<< 詰責を受けたる一兄弟のこと。 >>
曾て一兄弟あり、矜恤を為さざるを詰責せられけるに、彼は其詰責者に自由にして答へ、敢て言へり、曰く『矜恤を行ふことは修道士の為に立てて義務とせられず』と然るに詰責者は之を駁して下の如く言へり『矜恤を行ふを修道士の為に立てて義務とせられざることは顕然明白なり。けだし録して言ふ如く露面を以てハリストスに告げ「視よや我一切を捨てて汝に従へり」〔マトフェイ十九の二十七〕と言ひ得る者には、之を義務とせられざるなり、即地上に何物をも有せず、肉体に属するものを務めず、有形上の事には一も考を及ばさず、何を獲るをも慮らずして、もし誰か彼に何物をか與ふるあれば、ただ其必要に迫る丈取り、必要の外は之を無視して実に鳥の如く生活する者、かくの如き者には矜恤を行ふを義務とせられざるなり。けだし自から自由なる者は如何して他に與ふるを得んや、之に反して浮世の事に引かれ、自己の手を以て操作して、自から他より取る所の者は殊に矜恤を行はざるべからず、もし彼は矜恤の事を慮らずんば、此無慈悲は主の誡命に反す。けだし誰か神に奥密に近づかず、霊を以て神に勤むるを能くせざるのみならず、己の為に為し得べき顕然の行をも慮らずんば、かくの如き者等は己れに生命を得る何の望ありや。かくの如き者は無智なり。』
又他の老人あり、言へり、曰く『他人を肉体上の事に安んぜしめんが為に自己の黙想の行為を擾す者を怪む』と。又言へり、曰く『我等は黙想の行為に他の如何なる慮をも混ずべからず。すべての行為は各々其位置に於て尊敬せらるべし、我等の品行に汚点を有せざらん為なり。けだし多くの事を慮る者は多くの事の僕なり。之に反して一切を棄てて霊魂の斉整を慮る者は神の友なり。視よ、矜恤を為し、近者に対し肉体上の必要を満足せしめて、愛を遂行する者は世に多し、然れども公道にして且最美はしき黙想を務め、思を神に挙ぐるを務むる者は寥々として僅に見ることを得べし。世に矜恤を行ひ、或は身体に関する事に於ては義を守る者等の中黙想を務むる者が神より與へらるる賜の一なりとも得たる者之ありや』と彼又更に言へり、曰く
もし汝は俗人ならば世の幸福を楽んで時を送るべし。之に反してもし汝は修道士ならば、修道士の卓越なる行為を以て己を飾るべし。然れども汝は彼と此とを占有せんと欲するならば、彼も此も失はん、修道士の行為は次の如し、形体に属するものより免るる自由なり、祈祷に於て身体を労するなり、神を不断中心より記憶するなり、汝は此等の行為なくして世の道徳に満足するを得るか、自ら判断すべし。
問 黙想に於て苦む修道士は二種の要務を有する能はざるか、即神を思念することと他の慮を心に有すること是なり。
答 予は思ふ、黙想に時を送らんと欲する者は、一切を棄てて独り己の霊魂を慮るのみならず、己を世慮の外に置くといへども、瑕疵なくして黙想の行為を治むること能はず、矧や他人の事をも慮るに於てをや。主に勤めて主の子輩の為に掛慮する者を主は世に留めて主の前に勤めんとする者等を自から選び給へり。けだし官位の等級を記し、常に王の面前に立つて其機密に参する者等は外部の務に従事する者等より光栄なることは此世の王に於て之を見るのみならず、天の王の行為に於ても見るを得べし、即祈祷を不断務めて王の会談者となり、其機密の参與者となりて天上地下の富を賜はり、すべての受造物に対して己の権を幾ばくか顕はす者は彼の己の所有と此世の幸福とを以て神に勤め、最重要にして且太だ美しき善行を為して、神の意に適する者よりも如何なる勇気を受くるか。ゆゑに我等の取りて亀鑑と為すべきは神に属する行為に尚不充分なるを免れざる後者にあるに非ずして、苦行者と戦士とにあり、彼等は其生涯を美しく完備し、此世に属するものを一切棄てて天国を地上に開拓し、地に属するものを一次永遠に棄擲して、天上の門に手を伸ばしたりき。
