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太閤記 巻十九
 
 
山中鹿助伝
 

コヽニ宇多源氏之末流、佐々木源三秀義か苗胤尼子伊予守経久か的孫、右衛門尉か子伊予守義久か内、山中甚次郎天文十四年〈乙巳〉八月八十五日於雲州富田トダ之庄、生出しけり、尋常コノツネの児童にはヲモかはりし、眼さし一廉有て手足太逞しく、おさなわさも大さはやかに、ふてきにも有し、十歳の比より弓をならひ、軍法を執心し、武勇之道を専とせしか、十三歳の比手柄なる太刀打をし能首捕てけり、ヒトと成に及て器量世に超、心剛に慮深して、人を撫するに恩沢を清くし、武功に思ひを焦しぬ、十六歳の春甲の立物に半月をしたりけるか、今日より三十日の内に武勇之誉を取候やうにと、三日月に立願せり、かゝる処に伯州小高之城主、山名を攻討んと義久発向しけれは、山名も打向ひ及合戦、互に火出る計苦戦し勝負まちなりしに、山中甚次郎と名乗出つゝ、菊池ヲン八と渡し合せ、暫し相戦ひしか、終に菊池を討て首を指上たり、此菊池は因伯二州にをひて隠れなき勇者なりき、是よりして三日月を一世の間信仰せしとかや、永禄五年壬戌七月、毛利右馬頭元就卒六万余騎尼子を討果し、雲州を并せんと武略を廻し、先島根三郡〈此郡より富田への行程七里也〉をきり随へ、本陣にそ定めける、かくて夏は富田領に参陣し、在々所々を荒し、麦等をかり取ぬ、秋又如斯、初の程は義久も卒四万余騎大場谷へ馳向ひ、相防んと合戦を挑つゝ、雖勝負、元就一向不取合、富田之城へ引入けるに、山中唯一人氏屋へ立入、只今人つかを築て見せんと休息し居たりける処に、元就之盗者共三四十騎追懸たり、甚次郎民屋より切て出、一番に乗懸たる兵を切て落しかは、次なる馬上おり立、ぬけは玉ちる計なる三尺五寸の太刀を打振て向ひけるを、山中是を見てやさしのおのこやとて開ひて以、おかみきりに切たりけれは、みちんに成て谷底へまろひけり、つゝひたる勢三十余人おり立、得道具おつとり山中をおしつゝみ攻けれ共、百手を砕き須叟に変化し請つ開つ相戦ひ、十六七人切伏しかは、残る勢も甚次郎一人に切立られ引たりけり、山中も小家へ又立入、飯はなきかと問しに、老尼色ことなる飯を椎の葉にもり出しけれは、心あるよなと感し、喫し了て山をつたひに富田へそ帰りける、翌年の夏毛利勢富田之庄にをしよせ、民屋悉く令放火、麦等なきすて本陣さして引にけり、永禄七年の春、元就の勢よりは河をこし富田の町を破らんと心さし、城方之勢は、こさせしと防き戦ひしにも、甚次郎は衆を離れ進み出、高野監物と鑓を合せ、終に高野を討てけり、七年之籠城のうち、敵川を越んとせし事あまたゝひにて有しか共、味方にも名をおしみ義を重んする兵共多かりし故、得もこさす、度々の戦に武勇之誉重累せし者、城方にも多き中に、大功に心を砕きしは、元田豊前守、