返事なくては叶ふまじきとて。
一筆令啓達候。先日小松迄御使者被指越候へ共、金沢に罷在、御使者へも不懸御目候。然ば白山建立之儀に付被仰越之通、委細承届申候。社頭破損仕候間致建立度之由、尾添村百姓共申故、其分に申付候。惣て御隣国之儀に候之条、境目等之出入無之様にと中納言依被申付、此度も尾添村百姓共申分御座候へ共、聞入不申候。寺社御奉行衆へ御尋可有之由、其段如何様共御勝手次第に存候へ。弥造営可仕儀に候へば、自是御相談可申入候条、可預其御心得候、恐々謹言
七月二十日 奥村因幡
小幡宮内
長九郎左衛門
津田玄蕃
前田対馬
本多内蔵助様
狛伊勢守様
有賀小右衛門様
如斯返札を遣し、江戸へ言上に及ぶ。利常公聞召し、公方様いまだ御幼少也、越前・加賀両人も若年也。我れ今程年寄りて上様を大事と存ずる上に、いかゞ申分致すべけんや。以後上様御成長の時何とぞ可被仰渡とて、其の後事止みにけり。十六ケ村の者と尾添村の者、徒に雑言申合ひて暮しける。伝へ聞く、白山権現と申し奉るは、養老年中越前の山里に泰澄大師と云ふ行者ありて、六根清浄の窓の前に即時観其音声皆得解脱の香を薫し、一心三観の月に心をすます折節に、東山の頂上四時雪不絶、四方山の高根をすそに帯びたる高山に紫雪たな引き、雲中に大日の梵形あらはれて幾度も拝し奉る。いか様霊神の鎮座と思ひ、或時山によぢ登り白根の麓を徘徊す。老翁一人忽然と来現す。いか成る人ぞと問ひ給へば、翁答へて言ふ此の頂上に天照大神の玉母鎮座ありて、垂跡を大日如来の尊像にうつす、北国擁護の霊神也。我は此の山の大行事にて、天照大神第二の神素戔鳴尊の第一神大己貴命也。檜新宮に居住して、大権現を守護し奉る也と語りて、虚空に飛行せしむ。泰澄難有奇異の思ひをなし、金胎弥陀の尊像を鋳奉り、大社を建立して安置し奉る。近衛院の御宇紹興年中に、比叡山の末社として天台山に白山を勧請す。四時雪降、山徒難儀に及ぶ。山是を歎き、白山権現を毎年一度宛比叡山に来迎の日を定め、其の外は白山に住し給ふ故に、山門に客人の宮と号す。右開闢の時節は、日本大八州とて、越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡まで一州也。其の後三十三国に分ちて、猶越前と加賀は一国也。又其後六十六ケ国に別れてより、越前・加賀両国になる。泰澄大師は越前北の庄岡部の安澄が子也。又越前・加賀・美濃三ケ国のちまたに白山ありて、三国より参詣の輩は国々の室堂に一宿す。何れと更に弁へ難し。加様の儀を越前の者共根として年々争ひ止む事なし。中納言利常公の真実将軍の御為を大事と思召し、物毎に其御心ざし深ければ、此の時何の申分もなし。剰へ吉崎の鹿嶋山を、年々材木生茂り北国無双の景也けるを、越前より伐絶す。むかし尊氏の御時、加賀・越前の者鹿嶋の争ありしに、越前者の申分に、加賀の鹿嶋の儀に付き訴訟申上る由伝奏の前にて申しければ、則加賀の鹿嶋たるべき旨勅宣を【 NDLJP:168】蒙ると云伝へけるに、御幼少の事なればとて何のかまひもなしと聞えけり。然る後寛文初の頃、浅加左平太為御用在京の時、下白山の長吏の坊上洛し、伝奏衆へ申達す。浅加取持に依りて旱速叡聞に達し、白山禅定の別当職を給り、綸旨を頂戴して加州へ帰着す。依りて白山大社を再建の儀申上ぐる。今は越前に申分あるまじきと又造営に及ぶ。猶十六ケ村の者共疑義に及んでなり難し。此の時江戸御老中の御沙汰となり、寛文八年十月上使として、江戸より杉田九郎兵衛白山見立として来駕せらる。