ニカイア教父とニカイア後教父: シリーズ II/第7巻/エルサレムのキュリロス/講義11
エルサレム大主教
聖キュリロス
の
教理講義
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講義11
編集《神の独り子、父なる神よりすべての時代の前に生まれ、すべてのものは彼によって造られた、という言葉に基づいて》
ヘブル人への手紙 1章1節
神は、昔、預言者たちを通して父祖たちに様々な時に様々な方法で語られましたが、この終わりの日に、御子を通して私たちに語られました。
1
編集私たちがイエス・キリストに希望を抱いていることは、昨日あなたがたに伝えた内容の中で、私たちの能力に応じて十分に示されました。しかし、私たちは単にキリスト・イエスを信じたり、不適切にキリストと呼ばれている多くの人たち[1]の一人として受け入れたりしてはなりません。なぜなら、彼らは比喩的なキリストでしたが、イエスは真のキリストです。人々の中から昇進して祭司職に就いたのではなく[2]、父から常に祭司職の尊厳を持っておられるのです[3]。このため、私たちがイエスを普通のキリストの一人と考えないように、信仰があらかじめ私たちを守っており、私たちは唯一の主イエス・キリスト、神の独り子を信じているという信仰告白を付け加えているのです。
2
編集また、「子」と聞くと、養子ではなく、生まれながらの子[4]、兄弟のいない独り子を思い浮かべなさい。 独り子と呼ばれるのは、神の尊厳と父から生まれた子に兄弟がいないからです。 しかし、私たちが彼を神の子と呼ぶのは、私たち自身ではなく、父ご自身がキリストを御子[5]と名付けたからです[6]。そして、真の名とは、父親が子供たちに付けるものです[7]。
3
編集主イエス・キリストは以前から人間となられたが、多くの人には知られていなかった。そこで、知られていないことを教えようとして、弟子たちを呼び集めて尋ねられた。「人々は、人の子であるわたしをだれだと言っているか[8]。」それは虚栄心からではなく、神の独り子である神とともに住む者が、まるでただの人間であるかのように軽んじることがないように、真実を示したかったからである[9]。彼らが、ある者はエリヤ、ある者はエレミヤと言うと答えると、イエスは言われた。「知らないのは仕方がないが、わたしの名によってらい病人をきよめ、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせるわたしの使徒たちよ、あなたがたは、この不思議なわざを行うのに用いている方を知らないではいられない。」そして、彼らがみな黙ってしまったとき(そのことは人間には理解できないほど難解だったため)、使徒の筆頭で教会の主たる使者[10]であるペテロは、巧みな発明にも助けられず、人間の推論にも説得されず、父から心を啓発されて、イエスに言った、「あなたはキリストです。それだけでなく、生ける神の子です」。そして、彼の言葉には祝福が続き(実際、それは人間を超えたものであった)、彼が言ったことには、それを彼に啓示したのは父であったという印があった。救い主はこう言っています、「 シモン・バルヨナ、あなたは幸いです。あなたにそれを啓示したのは、血肉ではなく、天にいます私の父です[11]」。したがって、私たちの主イエス・キリストを神の子と認める人は、この祝福にあずかります。しかし、神の子を否定する人は、貧しく惨めな人です。
4
編集また、わたしは言います。息子のことを聞くときには、単に不適当な意味で理解するのではなく、真実の息子、生まれながらの子、始まりのない子として理解しなさい[12]。奴隷状態から出てより高い養子縁組の状態に至ったのではなく[13]、計り知れない、理解しがたい世代によって永遠に生み出された子として理解しなさい。同じように、長子のことを聞くときには[14]、人間の習わしだと考えてはいけません。人間の長子には他にも兄弟がいるからです。また、どこかにこう書いてあります。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。 」 [15]しかし、イスラエルはルベンのように、捨てられた長子です。ルベンは父の寝床に上ったが、イスラエルは父の子をぶどう園から追い出し、十字架につけたのです。
また、聖書は、他の人々に対してもこう言っています。「あなたがたは、あなたがたの神である主の子である。」 [16]また別の所では、わたしはこう言いました。「あなたがたは神々であり、あなたがたは皆、いと高き方の子である。」 [17]わたしは、「わたしが生んだ」とは言っていません。神がそう言われたとき、彼らは、以前にはなかった子としての身分を受けたのです。しかし、子は、以前と違った存在として生まれたのではなく、初めから父の子として生まれ、すべての初めとすべての時代を超えた存在であり、父の子として、すべての点で、彼を生んだ方に同じなのです[18]。永遠の父から永遠の命が生まれ、命から生まれた命、光からの光、真理からの真理、賢者からの知恵、王からの王、神の神、力からの力[19]です。
