<< 神の書を勉強して読む事。 >>
喇叭はそのひびきを以て、戦士をあつむるがごとく、神の書も我等をよびて、われらの思を神をおそるる畏れにみちびかん、何故ならば我等の思は戦士の如く王の敵とたたかへばなり。又喇叭はそのひびきを以て、戦時に少壮なる戦闘者をはげまし、敵に向つて進むの用意をなさしむる如く、神の書も善に向ふ汝の熱心をはげまして、なんぢを諸慾とたたかふに固むるなり。故に己の力に応じ、みづからつとめて、出来るだけしきりに聖書を読むべし、これ敵がその奸策を用いて、或は汝にしばしば憂をかうむらしめ、或は汝に進歩と生活の便とを多く得せしむるその間に、汝に悪念を入れて散らす所の汝の思念を集中せんが為なり、いかんとなれば敵はその奸悪により人を神より遠ざけんと欲してこれをなせばなり。けだし彼は人を悪にみちびきて、思を貶さしむるあたはざるときは、これに次でその霊智をくらまさんが為に人に憂をかうむらしむることしばしばこれありて、その後彼はもはや欲する所を人に種くことを得んとす、されば彼は漸々左の如き念慮をすすめ入れ、且誓を以てこれを反復せしめん、曰く『我れ善の為にたたかひはじめしより以来悪日を見たり、されば余は善を来さんが為に悪をなさん』と。時にもし誰か儆醒することなくんば、敵は此を以ても悪にいざなふことあたはざるときは、人に生活のあらゆる便利をあたへ、かれを驕らしめて、大なるいざなひにみちびき入れん、これすべての情慾より更に危険に更に悪なるものとなす、けだし人を驕傲なるものとなし、無智なる者となし、智識を慾の深淵にみちびきいれて、人は天に向ひ謗瀆の口をひらくを為せばなり、けだしいふあり『その口を天にあぐ』〔聖詠七十二の九〕、人は神を知らず、己の弱きをしらずして死する日の事をおもはざるにいたらんとす。此のいざなひはもろもろの悪に入るの途とならん。誰か此の途を行くを愛さば、死の測るべからざる処に至らん。これぞ主のいはゆる亡びにみちびくの途にして〔馬太七の十三〕寛くして大なる途なり。視よ、敵は時として生活の便をおくり、又時として憂をみちびくは何故なるを汝はきけり。彼は人に於てその心の傾きのいづれにあるを探知し、己の不義を以て抵抗せんが為にこれに向て武備ふるなり。
故に全く警戒して清醒なるべし、つねに勉強して読むに専らならんことをつとむべし、さらば彼は当然に汝を教へて、敵の網をさけ、永生に達せしめん、何故なれば神の書をよむは、まよへる智識を集中して、神を識るをたまへばなり。けだし録されたり『汝等とどまりてわれの神たるを識れ』〔聖詠四十五の十一〕。きよき心を以て神の書を読むに練習する者は神を知るの知識を得る所以を汝はきけり。故に己が霊魂をなほざりにするなかれ、読むと、祈祷とに練習せよ、汝の智識の照されんが為なり、且汝は『まったく且そなはりて欠くる所なきものとならんが為なり』〔イアコフ一の四〕。或者は大臣、太公又は王と談話するを以て自から誇らん、されども汝は神の使の前に於て、聖書により、聖神と談話するを以て自から誇るべし、いかんとなれば聖神は聖書によりて語りたまへばなり、故に神の書をよむをつとめ、常に祈祷に止るべし。けだしこれによりて神と談話するごとに汝の体と霊とは聖にせらるればなり。ゆえにこれを知りてしきりにこれを練習せよ。もし手に遑なくんば心にていのれ。預言者サムイルの母、福なるアンナもかくの如くいのり、『彼の口はうごくのみなりき』〔サムイル前一の十三〕。さりながら彼の祈祷は万軍の主の耳にいりて、彼にその願をあたへられたり〔二十七節〕。故にたとへ汝の手は遑あらずといへども、心にて祈祷せよ。然れども汝はよむことを能くせずんば、彼のききて益をうくべき処よりはなるることなかれ、けだし録していへるあり『もし智者を見ば、早朝よりかれに至れ、汝の足はその門の閾を摩耗すべし』〔シラフ六の三十六〕。これただ読むを能くせざる者に益あるのみならず、能くする者にも益あり、いかんとなれば多くの人は読むも、読む所の何たるを知らざればなり。
故につつしめよ、ハリストスの賜によりて汝にあたへられたる己の才能をおろそかにするなかれ。念々心掛けて、神を喜ばすを得べき所以を尋ねよ、聖者の福をうけんが為なり。けだし録していへるあり、『彼の啓示をまもり、心をつくして彼を尋ぬる者は福なり』〔聖詠百十八の二〕。慎めよ、恐らくは汝読まんと欲する時、敵は汝を遮りて汝を憂愁にみちびき、汝を放心におとしいれて左の如くいはん、『これこれの事は大ならざるにより先づこれを為せ、さらばその後安静の心を以てよむを得ん』と。敵が此事をひそかにいひふくめて、手業に熱心を増さしむる時はこれを思にみちびき入れ、汝をいざなふて読むを廃せしめんとす。けだし誰か勉強してよみ、これより益を引出さんとするを見るときは、彼はつとめて此らの託言をもて妨げてその者を襲はんとす。ゆえに彼を信ずるなかれ、渇して水源につかんと欲する鹿の如く、神の書につくべし、汝これを飲みて、情慾にやかるる己の渇をとどめんがためなり。
