三國名勝圖會巻之二目録

薩摩國鹿兒島郡
總説
鹿兒島の文字名義及ひ舊域
鹿兒島之一
山水
多賀山 多賀社 神月川 伊敷堰 棈木川
夏箕瀑布 瀑之上観音 田上川 小山田瀑布
近衛水 大磯 圯橋側の石碑 田之浦
尾畔 近衛櫻 鹿兒島八景
福永門八景 松見崎十二景  

居處

造士館 宣成殿文庫  石碑  講堂  學寮  演武館明時館        醫學院 神農廟    琉球館

佐土原邸       吉野馬牧巴爾客亞牧  咬𠺕吧馬牧

藥園

  橋  道

西田橋 新上橋  高麗町橋  武之橋  新橋

孝行橋  永安橋   皷橋

鳥越


三國名勝圖會巻之二

薩摩國國の事は、薩隅日總説の巻に詳なり、

 鹿兒島郡

  總 説

鹿兒島の文字名義、及ひ舊域、  抑鹿兒嶋の文字は、續日本紀曰、天平寶字八年、十二月、大隅薩摩兩國之堺、云云、於麑島信爾村之海、云々、三代實録曰、貞觀二年、春三月廿日、庚午、薩摩國鹿兒島神、云々、延喜神名式曰、大隅國、鹿兒島神社、民部式曰、薩摩國管鹿島、和名鈔曰、薩摩國鹿兒島、加古志萬、是等の如し、按ずるに凡そ郡里の名、二字を用ゆ、例、延喜式に出つ、然れば所謂民部式の鹿島は、麑字の兒を脱せしなるべし、本藩昔しは多く麑一字に作る、弘安七年、閏四月三日、道忍公の本府浄光明寺鐘銘亦然り、爾來一字二字一定なし、今は專ら二字もて行はる、昆陽漫錄九州記、幷に鹿子島、野藪談話、鹿護島、陰德太平記、 籠島、和漢三才圖會、籠島、或は鹿護島等に作る、圖書編、薩摩州の圖に、康國什麽と題せるは、鹿兒島の唐音なり、是を地名畧に、鹿兒島上古作康國什麽とあるは、甚た非なり、國分氏所藏の 鎌倉右大將公御教書、國字を以てかごしまとあり、此かごしまの名は、本彦火火出見尊の駕し玉へる、無目籠の義に出といふ、一説には尊の山幸に因れる名とす、國分鹿兒島神社は、尊を祭り、即ち其聖蹤なるがゆゑ、かごしまの名義は、彼條に細論す、夫郡は何れの世分置ありしや審ならず、 成務天皇の時、詔して諸郡に長を立らる、觀之ば既に其以前よりありにして、 孝徳天皇の時、天下の郡を三等に建て、四十里を大郡とし、三十里以下四里以上を中郡とし、三里を小郡とす、 文武天皇の時に至り、郡を五等に分ち、二十里以下十六里以上を大郡とし、十ニ里以上を上郡とし、八里以上を中郡とし、四里以上を下郡とし、二里以上を小郡とす、里とは家數五十戸ある所を云、されば昔時の一郡は千戸より百戸の所と見ゆ、古へは生齒すくなく、戸口も多からざること、是を以て推知るべし、今時は少々の聚落にも千戸に滿る所は、あまたあり、太平日久しく、人民の繁昌なること思ふべし、素より其里は道程の里數にあらずといへども、郡の等差に隨ひ、其方域の廣狹ありし亦察すべし、今鹿兒島郡の方域は、當所諸村の地、及ひ吉田郷のみ、然かるに吉田郷も、天正十五年始羅郡より鹿兒島郡に隷られしと見𛀁たれば、鹿兒島郡はたゞ一邑の地にして、小なるに似たり、按ずるに、國分邑宮内の正八幡宮は鹿兒島神社とて、彦火火出見尊を奉祀し、社家傳に、鹿兒島とは、今の宮内の事と云、亦同邑に麑山といへる地もあり、又同邑外面の海中に、小島の出しを、前に所引の續紀、寶字八年に、大隅薩摩兩國之堺云々、於麑島信爾村之海云々、化成三島と記され今現にその地は、大隅桑原郡と、同國囎唹郡とに係て、薩摩大隅の境にあらず、薩摩鹿兒島郡とは、南北五六里を隔離れ、其間に大隅始羅郡、加治木、帖佐、蒲生、山田等の邑あり、又三代實録、貞觀二年、三月廿一日、薩摩國鹿兒島神、この鹿兒島神、蓋し本府草年田村宇治瀬神なりと云、又建久八年、六月、薩摩國圖田帳に、大隅正八幡宮御領八十町、鹿兒島郡荒田荘とあり、かゝれば往古國分より本府荒田村の邊、彦火火出見尊に縁由ある故蹤にて、鹿兒島と稱へ、今の鹿兒島郡より以北、國分の地に亘り、薩摩國の内にて、郡を置るに及び、即ち郡名とし、大郡なりしを、其地を割て、彼此に屬すといへども、國分鹿兒島神社、麑山等の如き、其名に係れるものゝ舊處に存在せるなり、