5
編集それで、福音書が「 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と言っているのを聞くなら[20]、「肉による」と理解しなさい。なぜなら、彼は 世の終わりにダビデの子である[21]が、すべての世に先立つ神の子であり、初めがない[22]からである。彼は、以前には持たなかったものを授かったが、すでに持っているものを、父から生まれた者として永遠に持っている。彼には二人の父があり、一人は肉によるダビデであり、もう一人は神性による父である神である[23]。彼はダビデの子として、時と扱いと系譜に従属しているが、神性による子として[24]、時と場所と系譜に従わない。 彼の世代をだれが告げようか[25]? 神は霊である[26]。霊である神は、無形の存在として、計り知れない、理解しがたい世代を霊的に生み出した。子自ら父についてこう言っている、「主はわたしに言われた。『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』 」 [27]。この今日は最近のことではなく、永遠の日である。時を超えた今日、すべての時代の前の日である。 明けの明星が昇る前から、わたしはあなたを産んだ[28]。
6
編集ですから、あなたは、生ける神の子、独り子であるイエス・キリストを信じなさい。福音にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」[29]また、子を信じる者はさばかれず、死から命に移ったのです[30]。しかし、子を信じない者は、命を見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるのです[31]。ヨハネはイエスについて証言して言いました。「また、私たちはその栄光を見た。父の独り子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた。」 [32]悪霊たちはイエスに対して震え上がって言った。「ああ、生ける神の子イエスよ。[33]」
7
編集したがって、彼は生まれつきの神の子であり、養子縁組によるのではありません[34]、父から生まれた者です。そして、生みの親を愛する者は、神から生まれた者をも愛します[35]。しかし、生まれた者を軽蔑する者は、生みの親を侮辱します。神が生むと聞くときはいつでも、肉体的なことに思いを沈めたり、滅びる生成について考えたりしてはいけません。不敬虔の罪を犯さないためです。神は霊です[36]、その生成は霊的なものです。なぜなら、体は体を生み、体の生成には時間が介入する必要がありますが、父からの子の生成には時間が介入しないからです。そして私たちの場合、生まれたものは不完全なものとして生まれますが、神の子は完全なものとして生まれました。なぜなら、彼が今何者であるかは、彼もまた初めからであり[37]、始まりなしに生まれたからである。私たちは幼児の無知から理性の状態に移行するために生まれた。ああ、人よ、あなたの世代は不完全である。なぜなら、あなたの成長は漸進的だからである。しかし、彼の場合もそうだと思ってはならないし、生み出した彼に弱さを負わせてもならない。彼が生み出したものが不完全であり、時が経つにつれて完全になったのであれば、あなたは生み出した彼に弱さを負わせていることになる。もしそうなら、父は、あなたが言うように、時間が後から与えたものを、初めから与えたわけではない[38]。
8
編集それゆえ、この世代は人間的であるとか、アブラハムがイサクを生んだ世代のようであるなどと思ってはならない。なぜなら、イサクを生んだとき、アブラハムは自分が望んだものを生んだのではなく、他人が許したものを生んだからである。しかし、父なる神の子の生み方には無知も中間の熟慮もない[39]。神が何を生んでいるのか知らなかったというのは、最大の不敬虔である。そして、時間をかけて熟慮した後で父となったと言うのも、同様に不敬虔である。なぜなら、神には以前から子がいなかったわけではなく、後に時間をかけて父となったのである。神は子を永遠に持っておられ、人が人を生む方法ではなく、神ご自身がご存じのように、すべての時代の前に子を生んだ真の神として子を生んだのである。
9
