三壺聞書/巻之二十二

 
三壺聞書巻之二十二 目録
 
御天守台の事 三二七
追腹衆の事 三三一
脇田猪之助事 三三六
御遺物の事 三三七
 
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三壺聞書巻之二十二
 
 
 
明暦三年正月十八日・十九日相続きて、江戸大火事不珍といへ共、末世の物語のため書記す。丁酉の年正月十八日辰の一天に乾の風烈敷、微塵を有頂天に吹挙げて人の面も見え分かざる折節、本郷四丁目に本妙寺と云ふ日蓮宗の寺より火を出し、黒煙中天に巻上てその中に猛火の火花紅の雪をちらす。湯嶋六丁焼払ひ、旅籠町へ懸る火、堀の内駿河台にて佐竹義信・永井信濃守・松平下総守其の外屋形を一度に焼立て、鷹匠町・大名小路・鎌倉河岸へ取つて出で、一石橋・さや町より牧野佐渡守・小浜民部・町奉行・同心、並に八町堀の御舟蔵、松平越前守大屋形を一面に火の山となして、幾千万人の男女火難を遁れんと足に任せて押す程に、霊巌寺へ押して行く。然るに霊厳寺の本堂にもえ付き、詰り詰りの小寺・僧堂に猛火もえ上り、一切衆生今は早や海の中を心懸け水にひたる事幾千万、伽藍の猛火熾になつて、五尺・三尺の火の盤石を投打つ如く、首より下は水にひたし、あたまは火にこがし、水火の二つにて責めければ、死する者一万人とぞ聞えける。海を越えて佃嶋・石川大隅守、其の外在家悉く塵も不残焼払ふ。其の日も未申の刻には西風弥々烈くして、神田明神・皆善寺より堀丹波守・吉田備中守、村松町より柳原・和泉橋焼通り、須田町の火は一面に通町へ飛行き、誓願寺より焼分かれ、西本願寺へ行く程に本堂にもえ付きて、爰にて江戸町中の家財共山の如く積置きて、人山となりてありけるに、家財も人も煙の中に埋もれて猛火になり、塵も不残失せにけり。本町の火は伝馬町にも付きしかば、数万の人爰は退き口能しと、葛籠・長持・衣類等を持かつぎ、浅草さして押行きける。爰にて牢屋御奉行の石出帯刀、牢の戸を開き罪人共を出しつゝ、何方へも落行きて、命あらば火鎮り浅草辺に集れと申付けて放しける。立つにもたゝれず、留るによしなし。漸く火花の中を行く程に、火静り下谷に集り、石出帯刀を尋出して逢ひければ、帯刀も奇特に思ひ、御老中へ申上ぐる。御老中是を聞給ひ、罪人といへ共義の道はありけるよと、皆悉く助けられ、国々所々へ退散す。今度の火事に罪人共は助けられ、善人共は火罪にあひ、我と猛火に責めらるゝ不思議さよとぞ申しける。江戸中男女浅草口へ押す程にいかなる天魔の業やらん、舛形の惣門をはたと打ちて行く先なし。後よりは押し来る、先はつかへて、いやが上にふみ越えふみ越え押す程に、大門の棟木まで人山となりて積みければ、下になりし男女共、大樽桶の鰤の鮓となりて死にけり。大門の上に集る人、築地の上よりこぼれ落る橋の下へ落重りて、門より内は左右の猛火の焰に煎こがし、橋の上下に落重る人は火炎にこがれ、数千万人大門の内外にて死に畢ぬ。柳原の火誓願寺前なる大名屋形一軒も不残、本誓願寺・知足院百余ケ所の大伽藍、一度に火の山となり、伝馬町の火と一手になり同道して、舛形の内灰さへも不残、元の河原になりにけり。其の夜の九つ時分には、御米蔵共悉く焼けゝれば、蔵の影に隠れ居る男女共、爰にて数万人焼死す、其の火深川新田にもえ付き、在家不残灰となり、河水田畠のみ残りけり。
 
