ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/講義11-2

エルサレム大主教

聖キュリロス

教理講義

———————————

講義11

編集

《神の独り子、父なる神よりすべての時代の前に生まれ、すべてのものは彼によって造られた、という言葉に基づいて》


———————————


自分の無知を告白することを恥じるな。あなたは天使たちと無知を共有しているのだから。ただ、生んだ方だけが、生まれた方を知っており、神から生まれた者は、生んだ方を知っている。生んだ方は、自分が生んだものを知っている。そして、聖書もまた、生まれた方は神であると証言している[1]。父がご自分のうちに命を持っているように、子にも、ご自身のうちに命を持つことをお与えになった[2]。そして、すべての人が父を敬うように、子をも敬うべきである[3]。そして、父が御心にかなう者を生かしておられるように、子も御心にかなう者を生かしておられる[4]。生んだ方は何も損をせず、生まれた方には何も欠けていません(私はこれらのことを何度も言っていますが、何度も言うのは皆さんの安全のためです)。生んだ方が父で、生まれた方が兄弟であるわけではありません。生んだ方が子に変わったこともなければ[5]、生まれた方が父になったこともありませんでした[6]。唯一の父からは、唯一の独り子がいます。二人の未生者[7]も、二人の独り子もありません。ただ一人の父、未生者(父を持たない者は未生者だからです)。そして一人の子、父から永遠に生まれた者、時間の中で生まれたのではなく、すべての時代の前に生まれた者、進歩によって増えたのではなく、今の自分である者を生み出した者です。


したがって、私たちは、父なる神から生まれた神の独り子を信じる。私たちが言ったように、真の神は偽りの神を生むのではない。また、彼は熟考して後に生むのでもない[8]。彼は永遠に、そして私たちの言葉や考えよりもはるかに急速に生む。なぜなら、時間の中で話す私たちは時間を消費するが、神の力の場合、生成は時間を超えているからである。そして私が何度も言ったように、彼は息子を無から有へと生み出したのではなく、存在しないものを息子として受け入れたのでもない[9]。しかし、永遠である父は、永遠にそして言い表せないほどに、兄弟のいない唯一の息子を生んだ。また、2つの第一原理はなく、父は息子の頭であり[10]、始まりは1つである。父は、インマヌエルと呼ばれる、真の神である息子を生んだからである。そして、エマニュエルは「神は我々とともにある」と解釈される[11]


父から生まれ、その後人間となった方が神であることをあなたは知りたいのか。預言者がこう言っているのを聞きなさい。「この方こそ私たちの神である。この方と比べられる者は他にはいない。この方はあらゆる知識を見つけ出し、それをしもべヤコブと、愛するイスラエルに与えられた。その後、この方は地上に現れ、人々と語り合った。」[12]。モーセによって律法が与えられた後、神が人となられたのがここに分かりますか。キリストの神性に関する第二の証言も聞きなさい。今読まれたものです。「神よ、あなたの王座は永遠に続きます。」[13]。なぜなら、この肉体でここにおられたことにより、この後、彼が神格にまで高められたと思われないように、聖書ははっきりとこう言っているからです。「それゆえ、神、あなたの神は、あなたの仲間よりも喜びの油をあなたに注いだ。」[14]。あなたはキリストを父なる神によって油を注がれた神として見ていますか?


あなたはキリストの神性についてさらに三番目の証言を受けようとするのですか。イザヤがこう言うのを聞きなさい。「エジプトは労苦し、エチオピアの商売は苦労した。その後すぐに、彼らはあなたのうちに祈るであろう。神はあなたのうちにおられ、あなたのほかに神はいないからである。あなたは神であり、私たちはそれを知らなかった。イスラエルの神、救い主であるあなたです。」[15]。子は神であり、その内に父なる神をもっていることが分かる。福音書で彼が言ったこととほとんど同じことを言っている。「父はわたしにおり、わたしは父にいます。」 [16]。彼は、「わたしは父である」とは言わない。父がわたしにおり、わたしは父にいます。また彼は、「わたしと父とは一人である」[17]とは言わない。「わたしと父とは一つである」と。これは、両者を引き離したり、子と父を混同したりしてはならないためである[18]。彼らが一つであるのは、神が神を生んだ時から、神性に属する尊厳のためです。王国に関しても一つです。父がこれらのものの上に君臨し、子がこれらのものの上に君臨するのではなく、アブサロムのように父に逆らってそれらを支配するのではなく、父の王国は子の王国でもあります。彼らが一つであるのは、彼らの間に不和や分裂がないからです。父が望むことは、子も同じことを望むからです。彼らが一つであるのは、キリストの創造の業は父のものにほかなりません。すべてのものの創造は一つであり、父が子によってそれを造られたからです。「神が語ると、それらは造られ、神が命じると、それらは造られた」と詩編作者は言っています[19]。語る者は聞く者に語り、命じる者は、共にいる者にその命令を与えるからです。