  鹿兒島之一即ち本府なり、本府は鹿兒島郡鹿兒島郷、永吉郷、及び日置郡、滿家院の中、比志島村、小山

り、本府の諸村を擁す、本府の諸村は假令は京師に五畿内あるがことし、府城を周衛して、衆星のごとくこれに

拱し、諸邑の望となり、萬の事、おのづから諸邑とは其差めあり、鹿兒島の名義に於ては、前に郡の總説に記すが如し、滿家院の事は、郡山の篇首に、併せ見るべし、

   山  水

多賀山府城の東北  坂本村にあり、東福寺城の山に連り、麓に棈木川を帶ふ、南に臨めば、府下の阡陌屋宇鱗次棊布し、西は林嶺參差として、烟靄斷續の中に露れ、東は碧海湛へ、北は緑樹覆ひ、四顧趣を異にし、風景見れども飽かず、凡そ府下の形勢を双眸に收るは、此地を以て第一とす、鹿兒島八景の一にして、昔時濱崎ヶ城といへり、一節に、尾頸小城、此山とす、又一説に、尾頸小城は、當村小城權現鎭坐の林丘ならんといへり、其実蹟は、後條東福寺城に考ふべし、

○多賀神社  當山の巓にあり奉祀伊弉諾尊神体鏡、 正祭四月中午日、當社は、貫明公本御內今本名大龍寺の地、に在りし時、山伏鷲頭不動院なる者をして、江州犬上郡多賀大明神を招到し、日之少宮に擬して、天正七年、巳卯、二月六日、此所に勸請せしめ給ふ、此時濱崎山玉臺寺不動院の號を命せられしと云、是より鷲頭氏世々これが祭祀を司とれり、書紀曰伊弉諾尊功既至矣、德亦大矣、於是登天報命仍留宅於日之少宮矣、古事記曰、伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也、神名式曰、近江國犬上郡多何神社二坐和名鈔に田可郷あり、これなるべし、神書鈔曰、日之少宮者、近江國犬上郡多賀大明神是也、近江在艮方、日之所初出也故曰日之少宮、出雲杵築宮在乾方、故曰日隅宮、日之所入也、この日之少宮、日隅宮の

事は、猶別に其由あるとは見𛀁たり、和漢三才圖會、近江国曰、多賀大明神、在犬上郡、祭神伊弉諾尊號日少宮、別當眞言不動院、是等を以て當社所祀の事を知るべし、

神月川 水源郡山邑より出て縈紅曲折して、東に流るゝこと數里、草牟田村宇治瀬神社の前より、府下の西邊を經、南に廻りて武村に至り、内海に注く、今府下にして、これに四橋あり、 其一を新上橋、其二を西田橋、其三を高麗町橋、其四を武之橋とす、これを神月川といふは、宇治瀬神社、神嘗月の祭より出たる名なりといへり、薩州神社考には、上月に作る、俗には、江月、甲突、甲付など書り、一名境川とも呼べり、又大野川の名あり、舊流は、府城の西隅、柿本寺の後、和泉崎の滙潭を通りて、柿本寺の下より、府城の東南、若宮社の前を過きて、海に入し

と、口碑あり、社前の池塘、其跡なりとぞ、後河道を西に移し、南林寺の背、清瀧川其跡といひ、愈西して今のごとしとぞ、

○伊敷の堰  神月川の上流上伊敷村、黒岩飯山の間にあり、磈石を疊こと數十歩、こゝに川流を湛へ、横さまに渠を開き、流を分ち、其勢を取て是を走らしめ、後水は前水を推て、畎畝の間に回し、遍く田に灌き、能く水上の功を威して原隰績を底し、是より小野、草牟田、永吉、原良、西田、武、荒田等の數村、永く炎早争珠の患を免るといへり、堰は和語に井出と云、田井より出たる詞なり、按に萬葉集に、井

手見ゆ、和名鈔に堰埭見ゆ、其制は、さまさまあり、今必しも不言、理道要訣云、秦以李冰蜀郡太守百丈堰、灌田數千頃、蜀

以富饒、農政全書曰、水柵、若溪岸稍深、田在高處、水不能及、則溪上流、作柵遏水、使之旁出下漑以及田所この類なり、

棈木川 水源吉田鄉宮之浦村に發し、當鄉花棚村へ入り數村を經て、坂本村稲荷社の前に出つ、因て或は稲荷川と云、是より大乘院の前を西流し、南に折れ、又東に向ひ、多賀山麓の帶となり、祇園の濱に注ぐ、

夏箕瀑布府城の北 坂本村溪間にあり、稻荷神社上、北の方、山隔て十町餘に當る、棈木川の上流なり、此邊を瀑の上といふ、

和歌

鹿兒島の在、吉野山にちかきわたりに、なつみのたきといふ所あり、見にまかりて、

幽  齋


こゝもまたよし野にちかき、なつみ川、
ながれて瀧の名にやおつらん、
○瀑之上觀音、 瀑布の前、巖壁の上にあり、桂山觀音ともいふ、千手觀音の石像なり、寛永十四年、平山對馬守安置す、稀痘の許愿に應ありとて、參詣のものあり、
田上川 水源は犬迫村橫井より出て、小野村西別府村を過ぎ、田上村に來り、猶諸村を經、郡本村の海に歸す、郡本村の邊に於ては新川と唱ふ、舊此下流、荒田村、中村の境を流れ海に注けるゆゑ、境川とも呼びしを、文化三年今の所に導きたり、因て新川の名あり、
小山田瀑布府城の北 小山田村、平城の北にあり、其源は郡山邑の山中に出て、南より北に落る瀑布なり、高さ凡そ五丈五尺、横狭く、水勢壮なり、土俗是を陽瀑といふ、或は布引の瀑と名く、左右古藤多し、下流は神月川に入る、又平城の南に陰瀑とて、僅に高さ二丈許りなる飛泉あり、水少し、

近衛水府城の西北 坂本村、冷水、北郷氏宅地にあり、寒暑増减なき涌出の靈泉にして、冬日暖に、夏月冷なり、此水諸所に灌きて、用水となす、地名冷水といへるも、此靈水あるゆゑにや、櫻島上山某所藏、正平七年簸川尼が文券に、冷水の名あり此地の事と見ゆ、其久しきを知るべし、文禄慶長の際、近衛關白信輔、鹿兒島に來給ひし時、硯の水に用られしとぞ、よつて近衛水といふの傳へあり、