 
明くれば十九日焼跡を金銀尋ぬる者もあり。親・兄弟・子供の死骸尋ぬる人もあり。皆散々になりしもの、ちなみちなみより赤飯・樽肴・食粥などを持つどひ、焼屋敷にて喰ふもあり。焼残りたる家のかげ、屋形屋形の門の下市を立て集り、食物をいとなみ、古金道具売買して持運ぶもあり。され共大風烈しくして、地煙は人の面も見分け難き折節、伝通院表門大番衆与力の者火を出す。黒雲一通りに立てこめて闇夜の如くなりければ、当座は火事共不知、いつもの事と思ひけるに、吉祥寺の学寮共にもえ付き、火花は三十町四方に吹ちらす、水戸中納言御屋形は一面に火の山となり、本鷹匠町・天寿院殿・両典厩、御天守・二三の丸を初として、松平綱利公の御屋形、松平伊豆守・土井・水野・本多内記・酒井摂津守・藤堂大学・小笠原・安藤・土屋、彼是十五ケ所の大名屋形、常盤橋内外、鍛冶橋の内大名衆、数寄屋橋の内にて、南北都合七十二ケ所の屋形屋形灰も不残なりにけり。綱利公は、神田・牛込両所の屋敷より多勢来て、追々に神田へ引連れ来るもあり。牛込へ引取るもあり。人は一人も損せずして、綱利公御馬に召し、大軍引包みて常盤橋へ出させ給ふ。弓手妻手の川の中には、上界の諸仙と見えし女中達、綾羅錦繍の八オープンアクセス NDLJP:172重の袖幾千人となく泥水にひたり、さけびの音笙ひちりきの如く天地をひゞかし鳴渡り、いと哀に見る人々は胸をいたましむ。綱利公は難なく神田の御屋敷へ入り給ふ。其の日七つ時より西風となり、いよいよ強く吹く程に、紅葉山西の御丸は相残り、馬場より土手をさかひにて、やよす河岸の北南二十四町、町屋をさして押し行く火に、中橋・京橋辺の町人共、是は三十三天の諸世界の一度に火羅刹にあふ事ありと、常に談義に聴聞す。いつの事ぞと思ひしに、早や唯今の事也き。夫故にこそ談義にも只今只今と思へとはいはるれと、かゝる物うき中にも念仏題目隙もなし。鍛冶町より中橋南北三町東西二町半の内に、方々よりせまりたる人数共二万八千余人、爰にて四方の火にせめられながら、黒こげになり死にけり。夫より新橋・木挽町・水谷町、紀州・尾州の両大納言殿の蔵屋敷、奥平美作守、彼是十八ケ所の蔵屋敷一時に灰となり、鉄炮洲へ吹付けて其の日酉の刻海の辺にて火は留る。かゝる大いなる熖にも海は残ると申しけり。又申の刻に糀町五丁目より火を出す。松平出羽守・同越後守・同但馬守、山王権現と天神の社悉く焼失す。紅葉山に火の粉ども雪の如く吹懸り、あやふかりし折節、神威に恐れてや風北へ直りつゝ、西の御丸恙なし。上様を初め奉り何も是へ入らせ給ひけり。南の方の大名小路へ火花散り懸つて、井伊掃部頭・上杉弾正・毛利・伊達・嶋津・黒田・鍋嶋・南部・真田・丹羽・相馬・京極・戸沢・金森・板倉・土方・浅野・亀井・柳生・小出等、中昔より以来天下に名高うして、いらかを並べ建置きし大屋形共灰となり、西の御丸の下よりも阿部豊後守・堀田上野介・水野監物・北条・稲葉・大久保、かゝる大名の火の粉桜田町へ降懸り、愛宕の下を押行く程に、有馬・秋月・脇坂・中川・嶋津・一柳・山崎・植村・桑山・分部・大嶋・織田・佐久間、正宗の中屋敷、毛利長門守の下屋敷、吉川美濃を初として八十五ケ所の屋敷共、微塵も不残野となりぬ。桜田の火は、龍田の紅葉となつて海辺をさして吹行くは、保科肥後守下屋敷、伊達の蔵やしき、芝の浜の手都合十八ケ所、増上寺所化寮百十五ケ寺、表の門・神明堂・神楽堂・護摩堂、其の外小社共あはれ一つも残らばこそ、増上寺より南の方十町余芝口三丁目へ焼通し、爰にて潮は残りつゝ、剰へ風止みてさゞ波さへもなかりけり。増上寺権現堂並に台徳院殿御廟所、御台所の御影堂、本堂・経蔵・鐘楼・山門までは残りけり。火も鎮り、夫より河原者に被仰付、死骸共を取集めさせ、武蔵・下総の境なる牛嶋に六町四方の穴をほり、打入れ打入れ、其の死骸帳に記し見給へば十万三千人也。其の上に大塚をつき万人塚と名付け、又無縁塚と云ふ。諸宗山無縁寺回向院と申す寺を建てさせられ、増上寺より出家を居へ、諸寺の僧集り、千部の経一七日、不断念仏の道場を始められ、御弔ひ被成ける。部類眷属日々夜々の参詣、殊勝にこそは見えにけれ。火事は鎮りけれ共、江戸中に米一粒もなし。木竹一本もなかりしかば、野に伏し山にふし食物せず。寒風強く骨肉をくだき、寒林に骨を打つ霊魂、なくなく前生の業を恨むといへ共甲斐もなく、又死人幾千人出来す。夫より諸国大名衆粥を煮させて、方々にて施行あり。御城より内藤帯刀・松浦肥前守御奉行にて、日本橋・御成橋に粥を煮て毎日施行被成けり。銀子一万貫目を町人共小屋懸の御助成たり。江戸中立替り、火除等に所を放るゝ者共に、一軒に金子七十両宛、替地を添て被下けり。依之頓て本の如く町並等小屋かけて、商売隙なく致しければ、本の江戸にぞなりにける。
 
 
今度の大火事に、上様並に日本の大名・小名・町方・寺社方に年々貯置きし重宝共、幾千万共なく焼失の儀筆紙の及ぶ所にあらず。公方様御道具焼失の御帳面の其の中に、別して天下無双の御腰物・御脇刺・御太刀等は、幾万年経ても御重宝なるに、此の度世に絶えぬる事、惜敷次第哉と諸人奉存に付き、是のみ記し、せめて其銘也とも聞伝へ、末世の物語の為留置く事斯の如し。

不動国行  骨食吉光  天下一三好郷  江雪正宗  吉本郷  左文字  初雁郷  両方郷  温海貞宗

此の外二百枚内外の郷・正宗の御腰物数多なれ共略せしむ。御脇指は。

豊後藤四郎  米津藤四郎  新身藤四郎  樋口藤四郎  しのぎ藤四郎  飯塚藤四郎  北条藤四郎

此の外三百枚内外の御脇指は数しらず。御太刀には。

三好正宗天下一  対馬正宗  長銘正宗〈利常公より上らるる〉  八幡正宗  横雲正宗  道雲正宗  宗近シノギ  オープンアクセス NDLJP:173行平  青木国次  三斎国次  村雲当摩  岐阜国吉  醍醐屋国吉  蜂屋郷  北野紀新太夫 大国綱吉光  一振の影  秋田行平  主馬丸行平  宗近  大坂切刄貞宗

此の外百枚内外の御太刀数多ありといへ共畧せしむ。依之世の中に古作の道具大切になり、一倍増・八割増・五割増と段々に其の出来不出来新古に随ひ、代付折紙等も出すべき由、公儀より本阿弥家に被仰渡、何れも身を持出でたり。他の宝物は年経て朽ちくさりけれ共、金物・土物は幾世を経ても猶見るにいとまなし。上古より以来火事と云ふ事なかりせば、古物の絶えぬる事あらじと、皆人惜みあへりけり。

 
 
瑞龍院様御墓所並に寺の山門は正保三年に成就して、御寺いまだ修理不被仰付。依之山上善右衛門に被仰渡、漢土の径山寺の指図の通りを御尋ありて、御仏殿・大方丈・小方丈・衆寮・大庫裡・小庫裡・回廊・鐘楼残る所なく御造営とぞ聞えける。近藤加左衛門・市橋佐次右衛門を被遣て、惣構の堀・土手等を築廻し、寺社御奉行に御扶持人大工どもを山上下知して、申酉戌三年かけて作事漸く出来す。日本無双の職掌の伽藍とこそは見えにけれ。誠に御代を継がせ給ふ報恩謝徳の御志にて、供養執行被成事、難有しとぞ申しける。
 
