シリヤの聖エフレム教訓/第4講話

第4講話 編集

<< 祈祷きとうあるいはかみ承認うけみとむること。 >>


しゅわれいやしたまへ、さらばわれいえん』〔エレミヤ十七の十四〕。アア独一どくいつ睿智えいちにして、仁慈じんじなるよ、われなんぢ恩恵めぐみせついのる、霊魂たましいきずをいやして、智慧ちえらしたまへ、われなんぢわれおけ不断ふだん摂理せつりをさとらんがためなり。けだしこころ智慧ちえ愚魯おろかになりしにより、ねがはくはなんぢ恩寵おんちょう真実しんじつなるしおはこれをあらためよくせんことを。心腹しんぷくこころみる前知者ぜんちしゃよ、われなんぢなにをいはんや。みづなきごとく、わがたましいなんぢかわき、こころなんぢのぞむをなんぢひとりたまふ。アアなんぢ恩寵おんちょうなんぢあいするものをつねにかしめり。ゆえなんぢつねにわれをかへりみたまひしごとく、いませつなるいのりをかろんずるなかれ。けだし智識ちしき囚虜とりこごとく、なんぢ独一どくいつ真実しんじつなる救主きゅうしゅをたづぬ。ゆえなんぢ恩寵おんちょうをつかはして、すみやかよわきにのぞましめたまへ、さらばうえをあかしめ、かわきをとどめん。けだし主宰しゅさいや、かずしてなんぢねがふ。もしじつなんぢあいし、なんぢ真理しんりひかり渇望かつぼうせばたれなんぢくをざらん。ひかりあたふるものや、ねがいをみたしめよ、われ祈祷きとうによりてわれにあたへたまへ、なんぢ恩寵おんちょう一滴ひとしづくわれこころこぼたまへ、ねがはくはなんぢあいするあい火焔ほのおはわがこころえん、はやしくがごとく、もろもろの悪念あくねん荊棘いばらあざみとのごと焼盡やきつくさるべし。ひとかみとして、われぜんはかりなくあたへたまへ、しょおうおうとしてめぐたまへ、ぜんなるちちとしてふやしたまへ。それわれ悪者あくしゃとして、なんぢたまものをしりぞけ、いまもこれをしりぞくるも、主宰しゅさいや、なんぢはその祝福しゅくふくにより水甕みづがめをみたしたるものとしてなんぢ恩寵おんちょうもつかわきをとどめたまへ。また五千人にかしめたるものとしてなんぢ恩寵おんちょうもつてわれううものかしめたまへ。ひとあいするものや、なんぢ懇求こんきゅうするなんぢぼくに、ねがふところをあたひたまへ。けだしよ、なんぢおおいなる智慧ちえ讃栄さんえいせんがために空気もきよあきらか禽鳥とりもそのこえへんず。人手ひとでをからずしてりなせる色々様々いろいろさまざまなる花卉かき衣服いふくにてまったくおほはれ、二様にようまつりをたのしみしゅくせんとす、すなはちいつはその冢子ちょうしアダムためまつりなり、けだしかれは生命いのちみとめめられしによる。またいつはその主宰しゅさいためまつりなり。うみも、なんぢ恩寵おんちょうにみたされ、そのうかべるものをましむるなり。なんぢ恩寵おんちょうはわれになんぢまえはじむる勇気ゆうきたまひ、おのれにゆうするののぞみわれをしてなんぢかしめんとす。はじめ殺人さつじん器械きかいたりしへびときすすんでおのれくちひらかんとす、いはんなんぢ熱望ねつぼうするなんぢぼくは、おのれくちをひらきて、なんぢ恩寵おんちょう讃栄さんえい頌美しょうびせざらんや。