加州より津田宇右衛門・佐藤助左衛門・松原八郎左衛門・橋本治部左衛門・林十左衛門登山致し、山の躰を見廻し、とかく白山禅定は三国のちまた也、何方と可定様なし。此の山を公儀へ可被召上と極りければ、尾添村は白山の麓にて、山畠も山のすそ野也、依りて白山に付けて被召上。扨越前領分は、先年三河守秀康公越前拝領ありて三子あり。惣領は一伯殿也。則ち福井に在城。二男伊予守は越後上総殿跡高田へ入城也。三男但馬守は今に大野に在城也。其の後一伯殿流刑せられ、子息仙千代殿越後へ、又伊予殿は越前へ入りかはる。此の伊予殿に四子あり。惣領越前殿は今の福井に在城、二男中務殿松岡に、三男大和殿勝山に、四串兵部殿吉江に各居城の所に、大和守殿を播州姫路へ被遣、其の跡三万石御公領たりしに、伊予守殿先年江戸にて御成の御用意とて、日本無双の作事等ありて、其の時御手前不如意に付き、当分勝山御拝借の地也。此の度可被召上間、左様に御心得可被成と、越前衆へ被申渡。殊更白山近辺に瀬戸・女原・釜谷・風嵐・須納谷・嶋・牛首・鴇ケ谷・二口・五味嶋也。荒谷・尾添の二ケ村は加州領分也。彼是御公領に相定り、牛首の藤兵衛を追放し、扨加州領尾添・荒谷の代りとして、近江国海津浦にて相渡る。津田字右衛門・松原八郎左衛門・佐藤助左衛門・越中嶋村の九郎兵衛を召具し、各海津に居けり。大津の御代官小野惣左衛門、其の外麦屋の源次・今津の甚右衛門何れも海津に来着す。海津は東町・中村町・名古地町とて三ケ村の所也。何れも望み有之に付き、鬮取に極めて中村町ぞ渡りける。則ち其の町にて岩松彦左衛門を肝煎に被申渡、中村町百七十石の裁許也。東町の内に松屋孫兵衛とて、先年より利常公の御登米の御蔵を御預置被成。此の者此の度住居の町と願ひけれ共、鬮取にて他領になり、一入残念理り也。扨尾添の湯を、自今以後中宮の湯と申しけり。
明暦二年三月二十九日越中富山騒動あり。此の起りを尋ぬるに、松平淡路守利次公は随分児小将を御吟味被成被召出。何れおろかはなけれ共、別けて梶原左内・橋本主殿両人は御寵愛御念頃に被召仕、漸く成長して二十歳計になる頃、速水助之丞とて勝れたる美少年、続いて御寵愛の児小将也。彼と梶原左内密通して無二の入魂也。其の頃橋本主殿は惣御目付の役を勤めけり。又歩行目付に上田市之丞、是も児小将目付也。此の者最前左内召仕ひ取立て、御歩行に出しけり。明暦二年二月下旬の頃、梶原・速水は念頃致し忍び逢ふ由、御目付中の目に余り御家中に隠なし。歩行目付の上田思ふ様、我れ左内殿の恩を得たり。然ればとて主命を背く事是別けての大罪也。とやせんかくやと分別弁へ難くして、橋本主殿に語りければ、橋本聞きて、汝は左内取立也。我等も一所に出で、別して無他事思ふ也。暫く先づ御聞に達する事無用の由、散々にしかりけり。上田是を聞き、主殿被申所去る事なれ共、主命に背く事勿躰なし。若し他より御耳に立つならば、何れも同罪の身になるべしと、頓て書付を調へ、利次公へ指上ぐる。利次公いかゞ御思案被成けん、何とも不被仰出。其の内に誰云ふともなしに、橋本主殿より御耳に立てける由方々に沙汰せり。左内も助之丞も、何とやらん御前踈々敷なりければ、両人共に思ふ様、扨は主殿注進に及ぶ事疑ひなしと、又主殿を恨みけり。主殿夢にも不知して、此の者共我を恨む不思議哉、とかく穏便に難成しと、或時書付を以て言上す。定めて上田市之丞方より御耳に立可申候、梶原・速水密通紛無御座旨言上す。利次公聞召し、左内を被召寄、両目付の書付を左内に被下、汝不届と思へ共、我れ随分取立て用事共申付けたり。小松には他国者召置く事堅く御制度被成けるに、夫を用ひず唯今汝等を申付くる者ならば、我目違の所外聞も悪し。此の度は赦免す、以後嗜み可申由被仰渡ければ、梶原先づ有難旨御礼申上げ、御前を退出致しけり。梶原は老母一人有之て、妻子はいまだなかりけり。左内母に近付き云ふ様は、我れ君命を背き御目をくらまし、早や御耳にも