編集父は神そのものであるから、御子を、御自分に似た者、神そのものである者から生み出されたのである[40]。教師が弟子を生み出すようなものではなく、パウロがある人々に言うようにもそうではありません。「わたしは、福音によってキリスト・イエスにあって、あなたがたを生み出させたのです。」[41]。この場合、生まれつきの子ではなかった方が、弟子としての身分によって子とされたのに対し、以前の場合には、生まれつきの子、まことの子であったのです。あなたがたは、これから照らされる者として、今や神の子となっているのとは違います。あなたがたも子とされているのではなく、恵みによって子とされたのです。こう書いてあるとおりです。「しかし、彼を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。彼らは血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」[42]。実際、私たちは水と霊によって生まれましたが、キリストは父からそのように生まれたのではありません。というのは、洗礼のとき、イエスは彼に話しかけて、「これは私の子である」[43]と言われたが、それは「これは今、私の子となった」とは言われず、「これは私の子である」と言われたからである。それは、洗礼の作用を受ける前から、彼が子であったことを明らかにするためであった。
10
編集父は子をもうけた。人々の間で心が言葉を生み出すのとは訳が違う。心は私たちの中に実体として存在している。しかし言葉は語られると空中に散らされて消えてしまう[44]。しかし私たちは、キリストが発せられた言葉としてではなく[45]、実体として存在し生きている言葉[46]として生まれたことを知っている。唇によって語られ、散らされたのではなく、父から永遠に、言い表せない形で、実体として生まれた[47]。初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった[48]。神の右に座しておられた。言葉は父の意志を理解し、父の命令ですべてのものを創造した。言葉は下って来たり上ったりした。語られた言葉は下ることも上ることもない。
11
編集父は、人間が理解できるような方法でではなく、父のみが知っている方法で、彼を生んだ。なぜなら、私たちは、父がどのような方法で彼を生んだかを言うつもりはないが、その方法ではなかったと主張する。そして、父からの子の誕生について、私たちだけでなく、すべての被造物も知らないのだ。もし、それがあなたに教えることができるなら、地に語りなさい[51]。そして、あなたが地上のすべてのものに尋ねても、それらはあなたに答えることができないだろう。なぜなら、地は、それ自身の陶工であり、形づくっている方の本質を語ることができないからである。また、地だけが知らないのではなく、太陽も[52]。太陽は、4日目に創造されたが、それ以前の3日間に何が作られたかを知らなかった。そして、それ以前の3日間に作られたものを知らない者は、創造主自身を語ることはできない。天はこれを告げない。なぜなら、父の命により、 天も煙のようにキリストによって固められたからである [53]。また、天の天も、天の上にある水も、これを告げないであろう[54]。それならば、ああ、人よ、天さえも知らないことを知らないために、なぜあなたは落胆するのか。いや、この世代については、天だけでなく、天使のあらゆる性質も知らないのである。というのは、もし可能ならば、誰かが第一の天に昇り、そこにいる天使の階級を見て、近づいて、神がどのようにして御子を生んだのかと尋ねると、彼らはおそらく、「私たちには、私たちよりも偉大で高い存在がいる。彼らに尋ねなさい」と言うであろう。第二の天、第三の天に昇り、もしできるなら、王位、主権、君主、権力に到達しなさい。たとえ誰かがそれらに到達したとしても、それは不可能であるが、彼らも説明を拒否するであろう。なぜなら、彼らはそれを知らないからである。
12
編集私としては、想像上の畏敬の念によって不信心に陥る大胆な人々の好奇心にいつも驚かされる。なぜなら、彼らは、キリストの御業である玉座、領土、君主権、権力について何も知らないのに、創造主自身を吟味しようとするからだ。最も大胆な人よ、まず玉座と領土の違いを教えてください。それからキリストに関係するものを吟味してください。君主権とは何か、権力とは何か、美徳とは何か、天使とは何かを教えてください。それから創造主を探し出してください。万物は彼によって造られたからです[55]。しかし、あなたは玉座や領土について尋ねようとしないか、尋ねることができないのです。神の深遠な事柄を知っている者は他に誰がいるでしょうか[56]。神聖な聖書を語った聖霊以外には誰もいないでしょう。しかし、聖霊自身でさえ、父から子が生まれたことについては聖書の中で語っていません。それなのに、なぜあなたは、聖霊さえも聖書に書いていないことにこだわるのですか。書かれていることを知らないあなたが、書かれていないことにこだわるのですか。神聖な聖書には多くの疑問があります。書かれていることは理解できないのに、なぜ書かれていないことにこだわるのですか。神がひとり子をもうけたということを知るだけで十分です。
【講義11-2に続く】
脚注
編集- ↑ 講義10. §11, 15;講義16 §13;講義21§ 1と比較してください。
- ↑ ἐκ προκοπῆς. 講義10 §5 note 8.を参照してください。
- ↑ 講義10 §14, note 9.と比較してください。