 
同年三月二十一日小松御発駕、四月二日江戸御着、御登城方々御勤等例の如し。然る所に武家・寺方・町中の屋敷共此の年皆替りければ、清泰院様の牛込の御屋敷紀州様へ相渡る由にて、万ぢやうを立て勝示を指し縄張等を致す由を利常公へ注進の所に、今枝民部・塚本治左衛門を被召寄、何方より案内ありての事か、其の方共いかゞ聞きたるぞと御尋の所に、誰も不承由申上ぐる。俄に御機嫌替りて斎藤長兵衛を被召、足軽・御小人五百人計召しつれ、今日の内に家を毀ち可申由急に被仰付しかば、長兵衛は畏りて人足共引具し、御扶持人御大工等も参り、未だ家もあけずして何れも有之所へ押懸け打やぶり、大縄を付け引たふしする程に、住居のものども家財を取りのけ方々へ持はこび、子をさかさまに負ふとは加様の事なるべし。あわて騒ぐ有様は、唯今高麗陣とやらんの有るかとて、上を下へぞかへしける。然る所に塚原治左衛門登城して御老中にむかひて、たとへ清泰院様御座なくわたらせ給ふとも、中納言殿・綱利公もましませば一旦御断可有所に、御案内もなく如何の御分別に候哉。中納言殿殊の外なる御腹立、此の上には早々先づ替地を被進可然と、地をたゝき声高に申しければ、御老中も理に伏し給ひ、治左衛門宜しく御意得られ候へ、何地にても替地御望次第とありければ、其由利常公へ申上げらる。然らば駒込を御請取可被成とて、駒込にて相渡る。御近所藤堂和泉守殿屋敷につかへて少し不足ありければ、本郷の町と天沢寺をさかひ、近藤登之助殿前同心共をたゝせ可被相渡、御露地等の御普請も御数寄なれば御近所なりとて渡しける。又其の上に苗木山を御望ありて御請取り、前田帯刀殿へ御普請まで被仰付て利常公より被遣。御上屋敷は筋違の外六条本願寺の末寺屋敷を浅草にて相渡し、其の跡をば綱利公へ被相渡。此の三・四ケ所の新屋敷御普請に、江戸中の日用人足幾千万御用開敷事共推察して知るべし。筆紙の及ぶ所にあらず。依之畧せしむ。
 
 
万治元年には、御城見付の御門より、方々の橋々の御門・橋台等修理破損等造営の儀、天下の諸侯請取請取に被仰付。別して御天守台の石垣は、加州へ御頼み被成ければ、加州より郡中の人足、其の年の収納に応じ被遣、扶持方銀相渡り、五千人の都合被召寄、御家中より御入用割符して、知行高に応じ取立つる。先づ四千貫目原田又右衛門・中村新之丞・津田孫十郎・平井次郎兵衛に裁許の足軽五十人指添へ、江戸へ到着す。是れ先づ当分普請の道具品々の御用意の為とぞ聞えける。年内より御上屋敷に於て、一尺五寸廻りの五十尋・七十尋の大綱を、諸国の麻苧を買集め幾百本となく被仰付、空車ばかりを十人にてもちあつかふ。大八と云ふ物を五百輛拵へ置き、七・八寸廻りの鉄を延べたる大鍍縄を幾筋となくねらせらる。樫木を以て地車・蝉車共を数十個作り置せられ、藤葛にて大持籠数万挺出来す。鉄てこ・木てこ数万本、御普請道具の其の外に、人足以下の装束のため、いま織の羽織五百人前、だて染の帷子数千人前、手拭に至るまで美々敷拵へ置かせらる。其の外行器・オープンアクセス NDLJP:174杉重・赤飯桶・御賄の御道具・大釜・小釜、夫々に御点を合せて入用次第に用ふる也。先年大坂御普請・筋違橋度々の御普請に、天下の者共目を驚す事共也ければ、此の度も御気を配りなし置かせ給ふ。去れ共久世大和守殿御内証を以て利常公へ被仰けるは、此の大火事に世間も簡略たるべき所に、此の御普請のみならず諸国の請取丁場も数多也。美麗の御事被遊なば何方も致さるべし。然らばいくばくの費也。必ず質朴に何事も美麗がましき事御指止可被成旨被申に付き、装束等は御用にたゝざりし也。御普請場の脇に御小屋を懸けさせらる。毎日御膳被召上、利常公・綱利公丁場へ御編笠にて御出被成、もみにもんで急がせ給ふ。
 
 
惣御奉行本多安房・奥村河内・長左兵衛・奥村因幡、其の次の奉行青山織部・森川勘解由・菊池大学・津田宇右衛門、石垣為築奉行竹田市三郎・古市左近・山崎半左衛門・成瀬市正・神尾数馬、御小屋の御賄は原田又右衛門・近藤治右衛門、石は大窪忠左衛門・金子権右衛門、材木は宮崎豊左衛門、石引奉行阿部甚右衛門・森川伊織、丁場廻りは沢崎太左衛門・葛野藤太夫、裏栗石は郡勘三郎・西村六右衛門・上村八左衛門、作事奉行は奥村彦三郎、荒物奉行に料紙奉行は村田久左衛門・木村新兵衛、御扶持人御大工渡辺伊兵衛・笹田覚左衛門・横井太郎兵衛・中山甚六、其の外数年利常公御召仕の御大工中村惣左衛門を初として、左平治・治兵衛・九左衛門・八兵衛・六郎右衛門等不残相詰め勤む。先年の天守台は、慶長十一年に御城御取立の節、浅野安芸守殿請取にて伊豆石にて高さ八間半に築立てらる。此の度は御影石を以て高さ七間半に二十一間四方也。小天守の台は長さ十八間に横十二間也。石舟着きてかし端より御天守台の際まで材木・板・角物を以て底より積上げ、かすがひに付けて、登り坂にして、修羅道玉の盤を走るが如くに拵へて、七千余人の人足にて引上げ、地車にかけくり上げて築きければ、四尺・五尺の角石とても、大坂手木のはさきに懸けて、菅の小笠を扱ふ如くに見えにけり。扨利常公御召仕の石切勘七を以て惣石切の目付に被仰付、美濃屋庄次郎を大坂手木の日傭頭に御定め、未明より七時に至るまで利常公・綱利公・利治公御出ありて被仰付故に、物の見事に出来す。四千人の石切を以て台の四方に足代し、上削りを致しければ、誠に盤の面を上鉋を以て削り立てたる如く也。九月上旬には天下の修理寮木原大工頭目明にて、渡部伊兵衛・横井太郎兵衛・笹田覚左衛門・中山甚六・中村惣左衛門罷出で、すみ図をつきて相渡す。先年の天守台一尺八寸のひずみあり。此の度は一厘のひずみなし。渡部伊兵衛根石よりかねをまくと見えけるが、無双の名人也と天下の修理職誉めければ、末代までの面目也と、伊兵衛喜悦の眉を開きけり。其の時の人足共寄合ひ語りけるは、御天守の石垣共を取除けし時見てあれば、年々に佐渡の一沢より御運上の金銀とて、たばこ盆の大さなる吹ぬきの上銀何程共なく積置き、又いつの世よりの御用やらん金銀数万貫有之所に、大虹梁共を焼立て彼の金銀をとろかしければ、わき合ひて丸かしになる、五百人・七百人・五十人・七十人にてもてあつかふ中に、竹田市三郎・古市左近奉行にて千人にて引出し、御城御本丸へ引入れ置く。此の金銀わき合ひてまだらに見えて五尺・三尺の流れ懸る垂氷共有之を、釿・げんのうにて打落し、筵に包み持運ぶ、目覚しき金銀なり。砂に交る玉金は幾千万も可有之を、利常公御老中へ被仰上、つゞまやかに是を撰出す物ならば、当年中は御普請成就なり難く見えければ、御金の儀は御用として御求被成事いとやすし、皆地形堀のうづみ土に可被成旨御相談の所に、御尤の御事也、早々埋土に可被仰付とありしかば、市三郎・左近に被仰付、夫より金銀に構なく、堀の内又は地形に盛にけり。右引出したる焼金は、三の丸にて金吹数百人にて吹分け、大判・小判・丁銀になるとかや。昔より御代々に天下御普請多けれ共、加様に金銀の山を見たる事はなし。いかなれば加様に金銀多くありけると問ひければ、老功の者申しけるは、天下の金山と云ふ事も、天正の末慶長の初より国々に出来す。必ず其の国の米高直になり、運上と号して天下へ金を上げ、又国々の守護より諸役をかけて取上ぐる。箔より外に金銀の費なし。世の中に金多くなる程に、金につれて世間の華麗弥増し、只はみ物のみぞ大切になり、鰥寡孤独之に依て餓死すると語る。
 