岸左馬進、池田市助、立花源太兵衛〈山中か叔父也〉森脇豊前守、熊谷新右衛門尉、大野十兵衛尉、岡野左兵衛尉〈法名宗茂〉アケ甚介、寺本半四郎等也、長月比夜番のつれに、秋宅寺本両人に山中云やうは、氏姓に因て名をかへてんやと有しかは、尤宜しからんとて、山中鹿介、秋宅庵アゲイホリ之助、寺本障子之助とそ名乗ける、敵方品川半平と云し者、武勇を事とし、佳名を欲する者有しか、山中度々之勇功有し事かくれもなけれは、是を討捕誉を得、名を中国に振はんと望しなり、されは鹿をしたかへぬる物はオープンアクセス NDLJP:449オホカミならんとて、品川狼助とかへにけり、或時寄手之勢きやうらき山を打おろしゝかは、城方よりも打出足軽をかけ引軍初もけり、狼之助内々望む所なれは真先に進み出、弓を妻手の脇に夾み、ゆらりと川辺に打寄、高声に呼りけるは、山中の鹿殿花やかに参り相候はん、かう云は品川狼助と云大かうの者なりと自讃して立たりけり、是を聞をしつゝき多勢溢れ出たりしを、品川相手勝負にせんそかし、両陣鳴を静めて見物せよと制しとめつゝ、河中さして渡りかゝる処に、鹿之助も今日を晴の戦なりと思ひけれは、つねよりは猶勇にけり、既間近く成てあはやと見る処に、狼助矢をつがひひかんとせしを、岸左馬進打見て南无三宝、鹿は狼にとられぬへう見しかは、其間遠けれ共、矢一つひようと放けるに、品川か挽しほりし弓の鳥うちを射たりしかは、弓をからりと投捨、うち物の勝負に成てけり、鹿分は兼て太刀に向ては名誉の手きゝにて有し故やらん、しつと歩み寄処に、狼はぬけは玉散計なる太月を抜持かゝり来たるに、鹿は左もなく太刀あひに成とひとしく、抜さまにはや狼助か妻手のこひんを切たりけり、狼助は鹿助に比すれは、力も弥増長抜羣にのひたりしかは、引よせ無手と組て上になり下に成まろひあひしか、鹿助脇指にて狼を一刀突込、ぬきもやらす二くり三くしくつてけれは、のつけに反さまに払ひける太刀にて、山中か向臑ムカフズネをたちわりけり、敵是を見て狼うたすなつゝけや者共とて進みしかは、城方にも鹿を助てはらと川に打入進みけり、とかう見るか内に狼か頭を捕てさし上たり、味方是に気を得噇と凱歌を唱へ引しかは、敵は弥気をうしなひ相引にそしたりける、鹿助此道に誉あらん事をふかう思ひ入しかは、かけ合の戦には歩にて出たりけり、母もよのつねの女姓にはにげなく、武のみちにかしこき事一かたならす見えしとなり、鹿助に与し侍る人々に、帷子カタビラ筒服ドウフク肩衣カタキヌハカマ手巾テヌクヒやうの物を送りしかは、鹿助か下知に附ぬる事、骨節の相救ふかことし、母左様のあらましをほの聞悦つゝ云やうは、爾に相順ふ人々を夜軍等あらん時、勿論捨殺し候な、又利あらん時も同しさまにあれよ、楽き事有共各とし楽しひ候へと諫しかは、鹿介此事を深く恥つゝたしなみし故、友とちも憑もしき人なんめりとふかみあへりき、