我等が為に此生涯の路を啓きたる古の諸聖人は何を以て神意を悦ばしたるか。たとへば諸聖人の中フィワェイのイオアンの如き、此の徳行の宝にして、此の予言の泉なる者は何を以て神を悦ばしたるか、隠舎の内に在りて兄弟を肉体の要求に安んぜしめたるを以てしたるか或は祈祷と黙想とを以てしたるか、前者を以てするも多くの者が神意を悦ばしめたるに予は反論せざるべし。然れども祈祷と一切を棄つるとを以てしたる者の如きにはあらず。けだし黙想に居り、之を以て頌揚せらるる者により其兄弟等に明々なる助あればなり。即窮乏の時には我等に言を以て助け、或は我等が為に祈祷を献ずる是なり。然れども此事の外にあるものは(もし或者の為に慮る此世の事に関するの記憶又は其配慮が黙想を務むる者の心に宿るならば)是れ神的智慧の行にあらず。けだし黙想を務めずして、黙想の外に生活する者には告げて言へり『ケサリのものをケサリに納め神のものを神に納めよ』と〔マトフェイ二十二の二十一〕即各々己に属する者を納め、近者に属するものは近者に神に属するものは神に納めよといへり。天使の位に居る者、即霊魂の事を慮る者には、何か此世に属するものを以て神を悦ばすべきを誡命せられず、即工作の事を慮り、或は一者より取りて他者に與ふることを誡命せられざるなり。故に修道士は其心意を動揺して、神の面前に立つより引下ぐべき如何なる事をも慮る可らざるなり。
しかれどももし誰か反論して神聖なる使徒パウェルを提出し、彼は自己の手を以て操作し矜恤を為したるに非ずやといはば、其者に告げて言はん、パウェルは独り萬事を為すを能くせり、然れども我等は彼の如くすべてに堪能なる他のパウェルの有るを知らず。けだし此の如き他のパウェルを我に示せ、然らば汝を信ぜんと、且神の照管によりて成る所のものは之を一般の行為の儀表と為すべからず。けだし福音を傳ふるの行為と黙想の務とは各異なり、もし汝は黙想を守らんと欲するならば、此世の事を一も慮らざるヘルワィムの如くなるべし。汝と神とを除くの外、地上に汝の慮るべき他者あるを思はざること汝に先だちし神父等の教へし如くすべし。もし誰か自己の心を頑にせず、其仁心を力めて遮るを為さずして、神の為にも或る生活上の事の為にも凡て地に属するものを慮るより遠ざからんも其の定められたる時に一の祈祷を守ること能はずんば、擾乱と費心とを免れ自由にして黙想に止まる能はざるべし。
ゆゑに道徳の名の下に何事にか関係せんとする思の汝に生ずるあり、之を以て汝の心中にある穏静を擾すあらば、其の思に告げて言ふべし『愛の途は美はし、慈悲の行は神の為に美はし、然れども予は神の為に此を欲せずと。一の修道士あり、言ふ『父よ止まり給へ、神の為に急ぎて汝に追着かん』と、然るに彼は答へていへり『我も神の為に汝より逃げん。』父アルセニイは霊益の事をも他の何事をも神の為に誰とも談話せず、他人は神の為に終日談話し、其来れる旅行者を悉く受けたれども、彼は之に代へて無言と黙想とを選び、此に因り彼は現生の海中にありて神聖なる神と談話し、黙想の舟に乗り、大に穏静にして此海を渡りしは、此事を神に質したる苦行者等の明に知れる如し。視よ、黙想の法は一切の為に黙するにあり。しかれどももし黙想に於ても擾乱に満たさるる者となり、身体は操作の為に霊魂は或者の事を慮るが為に擾さるるならば、其時は神を悦ばしめんが為に多くの人の事を慮りつつ如何なる黙想をか送るべき自から判断すべし。けだし一切を棄つるなく何等の慮よりも遠ざからずして黙想の行為に進歩を見るを得んとは言ふも耻づべきなり。我等の神に光栄は帰す。