大磯府城の北 吉野村の海邊なり、一名仙巖洞、縁海の崖岸に道を設く、 淨國公の時、斷巖を削り、巉壁を穿ち椔翳を焚き、草莽を翦り、上下曲直、僅にこの一路を開き、始て人迹通すべし、洞口先づ行て、良英寺を得、是より左に折て、永福寺、及び潮音院あり、猶、高低迂行して、山神、櫻谷等に至り、又右に折て、天滿宮、龍洞院、皆相列る、既にして山下川流れ圯橋を架す、橋側に碑を建つ、其文に出自仙巖別館南門兩岐路口、五町二十五間、至於府城東門、西踰鳥越故道則二十七町四十四間、南循縁海新道則三十二町三十六間と記す、碑文縁海新道は、則ち上に所述にして、鳥越故道は、橋道の部に出す即仙巖園あり、萬治年中、 寛陽公是を營み、山に靠り、海に臨て、別館を搆へ、仙巖喜鶴亭と名づく、公こゝに遊觀し、翰墨の間に樂み給へるに、雙鶴蹁躚として碧空に横はり、瞭唳として青霄に響き、下りて館廷の墀に集る、いはゆる芝田に戯れ、瑤池に飲むの象の如し、日已に西するに及て、悠々
然として去る、故に亭の名に命ず、實に是寛文十二年癸丑、正月九日なり、其地の勝たる、翠嶺後に圍み、裏海前に閘き、南開聞嶽より、海を隔て東福山に至り、凡そ三十里の景色、一望に入り、連山逶迤、潮水湛然、其山其水、清麗澄媚にして、櫻島海心に特立し、浮ぶが如く漂ふが若し、怪巖磯磧に錯綜亂峙し、或は蹲虎と疑ひ、或は奮獅に似たり、遠近巨細、並出互見、陰陽晦明四時奇變し、千形万状摹述すべからず、昔人畫山水の歌に、不門庭三十五歩、觀盡江山千萬重、其懷を騁せ性を養ふ、亦何ぞ別にこれを求めんや、且此仙洞、櫻樹甚だ多くして、春は瓊筵を花に開き、或は輕舟に棹すもあり、秋は羽觴を月に飛すなど、樂みは此地に盡すと云べし、其勝かくの如くなるを以て、國中の士庶、往々別荘を營み、臺榭園池、東西に相望み、宛も壺中別に天地あるが如し、一たび是に遊ぶもの、塵寰頓に脱し、自ら飛仙昇天の思ひあり、

 圯橋側の石碑、前文に見ゆ、

   大磯雪の讃、                 西洞院時名朝臣  月も今、入江の波に、色わきて

  雪よりしらむ、磯ぎはの里、

田之浦府城の東北 坂本村に屬す、祇園の濱より、東北大磯に至るの縁海なり、南洋の潮水、山川邑の海門より、府城の前、薩隅二州の腹に入り、一大内海となり、湖が如し、此浦其西岸に在り、潮來れば江上白く、日落れば天地青し、煙舶其間に往來して、頗る趣を資く、是より大磯甚だ遠からず、一帶の沿海なれば、風光彼に類すといへども、境移り地轉ずるに随ひ、又殊觀の勝區にして、鹿兒島八景の一なり、山本春正秦清世子の歌
客として當園に在りし時、此海面を眺望して詠る歌に、山のみな、環れる内に、入海は、いづくを指して、潮の引らん、又夜光る玉も何せん、薩摩がた、といひしは、連城の璧も、此地の風景に易ふべからざるを評するに似たり、長明無名鈔に、つくしにとりて南のかた大隅薩摩のほど、いづれの國とかや、おほきなるみなと侍り、そこには四五月にはあけくれ浪たちて、しづまることもなし、四月にたつをうなみといひ、五月にたつをさなみとなん申侍る云々、おほきなるみなとゝは、此府下の海邊をいへるにや、五月の頃は南風頻に吹て波浪を起すこと現にあるを以て思ふべし、又昔は是より西南に廻り巨闊の灣港なりしを今の府城を建られしより、繁昌日を逐ひ、人民蕃殖するがゆゑに、往々海面を築ひて、旱地となりしと見𛀁たり、此長明語、都城の巻、島津名義事證の段、亦是を引て論せり、併せ考て其説の可なる者に從ふべし


尾畔府城の西南  西田村、原良村の境にあり、山の尾延て田畔に接す、因て、名つけしにや、此地山を負ひ水に臨み、幽邃いふべか らず、山腹に邦君の別館あり、 寛陽公の時より置かれたりと云、前には田野の景物、四季に循ひ伎を呈し、媚を效す、殊に此邊櫻樹多くして、春花盛開の候、滿林白雲を宿し、六出香風に飜る、櫻花七日の榮、後來期しかたく、徒に放過すべきにあらざれば、貴賤老少袂を聯らね袖を引て、人我互に誘伴し、或は花下に玉杯を弄し、或は梢上に品評を費す、すべて無邊の光景にして、賞心盡しがたければ、西嶺に落暉を惜み、歸路の催促を厭はさるはなし、漸く東君老し去て、新葉茂密し、夏山深々として、一曲の緑水館を抱ひて流れ、避暑の散歩涼に乘して掬すべし、螢影は漁火に類して遠近に亂飛し、同志相携て所々に徘徊す、興あり趣ありて、別に佳境を得るが如し、秋
來霜露、深く青葉を染め、山は錦袍を被、樹は繍帽を冠するに似たり、冬は寒鳥氷田に群かりて、鳴聲殘夢を驚し、雪朝遊觀すれば、銀界に入て瓊樓に登り、滿目玲瓏の眺を極むといふべし、夫れ大磯は其所に云へるが加く、一大仙洞にして實に蓬莱の思ひあり、此尾畔の地は、岡巒廻合、獨り其東の一面を缺き、阡陌縱横に相列り、四望清爽、又比すべきものなく、共に無量の勝を蓄へて、優劣いづれともいひがたし、かくて府内の櫻、大磯と尾畔とを一雙とし、或は磯邊に瓊筵を設け、或は尾畔に雅友を倡ふ、人々志さしの所向に隨て、遊興を催さざるはなし、畢竟昇平の澤に浴すといふべし、