 
○富田七年之籠城扱之事
 
歴々之人々七年之間軽一命忠義軍功を励みしか共、糧絶カテタエ矢種尽難義に極しに因て、義久存せらるゝやうは、数年籠城之内諸事軍忠を勤めし人々に、其報をこそ施し得す共、せめて籠城を出し、何れの地にても離苦得楽之幸にもあはせまほしく思ひつゝ、元就に降し云やうは、城をヒラキ渡し、則可旗下旨望みにけり、元就聞て今日まて両雄と号せられし身の左も有やと、還て不便に思ひ、其需に応し、籠城せし冬より七年にあたる正月廿日、城を請取、義久をは上下百人の供にて芸州へつかはし、其外は悉く出ししかは、開喜悦之眉し有さま、たとへは無間地獄に堕在せし罪人共か、浮ひ出しもかくこそあらめと思ひしられたれ、
 
○鹿助度量広く武勇にかさ有事
 
富田七年之籠城を免れ、上下広く成ぬる事を、悉く万歳を祝する声のみなるに、山中は城を出てより一入うらめしかほに見え、何となう恥しき体いとふかゝりしなり、いはゝ一とオープンアクセス NDLJP:450せ平家之軍兵由井蒲原より、水鳥の羽音にさはき立、逃上りし十万余騎の恥しさを、真盛ひとりの重荷に持し如く、此鹿助も七年 籠城目出運を不開事は、唯武勇智謀の不足の故なるへしと、諸人にこえ無念に思ひこめ、一度尼子殿を如前々富田へ仕居奉らんと計策を廻らしけるに、聊怠る心もなかりしなり、山中本は雲州之国士共弱きを捨つよきに付て、大形元就へ属しけるに、鹿助は疵のため有馬湯治望におはします由、毛利殿へ披露し、天正の初上方さして旅行し、明智日向守を頼み、遊客の身と成て有しか、丹波一揆退治之折節無比類働き両度有し也、其比松永弾正少弼、信長公に敵対し、和州信貴之城に楯籠りしを、信忠卿攻平け給ふへき御陣ふれの有し時、鹿介信忠卿へ御礼申上、天正五年十月十日信貴之城二番乗の衆にして、河合将監と云剛者を討捕預御感けり、其後丹後に親しき因み有により立越、遊客之身と成有けるか、其比四海大に乱れ、家国分離し、君臣父子之間も羣疑蜂起せし故にや有けん、因幡之守護山名禅高を、長臣武田豊前守立出ししかは、是も遊客と成、丹後におはしましゝを、鹿介も同しさましたる身なれは、親しく相語ひ慰にけり、有時いさゝせ給へ、因幡の国を取返しまいらせ候はんとすゝめ、今ほと属順ひ侍る旧臣何程か有へきそやと問しかは、士六七十人其外下々百人も有へきとなり、鹿助承り、雲州牢人方々に散在し六百人余有へく候、凡八百人に及ふへし、其上御本国なれは因州にもかやうの事を待者多かるへし、一味同心之誓を堅くし、戦ふ程ならは、六七千之勢に対し軍を挑み候共、さのみ越度ヲチドは取ましく候、八百人之者共謀を廻し、一命を軽し義を重し戦ひなは、寡を以多を砕かん事、タナゴヽロの中に在、とく思召立給へ、因州を攻平け雲州への便にもし、尼子還住ゲンジウ之可素懐と存了、旁以御心を安し候へと進めしかは、禅高是天の与ふる所なりと悦ひ、其催し急なり、斯て撰吉日打立へき門出を祝事、流石弓矢取の分野アリサマとみえてけり、丹後をは雲州辺におひて可然事有とて忍ひ出、但馬境に入、是より鳥取之城へ直に行は十里なりしか共、其間武田にクミし侍る城二ケ所有し故、其より南の山に付、峰より峯をつたひ、三日に鳥取之城の向ひ今木と云在所に着、ひそかに里の長に云やうは、前守護山名殿こそ還住之本意をとけ給ふへき謀多く有て、唯今乱入し給ひたるそ、今度忠節を致しつる輩におゐては、上下を撰す、其身之分限に倍々し、加増之地を恩賜有へし、百姓等は其程々に随ひ褒美有へしと触にけり、痛はしや馬上之武士は一人もなく、陣屋を見れは廻国之順礼に似たる故にや、思ひつく者とては跡先しらすの溢れ者二百人余集り来て、前君御入国目出れはしますと頼もしけに見えたり、然処に三年余隣国に在し牢人共此事を承来たるも多し、此者共は、近年武田に用ゐられす還て恨有へし、扨は合戦に使あり、宜しき事に鹿助思ひ云やうは、各沈思して聞給へ、其期に望み二のあし踏候へは、十に九利なき物也、只死生命有り、富貴天に在と云事を、心腑に銘し、百死一生に極め、明日未明に鳥取へ押かけ合戦せし程ならは、必武田を討取候へしと、左も有つへう云しかは、各此義に同し、皆親しき方へ思ひにかたみの文なとしたゝめつかはしけり、かくて酒を出し、今宵計の思出なりと一曲かなてしかは、一きは気も力も新らしくつよく成て、弁慶とも組へく覚えけり、よしある肴もなけれは、時に順ふ浮世の習とし、千秋オープンアクセス