 
万治元年七月二十六日保科肥後守正之の姫君を綱利公へ御オープンアクセス NDLJP:175嫁娶とぞ聞えける。内々将軍家より御祝儀可被仰入旨上意の所に、先年光高公公方様より御祝儀にて例悪敷なり候間、此のたびは直々に祝儀可被成旨被仰上候に付き、其の通りになりにけり。天下の諸侯より御懇の次第御馳走ありて、辻がため・長柄などを被出、芝の御屋敷より神田御屋敷まで道筋は塵を払ひ、五色の砂を敷き、美々敷御事共也。尋常の嫁娶だに貴賤群集をなす事なれば、御夫婦共に天下の御係にてましませば、諸人御馳走は理り也。行列諸役人等は記すに不及。御前様御家老として沢野十兵衛、加州より久津見忠兵衛両人を御奥方の御家老に被仰付。御料理人長谷川所右衛門を頭分として、千里六兵衛・高橋伝右衛門・大友治兵衛、御歩行に荒木久左衛門・鈴木源左衛門・伊方佐左衛門・守屋五右衛門・松本庄右衛門・小買手役し日野弥右衛門、是等芝より御供し、則ち神田に小屋を被相渡、御扶持方知行下行夫々に遣さる。御広式番人前田兵左衛門・上木半兵衛・土田作右衛門・河内山半助・寺西十蔵・嶋七左衛門御広式に伺公す。其の翌年久津見忠兵衛代人として、山口弥五兵衛加州より引越し、沢野十兵衛に相司仰付けらる。御輿入の日は綱利公は御天守の御普請所に御座被成、中納言様何事も被仰付。暮に及んで綱利公入らせられ、御祝儀職掌の次第、千秋万歳の御寿目出度かりける御事也。其の暮十二月二十七日には綱利公正四位中将に補任なさせられ、御祝儀共弥増目出度御事申す計もなかりけり。
 
 
同年利常公は、保科正之公に御意被成けるは、其の御元へ打まかせ申候へば、諸事今枝民部に被仰渡被下候様にと様にと御意候所に、正之公被仰けるは、当年は御天守台の御普請御精に被入、永々御逗留被成御苦労の御事に候。綱利殿の事は御心易く思召し、早速御帰国被成候へと御暇乞ありて、九月上旬に御発駕にて小松へ御着被成けり。金沢の老中を初め、人持・物頭・諸奉行人追々に御目見にて、御機嫌殊の外宜しき所に、二の御丸橋詰の御番所に落書仕置候旨、御目付より御聴に達しければ、俄に御機嫌替らせ給ひ、御番所御吟味にて中々厳しかりければ、其の日其の時の当番供廻り下々迄御せんさくになりて、三輪清右衛門若党の書きたるに究り、御成敗被仰付事済みにけり。夫より御機嫌直らせ給ひ、十月十二日は玄猪の御祝ひとて、例より目出度折節、伊藤内膳は御改作の御用近年相勤め、御領国の人民豊饒になり、数年の思召し立も成就し、御大慶に被思召、内膳へ御加増被仰付ければ、末代までの面目と諸人うらやむは尤也。御夜詰も過ぎ、詰衆宿々へ帰り、小夜詰になり、暫く御用共泊番衆に被仰置、奥へ入り給ひ、御用所の廊下にて御目舞の御心持にて、そこに其の儘座し給ひ、左門左門と二声御呼被成けるを、当番別所三平・武本三七走り寄り見奉れば、はや御正気ましまさず。御年六十六歳にてことたえさせ給へば、両人驚き品川左門へ人を遣わし、岡本平兵衛被召連鍼を立てまゐらする。其の内に三の御丸枇杷嶋へ触申しければ、加藤正悦・藤田道仙息継兼ねて走り来り、御脉窺ひ奉る。其の内に小松中は不残人持・児小将を初め、何れも登城せざる人はなし。金沢の老中へ飛脚到来致しければ、其の夜の内に馳来る人々数千人、所々破損御普請等御分国の浦方作業を止め、途方に暮れたる有様たとへん方はなかりけり。本多政長・横山忠次・奥村庸礼・前田孝貞・津田正忠、其の外人持衆何れも御相談ありて御遺骸を入棺ならせ給ひ、御居間に御仏檀をいとなみ、宝円寺老僧一人、小松国松寺の住持相添へ、毎日毎夜御霊供・御茶湯・香花を捧げ奉り、灯明をあげ読経して、江戸へ飛脚を上げゝれば、御返簡次第に御葬送可執行とて、鳴をしづめて待居たり。
 
 
竹田市三郎・古市左近両人は江戸に御残し被成、綱利公へ勤仕致し、御機嫌の御様子を折々注進可仕之旨被仰置ありけるが、御逝去の御飛脚江戸へ到着す。万事を捨てゝ両人は昼夜共なく馳来り、十一月十九日に小松へ帰着す。市三郎・内室は浅野大助娘にて、幼少の時父母におくれ、御城にて幼き頃より成長までそだち、市三郎へ被遣、恩愛の中也しが、武士の娘なれば心剛にして、道中迄市三郎へ飛脚遣はし、其文に。

殿様御かくれ被遊候事筆にも申葢し難き御事、御心の内同じ思ひに存奉りまゐらせ候。然れば日頃の御心がけおろかにましますまじけれども、かならず御宿へ御越候事御無用にぞんじまゐらせ候。五郎左衛門はちかむかひオープンアクセス NDLJP:176に出、御目にかゝりまゐらせ候。我身事は去年の御いとまごひより、わかれと思ひ定め候へば、今更とは存まいらせす候。其為一筆申まゐらせ候かしく。