近衛櫻府城の西 原良村の内、島津久誠別墅にあり、近衛殿下庭栽の花と同種の垂絲櫻なり、嚮には大樹ありて、數丈天を覆ひ、滿園繁茂、萬縷地に垂れ、毎春風雅の盤旋するなりしが、惜哉

近年枯れて、今亦其址に同種の櫻を植ゑ、年々に長して、餘芳を含めり、雍州府志曰、櫻御所、中世以來、近衛殿之所有也、世所調近衛殿絲櫻、又在斯所と、此種なるべし、

鹿見島八景、 世に府下の風景眺望の勝を撰ひ、題して鹿兒島八景と云、正徳享保の際、京師縉紳家、及ひ諸山の出家に請ふて、其詩歌を需めぬ、其圖其詩其歌粗左に鈔録す、其圖を逐て、其景を尋ね、其景に就て、其勝たるを知るべし、

福永門八景府城の西南 西田村福永門より跳望するところの景なり、寶暦九己卯の歳、宮之原通貫、和田助員をして圖を冩さしめ、八景の題を命して、家に藏む、通貫の孫通直、是を京師に携へ、高辻宰相家長に和歌を請ふ、家長題每に一首を詠じ、歌目を和歌所に納らる、其歌其圖左の如し、

水上晴嵐、水上は、西田村にあり、出水へ通る大道なり、坂あり水上坂と云、坂の下に清泉あり、因て水上

と呼ふ、

 やま風のふくにまかせて村上や

 はるゝたかねはうき雲もなき

 常盤谷夜雨常盤谷は、西田村の内なり、初め枯木迫といふ、 大玄公の時、この所に別館を置給ひ、名を常盤谷と改らる、別館の遺地、今なほ存せり、比志島氏の別館となる、


 常盤なる松もあらしの聲そへて

  夜半にぞきほふたまの村雨

  新上橋夕照、新上橋は、西田村和泉崎にあり、神月川の流にわたせる橋なり、

 おくふかき山本くれてのこる日の

  かげのみわたす新上の橋

  築地歸帆、築地は坂本村の海邊なり、

 こぐふねも波路は風にまかせつゝ

  おもふかたとて築地にぞよる
了性寺晚鐘了性寺、後に見𛀁たり、
此てらの峯ふくかぜもしづかにて
さだかにひゞく入相の鐘
野元秋月野元の原野をいふ、後に見𛀁たり
雲きりもはらひ盡してたぐひなき
野元のあきの月の光は
尾畔落雁、尾畔は、已に前に見ゆ、
幾行かかずさだめなく聲たてゝ
尾畔に落るあきの雁がね
櫻島暮雪櫻島は、後巻に見ゆ
櫻じまひがたをかけて降雪は
ちりかふ花のかはるの面影

松見崎十二景府城の東南 荒田村にあり、此地滄海の汪洋渺漫に臨み、高山の烟霞杳靄を仰ぎ、其景其狀、四望山水の秀を掬し、漏すことなし、小松清香、嘗て眺望十二の品題を撰ひ、和歌を詠ず、其友二階堂澄行、これを京師に携へ、日野中納言資枝に示せり、資枝これが和歌を詠じ、自ら書して澄行に與へらる、 小松氏に笥藏す、資枝の歌左に開列す、

高隈朝霞

立まよふくもよりうへにたかくまの

峯ほのとかすむ朝戸出

櫻島春月

浪かすむ月のみはるのさくらしま

夜をへて花に影もめてまし

荒田蛙聲荒田は、一村落の名

すきかへすのちもきかまし水草生るあら田の暮にかはづなくゑ

燃崎白雨燃崎は、櫻島の地

もゑさきの名はそれながらあつからぬ

風もふきいでゝすぐる夕たち
境川千鳥境川は、荒田村と、中村との交を流る、此河は、郡本村に移して、田上川と呼ふものなり

さかひかはみちくる塩にさそはれて

浦のちとりも瀬々や問らむ
開聞暮雪開聞は、頴娃の山

名にはいへど空にそびへしひらきゝの

たかねのみゆき暮ぞいそがぬ
洲崎浮鷗洲崎は、武村の海邊、鹽屋の濱の洲尾なり

ここかしこかもめぞうかふおきつ風

なきたる朝のすさきはるかに
隣村夕照

くれちかくにぎはひけりなゆふづく日

てらす隣のむらの往來は
青屋晴嵐青屋は、下に出せる青屋松原を指せり

松たかきあをやのさとのゆふあらし

こずゑにみ𛀁てはるゝくもきり
松原晩鐘松原は、南林寺の松原山を云

まつばらの末はると寺み𛀁て

木の間にひゞく入相の鐘
輕沙漁火輕沙は、垂水の地

浪あらふおきの白洲は色くれて

ほのめきそむるあまのいさり火
遠帆連波眞帆引ていそぐ千舟はおもふかたの
風にいづくのみなと出けむ
居處

造士館府城の南 坂本村に屬す、府城二之丸の前なり、本府の學校なり、外門には仰高二字の額を掲く、清人臨汾王亶望書なり、安永二年、 大信公創建す、初め 寛陽公府學を建んことを議す、果さずして薨ず、是に至て是擧ありといふ、本藩儒學の所傳を考に、 圓室公の時、桂庵和尚聘に應して本藩に來留り、始て程朱の學を唱ふ、桂庵和尚は、京師五山の徒にして應仁中、幕府の命を奉して、明國に使し、程朱の學を傳て歸る者なり、程朱の學を皇國に傳ふは、師を權輿とす、桂庵の傳は、下條其墓の附録