NDLJP:451万歳を舞おさめたり、とかうせしまに晨鶏シンクイもはや告出けれは、飯のいとなみ下々に云渡し、各はまとろみにけり、寔枕取ほとなるに鹿助はやおき出、小屋をおとろかし、時分はよきそと触しかは、物に意得たる兵ては有、油断なき人かなと感しつゝ、おき出目をする手水テウズし、南無八幡大菩薩愛宕山大権現、ウヤマツテ死生は天の命に在、冥加は神慮に在へしと、声に誓ひしは珠勝にも覚え、又たのもしけにも見えにけり、漸用意も調りしかは、鹿助いさせ候へとて急き行に、鳥取之城一里計こなたにて夜は明にけり、其近辺の在々所々悉く放火しけれは、武田も勢を引卒し、出向ひ云やうは敵はわつか千計也、我勢は五千に余れり、心安き合戦し、皆々を慰んそよ、味方ひとりして敵の指を一つゝ取共足さるへし、急や者共と身をモミつゝ出しかは、早先陣は鉄炮あしかる初て取合けり、鹿介下知して曰、始より物をきらし候まし、合戦に取結ひ勝負 決之間、能図を見計ひ某団ウチハフルへし、其時けしやうイクサし給ふな、たゝ真一文字に武田旗本さして切かゝり、首をもとらす、偏に大功を得んとのみ思ひ入候へし、左もあらは軍に勝ん事隻手のうちに在へしと、惣軍に力を付、其身も一きはたくましく見えたるは、あつはれよき大将かなと人皆感しあへりぬ、武田か勢は五千有余なれとも、馬物具きらよく有しかは、勢も倍して夥し、禅高方の勢は是に反し万さひかへり物すくなに見えけれは、能して取物なりと勇にいさんて、千計を中に取こめ、あますな洩すな、禅高法師をは生捕にせよと下知し、しとやかにかゝりしは、実に左も有つへうそ見えにける、鹿介弓鉄炮を左右に立、五六間に引付、うてや射よや者共と下知し、真丸に成かゝれは、武田か勢は段々に備へ弓鉄炮八千、雷も物かはのやうに覚えし処に、山中時こそよけれ、すはかゝれや人々と団を振、其身もうきやかに成て、只今武田か首を見んと真黒になりかゝりけるに、流石武田も最期こそよかりけれ、段々に立し勢をそれに下知し、前後に目をクバツて云けるは、城を憑みに一足も引な、此溝の岸を枕とし、戦へや者共と、眼に角を立ふんしかつてそ戦ひける、鹿介皆々浮気なる事はし思ひ候まし、をし静めかゝれよ、敵の首を見ん事も、又各か首を敵に見られん事も、唯今之一心に在と進み行に、何も義を重んし理に服し、吾おとらしと真先に見えしは、尼子助四郎、亀井十郎、元田豊前守、岸左馬進、池田市助、立花源太兵衛尉、寺本障子之助、岡左兵衛尉、熊谷新右衛門、石橋久三郎、池田甚三郎等也、此人々は名をおしみ軽寿信ジヨシンアツかりしかは、雲州を出てより、游客の身と成ても、影身をはなれす親しひふかけれは、戦場にして頼もしき事、古今有ましきやうに見えにけり、悉く百死一生に相極、をし立切かゝり、将棊たをしをするかことく、切すて首をはとらす進みしかは、城方の勢後を見そめ、聊しとろに見えたり、武田か前後左右ひたカブト百六七十人真丸に成て戦ひけるか、見るか内に残りすくなに討なされしよと見し処に、はやうらくつれしてのくも有、又山名殿は古しへの主君なれは、楯うらにて味方に降するも有て、弥敵は危く見えにけり、鹿助是を見一度に切かゝり追崩し、終に武田父子兄弟親族廿余人、其外歴々百六七十人討死せしかは、即付入に鳥取之城へ入ぬ、此度之本意を達せし事は、鹿介一心之剛強計略之功に因ての事也とて、禅高本丸を辞し、鹿介を本丸に置、其身は二之丸に在て帰国ノ祝義をオープンアクセス NDLJP:452表しけり、臘月之比禅高と鹿介と疑心出来、雪中に因州を立出しかは一揆蜂起し、討留んとせしを降人と成よしを、云つゝ近付、目さまし軍して三度まて切払ひ、一揆大将共之首三は不捨持つゝ、播州に至て聊休息し、天正三年正月十日江州安土アヅチ山へ参り、信長公へ御礼申上しかは、城之介にあい候へとて岐阜へつかはし給ふ、如何は思ひけん御暇を申上、又丹後をさして参りけり、
 