と書きて市三郎に出あひ文をまゐらせければ、市三郎披見の後硯を乞ひ返事致さるゝ。

御文の通り、殿様の御事ことのはにも申奉るべき様は候はず。其方思し召の通りは心易思し候へ。五郎左衛門口上にいさい申入まゐらせ候。

と書とゞめ使に渡し、夫よりも両人は同道にて御城まで直に上り、御次にて人々に対面し、一期のをさめに御上下を拝領せんと、河合伝次に御召下し二具取出ださせ頂戴し、是ぞ納めの拝領と涙を流し着しつゝ、御霊前に向ひ謹みて焼香なし奉り、御次の間へ出でらるゝ。其の間に湯漬拵へ、両人にすゑければ、是もをさめの飲食也と頂戴せられ、箸を取り、何れも御暇乞申すとて、市三郎は立出で乗物に乗り、直に日蓮宗三光寺へ急ぎつゝ、敷皮になほり、我主君の同宗に罷成り、黄泉旅行の御供致すなれば以来は禅宗たるべし。今存生の内は代々の宗門なれば、是にて露命を落す也とて、懐中より辞世と見えし物取出して、三方の上に置き、何れもへ一礼して脇指取りて戴、腹十文字に切る所を、和田十郎右衛門刀を振上げ、三千世界を一刀の刄の上に滅却し、千万の妄想を一刹那に脱して大乗の身となれり。竹田氏の手際の程、東は秋田・津軽の果、西は壱岐・対馬迄取沙汰し、其のかくれなかりける。辞世に曰く。

  君恩難謝断生命  鮮血淋漓濯梵天

  四十三年閻浮夢  無明醒尽一時円

 君がいにし死出の山路の道芝も思ひきるには障らざり鳧

原三郎左衛門は、先年三十人衆百二十名にて被召出、原太左衛門養子也。然るに依りて養父の跡目は望も絶えて思ひもよらざりし所に、太左衛門死去の跡二百石被下ければ、余りの忝さに此の恩生々世々有難し、自然の儀もましまさば御供せんと思ひけり。笹田助左衛門是を聞きて、心には思ふとも口にはいはぬ広口也と制しけるが、誠に言葉を不捨していさぎよく御供致しければ、別けて諸人感じけり。堀作兵衛は先年金沢にて御能の時、永原大学幼少の時の横目に付き登城す。又或児小将衆乗物にて登城也。永原乗物を今一人の児小将の若党押しやりて、主の乗物をやらんとす。堀作兵衛彼の若党のつらを思ふさまに打たゝき、永原の乗物を先へ押立てやりにける。其の翌日彼の若党作兵衛宿へ来り打果さんとする所に、人数多ありて取りさへ、若党は宿へ帰る。其の晩に作兵衛中納言様の御耳に立ちければ、作兵衛は難有彼の主人に被仰付、件の若党御成敗被仰付。し難有し、此の御恩いつの世にかはと兼ねて思ひ定めて追腹致しけり。定めて我れ年寄りて行がけの駄賃と人々思ふべし。世に名を留めんと思ふ人々は、御年寄られ候共連立ち申さんと云ふ儘に、いさぎよく腹十文字にかき切る。吉崎由右衛門心得て、乾坤の太刀の光に分破して、名は海老町の煙と立ちにけり。古市左近は、御城にて竹田と一所に金棺に焼香仕奉り、市三郎一所に暇乞して御城を立出でけるに、富山利次公より御尋の条々有之由にて、御家来両人出向ふ。中土居の宿所へ先づ立入り様子を承らんとありければ、両人申しけるは、別の儀にては更になし、年来申談ずるの通り、加賀様御幼少に御座候所に、御恩深き祖父利常公におくれさせ給ひ、陽広院様の御別れより此の度は一入愁傷たるべし。市三郎・左近を江戸に付置被成事、利常公の御心を添ふる様に思召しての儀共也。然れば利常公の御恩を思はゞ、せめて淡路に対面まで存命せらるべしとの御使に我々罷越候上は、一時なりとも見放し申儀難成候と、左近にはなれず罷在る。左近承り、御意の通り御尤にて候、とかく可奉得拝顔と、しばし留の待居たり。左近心に思ふ様は、御供するに留まると云ふ道あらばこそ、遅速は御供になる間敷にてもなし。利次公に日頃の御よしみなれば、御目に懸り御礼等も申上げ、寛々御供致さんと即時に思定め居たりける。其の内に利次公御来駕ありければ、左近先づ畏り奉ると御請申上げゝれば、利次公も御安堵被成、町宿へ御入被成けり。左近は御葬送の御供を三宅野迄相勤め、御遺骸を国松寺へ送り奉り、焼香心静に相勤め、人々に暇乞ひ、いさぎよく追腹をぞ被遂ける。誠に尊霊御在世の御時別けて御念頃にして、此の人に非ずしてはあるへからずと也。命は義に依りて軽しと云ふ事誠なるかな。

  不堪君恵赴黄泉  遺命切遮暫時遷

オープンアクセス NDLJP:177  三十四年風一陣  吹開物外雪花天

 
 

江戸より御飛脚到来し、早速御葬送可被執行旨被仰下、能美郡三宅野に相極る。品川左門は迚も御供仕る上は遅速の是非あるべからず。正敷尊霊の五蘊皆空の仏躰を現じまします上は、我もさまをかへ、存生の内は御霊前の御灯を捧げ奉るより外はなしとて、法躰して日夜勤行不怠。其の内に高野山の常灯の火も山本弥次右衛門持参し、三宅野に火屋を立て垣を結廻し、四門を建て白土にて上ぬり、白綾の水引等其の規式残る所なく、善尽し美尽しけり。御名代の御焼香は奥村因幡に被仰付、富山侍従利次公を初め奉り、利治公御名代の焼香は神谷治部、其の外御一門老中何れも三宅野に充満す。山崎虎之助・国沢少次郎・杉江兵助・別所三平四人を四天王と名付く。御前宜しき人々なる故に、落髪して三宅野の御供役儀等相勤む。導師は宝円寺、念誦は国松寺、其の次第規式夫々に相済み、何れも下向退散也。杉本次郎左衛門・野村半兵衛夜通しに野に明かして相守る。厭離穢土欣求浄刹の御有様を見届け奉り、翌日御遺骨を霊器に納め奉り、国松寺へ入れ奉りて高野山へ御送行の御用意とぞ聞えける。斯くて品川左門は、今は思ひ置く事なし、高野山への御供を竹田市三郎・古市左近諸共に、黄泉の長き旅泊の御奉公を勤めんと、内室子供達に遺言し、枇杷嶋を今を限りと立出で、金沢へぞ赴きける。矢田治左衛門・小嶋九右衛門・岡本平兵衛・桜井左七・河口八郎兵衛、其の外不残前後左右に伴ひて、尊霊御末期の御時我を召されけれ共、御存命の御影を拝し奉らず、定めて御待ちなさるらんと、心の中に懸橋を心静かに打渡り、浜通りに輿をやる。日頃見馴し天神の石の塔を見上げつゝ、重ね上げにし塔なれど、限りありてぞ見果てぬる。行衛は北の空なれや、いつも冬には黒雲の、晴間稀なる越路かな。爰は小嶋の里なれや、海士の苫屋も程近し。名は福嶋と聞きぬれど、見ればまだらに薄雪の、消行くよりもつたなきは、有為転変の世の中と、ありし昔を思ひ出で、昔は此の山際より海辺までは七里半、板津の郷と申しつゝ、手取川は山際を安宅の西へ出でしとかや。次第次第に波よりて、川は直に海へ出で、湊の里をなせりと聞く。斯く替り行く世の中を、常と思ふぞ迷ひなる。波音高く風荒れて、うきを身につむ湊也。渡しの舟に乗らんとて。