なんぢ寡婦やもめの二「レプタ」をうけて、かれをみしたまへり、なんぢぼくねがいをもうけ、われ祈祷きとうして、もとむるところをわれにあたへたまへ、ねがはくはわれなんぢ恩寵おんちょう殿みやとならん、ねがはくは恩寵おんちょうわれにやどらん、ねがはくは恩寵おんちょうみづから線琴せんきんをうち、そのほっするごとみづからわれおしへん、ねがはくは歓喜かんきをみちみてる感嘆かんたんうたをうたふてたのしまん、ねがはくは彼はみづからわれ智識ちしきしばることくさりごとくならん、われみづからまよふてなんぢまえつみおかすなく、そのひかりそとになげいだされざらんがためなり、しゅや、ききたまへ、ねがいをききてあたへたまへ、われまよふて不潔ふけつなるものきよものとなり、われおろかなるもの智慧ちえをつけられ、我無益われむえきなるものなんぢえらばれし苦行者くぎょうしゃなんぢよろこばしめたることごとくの聖者せいしゃ郡中ぐんちゅうおい有益ゆうえきものとなりて、なんぢくにばるるをんがためなり。楽園らくえんおいてたのしむものため代求だいきゅうして、なんぢひとひとあいするものによぶ。さらばなんぢかれねがい注意ちゅういし、かれ代求だいきゅうによりてわれすくたまへ。アアわれかれによりてなんぢさかえす、なんぢかれらの祈祷いのりをききて、われ鴻恩こうおんほどこし、ねがいをかろんぜざりしがためなり。しゅや、なんぢ預言者よげんしゃによりていへり、いはく『なんぢくちをひらけよ、われこれをみたさん』〔聖詠八十の十一(詩編八十一の十一)〕。ゆえよ、なんぢぼくこころくちひらかれたり、なんぢ恩寵おんちょうもつてこれをみたしたまへ、ハリストスかみわれしゅや、われなんぢ不断ふだん讃揚さんようせんがためなり。ぜんにしてひとあいするものや、なんぢ恩寵おんちょうつゆわれこころにそそぎたまへ。けだし蒔附まきつけられしは、なんぢめぐみくだすなくんば、みづからその植物しょくぶつをうるほすあたはじ。かくのごとこころも、果実かじつむすばずんばなんぢ恩寵おんちょうによりてなんぢよろこばるることをいひいづるあたはざらん。よ、なつ果実かじつをやしなひ、樹々きぎ様々さまざまはなかぶらせらるるなり。さらばねがはくはなんぢ恩寵おんちょうつゆも、われ智慧ちえうるおし、謙遜けんそん悔悟かいごあい忍耐にんたいとのはなもつてこれをかざらん。そもわれなにをかいはん。よ、祈祷いのりはよわく、わが不法ふほうおおいにしてかつつよし。つみわれあっして、われよわきはわれわづらはす、しかれどもなんぢみてかつぜんに、あはれみふかうして鴻恩こうおんほどこす。なんぢ瞽者めしひをひらかしめたり、智慧ちえをもひらきたまへ、ねがはくはわれ不断ふだんなんぢん。なんぢくびきものくちをひらかしめたり、くちをもなんぢさんするとなんぢ恩寵おんちょうえいするとにひらかしめたまへ。なんぢ一令いちれいもつうみ界限さかいさだめたり、なんぢ恩寵おんちょうもつこころにも界限さかいきたまへ、なんぢよりはなれてみぎにもひだりにも〔復傳律令(申命記)五の三十二まがらざらんがためなり。なんぢ従順じゅうじゅんならずして頑固がんこなるたみ曠野こうやおいみづをあたへたまへり、われにも悔悟かいごをあたへ、にはなみだをあたへたまへ、すべて生涯しょうがいあいだ温恭おんきょうあいきよこころとをもつひるよるかんがためなり。『ねがはくしゅや、いのりなんぢまえちかづかん』〔聖詠百十八の百六十九(詩編百十九の百六十九)〕、われせいなる種子たねをあたへたまへ、ねがはくはわれなんぢ悔悟かいごをみちみてる禾把いなたばをささげん。アアささげしものをあたへたまひしもの光栄こうえいす。しゅなんぢ諸聖人しょせいじん代求だいきゅうによりなんぢぼくのいのりをききたまへ、なんぢことごとくのひとうえ世々よよ讃揚ほめあげらる。阿民アミン