○鹿助尼子之貴族を求得し事
 
山中は丹後へ立帰り物さひしく明しくらしけるか、つく計りおもふに、此日来武勇之道に労せしも、尼子殿之一族を一度雲州へ入奉らんとの望なり、爾はあれと義久は元就より番等きひしく有しに因て、中思ひ絶たる事なれは、了簡之及所に非す、尼子名字之内其器に当れる人を聞立、主君に仰奉らんと方々尋けるに、尼子式部少輔か子息勝久、泉州堺の津に桑門ヨステビトの身と成おはしますか、異業にはうとけれ共、武士之道は事外、嗜もふかく身も軽くして、七尺之屏風を瞬目之内にはねこえ、在前とすれは忽焉として後に在かことく、其上人を知事之明如形、江海之量衆を撫する心、何もたくましき人之由なれは、鹿介此人を迎取大将と崇め奉り、雲州牢人を聚けるに、漸百六七十人に及へり、程なく上下五百余人之主と成ぬ、雖然馬物具見苦敷何事も不如意なれは、隠岐国へをし渡り、判官を頼み、武具等を拵へ見ん、若同心にあらすはしはらく在国し、万事調上らんとの事に極め、船に取乗をし出せは、順風快く吹て、其日の戌之刻に着岸し、此由かくと案内し侍れは、判官も嬉しき事にもてなし、其気味尤清し、然て勝久より斯申入事痛おほしけれ共、黄金拾枚八木千石かし預り候へ、来秋必可返弁由、内々之使者して云入しかは、安き御事に侍ると同心し、翌日及沙汰けり、各悦あへる事恰士として大国を受領し、入部したる如し、かくて若党中間以下に恩賜し、船に兵粮米つみ、判官に一礼よきに調へ、雲州北浦の里へ舟を着、重山と云在所を暫時之要害とし、程もなく島根三郡を切随へ、唱万歳兆民且楽ひあへりき、頓て伯州米子城主等調略を以味方になし、人質を卜置、勢を并せ、弥威を振ひしか共、未富田三沢辺なとへ手遺せん事難成きに因て、隠州判官代へ早船をつかはし、加勢し給候へかし、左もあらは伯州半国知給へ、早々頼入との義岡左兵衛尉を渡し云しかは、早速一千余人之勢にて合力有、寔味方千騎之使とはかやうの事をこそ云へけれと、上下きほひ出にけり、其比元就九州を征せんとて三万余騎渡海し、豊前国文字之城を打囲み攻ける処に、大友宗鱗二万五千之着到にて、中国勢之後陣に要害を構へ、備を堅くし、芸州への通路を止、既に難義に及へり、又大内の義長も防州与芸州の堺に出張し、元就之陣に押並へ対陣せしを以、豊前文字之城を囲し元就之勢危く見えしかは、出雲より出勢せし人々も帰国の心さし出来にけり、鹿介雲州之城主共、元就に相随ひ豊前国に在て難義せし事を聞、是天の与ふる時なり、いさ此すき間を便に、富田三沢三刀屋高瀬なとへ推寄、一当あてむと議し、丹後海賊共に加勢してくれよかしと云つかはしけれは、是百余人之着到にて馳来りぬ、都合六千余騎之勢を卒し、天正七年五月十日先由宇郡に乱人し、民屋以下令放火処に、百姓等出向ひ、是は目出御帰国かなと祝し、樽肴をさオープンアクセス NDLJP:453ゝけかやうの事を内々望存候由云しかは、勝久も弥猛威時を得、鹿助武略を以先祖之面をおこしけるよと悦にけり、斯て元就に属し豊前に在し、富田三沢三刀屋高瀬此領内にをしよせ、在々所々一宇も不残放火し、其外は古しへ本国之事なれは、撫育の功をほどこしけり、