に詳なり桂庵が門に、月渚和尚あり、月渚の門に、一翁和尚あり、渚、

及び一翁の事は、桂庵傳の注に概記す 一翁が門に、文之和尚あり、皆其學を傳ふ、文之才學衆に過て、 慈眼公の時、府下大龍寺の住持となり、常に朱說を講ず、學徒多し、文之の傳は、大龍寺に載す、文之の門に學之和尚あり、學之が弟子に一溪和尚あり、幷に大龍寺の住持にして其學を承、經を講すること文之の時の如し、又文之の門人に、如竹上人あり、外に在て是を木鐸す、如竹の傳は、屋久島の巻に見𛀁たり、 如竹學行あり、桂庵が學、文之如竹に至て大に興る、海内文之如竹と幷べ稱す、四書周易傳義等に文之點あり、寬永の初め、如竹上人板行す、是皇國四書等板行の始なりといふ、此等如竹が事、屋久

島の巻に詳なり、一溪和尚が後、他邦の僧不門和尚、大龍寺の住持となり、舊式に仍て講義をなす、寛文二年 寛陽公菊池東匀を聘して、儒職とす、東匀は、藤助と稱す、林道春に學ぶ、明暦元年朝鮮來聘す、京師本國寺に館す、東匀朝鮮人と唱和す、學生李石湖、其才學を稱じ、大海以東人第一、紛々諸子莫之先の句あり、是に至て聘し、廩禄六十石を賜ひ、江戸邸に居る、其後禄五百石を改賜ひ、鹿兒島に移して土著せしめ、宅一區を賜ふ、東匀大龍寺に寓止して、諸生に經を授く、既にして東匀遷て江戸邸に居る、其請に由て許さるなり、 東匀が父は、菊池元春と云、江州膳所城主本 多縫殿頭康頼に仕ふ、 大龍寺は、文之以来相繼て儒經を説くを以て、世人儒寺と稱せりとぞ、其後兒玉圖南、志賀登龍等、江戸に赴き、朱學を室鳩巣に受く、山田君豹は、鳩巣の門人河口子深に從遊す、於是室氏が學本藩に行はる、又府下組頭の宅に於て儒師經を講して士人に聽かしむ、是を俗に組講釋といふ、其儒師は、大抵室氏の學徒なり、大信公府學を建るに及て、山本正誼を教授とす、正誼は君豹が門人なり、正誼又少き時江戸に、遊て、一時の名家に從遊すといふ、凡府學に於る、師導を設け、典籍を聚め、紀律條科を制して、學政を整へ、以て國人子弟に教ゆ、於是教化大に行はれ、風俗一變して、人材輩出し、政治を裨益すること多し、今や封境の内、遐陬僻邑といへども、文學を崇尚せざる者なし、是育英の效し、遠きに及ふを見るべし、

○宣成殿 館内の西北にあり、仰高門に入れば泮水池あり、朱欄橋を架す、池の左右に石龍を置く、一は水を吐き、一は水を呑む、泮水池は、即宣成殿の道とす、殿門に入徳の二字を扁す、中山王尚穆の書なり、此門外に石碑あり、林大學頭信言撰す、内門の扉に杏壇の二字を雕る、赤信言の書なり、杏壇門の内孔廟あり、即宣成殿なり、殿宇巍然たり、宣成殿三字の額を掲く、伊賀國主藤堂高敦の書なり、殿內に聖像及ひ四配の像、十哲の神主、六從祀の畫像等を安す、古を考へ式に據り、毎歳春秋丁日を以て、釋菜を行ふ、殿の西は林木欝然たり、 孔林といふ、

○石碑、所在前文に見ゆ、薩州鹿兒島學記

古者先王設爲學校也、蓋長育人才、以待國家他日之用、也其所以爲_教、則五典六德、固上行而下効、於是乎成人有德小子有造孝悌修於家、而忠順可於上、所謂其教不肅而成者矣、當是時、俊人濟濟不勝用也、後世學校之設、雖或不_乎先王之時、人才日卑、風俗日下者何哉、上之人徒誇壯觀而飾游聲、苟應故事、視以爲文具、其教亦不過乎試訓詁文詞之間以誘聲名利祿之途、則學者往々干時取寵誇多鬪靡、是以其詞章雖麗、議論雖高其德業事功之實無以逮乎古人、終歸卑汚賤陋之域而已夫民彜物則、極天罔墜豈有古今人不相及者哉、但在上之人所以教、之之術何如、耳今歳三月、薩摩矦創建先聖之廟於本州鹿兒島、肖先聖及配位像、畫先賢先儒像_、其餘百爾器備、一視諸昌平國 學而取法焉、於是春秋釋奠之禮具可以行也、又振其餘材師生之舍、以爲朝夕教養國之子弟之所、歸藩之日、使其臣兒玉實門來命信言、作文記之此實盛擧、固可書以告於後來也被不敢辭、敬叙古今人才之汚隆由教道、使石以立廟門內、君侯既尊儒崇道、固以好古聞則其所以教_之之術、其又何待余言耶、特使國之子弟藏修於此者、有觀以考焉、則庶幾不君侯興學之意哉、