  是やこの彼岸ならむ渡守死出の山路の道しるべせよ

斯く口ずさみ舟よりおり、山々の奥よりも積る白雪は、皆白山の類ひかな。山は動かぬ形をあらはし、古今に至る有様は、是ぞ妙なる山ずみの、替らぬ色ぞ誠なる。弓手や妻手の村々の、秋のかりほの仕舞ひつゝ、皆冬籠りして見えければ、顔淵がたのしみをさこそと思ひやる内に、松任に入りぬれば暫く茶湯を物しつゝ、下々までも飲食をいとなみ出れば、はや野々市を立出でゝ、東を遥に詠むれば、野田の松山生ひしげり、是は当所の高野山、浮世の隙を明らかに、楽み極めはかりなき、命の仏の住み給ふと、心の中に観念し、はや金沢に入りぬれば、浅野川口材木町の町家にしばし休らひける。懸る所に脇田善左衛門参られて、折節天気も晴れてよかりければ御仕合などゝ挨拶之あり。装束改め御寺へ同道也。宝円寺には中庭に畳を敷き、廻りに垣結廻し、幕を打ち待居たり。品川に脇田介添して客殿に上り、手水うがひ心静かに相済まし、仏前へ向ひ、尊霊の御牌前に畏りて心静かに回向せられ、火鉢へ立寄り手をあたゝめ、しばし脇田と物語して居られけり。尊霊の御在世には、御領国は申すに不及、京・大坂・堺・江戸其の外御用聞の者、此の人の取次にはづるゝ事なし。夫に依りて今を最期の事なれば、大かた寺へ参詣し、客殿・衆寮・廊下に列座す。夫より品川立出でゝ、老中を初め人持・物頭次第次第に暇乞ありて、中庭へ下りて幕の内へ入る。河口八郎兵衛に指料の備前長光を形見に見よとてあたへ、則ち是にて介錯仕れと盃をさしかはし、事済みて品川被申は、加様に期延びて御供申す事、臆して遅引に及ぶと思ふ者もあるべし。然らばいか様の死仕たるぞ覚束なしとの人口を恐るれば、幕を揚げて門を開き、山門の外までみちみちたる者共に見物させよと、矢田治左衛門・小嶋九右衛門に被申付、門を開き幕を揚けて諸方を急度詠めやり、白小袖に上下着し、西に向ひ三方の上なる脇指取りていたゞき、つひに子供さへ見ぬ玉の肌を押しはだぬぎ、弓手の脇に押立てゝ、えいやつとかけ声して引廻しければ、河口振上ぐる太刀の光諸共に、夢幻泡影の跡の如し。知るもしらぬも押しなべオープンアクセス NDLJP:178て、袖をしぼらぬ人はなし。別けて与力に召仕の者共、紅涙とゞめ難くぞ見えにける。宝円寺にて葬送し、歯骨を納め小松国松寺へ送り、御霊骨の側に置きにける。高野山への御供には、五人の追腹衆段々に行列す。閏十二月四日に高野山へ送行なし奉る。小幡宮内・九里覚右衛門・野村半兵衛・笠間新助・杉本次郎左衛門・今枝伊兵衛・加古八兵衛、其の外御歩行・御料理人御供にて、泊々にて国松寺読経、御霊供・灯明上げ、高野山天徳院にて御法事執行し、御石塔御位牌造立し奉り、空敷小松へ被帰ける。哀なる御事也。

 
 
品川左門追腹の節、脇田善左衛門介錯し先途見届け申す事謂ある事也。善左衛門惣領猪之助いまだ幼少の時被召出。其の頃をどり子御取立にて一入ふり・かゝり能く、心根殊更御意に入り、津田玄蕃・竹田市三郎につゞきし御寵愛にてありけるに、寛永十七年に小松へ御入城の年九月七日に病死す。別けて不便に思召し、病中の養生旁御念頃の御事共筆紙に尽し難し。猪之助菩提の為とて、祠堂米を安楽寺・法船寺・極楽寺三ケ寺へ霊供茶湯料に被下にけり。末代に至るまで寺退転もある物也、其の為にと思召し、永代三ケ寺へ附けさせらる。誠に難有御事、古今稀なる次第とて、善左衛門一門共冥加深く恐入る所也。初中後を津田玄蕃承りにて、初は御代官被仰付。百石代官付け、利足を取立て、年々寺へ遣せしが、公用繁多也とて、津田玄蕃・伊藤内膳奉りにて、善左衛門裁許仕候へと被仰渡けり。加様に御愛執深き故、猪之助に似たるやとて弟熊之助を被召出、猪之助知行を被下けり。去れ共いまだ御執着あまりぬるにや、宮城内蔵允を召され、急ぎ京都へ参り、猪之助に似たるせがれのあるならば召連可参旨被仰渡る。内蔵允畏りて、蜀の方士が揚貴妃の魂魄を尋ねて蓬萊宮に至る心地して、都へ上り尋ねければ、白川神職伯の子を猪之助に似たりとて召具し、小松へ帰着し御目見致させければ、誠に御意に応じ、品川左門と召され御寵愛大形ならず。然るに脇田善左衛門に被仰出けるは、此の品川左門をせがれ猪之助と存じ、随分介抱致し可申旨御意に付き、猪之助・熊之助にかへても愛想不斜、此度先途を見届被申けり。最期の有様物語りせられては、幾度か袖をしほられしも、実に理りとしられけり。
 