   毛利右馬頭元就家伝

大江千里の後胤毛利右馬頭元就朝臣の先祖、鎌倉之御代には相州毛利と云所を領したりしか、其後世間忿劇に付、芸州田椎と云所纔七十五貫を領して蟄居しけるか、彼元就文武二道之勇士なれは、五三年之内に先安芸国一国を切取居たりし、代々大内分国なれは、馬を繋久しく惣大名並の出仕たり、然処に大内太宰大弐多々良朝、臣義隆卿は、百済国りんしやう太子以来廿四代目の孫也、其臣下陶尾張守企謀反、則義隆卿被伏誅〈[#底本ルビ読取困難。「ヲワンヌ」か]〉、彼陶ツラ思ふやう、主君の跡を絵可申も天命如何あらんやと思惟し、義隆之末葉一人尋出し、号義長主君と仰、家老之面々へ此由かくと披露しけれ共更治りかたし、其時元就思ふやう、一旦大内に馬を繋く上は主君也、遂一戦と存念深し、其より陶と元就不和に成、爰かしこにて取合、年月を送る、かゝりける処に、永禄二年の秋陶尾州彼義長を同道し、毛利を可討干と催し、引卒数万騎出張、周防之三尾岩国両所に陣を取ぬ、元就も一戦を心懸、舟手の警固を揃て、芸州草津廿日市両所間に対陣せり、厳島にも城郭をかまへ、元就臣己斐の何かしと云者常に籠置けり、陶尾張因果之極報にや有けん、厳島へ押渡り己斐か城をふみ崩し、軍神の血祭をし、其よも安芸へ働くへし、義長は陸路を発向し至芸州出勢と誓約して、陶は厳島へ押渡る、此事を元就つたへ聞、はや弓箭に勝たりと悦ひ、急き打たつ、其夜は大風大雨成しに、数百艘の兵船にて軍勢不残漕渡し、さて弥山ミセンへ取登、曙に鬨の声を挙、山下へ押詰合戦す、海上よりは数百艘の兵船にて、弓鉄炮を射入打入攻る事夥し、陶も粉骨して相戦ひしか共、軍兵悉くうたれ、終不相叶塔岡と云所にて切腹す、其時義長は山口さして敗北す、元就の弔働前代未聞の手柄難筆紙、然て十ケ年以後至山口出陣し、長門府迄押詰終に義長伏誅し侍る、爾来大内殿分国を領し、其外近国を切取五六ケ年中に十三ケ国之大守となれり、元就武勇の功筆舌に述かたし、かく飛龍天に在かことく子孫迄繁栄せり、