- ↑ θετόν. アタナシオス ( de Sententiâ Dionysii、§ 23) は、アリウスが「言葉は生まれつき (κατὰ φύσιν)、まことに神の子ではなく、被造物として、養子縁組によって (κατὰ θέσιν)、子とも呼ばれている」と言っていると伝えています。また ( c. Arian. Orat . iii. 19)、彼は「これこそ真の神、永遠の命であり、私たちは養子縁組と恩寵によって彼を通して子とされている (θέσει καὶ χάριτι)」とも言っています。以下の vii. 10 および §4 を参照。
- ↑ キュリロスが詩篇 ii. 7 を引用している箇所を、講義 vii. 2、講義 x. 2、xi. 5、講義 xii. 18 と比較してください。
- ↑ 写本はすべて αὐτὸν Χριστόν と書かれており、これは「キリストのみ」を意味する可能性がある。しかし、Χριστόν はおそらく欄外から導入された注釈である。
- ↑ 「父親の特別な権利の一つは、子供の名前を選ぶこと、また望むなら名前を変えることであった」(古代ギリシア・ローマ辞典、「Nomen. 1 ギリシア語」)父親がつける名前の権利は、デモステネスの私的演説の一つ(Πρὸς Βοιωτὸν περὶ τοῦ ὀνόματος)の主題である。
- ↑ マタイ 13:16
- ↑ 講義 iv. 7「神から生まれた神」、講義xiii. 3 と 13「神の子なる神」を比較してください。ただし、ここでは写本によって解釈が異なり、Cod. Coisl. Υἱῷ Θεοῦ μονογενεῖ の読み方は、ベネディクト会編集者によって承認されていますが、採用されていません。Υἱῷ と Θεῷ の混同は、ヨハネによる福音書 1:18 の場合と同様です。
- ↑ ὁ πρωτοστάτης τῶν ᾽Αποστόλων καὶ τῆς ᾽Εκκλησίας κορυφαῖος κήρυξ. Cf. ii. 19.
- ↑ マタイ 16:17
- ↑ アタナシオス(de Synodis 、§ 15)はアリウスのタリアからの一節を引用し、次のように述べています。「私たちは、始まりを持つ神ゆえに、始まりのない神を讃え、時間の中で存在するようになった神ゆえに、永遠の神を崇拝します。始まりのない神が、御子を創造されたものの始まりとしました。」したがって、ここでキュリロスが御子をἄναρχος アナルコスと呼んでいる意味に注目することが重要です。この言葉には2つの意味があり、(i) 起源のない、(ii)時間の中で始まらない、と明確に区別する必要があります。 The former referring to origin, or cause, can properly be applied to the One true God, or to God the Father only, as it is used by Clement of Alexandria ( Protrept . cap. v. § 65: τὸν πάντων ποιητὴν…ἀγνοοῦντες, τὸν ἄναρχον Θεόν. [ Strom . IV. cap. xxv. § 164: ὁ Θεὸς δὲ ἄναρχος ἀρχὴ τῶν ὅλων παντελὴς ἀρχῆς ποιητικός]. [ Stromat . V. cap.メトディオス(紀元後 312年頃)は、断片(『創造されたものについて』、第8章、クラーク訳旧ニコス書)で、ヨハネによる福音書第1章1~3節について次のように述べている。「そして、父なる固有の無始の始まりの後、彼(言葉)は他のものの始まりであり、『彼によってすべてのものが造られた』のです。」この意味で、キュリロスは(iv. 4)神だけが「生まれず、起源がない」と述べており、xi. 20でこれをさらに詳しく説明している。「誰も、時間の中での子の始まり(χῥονικὴν ἀρχήν)について語らず、時間を超えた始まりとして父を認めなさい。父は、 「子の始まり、時を超越した、理解しがたい、始まりのない」。二つの意味の混同から、この語は子にも聖霊にも「起源のない」という意味で不適切に適用されるようになった。そして、この不適切な用法は、使徒憲章 第 6 章 11節から取られ、ヘフェレが最も古い規範の一つとみなしている使徒正典第49 条で非難されている。「もし司教または長老が、我らの主の定めに従って父と子と聖霊にではなく、三人の起源のない者、三人の息子、三人の弁護者に洗礼を施すならば、その者は解任されなければならない。」(ii.) アタナシオスは、子を「時を超越した」という意味で、永遠の光の永遠の輝き (ἀπαύγασμα) として頻繁に ἄναρχος と呼んでいる。『使徒憲章』第 11 章 13-15 節を参照。 §§ 15、16、22; 「神は永遠の光であり、決して始まることも止むこともない。したがって、輝きは常に神の前にあり、神と共存し、始まりがなく、永遠に生まれる(ἄναρχον καὶ ἀειγενές)。」
- ↑ εἰς προκοπὴν υἱοθεσίας. Cf. § 2, note 4.