 
一、公方様へ

   朱判正宗御脇    〈指目貫芥子、目貫芥子、小刀柄七夕、梨子地蒔絵の箱に入。〉

   漢瓢御茶入     袋二つの内漢嶋金襴

   定家筆   勢物語

一、本壺      ゑくぼ     水戸中納言様

一、中古茶入    野田遠州所持  保科肥後守様

一、青磁口寄香炉  ひしほ手    同大之助様

一、鶉の絵     安忠庵筆    同新助様

一、土佐筆屏風   源氏馬     同肥後守御内室様

一、紹鴎口広茶入          松平安芸守様

定家筆掛物     書出むかしをとこ

一、古今集     為遠筆     同御前様

 新渡壺

 小判五千両

一、平野文琳            同弾正様

一、土佐筆屏風   扇子絵押絵   同御内室様

一、古今集     公頼筆     おいち様

 銀子二百枚

一、信国脇指    目貫小刀柄益乗 長蔵殿

 青磁口寄香炉

一、延寿刀     目貫笄宗乗   浅野因幡守殿

一、青磁口寄香炉          同又六殿

 来国俊脇指

一、古瀬戸肩衝   針や      利次公

 定家掛物

 江戸本壺

 左弘行刀

 吉光小脇指

 銀千貫目

一、古瀬戸肩衝           利治公

 一休一行物    住吉玉津嶋

 橘本壼

 左之刀

 行光小脇指

オープンアクセス NDLJP:179 銀千貫目

一、後拾遺集    定為筆 利治公 御内室様

 歌書巻物     尭仁筆     おむめ様

 銀子三百枚

一、貫之集         樹瓜火 御前様

 小判千両

一、漢丸壺             前田美濃守様

 掛物       寂蓮懐紙

 井戸茶碗

 青江刀

 左安吉小脇指

一、伊勢物語    貞敦筆     おくま様

 蒔絵重硯箱

 金子百枚

一、定家歌書            八条様

一、拾遺集     為相筆     同姫君様

 新渡壺

 小判五千両

一、長恨歌     尊円筆     若君様

一、伊勢物語    為相筆     常照院様

一、土佐筆     大源氏屏風   女院様

    御家来へ被下御遺物の覚

一、金子三十枚 御道具拾枚     前田三左衛門

一、金子二十枚 御道具七八枚    前田丹後

一、金子二十枚宛

前田主膳 小幡宮内 前田主殿 大音主馬

一、金子十枚 御道具五・六枚宛

前田内蔵允 前田平太夫 前田権之助 前田七郎兵衛 前田木工之助 村井藤十郎

一、金子十枚宛

奥野宇兵衛 小幡右京 前田主水 松平久兵衛 神谷治部 九里覚右衛門 岡嶋甚七 岡嶋五郎兵衛 本保加右衛門 本保大蔵

一、金子三枚 御道具二・三枚宛

粟田四郎左衛門 栗田権兵衛 寺西孫市 堀四郎三郎 高畠主水 田辺六兵衛 田辺助六 磯松六左衛門

一、金子十五枚 御道具十五枚    本多安房

一、金子十五枚 御道具七・八枚宛

長九郎左衛門 横山左衛門 前田対馬 津田玄蕃 奥村因幡 奥村河内

一、金子五枚 御道具二・三枚宛

青山将監寺西若狭 永原土佐 山崎長門 永原左京 富田治部左衛門 成田半右衛門 永原大学 篠嶋豊前 竹田五郎左衛門

一、金子五枚宛

岡嶋兵庫 山森森吉兵衛 菊池大学 茨木右衛門 青山織部 神尾数馬 脇田九兵衛 富田勘解由左衛門 江守覚左衛門 寺西主馬允 大橋又兵衛 湯原八之丞 伊藤内膳 浅加左京 中村惣右衛門 青地四郎左衛門 岩田内蔵助 森権太夫 浅野藤左衛門 山崎半左衛門 江守半兵衛

一、金子五枚 御道具二・三枚宛

伴雅楽之助 別所三平 古市孫三郎

一、金子三枚

岡田三十郎 高沢牛之助 神保長八 山崎虎之助 杉江兵助 国沢主馬

一、金子五枚 御道具二・三枚    山本久左衛門

一、金子三枚 神戸治太夫 丹羽平兵衛 福田彦左衛門

一、金子三枚御道具一枚・五両二枚 吉田左近 半田治兵衛 山崎小右衛門

一、金子三枚

吉田忠左衛門 三輪藤兵衛 杉浦仁右衛門 津田宇右衛門 赤尾主殿 佐々木道休 石黒覚左衛門 前田八左衛門 野村治兵衛 吉田平兵衛 坂井与右衛門 福嶋豊左衛門 三浦勘右衛門 日置清兵衛 駒井主水 古江次右衛門 富田治太夫

オープンアクセス NDLJP:180一、金子二枚御道具一枚五両二枚

富田善左衛門 荒木六兵衛 神戸蔵人 河嶋平左衛門 佐藤久右衛門 平岡小左衛門 杉本次郎左衛門 高田弥右衛門 成田弥五兵衛 田辺佐五右衛門 大石玄哲 加藤正悦 西村六右衛門 遠藤数馬 笹田助左衛門 山本又四郎 長谷川大学 長谷川惣兵衛 高田勘右衛門 谷与右衛門 藤田道全

一、金子二枚

笠間源六 鷹栖甚右衛門 青木輿兵衛 安井源蔵 堀田清左衛門 久津見忠兵衛 加古八兵衛 中尾宗兵衛 野村半兵衛 今枝伊兵衛 清水甚助 山本清三郎 福田八右衛門

一、小判十両

山本治太夫 半田六郎左衛門 原九郎兵衛 坂野市之丞 根来三右衛門 大原伝兵衛 斎田彦助 佐藤儀左衛門

一、金子一枚

宮部弥三右衛門 野村覚之丞 岩田重左衛門 長田市左衛門 沢崎太左衛門 中村小左衛門 西脇勘左衛門 今枝助太夫 改田小平 菊尾五左衛門 安達弥兵衛 福田平八 疋田治部 上村八左衛門 稲垣三之丞 窪田弥八郎 鴨野又右衛門 今村治太夫 桜井九右衛門 疋田平兵衛 高畠権兵衛

一、銀子十枚

山中喜斎 千宗室 岸玄直

一、銀子五枚

長谷川徳左衛門 勝見作右衛門 分部卜斎 任田又右衛門 中村長右衛門 手崎権之丞

一、小判五枚

加藤牛之助 中村半右衛門 今藤加左衛門 市嶋佐左衛門 小原又九郎 石川次郎助

一、銀子三枚

 道味    意斎

一、銀子二十枚    おたけ

一、金子十枚

前田美濃殿御袋 前田三左衛門内方 高寿院 九里覚右衛門母 堀三郎兵衛後家 田中六兵衛母 玄昌院内方青山 将監内方 多賀左近内方

一、金子十枚

前田熊之助後室 奥村河内内方 前田又勝母 成瀬内蔵助内方 前田平太夫内方 津田内蔵助内方 奥野宇兵衛母 横山式部母

一、金子五枚

生雲院 奥村因幡内方 品川左門後家 不破彦三母 丹羽織部母 永原左京内方 富田監物内方 青木千太郎母 松平治部内方 藤田清左衛門内方 野村木工兵衛せがれ加右衛門後家 三輪作蔵母 長屋長五郎内方