それで、子は真の神であり、父を自らのうちに持っていて、父に変わったのではない。父は人とならず、子となられたからである。というのは、真実を率直に語ろう[20]。父は私たちのために苦しまれたのではなく、父が苦しまれた方を遣わされたのである。また、子がいなかった時代があったと言わず、また、父である子を認めず[21]。むしろ、王の道を歩もう。左にも右にもそれないようにしよう。子を敬うことを考えずに、彼を父と呼んだり、父を敬うことを考えずに、子を被造物の1つと考えたりしない。ただ、唯一の父を、唯一の子を通して崇拝し、彼らの崇拝を切り離さないようにしよう。唯一の子を、すべての時代の前から父の右に座らせよう。受難後の時間の進行によってではなく、永遠の所有によって、父の王座を共有する。


子を見た者は、父を見たのである[22]。子はすべての点で、彼を生んだ方と同じである[23]。子は、命の中の命、光の中の光、力の中の力、神の中の神として生まれた。そして、神の特質は子において不変である[24]。そして、子のうちに神性を見るのにふさわしいとみなされた者は、父の結実に達する。これは私の言葉ではなく、独り子の言葉である。フィリポよ、私がこんなに長い間あなたと一緒にいるのに、あなたは私を知らなかったのか。私を見た者は、父を見たのである[25]。そして簡単に言えば、両者を分離したり、混乱させたりしないようにしよう[26]。子は父と無関係であるなどと決して言ってはならないし、父はある時は父であり、またある時は子であるなどと言う人々を認めてもならない。なぜなら、これらは奇妙で不敬虔な発言であり、教会の教義ではないからである。しかし、父は子を生んだ後も父であり続け、変わることはない。父は知恵を生んだが、自らは知恵を失わなかった。力を生んだが、弱くならなかった。父は神を生んだが、自らの神性を失わなかった。また、減少や変化によって自ら何かを失わなかった。また、生まれた者にも欠けているものは何もなかった。生んだ者は完全であり、生まれたものも完全である。生んだ者は神であり、生まれた者も神である。自らすべての神でありながら、父を自らの神と称している。なぜなら、彼は、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとへ上る」と言うことを恥じないからです[27]


しかし、あなたがたが、彼が子と被造物の父であるのと同じような意味で考えないように、キリストは次に述べることで区別をつけました。なぜなら、被造物が独り子の仲間とされることのないように、彼は「わたしは父のもとに上る」とは言わなかったからです。むしろ彼は、「わたしの父であり、あなたがたの父である。ある意味では生まれつきわたしのものであり、ある意味では養子縁組によってあなたがたのものである」と言いました。また、 わたしの神であり、あなたがたの神である彼には、ある意味では、彼のまことの独り子としてわたしのものであり、ある意味では、彼の作品としてあなたがたのものである[28]。したがって、神の子はまことの神であり、言い表せないほどにすべての時代の前に生まれたのです(なぜなら、私はあなたが同じことを何度もあなたたちに言うのは、それがあなたの心に刻み込まれるためです)。神には子がいることも信じなさい。しかし、その方法については知りたがってはなりません。探したからといって見つかるわけではないからです。自分を高く上げてはならない。倒れる恐れがある。命じられたことだけを考えなさい[29]。まず、生みの親がどのような方であるかを私に教えなさい。それから、その方が何を生みだしたかを学びなさい。しかし、生みの親の性質がわからないのなら、生みだされるもののあり方を好奇心を持って調べてはならない。