安永二年夏五月
朝散大夫、國子祭酒、兼經筵講官、林信言謹撰

○講堂、館内の東にあり、國人子弟受業の處なり、堂宇宏廣にして、讀誦の聲斷へず、教授の官署此中にあり、

○學寮 館内の東北にあり、屋宇局を分ち、樓を設て、學徒留宿の處とす、此中に直月寮あり、儒官月を分て輪直し、業を生徒に授く、

○文庫 館内の西にあり、

演武館府城の南、 坂本村造士館の北隣にあり、安永三年、 大信公始てこれを起し、武を講し兵を教るの所とす、夫れ吾  大日本上古細戈千足國と稱ず、武備の盛なること知るべし、能く獨り、海中に立て、外夷を御し、數千萬年、この王を王とし、この人を人とす、各其道に據り、其徳を愼み、文武二柄の兼資を以てなり、夫吾薩藩能獨り九州に雄とし、威名四海に轟きて、外の侮を受ず、數十百年この君を君とし、この臣を臣とす、亦各其道に、據り、其徳を愼み、文武二柄の兼資を以てなり、夫れ大日本固より武を以て體とす、薩摩固より武國と號せらる、この武國に立ちこの武人として、この武それ講せざらんや、治に亂を忘れず、文事あり武備あり、或は劒を撃ち、或は鎗を刺し、射を習ふあり、馬を御するあり、諸家各流、日に此館に出

入して互に其主とする所を操練し、國家萬一の用を待つ、其術多端にして、紙上空談に盡すべからず、官長時に臨視してこれを激し、これを按す、亦其道を得たりと云べし、西遊記に、薩州には

犬追物など云馬術射術の式あり、折々其稽古をなすとなり、他國には稀なる事にて、弓馬の家に犬追物などは、極秘とす

る事なり、薩州には、其祖先島津三郎兵衛尉忠義鎌倉将軍の時、申次を勤し例によりて、御當家大猷院様御上覧の御時、島

津家より犬追物を勤られしより、今に至て傳來して、彼家の事とすとあり則此館に其教塲あり

明時館府城の東南 坂本村、造士館の東南、中福良にあり、治暦の館なり、 鎌倉右大將源公、 得佛公を本藩に封し給ふや、時に暦官を賜ひ自ら歳暦を作ることを得せしめ給ふ、爾來暦官己れの家に於てこれを爲す、時に安永八年、大信公此館を建給ひ、其推歩測候の器、及ひ露臺等具に備り、以て暦法を修明す、館庭に碑あり、其文左に出す、

薩州麑島明時館記

安永八年 本府創建治暦之館之曰明時館、於是公命知學事臣山本正誼之、謹按  先君得佛公者鎌倉右大將之側室子也、文治二年、封諸薩隅日之三州、號爲九筑大國、然其地也、當時猶屬要荒之服、而領朔授時之政、未之及焉、則農桑多失其候而歳功不成矣、於是乎特  賜之以暦官、世世使得自作歳暦班之於境內焉而其術則傳宣明暦法云、其後四百餘年、江府始議改暦、貞享元年暦成、名曰貞享暦、於是  本藩遣暦官本田親貞其法焉、而行之於境內初、其後延享四年、 江府復議改暦、因徴  本藩暦官、於是磯永周英往焉、寶暦四年暦成名日寶暦暦周英爲之佐、盖十一年而歸、於是  本藩傳寶暦暦法、其後明和二年、 江府又修暦法、即徴暦官寶暦例、於是水間良實往焉、而爲之佐者蓋八年矣及其歸也、則毎歳使其所算氣朔交食日躔月離五星四餘等、盖  本藩之置暦官也、且六百年矣、以至於今日、則非特爲一國之私用也、然猶未其署、而暦官自於其家之、且其推步測候之器、亦有悉備、  今公襲封之十一年、乃命行人兼大史臣兒玉實門、謀於水間良實、爲簡天儀、測午表、子午針、望遠鏡等若干乃與舊所有渾天儀、樞星鏡、正方案等若干、幷以附良實而藏焉、其後五年、迄乎是歳、遂命國老臣小松清香近侍掌務臣山田明遠議置治暦之館、二人咨諸兒玉實門、及水間良實地于  府城之東南四百七十步許、爰擇能吏、鳩工庀徒、以畚以築以繩以削、乃爲露臺、其高丈有三尺、其上方如高之數、而基址倍之、又爲府屋若干區、自秋八月甲子事、至冬十月丙子功、於是以水間良實正知館事、盖  本藩此官之設雖尚矣、而其制之備、則自今日始是宜記也、故臣稽其本末而具書之俾後之人有以考焉、抑臣聞諸良實曰、  本藩之爲暦官者、委贄於陰陽頭、受其傳授、然後得以作_暦、雖  江府之暦亦然、而  江府之議改暦也、必請命於陰陽寮、然後爲之、則頗有正朔一統之遺意焉、此亦不以不書也、故附其説云爾、是歳冬十一月癸卯、本府知學事山本正誼謹書、

醫學院府城の南  坂本村に屬す、造士館と斜めに相對せり、安永三年、  大信公これを置給ふ、專ら民生を憐み、痾を救ひ痿を起し、夭札の患無らしむるの仁惠に出たり、日を定めて醫書の講あり、醫生席に到りて、人を醫するの事を討論す、石碑あり、左の如し、

本府創建醫學院記

世之論醫術者、以爲本於經者不於俗、根於古者不宜於今、予竊以爲規磨之説蓋特因庸醫而為此論者耳、非以論於良醫之術也、夫良醫之處方用藥也、詭怪絶出、或若法者、而卒獲其驗、及以其然、則亦未甞不經考古而化臭腐