- ↑ Πρωτότοκον。この語はヘブライ人への手紙 i. 6 に出てきますが、これはこの講義の前の課で読んでいました。この語の正確な教義上の意味は、アタナシオス ( c. アリウス派。Or. ii. 62) によって注意深く説明されています。「異なる関係でなければ、同じものが独り子であり長子であるということはあり得ません。すなわち、独り子であるというのは、すでに述べたように、父から生まれたからです。長子であるというのは、創造物に対して謙遜になり、多くのものを兄弟にしたからです。」 ロバートソン氏の πρωτότοκος という言葉に関する議論 ( Athan.このシリーズの 344 ページ) と、ブル司教 ( Def. Fid. Nic . iii. 5–8) を参照してください。
- ↑ 出エジプト記 4:22
- ↑ 申命記 14:1
- ↑ 詩篇 82篇6節
- ↑ ἐν πᾶσιν ὅμοιος。iv. 7の注釈を参照。この語句がὁμοούσιοςと同義ではなく、子と父の関係を適切に表現していないことは、アタナシオス(de Synodis、第iii章、§ 53)によって明確に示されています。
- ↑ ここでベネディクト会の編集者が以前のテキストに加えた追加は、ミルズによって代表されるように、便宜的に括弧内に示されているかもしれません。しかし[父の]子*は初めから生まれ、[すべての始まりと時代を超えて]*、未経産牛のように[すべてにおいて]父の子*です。 ...そして神からの神[そして力からの力]‡。Codd. Coisl. Ottob. Mon. 2. † Coisl. Ottob. Roe, Casaub. Mon. 1, 2. ‡ Coisl. Ottob. Mon. 1, 2.
- ↑ マタイ 1:1
- ↑ ヘブル 9:26
- ↑ § 4, note 3.を参照。
- ↑ Θεϊκῶς.
- ↑ τὸ μὲν κατὰ τὸν Δαβίδ.…τὸ δὲ κατὰ τὴν Θεότητα.
- ↑ イザヤ 53:8。以下の§7と比較してください。
- ↑ ヨハネ4章24節
- ↑ 詩篇 2篇7節
- ↑ 詩篇 110:3。「朝の子宮から、あなたは青春の露を持っています」(RV)。コッドには驚くべきさまざまな読み方があります。ロー、カサウブ。それはあなたであり、時代を超えて永遠ですが、今日は最近のことですが、永遠ではなく、御父と次の誕生に属しています。 そして再び彼は言います:「Ek gastros prần luciferu nagēnītā to」; これは神のみに属します、など。「汝は私の子である」という言葉は、したがって永遠の世代を指し、「この日」は永遠の世代を指します。時間の中での誕生:私たちが翻訳した後に受け取った本文では、今日は時代を超越した永遠の御子の世代に言及しています。 Psの以前の解釈。 ii. 7 は、たとえばテルトゥリアヌス ( adv. Prax. vii. xi.) やメトディウス ( Conviv. Virg. VIII. cap. ix.)のように、多くの教父に見られます。しかし、「この日、私はあなたを生んだ」という表現は、天の時代より前にすでに存在していた彼もまた生まれることを神が望んでいることを意味します。世界のために、それは、以前は知られていなかった彼が知られるべきであるということです。同じ解釈は多くの教父たちによってもたらされており、今日ではキプリアヌスとしてキリスト降誕に言及する者もおり ( adv. Judæos Testim . ii. 8)、他の者は洗礼に言及している (Justin M. Dialog . cap. lxxxviii.; Tertullian. adv. Marcion . iv. 22)アタナシオス ( c. Arian. iv. § 27) は、詩篇が正しいかどうかという問題について長い議論を行っています。 CX。 3、ἐκ γαστρὸς πρὸ ἑωσφορου γενένικα σε は、御子の永遠の世代、または御子の降誕を指します。