毛利中興右馬頭大江朝臣元就 大膳大夫隆元 中納言兼右馬頭輝元 宰相兼甲斐守秀元 少将兼長門守秀就

   元就羣難之事

雲州富田之城へも元就五千之勢を籠置しか、尼子勝久を太将とし山中鹿介六千余騎之勢を以をしつめ、山下悉く放火し難儀せし也、九州へも三万余騎之勢をつかはししか、大友に通路をさへきられ、迷惑せし也、大内義長は卒多勢芸州にさし向ひ対陣し、すきまもあらは可討捕テダテ隙もなく見えけれは、元就とやせんかくやあらましと、千変万化に心を苦しめ謀り見しか共、十を以百に配するよりも猶乏し、雲州よりは三沢左京亮、三刀屋弾正忠、高瀬備前守、米原平内兵衛かたへ急き帰陣あれよ、山中鹿介か狼藉以外いたみぬる由、妻子等より急を告る事敷波をたてり、元就此事を聞及ひ、急き四人之者共雲州へ帰陣し、彼逆徒等悉討果しオープンアクセス NDLJP:454首を取候へと使者有しかは、内々望む所ては有、いさゝらはこん夜の出しほに出船し、明日は芸州之地に着岸し、夜を日に続急かんと、声々にのゝしる事をやみもなし、此由はや雲州へ聞えしかは、鹿助かたより三沢三刀屋高瀬米原なと方へ御帰陣之由目出度こそ候へ、昔をおほし出されは豊前御在陣之内にも、御腹立なる事のみ候はんと、御心中察入候なと取つくろひ、親しき書音其あな尤宜しく有しかは、此人々開き見、扨も心有かな文武に達せし鹿介、今世まれなる忠臣たるへしと感しあへりき、此状を披見し、はや尼子殿へ帰参せはやと思ふ心さし萌しけり、高瀬米原は帰城せし夜、勝久へ御帰国目出奉存旨、鹿助を頼入、進物なと献しけれは、殊外令馳走返章いと委し、此両人帰服之一礼有しかは、国中弥静謐に成ぬ、因之三刀屋三沢も降人と成、如前々勝久へ事、忠を尽し候はんと望みしか共、近年属順ひ苦労せし人々承り、曽て悦もせす、鹿介を恨みかほに見えにけり、其をいかにと云に、三刀屋三沢帰参せは、内々望み思ふ知行之程も足まし、累年労せし事も徒に成へきかと腹立有し事、言には出さヾれ共其品浅からねは、且は色にも見え且はふりにも現れぬ、各方々苦労せし時、勝久雲州還住あらは、勝久へ申恩禄之地を施し侍らんと、随順せし人々に鹿介云し事も度々なりけれは、其信を厚く念ひ、両人帰参之望を幸共せさるか、

評曰、鹿助つね子路之信を学ひ見んとせし事も偏に急を救はん時多勢を下知せんに、強く達するやうにあらまほしく思ひ入しに因ての事なるへし、賢哲之人は信に溺るゝ事もなく、背信事もなし、かくて其心を人疑はす、吁至乎、鹿助両人を味方になし其勢を并せ富田之城を攻落しなは、雲州は早速平治せん物を、億〈[#底本ルビ読取困難]〉惜乎小信に屈し大功を徒せし事、

かゝる処に丹後海賊之者共、出雲国も大形平治に及ひ申候条、御暇申とて否の返事をも不聞届、十月の末つかた船に取乗順風に帆を挙たりしかは、隠岐判官も心ほそけに成しにや、同晦日之暁船に取乗をし出しけり、尼子陸に在なから大洋万里にして楫を絶たる船の如く忙然たり、いかゝあらんすらんと各かたづを呑てあきれ果たる処に、鹿助各をはつたとにらんて云けるは、死期極り来たれは固き城墎に在てものかれ得す、不来車軸を流す雨ほと有し弓鉄炮にもあたらさる物そ、隠岐勢逆風に出船せしかは、今夜は三保関に在へし、いさ押よせ夜討し悉く討果し、隣国まても目を驚さん、各も能遠慮し見申されよ、十死一生に極め合戦を遂ぬれは、遠て一死十生とはなる物そといへは、何も力を得此義に同ししかは、鹿助事外悦つゝ、当浦之船共を付立、水子カコを集めよと舟奉行共を出し付立見れは、たゝ小船二艘有、人数何程乗へきそと問にわつか百三十人程乗へきと也、鹿助思ふやうせめて四五百人も渡てこそ思ふかたきをは討んすれ、百人計にてはいかゝ有へき事なれ共、止るへき事にあらねは、五千余人之内を勝つて百廿人渡るへきと評議し、立華源太兵衛尉森脇豊前守相談しあらこなしなとに達者なるを百廿人記し付、出船せしなり、船中にて心閑に夜討之法を書記し、其旨を守る程ならは、必大利を得へし、さらはしるし見んとて、