【 NDLJP:169】立ちければ、彼の訴人共打殺し自害可仕と存候間、母上は京都へ送り可申候、御用意あれと申しければ、母聞きて、京都とは何事ぞ、武士の家左様の事なきにあらず。我も一所に敵の助太刀打ちて、共に自害せんに何の苦労のあるべき。早々智畧をめぐらせとありしかば、梶原忝く奉存所也。二十九日の昼より、秋山志摩方へ主殿と私を中直りの振舞と極めければ、夫れ前に家内の埒を明けんとぞ申しける。扨召仕の男女共に衣類金銀をあたへ、宿へ休みに遣し、直にあけひ山・二上山・大岩の参詣を可仕由申渡し、何れも悦び罷出づる。扨彼の上田市之丞を呼寄せ、御掃除の坊主林清と、速水助之丞と左内家来上坂治右衛門と三人申合せ、市之丞に菓子酒をすゝめ、左内申しけるは、市之丞今度我等儀を注進す、其の返礼申さん、覚悟致せと云ひもあへず、取々に縄を懸け、手々にのみ・槌・鋸・錐・小刀にてなぶり殺しに致し、つらの皮をはぎ台所の庭へ投出し、左内は早九つ時分にもなりければ、秋山方へ参らんと母上に暇を乞ひ、家来治右衛門に仕廻の事申付け、速水助之丞・林清に万事頼申す也、さらばと云ひて暇乞ひ、左内は志摩方へぞ参りける。扨三人の者共は、最早左内は秋山方へ行着き被申べし。いざ母上覚悟ましませと、小脇指を参らせければ、母は脇指請取り、各能く仕舞可申由にて心元に突立てければ、速水とゞめをさし、茶の間の炉に能くしたゝめ、炭四・五俵うつしかけ、四方より火を吹付け、大かた姿も替る頃、いざ治右衛門は左内に案内申せとて、両人に暇を乞ひ、松山方へ参りけり。助之丞・林清は残り留りて、最早治右衛門秋山方へ行着かん、いざや家に火をかけんと、松明に火を付け、詰り詰りにもやし付けゝれば、五百五十石の身代に過ぎたる家の事なれば、夥敷焼上る。やれ火事よと富山中上を下へと返しける。秋山方へは梶原・橋本並に御歩行大森五兵衛、諸国無双の小歌の名人、彼を加へ振舞過ぎ、互に心打解け以来猶念頃たるべしと、大酒盛になつて心をゆるす折節、左内家来上坂治右衛門御目に懸り度旨申して式台へ来る。左内立出で聞きければ、仕廻の様子を申し、定めて跡に火を懸け可申と云ふ時、左内心得たりと座敷へ入り、主殿を脇へ呼立て、今度の一巻堪忍難成しと、抜打に切りければ、主殿抜合す間なく、三刀に切伏せらる。其の音に座敷騒立ち、上を下へと返しける、其の隙に左内は切腹す。治右衛門介錯致しけり。秋山聞きて飛出し、其の外在合ふ者共打出で治右衛門を切殺せり。かゝる所に、やれ御城こそ火事よと呼はる程に、万事を捨て御城へ登り見れば、御城には何事もなく、左内宅にて、皆々火本へ走りけり。左内宿所には、中庭に酒樽二つならべ、杓を立て門を閉ぢ、近辺へ寄る者をば、内より速水・林清鑓・長刀の鞘をはづし、上下をきらはず突伏せ切倒し、酒を呑んでは息を継ぎ、来れば突落しなぎ伏せ、死人九人手負十二人とぞ聞えける。富田右衛門給人一人馬上より突落され、御歩行松井清右衛門も討たれたり。火も鎮り人も来らず。速水と林清は指ちがへてぞ果てにける。後に御吟味ありて林清一類六・七人御成敗被仰付。左内は五百五十石、主殿は六百石、速水は百五十石、何れも他国者ども也。古今稀なる富山中の騒動、諸人目を驚かす所也。