奇也由是觀之、本經者未必不_於俗、根於古者未必不於今、但顧其所以用之者何如、若夫刻舟求劍膠柱鼓瑟、而自以為質之於經、徵之於古者、則是庸醫之事、豐可以此而爲一概之論乎哉、安永二年、歳在癸巳、  本府創建醫學院、  公命也、經始於是歳十月成於明年二月、講堂寝廬凡若干橄、使直衡爲文以記之、古人有言日、三折肱爲良醫、言為醫之不易也、諺有之日、學書者紙費、學醫者人費、言醫之害_人也、然醫非學無以爲良醫而 所謂人費云者、特其未善學焉爾、荷使夫學醫者於講_業而、不急於售_術眞積力久以待其成、則庶乎不以其所以救_人者害人矣而爲良醫之道亦將在於是也、鳴呼醫學院之所以設者是己、竊謂斯舉固宜書者也、乃推其所以設而爲之記因又畧論醫學之所_本附之、而使來學者有以考焉、又以告世之不古而自用者、院中又爲神農殿、蓋從當時醫家之所戶祀耳、此固未必爲深論云、
安永三年、歳在甲午、四月二十日
本府副史兼知學事山本直衡謹撰井書、

○神農廟、醫學院の左側にあり、院と同時に建立す、唐土上古の君、炎帝神農氏を奉祀す、木坐此人百草ヲ甞め、醫療の神術を得たり、祭祀十一月八日、

琉球館府城の東北  坂本村新橋の北口にあり、本藩の兼領琉球國述職の第館なり、其園の官人、王に代り交番述職して、絶ることなし、門内に双旗を樹つ、其製奇にして、風に翩翻すれば、毒獣の飛動するが如く、人物の状貌衣冠等皆異にして、これに過るもの、正に殊域に遊ふに等し、

佐土原邸府城の東北、 坂本村、蛭子社の東隣にあり、邦家の支裔日州佐土原城主、島津侯の邸なり、侯及ひ使者来聘の時、舎るの所とす、

吉野馬牧府城の北 吉野村の内にありて、隣郷吉田重富帖佐の地に係る、周匝七里許、是郊野にして、衆馬を放牧す、大抵馬数四百、能く其所を得、歳々蕃息す、牧司なるものありて、守養を掌る、毎年四月駒二歳を取る、俗に此式を馬追と云、其日や有司若干人、數郷當郷、谷山、郡山、蒲生、吉田、帖佐、加治木、始羅郡山田、國分、櫻島、伊集院等なりの民を促して、牧野に會し、各分合の法ありて、旌旗を靡し、海螺を吹て號をなし、稲麻竹葦の如く、牧野の四面を圍み、或は閧を發し、或は竹木を揮ふて馬を逐ひ、加之騎馬数百、八万に駈馳して、 これが先後をなし、號に從ひ隊伍を亂さず、整齊として漸次に圍みを縮め、遂に群馬を驅りて苙と云に入らしむ、苙とは地を堀ること數尺、廣袤數十歩、牧野の中これを設く、馬奔跳とも超逸事を得ず、合牧衆馬、五色の毛交班班として皆この苙に陥り、蠢々として互に蹂躝奮踶し、四騎の外、亦尺寸の餘地なし、慓悍の馬首を奪ひ尾を鼓し、騰驤狂動、相駻響嗾齧、此時駒取の徒、身に柿澁染の衣を纏ひ、手に稲稈の繩を提け、勢ひに乗して直ちに此苙に衝入り、沛艾半漢の間にして屑とせす、臂を攘げ群馬を排け、縱横に廻馳り、躍るを抱きて繋き取るもあり、飛乗て搦め出るもあり、観る者野に滿ち、眸を凝し、汗を流し、覺にずも聲を揚け腕を扼ざるはなし、さて其駒悉く取て、衆馬はこれを放つなり、此馬追は、其状勇壮にして、宛も軍陣の勢ひあり、故質ある事とかや、凡本藩馬を牧するの野、許多にして、其廣大且馬匹の多き、福山㝡たり、然れども其式の盛壮なる、此吉野馬追に亞くものなし、故に貴賤男女争ひ至り、常には寂寞たる嚝野、忽ち變して都會となる、

○巴爾齊亜牧 吉野牧の内、別に一圍を成し、異國の種を放畜す、

咬𠺕吧馬牧府城の北 比志島村にあり、吉田及ひ郡山の二邑に係る、

藥園 吉野村にあり、安永八年、  大信公建つ、諸藥艸等を植ゆ、其藥品は、大略物産の部類に擧るか如し、

橘道

西田橋府城の西南 西田村に在り、神月川に跨す欄干橋なり、青銅の擬寶珠に、慶長十七年壬子六月吉日と鐫銘す、城市接界の所にして、橋東に郭門あり、橋西に市坊あり、西田町と呼ふ、出水の關門より、大道これに達し、都城の門日なれば、自他の往來絡繹として絶いず、市坊脩飾、兩行に鱗の如く列り、有を商ひ無を求め、縱横に蟻の如く集る、先つ此土に遊ぶもの、こゝに於て始て物色の壮を仰ぎ、顔をあらためざることあたはず、

○新上橋、高麗町橋、武之橋、 新上橋は、西田橋より上流にあり、西田村に屬す、高麗町橋は、西田橋の下流、武之橋は高麗町橋の下流に在りて、共に武村に屬す、此三橋も、皆神月川に架す、高麗町は、其橋南の地名なり、慶長の年、歸降の朝鮮人、鹿兒島の海岸に著せし者、當時此地に居る、故に今に高麗町の 名あり、伊集院苗代川の條を照して其詳を知るべし、

