<<黙想者の事。 黙想者が其行為を以て無辺の海に至る、即沈黙の生涯に至るを理会し始むるは何の時なるか、其労の結果を産するを多少望むを得るは何の時なるか。>>
予は汝に或事を語げん、此に疑を容るゝなかれ、又予が告ぐる所の他の言をも些細なるものゝ如く軽んずるなかれ、何となれば之を予に傳へたるは信ずべき人々にして、予は此言に於ても、又予のすべての言に於ても汝に真実を告ぐればなり。もし汝は自己を其目の瞼に懸け、之に由り涙に達するときは、其生涯の間に最早何物をか得たる如く思ふなかれ。けだし今に至る迄、汝に隠れたるものは世に事へ、即世の生活を営みて神の事は、外部の人を以て之を為せども、内部の人は猶無結果なり、何となれば其果は、涙を以て生ずればなり。涙の域に到り達する時は、知るべし汝の智は此世の獄より出でて、其足を新世界の衢に立て奇異にして新しき空気の香を嗅ぎ始めたるを。其時は涙を流すを始めん、何となれば霊児の誕生が近づきたればなり。衆人一般の母たる恩寵は来世の光の為に神聖なる形像を奥密に霊中に生出せんを願ふ。然して産期已に至る時は、智は彼処にある所の或物に喚起せらるゝこと、猶嬰児が其肢体の内部に吸収し、之を得堪へずして、俄に其体を動かし、蜜の甘きを混和したる叫声を発す。而して之を以て心中の児の養はるれば養はるゝ程涙は増加するなり。然れども此の予が書する涙の順序は黙想者に間歇的に生ずるものを言ふには非ず、何となれば黙想を以て神と共に居るすべての人にも時として此安慰の生ずるありて、或は抽象的直覚に居り、或は祈祷的談話を為す時に生ずるあればなり。さりながら予は此の涙の順序のことを言ふには非ずして、昼夜不断哀む者に生ずる所のものを言ふ。
しかれども此等の状態の真実なる価値を真実的確に発見する者は黙想に於て之を発見せん。けだし彼の目は渾々として已まざる源泉の如くなること二年有余に亙るべくして、其後彼は思慮の鎮静に至らん。然して性の幾分をか籠めて思慮の鎮静に至りたる後、彼は聖パウェルが言ふ所の安息に入らん〔エウレイ四の三〕。而して此穏静なる安息の後、智は奥義を直覚し始めん。其時聖神は彼に天上の事を黙示し始むべく、神は彼に住みて神の果を彼に復活せしむるなり、ゆゑに多少明了を欠推察的なりとはいへども、人は自から其内部の性の種々なる改新により変化を受るを感ずるなり。
予は自己の記憶に充つる為にも、又此文を読むすべての人の記憶に充つる為にも、聖書により、及び義なる口により傳へられたるものゝ中より借り、又自己の実験よりも少からず借りて、其儘此を書するは之を益用する者の祈祷により予の為に助とならん為なり、何となれば予は此事の為に少からざる労を用ひたればなり。
然れども又聞くべし、今予が汝に告ぐるものは偽らざる口により教へられしものなることを。思慮の鎮静の範囲に入る時は、涙の多きは汝より奪はるべくして、其後涙は適宜に、又は緊要のときに汝に生ぜん。是れ最適確なる真理なり、之を簡言すればすべての教会はかくの如く信ずるなり。