さりながら我はかくいはん、汝はまた神の書より益をも吸取り、主が汝に読みて書中の或言を悟るを賜ふときは、怱々に読過ぎず、己の智識を以てうけ、これを己の心に銘みて、消滅しがたくこれを記憶に蔵むるを致すべし。蓋しるしていふあり『汝の稱義をまなぶ』〔聖詠百十八の十六〕、又いふあり『少者は何を以て己の道を潔く守るや、汝の言に循て己を修むるを以てす』〔同九〕、見るべし人は彼の言を記憶するを以て己の道を修むるを。
誰か神の言を記憶して己の修まらざる者ありや、これただ未熟にしてあはれむべき人なるのみ。さりながらかくの如きものはまつたく何も記憶せざるなり、かへつて彼は己を記憶する者と想ふことさへも忘れたるなり。此の如き人に神はつげて『汝なんすれぞ我が稱義をつたへ我が約を汝の口に置くか』〔聖詠四十九の十六〕といはん。故にかれが自から思ふ如く己れに有る所のものをも彼より奪ふを命ずるなり、かくの如き者は己を「ハリステアニン」と名づくるにより己を信仰有るものと思ふ、さりながら実行を以てこれを打消すなり、さらば彼は不信者よりあしし、故に神は彼の自から思ふ如く救の日にうけて己れに有るところの聖神を彼よりうばふを命ずるなり。さればかくの如き人は、酒を盛る土器に罅隙の生じ、これによりて酒をうしなひしものに似たるあり。およそこれを見てその罅隙の生ぜしを知らざる者は思へらく器は充満てりと。然れども実地を撿するに及びて、彼の虚しきことは衆人に明ならん。かくの如く此人も、審判の日に於て、糺明の後、虚しきものとなりてあらはれん。その時彼のいかなるものたりしことは衆人に明なるべし。かかる人々は当日王につげていはん『主よ、われら汝の名を以て預言し、汝の名を以て衆多の奇蹟をおこなひしにあらずや』〔馬太七の二十二〕といはん。然れども王はかれらに答へていはん『誠に汝等に告ぐ、我れ汝等を知らず』と。
かくの如き人の全く何も有たざるを見るか。故にきく所の言を記憶して、己の道を修むべし、つつしみて、天空の鳥に飛んで神の子の種子を啄ましむるなかれ。けだし主は自からいへり、『種子はきくところの言なり』と〔ルカ八の十八〕。種子を地の中に蔵めよ、汝恐れて主に果をささぐるを得んが為なり。さて汝よむときは熱心に勉強して読むべし、大に心を用ひて句毎に注意すべし、ただ紙葉をひるがへさんことをつとむるなかれ。されど必要あるときは一句を二度も三度も或は幾度となく反復通読するを怠るなかれ、その旨を理会せんが為なり。
且や汝は座してよみ、或はよむをきく時は、まづ神に祈りて、次の如くいふべし、曰く主イイスス ハリストスや、我が心の耳と目とをひらきたまへ、我れ汝の言をききて汝の旨をおこなふを得んが為なり、いかんとなれば『我は地にありて旅客なり、主よ、汝の誡を我にかくすなかれ、我が目をひらきたまへ、然らば我れ汝の法中の奇蹟を観ん』〔聖詠百十八の十八、十九〕。けだし我が神や、我れ汝を望む、汝我が心を照さんが為なりと。
汝に勧む、願はくはつねにかくの如く神にいのらんことを、かれ汝の智識をてらして、汝にその言の旨趣をあらはさんが為なり、いかんとなれば多くの者は己の理解を頼みて、迷にかかり、『自から智と称へて愚魯なる者となり』〔ローマ一の二十二〕、しるされし所のものを了解せず、悪におちいりて亡ぶればなり。故に読む時は解し易からざる言にあはば、注意せよ、悪者の汝を教へて自から次の如くいはざらんが為なり、曰く『こはかくの如くいはれしにはあらざらん、けだしかくの如く言ひ、或はかやうなることをいひあらはすを得んや』と。返つて汝は神を信ずるならばその言をも信ずべし。されば悪者につげて次の如くいふべし、曰く『サタナ退け。我れ知る、神の言は浄き言なり爐中にありて土よりきよめられ、七次練られたる銀なり』〔聖詠十一の七〕、『その中には虚偽と奸邪とあることなし、是みな智者の明にするところ、智識をうる者の正しとする所なり』〔箴言八の八〕、されども我は愚にして了解せず、ゆえにわれ知る、神にてしるされたるを。けだし使徒はいへり『律法は神に属す』と〔ローマ七の十四〕、或は又天を仰ぎて次の如くいふべし、曰く『主や、われ汝の言を信じてさからはず、我は聖神の言を疑なく信ず。ゆえに主や、汝は我をすくひ給へ、われ汝の前に恩寵を得んが為なり、然れども善心なる者や、我は一の救の外何も他に求めず、汝のあはれみをうくるに堪へんが為なり』と。