敬虔であるには、すでに述べたように、神にはひとり子、自然に生まれた子がおられることを知っていれば十分です。その子はベツレヘムで生まれたときに存在を始めたのではなく、すべての世の前に存在し始めました。預言者ミカがこう言っているのを聞きなさい。「ベツレヘム、エフラタの家よ。あなたはユダの千年の間にも小さい者だ。あなたからわたしのために統治者が出て、わたしの民イスラエルを養う。その出で立ちは初めから、永遠の日からである。」 [30]だから、ベツレヘムから今出てきた方のことを考えないで[31]、父から永遠に生まれた方を礼拝しなさい。子の時間における始まりについて語る人を許さず、父を永遠の始まりとして認めなさい。父は子の始まりであり、時間を超越し、理解できず、始まりがないからである[32]。義の川、すなわち独り子の源は父であり、父は彼を生んだことをご自身だけがご存知です。私たちの主イエス・キリストが永遠の王であることをあなたは知りたいですか。主が再びこう言われるのを聞きなさい。「あなたの父アブラハムは私の日を見るのを喜び、それを見て喜んだ。」[33]。ユダヤ人たちがこれを辛く受け止めたので、主は彼らにとってさらに辛いことを言われました。「アブラハムの生まれる前から、私はいる。」 [34]。そしてまた父に言われた。「父よ、今、あなたの御自身をもって私を栄光にしてください。世界が存在する前に、私があなたと共に持っていた栄光をもって。 」 [35]。主ははっきりとこう言われます。「世界が存在する前から、私はあなたと共にある栄光を持っていました。」また、イエスは「あなたは世界の基が置かれる前から私を愛しておられた」[36]と語り、はっきりと「私があなたと共に持っている栄光は永遠の昔からのものである」と宣言しておられます。


そこで私たちは、唯一の主イエス・キリストを信じます。彼は神の独り子であり、すべての世に先立って父なる神から生まれ、すべてのものは彼によって造られました。王座であれ、主権であれ、支配であれ、権力であれ、すべてのものは彼によって造られ[37]、創造されたものであれ、彼の権威から逃れられるものは一つもありません。世界をさまざまな創造者や製作者を持ち出すすべての異端は沈黙させられます。神の子キリストを冒涜する舌は沈黙させられます。太陽がキリストであると言う者たちは沈黙させられます。なぜなら、太陽の創造者はキリストであって、私たちが見ている太陽ではないからです[38]。世界は天使の作品であると言う者たちは沈黙させられます[39]。彼らは独り子の尊厳を奪おうとしています。見えるものも見えないものも、王座も主権も、名が付けられているものも、すべてはキリストによって造られたからです。キリストは、ご自身が造られたものの上に君臨しておられます。他人のものを奪うようなことはせず、ご自分の作品の上に君臨しておられます。福音書記者ヨハネが言っているとおりです。「すべてのものは、彼によって造られた。彼によらないで造られたものは一つもなかった。」[40]すべてのものは、父が子によって働かれ、彼によって造られたのです。


私はまた、自分の言っていることの特定の例証をしたいのですが、それが弱いものであることはわかっています。なぜなら、目に見えるものについて、神の力の正確な例証が何であり得るでしょうか。しかし、それでも、弱い者が弱い者に語るということは、同じように弱いものです。というのは、息子が王である王が、都市を建設したいと思った場合、王国のパートナーである息子に都市の形を提案し、息子がそのパターンを受け取り、設計を完成させることができるのと同じように、父がすべてのものを形成しようとしたとき、子は父の命令ですべてのものを創造しました。その命令の行為によって、父に絶対的な権威が確保され[41]、それでも、今度は子が自分の作品に対する権威を持ち、父が自分の作品に対する主権から切り離されることはなく、子が他人によって創造されたものを支配するのではなく、自分自身によって支配するためです。なぜなら、私が言ったように、世界を創造したのは天使ではなく、私が言ったように、すべての時代の前に生まれた独り子であり、彼によってすべてのものが作られ、彼の創造から除外されたものは何一つなかったからです。そして、キリストの恵みによって、私たちはここまで話しましたが、これで十分でしょう。


さて、ここで信仰告白に戻り、当面はこれで話を終えましょう。天使であれ、大天使であれ、支配権であれ、玉座であれ、キリストはすべてのものを造られました。父が自ら作品を創造する力を望んだからではなく、神自らが子に作品の構想を与え、子が自らの作品を支配することを望んだからです。独り子は父を敬って、「子は父のなさることを見てする以外、自分からは何事もすることができない。父のなさることは何でも、子も同じようにする」と言われました[42]。また、「父は今も働いておられる。だからわたしも働く」とも言われました[43]。働く者たちに反対するものは何もありません。「わたしのものはすべてあなたのものであり、あなたのものもわたしのもの」と主は福音書の中で言われました[44]。そして、私たちはこのことを旧約聖書と新約聖書から確かに知ることができます。なぜなら、「われわれのかたちに、われわれに似せて人を造ろう」 [45]と言われた方は、確かにその場にいた誰かに話していたからです。しかし、何よりも明らかなのは詩篇作者の言葉です。「彼が語ると、それらは造られた。彼が命じると、それらは創造された」[46]。それは、父が命じ、語り、子が父の命令ですべてのものを作ったかのようです。そしてヨブは神秘的にこう言いました。「ただひとり天を広げ、海の上を堅い地の上を歩く者となられた」 [47]。これは、海の上を歩いていた彼が、かつて天を造った者でもあることを理解する人々にとって意味があります。また主はこう言われます。「それとも、あなたが土を取って、粘土を形造って生きた者を作ったのか」 [48]?その後、死の門は恐怖によってあなたに開かれ、地獄の門番はあなたを見て震え上がったのですか[49]?これは、慈悲によって地獄に降りた彼が、初めに土から人を作ったことを意味します。