明暦二年の秋、綱利公の御母君清泰院様御違例にて、医術の法は誠に天下を動かし、祈願宿願残る所なしといへ共、天上の五衰遁れ難く、御年三十歳にして九月二十三日終に御遠行被成ける。御果報天下に並びなき御事なれ共、十九歳にて恩愛の御別れに御心を痛ませられ、誠に千行の御悲み御命も危き程なれ共、忘れ形見の若君御成長の程を、二葉の松の千代かけて見まほしく思召しける御心の中こそ御痛はしければ、上下万民の愁歎筆にも尽し難く、御召仕の女中方唯生残りたる命をうらむる外はなし。御遺骸を金棺に納め奉り、伝通院へ移し奉る。一七日の御法事には、千部の御経読誦にて大法会を執行あり。御諡号を清泰院殿法誉性栄大姉と号し奉る。御召仕の女中何れもさまを替へらるゝ。中にも今井・松村・岩崎は公方様・天樹院様・高田様への御使等被勤ければ、しばし其の儘勤めらる。御局永順・寿斎其の外の人々、御屋敷に新宅被仰付移り、伝通院の御影堂の御前へ日々の参詣、哀なりける事共也。扨小松には、先年越前の高瀬より知識を被召寄有之けるに、清泰院様御為に俄に寺を造立被仰付、瑞鳳寺と号し、則ち十月二十八日は三十五日に当らせ給ひて、金沢・小松の知識被召寄、御法事御執行被仰付。中納言様御参詣の御事なれば、金沢よ
【 NDLJP:170】り老中不残参詣、別けて奥村因幡・津田玄蕃初中後の惣奉行にて、諸事裁許被相勤。後に至りて卯辰山如来寺を小立野へ引越し、御寺・御影堂金銀をちりばめ御造営被成、何れも不怠参詣也。此の如来寺事は、台徳院様の御位牌を立てさせられ、御崇敬の筋目なれば、御菩提所とぞ被成ける。
明暦三年には、小松掛橋の河端に天満天神堂を御建立被成。御本尊は忝くも菅相丞の御自筆に遊ばし置き給ひけるを御求めありて、久々御秘蔵被成置、山本弥次右衛門を御使として京都にて表具被仰付、此の堂に安置せられけり。御大工山上善右衛門に指図被仰付、善尽し美尽し御造営被成。成就の時松・梅・桜の植木共、並に神前金灯籠其の外の具足共、思ひ思ひに御家中より寄進あり。柴山内記・生駒三九郎に被仰出、寄進の品々帳面に記し御覧に入れ奉る。京都北野に於て歌道の宗匠といはれし能観・能順・能説とて父子三人被召寄、御移徙に連歌百韵相済み、則ち能順沙門を被召置、別当に被仰付、掛橋村にて百石の社領を付け、月次の連歌料に三十石被宛行、御家の祖神なれば、御子孫栄久の棟札を千岳和尚に被仰付。其の言に曰く。
謹上再拝敬啓。加越能三州使君者。忝辱北野天満天神之玄孫。依是。於加陽新府。択地潔処。而新建管君社居社主。加之。又営玉楼金殿之寺。召能順行者為看司。恰表太宰府中観世音寺乎。至矣。尽矣。于然遷宮三日以前。条忽而就予見請立柱上梁札。依国命難忍。不及椰検作俚語之文。而充于社棟札。更不畏菅神之霊鑑。不憚世俗之人口。一筆句下者也。越庶幾。愛憐似比丘短才不敏。垂照鑑矣。
銘曰
能美故郡 加陽新府 懸橋之北
安宅之東 相地潔処 建社河深
迺是菅君宗廟 𪧨其松氏守宮
柱徹黄土 棟聳碧空
神徳為霊験 流如矢月如弓
神影為清操 松自青梅自紅
寺臨水際 殿並境中
希願人満足 恭敬衆盈豊
戴之則如有冥顕 仰之則尊無始終
所庶幾者
要衛蘭菊花盛 必依檀信節崇
更冀
国家安泰 仏法紹隆
壌不割雨 条不鳴風
明暦三丁酉春二月二十三日
大功徳主
加越能三州使君中納言従三位兼行肥前守菅原朝臣利常
大工入唐自横山喜春十七代山上善右衛門尉喜広
前三住妙心現伝灯千岳宗似謹誌焉
定光古仏止火偈云
寄語宋旡忌 火光速入地
家有王癸神 日酒四海水
現伝灯千岳叟謹誌焉