    覚

一互に小利を不存、大功之立へき事を可存候事

オープンアクセス NDLJP:455一実にあらさる働き仕ましき事

一自地働之虚実有やうに可申事

一進退之義鹿助方可下知次第

一雑人原之首取ましく候組頭之首は取へき事

右之分記し付罰文神おろし等ことしくのゝしり出、聊相違有ましき旨堅く云合せけれは、一きは憑しく力も付、伯州米子を申之刻に出しか、戌之刻計にはや三保関十町程も有へきかと覚しかは、鹿助云やうは、隠岐の奴原さそ帯紐とひて休んすらむ、今夜可寄とは中々思ひもよらし、酒飯物せよと云まゝに、能にいとなみ打上、二艘之船は急米子へ漕もとれよ、勝久へ頓て御吉左右可申上旨申候へとてつかはしけり、かくて三保之上なる山へ取上り、夜半計の事なるに時を噇と作りかけ、山も岸も崩るゝ計に切てかゝれは、ね耳に水の入たるやうに前後を弁す、是はとのみ云処を、追詰追廻し撫切に切ては捨すれ共、太刀をも抜合せす、爰にかゞみかしこに逃て、ふるひわなゝく形勢哀也、後は只一刀一刀つゝ伐ては通りせしかは、地下人共得たりかしこしと濫妨し頓に徳人と成て楽あへりぬ、鹿助刀は四尺三寸なるを以、終夜数を尽して切たれは、後は一切きれもやらて多打ころされにけり、鹿助地下人共に云やうは、隠岐之比興者共之内かしら分之首取て参れよ、首に依て恩賞重かるへしと有しかは、家々を尋捜て能首を取て参りけるには、銀子五枚三枚つゝ遣しけり、関之目代か子甚三郎来て判官殿供之上下三十人計にて、あれなる在所へ唯今のき候そと告しかは、鹿助をしよせくると引巻、一人も残さす撫切にし、判官をも難なく首をそ取たりける、此人かりに居たりし寺へ入見れは、判官かさしかへの刀わきさし其外銀子六十枚余小袖なと有しを、右の甚三郎に銀子十枚小袖一つかはしけり、其外は百廿人船に乗し人々に分与し、今夜之苦労切なる旨委謝し了、寔鹿助無二之忠義を尽しゝかは、天地之鬼人も感をなし給ひし故にや有けん、千人に及ひし隠州のやつはらを、百廿人して討随へ候事難有事なりとて、即三保大明神へ各も社参し、奉幣をまいらせ下向し、暫く休息し有けれは、方々より今夜無比類御手柄目出おはしまし候とて、酒肴之到来其しな夥し、則勝久へ夜討之様子注進のため判官か首并組頭之首九其外八百六十五、船二艘につみ、秋上権兵衛尉さしそへ進上有けれは、事外よろこひつゝ、判官か首組頭首共雲州国中を渡しゝかは内々味方に与し者共、よろこひあへる声暫しはやまさりけり、又敵共味方とも見え分ぬやつはら共、大かた色をかへ、勝久近習にたより媚をなしぬる事日日に新なり、鹿助今度之手柄雲州布部山之合戦、諸人之耳目を驚かす程の武名有、又播州上月籠城中之働有、事多きに因て略之、

 
 
 

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