キリストは神の独り子であり、世界の創造者です。なぜなら、キリストは世界におられ、世界はキリストによって造られたからです。そして、福音が教え​​ているように、キリストはご自分の民のところに来られました[50]。そして、見えるものだけでなく、見えないものも、父の命令により、キリストによって創造されました。使徒によれば、天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、王座、主権、支配、権力など、すべてのものはキリストによって、またキリストのために創造されました。そして、すべてのものの前におられ、 すべてのものはキリストによって成り立っています[51]。たとえあなたが世界について語るとしても、父の命令により、イエス・キリストはこれらの世界の創造者でもあります。神はこの終わりの日に、御子によって私たちに語られました。神は御子をすべてのものの相続者と定め、また御子によって世界を創造されました[52]。栄光と誉れと力が、今も、いつまでも、世々限りなく、神にありますように。アーメン。


講義12に続く】

トップに戻る

脚注

編集
  1. 私は Codd. Coisl. Roe, Casaub. Mon. A. の読み方に従ったが、これはベネディクト会編集者によって採用されていないものの承認されている。共通のテキストが明らかに挿入されている。「そして、神の聖霊は聖書の中で、初めなく生まれた方が神であると証言している。 人の知ることなどについて。」この 1 コリント ii. 11 の挿入は議論を中断し、§ 12 の同じ節への言及の無駄な繰り返しとなっている。
  2. ヨハネ5章26節
  3. ヨハネ5章23節
  4. ヨハネ5章21節
  5. サベリウス派の教義については、iv. 8、注8を参照。また、アタナシオスについても参照。(本シリーズのde Synodis、§ 16、注10)。
  6. サベリウスの教義は、父が子になったか、子が父になったかの2つの形で表現される可能性がある。ここではどちらの形も否定されている。エルサレム編集者は、アタナシオス(c. Arian. Or. I. cap. vi. 22)が言及したアリウス派の議論への言及があると考えている。「子が父の子孫であり、似姿であり、すべての点で父に似ているならば、子が生まれたように子をもうけ、子もまた息子の父となることが必然的に成立する。」しかし、2つの節の密接なつながりは、サベリウス派のυἱοπατορία への言及を支持している。
  7. ἀγέννητοι アゲニトイ。文脈から、ここでは ἀγένητοι ではなく、こちらが正しい形であることがわかります。アタナシオスは ἀγέννητος アゲニトス を、ここでのように「生まれていない」という意味と「起源のない」という意味の両方で使用したようです。したがって ( c. Arian. Or . i. cap. ix. § 30)、彼はアリウス派について次のように述べています。「彼らのさらなる質問『起源のない者は 1 人か 2 人か』は、彼らの見解がいかに間違っているかを示しています。」ライトフット司教のイグナティウスに関するエクスカーサス(補足解説)、エフェソス. § 7 と、このシリーズのロバートソン氏のアタナシオスに関する注釈を比較してください。
  8. 上記§8、注3を参照。
  9. Athan. (c. Arian. I. ix. 31) 「主に対して、『彼は無に等しい』、『彼は彼の世代より前には存在しなかった』と言っている。」
  10. 1 コリント 11:3
  11. マタイ 1:23
  12. バルク 3:35–37。最後の節は、多くのギリシャ語およびラテン語の教父たちと同様に、キュリロスによって受肉の予言であると理解されましたが、実際には「知識」(ἐπιστήμη エピスティミ、v . 36)を指しており、「彼女は地上に現れた」と翻訳されるべきです。Speaker's Commentaryのこの節の注釈を参照してください。
  13. ヘブル 1:8
  14. ヘブル 1:9。講義10 §14, note 9.を参照。
  15. イザヤ書45章14、15節「彼らはあなたに祈願して言う、『確かに神はあなたのうちにおられる』。」この言葉は神の都エルサレムに向けられたものである。キュリロスは七十人訳聖書に惑わされて、この言葉を息子に当てはめている。
  16. ヨハネ14:11
  17. アタナシオス(c. Arian. Or. iv. § 9)は、ὁμοούσιον ホモウーシオンを主張して次のように述べています。「これらは二つである。なぜなら、父と子、すなわち言葉が存在するからである。そして一つである。なぜなら、神は一つであるからである。そうでなければ、彼は『われは父である』、あるいは『われと父は共にいる』と言ったであろう。」
  18. 講義iv. 8、注7と8を参照。
  19. 詩篇33篇9節; 148篇5節。聖キュリロスは、創世記1章にある創造的な"Fiat"を父から子への呼びかけとして説明しています。