- ↑ ヨハネ3:16。
- ↑ ヨハネ3:18、5:24
- ↑ ヨハネ3:36
- ↑ ヨハネ1:14
- ↑ ルカによる福音書 4章34節
- ↑ 吹いても固まらない。参照。 §2、注4。
- ↑ ヨハネの手紙第一 5:1
- ↑ ヨハネ 4:24。§5を参照。
- ↑ アナルコス生まれ。参照。 §5、注4。
- ↑ ὃ χρόνος. Bened. c. Codd. Roe, Casaub. Coisl. ὃ χρόνοις Ottob. Mon. 1, 2. A. 後者の読み方では、意味は「もし神が、汝の言うように、後の世に授けたものを初めから授けなかったなら」となる。キュリロスはここで聴衆ではなく、想像上の敵に「おお、人よ」と呼びかけている。アタナシオスと比較せよ。( de Synodis、§ 26)。
- ↑ アリウス派はジレンマを利用したようだ。神が意志と目的を持って子をもうけたのなら、それらは子を生む前にあったので、ἦν ποτε ὅτε οὐκ ἦν、子がいなかった時があったことになる。意志と目的がないのなら、神は無知と必然の中で子を生んだことになる。その答えはアタナシオス(c. アリウス派。iii. 58–67、本シリーズのpp. 425–431)によって完全に与えられている。
- ↑ アタナシオス(『エジプト司教論』、§ 13)は、ヨハネの手紙一第20章「これが真の神である」 に言及して、次のように書いています。「しかしこれらの人々(アリウス派)は、あたかもこれに反論するかのように、キリストは真の神ではなく、他の被造物と同様、神の性質に与っているという点でのみ神と呼ばれていると主張するのです。」また(『アリウス派』第3章9節)、次のようにも述べています。「彼は、真の父の真の子孫(ἀληθινὸν γέννημα)であることを私たちに知らせました。
- ↑ 1 コリント4:15.
- ↑ ヨハネ 1:12, 13
- ↑ マタイ 3:17
- ↑ アタナシオス(『ディオニュシオス論』第23節)と比較してください:「心は言葉を作り出し、言葉の中に現れ、言葉は心の中に生じたので、心を示す。」テルトゥリアヌス(副詞プラクス第7章):「あなたがたは、言葉とは声と口の音、そして(文法学者が教えるように)空気に当たったときの音にすぎないと言うでしょう。それは耳にはわかるものの、それ以外は一種の虚ろで、空虚で、無形のものです。」アタナシオス(『シノディス』第12節)を参照:ἀνυπόστατον。
- ↑ προφορικόν. Cat. iv. 8, note 9.を参照してください。
- ↑ ἐνυπόστατον。同書。したがって、聖霊は講義17 § 5 で「父と子の口や唇によって発せられたり、息づいたりするのではなく、空中に散らされるのではなく、自ら存在する (ἐνυπόστατον)」と説明されています。
- ↑ ヒポスタシス中。
- ↑ ヨハネ 1:1
- ↑ ヨハネ 8:38
- ↑ マタイ 11:27;ヨハネ 5:22
- ↑ ヨブ記 12:8
- ↑ 地球、太陽、天空は創造主を知らないと述べるにあたり、キュリロスは、先ほど引用したヨブ記の一節のような比喩的な表現を単に使っているに過ぎない。彼が、天体は罪を犯す可能性のある生きた理性的な存在であるというオリゲネスの理論(『諸原理』第 2 章第 7 節)を受け入れたと考える理由はない。
- ↑ イザヤ書51章6節: 天は煙のように消え去るであろう。
- ↑ 詩篇 148篇4節
- ↑ ヨハネ 1:3
- ↑ 1コリント 2:10, 11
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