<< 或兄弟の問。 >>
同神父は曾て或兄弟の問を受けたり、曰く『予は如何にすべきか、予に或る物品のあるあり、或は劣弱の為、或は行事の為、或は他の或理由により之に必要を有すること毎々なり、此物なくんば黙想に居る能はず。しかれども予は或者の之に必要を有するを見て同情の念に耐へず、此物を以て彼に與へ、又或人には請はるるにより與ふることも屡之あり。けだし愛も誡命も之を余儀なくせしめて、我自己に必要なるものを譲らしむるなり。然れども其後予が為に此物の必要なるは、予を思念の不安と擾乱とに陥らしめ、予が智力を黙想のことを慮るより引誘し去るのみならず、黙想を棄て、行て同物品を捜すを余儀なくせしむるなり。たとひ忍耐して黙想を失はざるを得るとも、予は大なる憂と思の擾乱の中にあり。故に予は何れを擇ぶ可きを知らず、或は兄弟を安んぜしむるが為に予の黙想を解除して之を中止するを為すべきか、或は彼の願を軽んじて黙想に専なるべきか』と。
老人は之に答て次の如く言へり、曰く『もし矜恤或は愛、或は慈悲、或は其為す所は神の為にすと認めらるる或事が汝の黙想を妨げ、汝の眼を世に転ぜしめ、汝を不安に陥れ、汝が神を記憶する念慮を暗まし、汝の祈祷を寸断し、思念の擾乱と紛淆を汝に生ぜしめ、神聖なる読経を勉むるを止め、心意の高超より救はるべき此器械を棄て、汝の戒心を滅し、汝が此時に至る迄検束せられしを自由自在に往来するを始むるに至らしめ、独居に入りたるを人類社会に帰らしめ、葬むられたる慾念を汝に惹起し、汝の五官の節制を解放し、世に死したる汝を世の為に復活せしめ、汝の為に唯一の慮なる天使的行為より汝を貶黜して、俗人の側に立つるならば、かくの如きの義は亡ぼす可なり。けだし肉体上の安きを與へて愛の義務を遂行するは世の俗人の行なり、然れども、もし修道士の行ならば、こは黙想に専らなるに非ざる不充分なる者の行或は黙想を以て同心的共住と合したる者の行にして、彼等は不断に入り且出づるなり。かくの如き者等の為には、こは美にして嘆賞すべき行なり。
之に反して身体を以ても智力を以ても、世を離れたる遁世的行為を実に己の為に撰擇して、其意を独居の祈祷に決し、凡て過去るものの為、此世に属する物を観るが為及び之が記憶の為には死者の如くなりし者、かくの如き者の為には、肉体に属するものと顕然たる行の義(之を以てハリストスの前に義とせられんが為に)を為すを勤めずして、使徒の言ふ如く地にある肢体〔コロサイ三の五〕を殺し、浄潔にして無玷なる思念の祭をハリストスに献げて、自己を開拓したる初実の果となし、未来の望の為に肉体の愛を犠牲にして、危きを忍耐するは當然なり。けだし修道士の生涯は天使の生涯と同尊なり。されば天上の行為をすてて浮世に属するものを持するは我等に不適當なり。我等が神に光栄は世々に帰す。「アミン」。