  20. ソクラテス(伝道史I. 24)から、ニカイア公会議後、「ὁμοούσιος ホモウーシオス という言葉に反対する者たちは、それを承認する者たちはサベリウスの意見を支持していると考えていた」ことが分かります。サベリウス主義の容疑で解任され、実際には御子の明確な個性を明らかにしなかったアンキュラのマルケロスは、アタナシオスの友人たちから熱烈な支持を受けていました。キュリロスは、サベリウスの見解をあまり強く非難すると、彼らの非難を受けることを恐れているようです。
  21. ここでキュリロスは、アリウス主義の「子がいなかった時代があった」とサベリウス主義の「子は父である」という正反対の誤りの両方を否定しています。
  22. ヨハネ14:9
  23. 上記§4、注9を参照。
  24. ἀπαράλλακτοι. かけがえのないもの。この言葉はニカイアの正教会の司教たちによって使われました。彼らは「言葉は父の真の力と似姿として描写されなければならない。すべての点で父と父自身は変わることのできないものである」と言いました。ニューマン博士とロバートソン氏のアタナシオスに関する注釈を参照してください(de Decretis、§ 20)。
  25. ヨハネ14:9
  26. 講義 iv.§8、注8を参照。
  27. ヨハネ 20:17
  28. Cat. vii. 7と比較。エルサレム編集者は、教父たちは「私の神」という表現は一般にキリストが自身の人間性について語った言葉として理解しているが、キュリロスはこれを「私の父」という別の表現と同様に神性に適用していると指摘している。ヒラリウス(de Trinit . iv. 53)も「idcirco Deus ejus est, quia ex eo natus in Deum est」と述べている。エピファニオス(Hær. lxix. 55)と比較。
  29. シラ書 (Ecclus.) 3:22
  30. ミカ 5:2;さまざまな読み方が ολιοστὸς εἶ、μὴ ολ、εἶ οὐκ ολ。 εἶ、写本で見つかりました。キュリロスの言葉については、マタイの聖句の引用に関する注釈を参照してください。 ii. 6.
  31. Codd. Roe、Casaub。は別の読み方をしている—「それでは、彼がベツレヘムで今生まれたと思ってはならない。また、彼を人の子として全く最近のことと考えてはならない。むしろ礼拝しなさい、等々。」これは、ベネディクト会や他の編集者によって、キュリロスの言葉遣いが一般テキストで聖母子を永遠の言葉から切り離そうとする明らかな傾向を避けるための挿入であると正しくみなされている。キュリロスがネストリウス派の論争が起こった後にこのように書いていたら、彼は「マリアは神を産まなかった」というネストリウス派の定式を支持しているように見えただろう。スウェインソン(ニカイア信条、第9章§7)と比較してください。キュリロスが本当に意味しているのは、キリストを単なる人間として考えるべきではなく、神として礼拝すべきだということです。
  32. § 4の注3と比較してください。
  33. ヨハネ8章56節
  34. ヨハネ8章56節
  35. ヨハネ17章5節
  36. ヨハネ17章24節
  37. コロサイ 1:16
  38. Cat. vi. 13とxv. 3を比較してください。「ここでマニ教徒から改宗した人々は教訓を得るべきです。そして、もはやそれらの光を彼らの神としないでください。また、暗くなるこの太陽がキリストであると不敬虔に考えないでください。」
  39. 世界の創造は一般にグノーシス主義者によって天使によるものとされた、例えばシモン・マグス (Irenæus, adv. Hearer . I. xxiii. § 2)、メナンドロス (同上。§ 5)、サトゥルニヌス (同上。xxiv. 1) ; 、バシリデス (同上。§ 3)、カルポクラテス (同上。xxv. 1)。
  40. ヨハネ 1:3
  41. キュリロスが主張した子による創造の教義については、索引「創造」の序文を参照。
  42. ヨハネ 5:19
  43. ヨハネ 5:17
  44. ヨハネ 17:10
  45. 創世記第1章26節
  46. 詩篇 148篇5節
  47. ヨブ記 9章8節
  48. ヨブ記 38:14
  49. ヨブ記 38:17
  50. ヨハネ 1:10, 11
  51. コロサイ 1:16, 17
  52. ヘブル 1:2
この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
原文:
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:
 

原文の著作権・ライセンスは別添タグの通りですが、訳文はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。