一、金子三枚          岡嶋市郎兵衛娘二人

一、金子十枚 御道具は江戸にて見合可遣 御娘子様御袋方

一、金子三枚          清泰院様御局

                淡路守様御局

                広嶋御前様御局

                八条様姫君様御局

   高尾 今井 松村 滝野 滝野 岩崎

 惣金〆

 小判〆

 道具代

 惣金銀

    小松に居残り被申衆

赤井権右衛門 小杉久右衛門 根来善左衛門 嶋田清左衛門 今井助太夫 脇田助右衛門 藤村太郎右衛門 不破八兵衛 安藤助左衛門 宇田治右衛門 河村弥右衛門 池上又右衛門 横地善九郎 岩田十左衛門 加古佐太夫 水上左太夫 岡田五左衛門 杉野善三郎 中村彦左衛門 河合助八 岡嶋馬左衛門

   〆二十一人

オープンアクセス NDLJP:181    金沢引越の次第

 一番 九里覚右衛門組

 二番 大橋又兵衛組

 三番 湯原八之丞組

御遺物は右の外御念頃の衆など、兼ねて被仰置衆中へ御帳面の通被遺略也。

 
 
御逝去の御跡、御城代に当分横山左衛門忠次在城せられ、諸事御用人窺に随ひて夫々に埒明けにけり。小松・金沢の御年寄衆詮議ありて、御跡の儀共上下御扶持人等、残る者は小松に留め、引越す者は可引越由被相定、斎藤長兵衛於割場夫々に申渡す。中にも御暇を被遣柳田四郎三郎は、常に尊霊の御櫛をあげ申すに付き、高野山へ御供の儀被申渡の所に、御免あれと辞退す。是は下々までも望みて忝く奉存所也。然るに唯今辞退の所は、天の恐れを不軽次第とて、追付き切腹被仰付。日頃の私意専らあらはるゝ所也。伝灯寺千岳和尚は尊霊の報恩奉謝に限りなく、せめて寸志を以て追悼の頌を書き御牌前に納め奉る。其頌文に曰く。

万治元年暮。中納言利常公就御逝去。伝灯寺千岳追悼詩文奉捧。

加越能三州隠君松平中納言従三位菅原朝臣利常卿。今茲万治元年著維闊茂暮秋。賜青油幕下之官暇而帰国。穏座未幾。十月十二日被触于暁風。卒然而逝去矣。士農工商靡独不傷悲。就中恩愛甚深之扈従者。昔哂作俑者。即日有致死人。隔日有成程嬰杵臼思人。又有俄髠族。寔陪臣侍士之傷弔。理之所尽情之所窮也。于然野僧宗例。畿内摂州之産。東漂西泊之後。投老於加州城下。而過一生於鉢盂中之処。去承応甲午秋七月。不意呼令登城。彼隠居告曰。当城良岳有故刹。名曰伝灯。雖然屋廬湫隘。柱石傾斜。只存故基已。而若作和上終焉地者。即可作新。余天心之余咽于老涙不獲答而首肯焉。同八月上旬課匠作寮。打鼓普請。尽善尽美。翌年三月落成矣。不移時日入寺。自分以降酬恩謝徳之日未幾年。隠君頓逝計音落耳。似比丘亦落魄断魂。湿却袈裟角者也。時移事去。老涙之隙綴不才。安牌中七箇字於句上。置姓諱官名於句尾而追悼七絶。不憚高見遠識人。不顧禿笔。記以奉呈牌前。若定中有昭覧者。仭比丘惟幸。

  一生愛用恣歓悰  可惜不連横合縦

  子葉孫枝長葢代  仰高千歳大山松

  峯尖岳嶮衆山勢  国泰民安太守情

  多少錦鯨捲不容  長季想像意和平

  大命俄移似背公  永陪幕下合存忠

  嚙牙辛苦守其国  政在旡過不及中

  居仁処義与心合  武勇問兮文道答

  月俸家資三国財  悖旡出矣悖無納

  士重死兮臣重恩  左之刄腹右之髠

  黄門深鎖薀山裡  掩室杜詞終不言

  神功雖欠従三位  退筆力量猶不異

  想是此公丈夫人  郊居深被謝名利

  儀規徳行至公道  煩悩菩提成仏場

  痛捨身心休慟哭  出生入死不違常

   万治元年戊戌仲冬  三住妙心現伝灯千岳宗似蒲拝

前黄門乾公大居士捐舘舎之日。金龕既移野外。有令不能相従。賦拙偈一篇。以述卑懐云。

  一道恩光三十年  袈裟湿却夕陽辺

  北邯咫尺不能到  空凝黄雲向仏前

右条の一紙、尊霊の御牌前に備へ奉りて、回向追善申し奉りけり。かくて利常公は御逝去被為成、綱利公はいまだ御幼君の御事也。保科正之公の御後見也といへ共、国の風俗善悪の事委細に御存知ましまさねば、金沢老中寄合ひて、今此の時節政道別けて一大事也。君御成長ありて御国入被為迄、諸事の縮等ゆるかせにすべからずと、我意不道の輩をば江戸へ注進せられ滅放し、跡目等の滞有之をも注進申し御一行被成下、寄合所にて頂戴せしめ、何れも安堵の思ひをなし奉る。誠に御代々の人々と云ひ、又は御一門中の事なれば、忠節私なく賢慮をめぐらし、公儀御自分の御入用御納物は会所へ申渡し末々まで無滞相勤め、御郡方御収納の儀、諸奉行手前手前の勘定は御算用場にて吟味す。其の外御作事・御普請方、御下行被下足軽以下の事共をば割場に於いて請払ひ、寄合所御用所と号して諸奉行参りつどひ、老中へ伺ひ命にまかせ相暖ひ、昼夜の油断はなかりけり。寛永十六年・十七年小松へ御隠居の刻、富山・大聖寺三オープンアクセス NDLJP:182ケ所へ金沢より引越す者の跡侍屋敷、所々に晶地ありて物淋敷、当君いまだ御幼少にて久々御国入も御座なく、さしてはれがましき事もなし。武家・町方も家宅漸く破損に及ぶ。然る所に俄に小松の大小名引越し、金沢中所々の明地へ屋形を建て、思ひ思ひの作事をいとなみ、金沢居住の人々も、近々殿様御入国可被為成時節なれば、旁以て指置く事難成とて何れも作事を営みけり。江戸大火事の後にてあれば、諸の器財雑具共に跡々に倍して千金を費す。其の時節小松・金沢入込み普請せし故に、材木などは申すに不及、大工・木挽・鍛冶等に至るまで高値なることはかりなし。又あら物等底を払うて売出す。千金を出し是を求め、利常公御若年の御時のごとく、むかしに立かへり、又万歳の初まりと、万民末たのもしく快楽の思ひをなし奉りけり。