新橋府城の東北 坂本村に屬す、府下潮浸の壕に架す、扶欄橋にして、褐銅の護朽に、慶長十七年、壬子、六月吉日と銘す、此橋と西田橋、府下南北の要口なり、

孝行橋府城の東北 坂本村、府下濱町と向築地との間、運渠あり、凡そこれに四橋を架す、孝行橋其一なり、舊板橋なり、天保十一年石橋となし、下一圓洞を作る、此運渠、南は海に達し、北は棈木川の下流に通ず、潮出入して、舟船運漕せり、此孝行橋は、孝行正右衛門に由れる名なり、正右衛門母に事へて極めて孝状あり、懈らざること三十年、一日のごとし、名を州里に著はす、事遂に官に聞して、寶永四年、丁亥、十月二日、特に銭三万と向築地に宅地一區を賜て、褒賞せらる、そのころ此橋を起さる、逎ち孝行橋の名あり、正右衛門、享保四年、甲辰、四月死す、法名孝譽養元居士と號す、不斷光院母の瑩側に葬り、題して孝行正右衛門墓と云、明和七年、庚寅、十一月、市來政公、正右衛門 か遺行を記し、石に勒して其宅地に立つ、其後に及んて、山本正誼別に橋の記を作り、更めて是を共地に立つ、事は記に具はる、其碑橋南十歩許にあり、

重建孝行橋記

本府知學事、山本正誼撰、井書、


孝行橋在  府城之東北、寶永四年、 本府市人、號日孝行正右衛門、賜宅一區於此橋之側、因得名、寶曆中、民有講而更造之者既成、輙壊遂廢、而不復作者數年矣、乃復請而重建之、一如舊制、是時安永五年也、鄉人欲其事于石、因以故郷先生惟宗政公所著孝行正右衛門小傳一篇來謁於於余、按孝行正右衛門、姓池田氏、幼失估獨與母居、温清定省、禮無違者、下氣怡聲以承順之、爲人和平、與之遊者亦未嘗見其忿懥之色、家至貧、乃業流剃以爲奉養、朝饗夕飧、必供甘旨、有贈之衣服若貨財、則受而獻諸母、有之娶則辭焉、日我養吾親、弗給是懼、其敢畜吾妻乎、竟不娶、母既老毟、又得未疾、欲食云則哺之、欲行云則負之、扶持調護、如嬰兒、母死、畫夜號泣、殆不喪、既葬日詣墓所歔欷鳴咽、噡望低回、移時而不去、如是者數年、蓋其行之可槩見者如此、其可孝也巳、乃摭其事、以爲橋記、蓋其所書者在乎其人云爾、則其重建之由、與夫功程費用之詳、不必書也、是年歳次丙申

秋九月朔旦記、

孝義録曰、薩摩國池田正右衛門は、鹿兒島の城下恵比須町の人なり、父うせにし後、家貧くなりゆきしかば、作毛又は髪ゆふ業をなして母をやしなへり、母中風を病て、手足も心にまかせねば、常には抱きかかへて起居をたすけ、朝夕の食も箸とりてくはせ好める物あれは、則ち求め進めけり、夜々に母の側にさまの物語して、其ねむりを待、我身は全く衣なしといへども、寒き夜は母のふしどに薄團衾の類を重ね、其身をもて母の肌を暖め、夏の夜はあふぎ涼しからしむ、かかる貧しき中にて、孝養をつくしけるに、人も感じあひて、母一人をだに養ふことの心にまかせぬに、何とて妻持べきとて諾なはず、其後母身まかりぬ、寶永余年、十一月に、領主に聞へて、恵比須町にて、町屋敷一所と、鳥目若干を與へて賞せり、すべて鹿兒島の城下にて、皆孝行正右衛門と稱じ、其屋敷のかたはらの橋を名付て、孝行橋といへり、正右衛門享保九年四月失にし後、何者かしたりけん、孝行橋の橋柱に、一首の歌を書付たる、幾世にか、掛て朽せぬ、人の子の道ありし名は、橋に残りて、此孝義録に載たる歌は、高岡郷士、松下某が書付けるとかや、按に上町向築地に、此孝行橋記の碑あり、下町なる堀江町に、天明元年、市人輩孝女門記の碑を樹て、孝女千世が状を其門閭に旌表す、千世母に事ふること五十年、甚だ孝あり、事官に聞す、官吏に命して廉察せられ、安永七年、戊戌、正月、賞して米四石を賜はる、事は其碑文に見いたり、薩州孝子傳にも千世が傳ありて、此碑を載す、孝子傳梓本あり、世に行はる、固より本府孝子少からすといへども、碑あるは此二人のみ

永安橋府城の東北 坂本村、棈木川の下流に架す、多賀山の麓、祇園神社と抱眞院との間にあり、舊製板を以てし、抱眞橋、或は俗に祇園橋と呼べり、天保十三年の春、改め作るに石を以し、永安橋と名く、下三洞を設け、毎洞水を通す、頗る雅なり、

鼓橋府城の北 棈木川の上流、吉野村實方にあり、兩岸自然の巨岩より、石板を編み、柱なしの石橋なり、梅雨に於て水激流し、其勢ひ常の橋にて堪かたし、故にかゝる巧みをなして、万代不壊の慮をなせり、其形鼓の如し、

鳥越府城の東北 吉野村にあり、本府總廟諏方神社の左後迫よりこれに至る、山徑絶險の坂道にて、鬱々たる古木松柏の間、或は九天に冲り、或は無底に陥るが如く、升降屈曲して大磯に出つ、大磯石碑所謂鳥越故道是なり、

三國名勝圖會巻之二 終

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。