目次
 
オープンアクセス NDLJP:371
 
太閤記 巻十三
 
 甫菴道喜重選
 
○高麗陣起之事
 
秀吉公、既従汗馬之労功、乗登龍之佳運、守王道行幸、上下雍き和て、東南に雲治り、西北に風静にして、四海の外までも、無于幕下、然れは中納言秀次卿に、伺天気、関白職等を譲り置、某は新羅百済高麗に至て、令渡海、彼国を退治し、其より令入唐、旧功之者共に、爵禄を厚くし、異国之佳風を、見もし聞もし、吾朝之政務を、改め見んと思ふなり、去共予以一人之遠慮、其可否を定めかたし、五人之宿老、〈家康卿、輝元、秀家、利家、景勝、〉三人之小宿老、〈生駒雅楽頭、中村式部少輔 堀尾帯刀先生〉

五人之奉行、〈浅野弾正少弼、徳善院玄以、増田右衛門尉、石田治部少輔長束大蔵大輔、〉等に相議し、其上を以可相定となり、去年夏東征のゝち、中々権威之懃りもて行体、飛龍天に在が如し、旧功之老臣諸侯之面々も、今は干戈を箱ものにし弓をにし、近年之労を慰みんと、粗楽しみにけり、然共此君は大なる志有人なれは、頼朝卿の如く富士の巻がりなどやうの事まては思ひ寄しに、こまもろこしに至て労すへきとは、思ひの外なり、とかくしれぬ人なりとて、さみし笑ふも有、又屈せぬ気かな士たる上は、しつかなる境界を楽しみくらすべき事に非と云つゝ、かんずるも有、

 
○高麗入評諚之事
 
五人之宿老、三人之小宿老、五人之奉行衆、天正十八年三月九日大坂に視候し、登城せしかば、即不時之御茶山里にして給りにけり、かくて被仰出趣は、吾朝を斯令平治事も、各数年之勲功に因てなり、然は至高麗令出勢、平均に退治し、其より入唐し、数国を領し、功臣之労を報し、又異国之政要を、見もし聞もし、我朝の政務の本とし、永く太平之功を立んと思ふは、如何にと損益を請給ふ、満坐謹て奉り、誰も左右に譲り御返辞もとかう有し処に、家康卿めつらしき御沙汰共におはしまし候、可然覚え侍る旨被仰上しかは、秀吉公甚以御気嫌なり、来十五日異国退治門出(首途イ)之祝義に饗膳給り、其後四座之大夫共に、能を可仰付旨にて、何も御暇たふてけり、
 
○朝鮮国御進発之人数帳
 
    肥前国名護屋在陣衆

一万五千人 武蔵大納言殿 一万人   大和中納言 八千人   加賀宰相 三千人   穴津中将 千五百人  結城少将 千五百人  前尾張守法名常真 五千人   越後宰相 三千人   会津少将 二千人   常陸侍従 千五百人  伊達侍従 五百人   出羽侍従 二千人   金山侍従 八百人   松任侍従 八百人   八幡山京極侍従 百五十人  安房侍従 千人    羽柴河内侍従 千五百人  龍野侍従 六千人   北庄侍従舎弟美作守 二千人   村上周防守 千三百人  溝口伯耆守 五百人   木下宮内少輔 千人    水野下野守 千人    青木紀伊守 五百人   宇都宮弥三郎 二百二十人 秋田太郎 百五十人  津軽右京助 二百人   南部大膳大夫 百人    本多伊勢守 二百五十人 那須太郎 七百人   真田源吾父子 オープンアクセス NDLJP:372三百人   朽木河内守 五百人   石川玄番允 三百人   日禰野織部正 二百人   北条美濃守 千人    千石越前守 二百五十人 木下右衛門督 千人    伊藤長門守

     合七万三千六百二十人

   御前備マヘソナヘ

六百五十人 富田左近将監 八百人   金森飛騨守 百七十人  峰屋大膳大夫 三百人   戸田武蔵守 三百五十人 奥山佐渡守 四百人   池田備中守 四百人   小出信濃守 五百人   津田長門守 二百人   上田左太郎 八百人   山崎左馬允 四百七十人 稲葉兵庫頭 二百人   市橋下総守 二百人   赤松上総守 三百人   羽柴下総守

     合五千七百三(四イ)十人

   御弓鉄炮衆

二百人   大島雲八 二百五十人 野村肥後守 二百五十人 木下与右衛門尉 百七十五人 舟越五郎右衛門尉 二百五十人 伊藤弥吉 百三十人  宮木藤左衛門尉 百五十人  橋本伊賀守 百人    鈴木孫三郎 二百五十人 生熊源介

     合千七百五十五人

   御馬廻衆

四千三百人 御傍衆六組 三千五百人 小姓衆六組 五百人   室町殿 八百人   御伽衆 千五百人  木下半介組 七百五十人 御使番衆 千二百人  御詰衆 八百五十人 鷹師衆 千五百人  中間以下

     合一万四千九百人

   御後備衆

三百人   羽柴三吉侍従 五百人   長束大蔵大輔 百三十人  古田織部正 二百五十人 山崎右京進 二百人   蒔田権佐 百七十人  中江式部大輔 百三十人  生駒修理亮 百人    同主殿頭 百人    溝口大炊助 二百人   河尻肥前守 五十人   池田弥右衛門尉 百二十人  大塩与一郎 百五十人  木下右京助 百人    矢部豊後守 二百人   有馬万介後号玄蕃頭 百六十人  寺沢志摩守 四百人   寺西筑後守同次郎介 五百人   福原右馬助 二百人   竹中丹後守 二百七十人 長谷川右兵衛尉 百人    松岡右京進 七十人   川勝右兵衛尉 二百五十人 氏家志摩守 百五十人  同 内膳正 二百人   寺西勝兵衛尉 百人    服部ハツトリ土佐守 二百人   間島彦太郎

     合五千三百人

   朝鮮国先掛御勢

七千人   小西摂津守 五千人   対馬侍従 三千人   松浦刑部卿法印 二千人   有馬修理大夫 千人    大村新八郎 七百人   五島若狭守

オープンアクセス NDLJP:373     合一万八千七百人

八千人   加藤主計頭 一万二千人 鍋島加賀守 八百人   相良宮内少輔

     合一万九千八百(二万八百イ)

六千人   黒田甲斐守 六千人   羽柴豊後侍従

     合一万二千人

一万人   羽柴薩摩侍従 二千人   毛利壱岐守 千人    〈高橋九郎秋月三郎〉 千人    〈伊藤民部大輔島律又七郎〉

     合一万四千人

五千人   福島左衛門大夫 四千人   戸田民部少輔 七千二百人 蜂須賀河波守 三千人   羽柴土佐侍従 五千五百人 生駒雅楽頭

     合二万四千七百人

三万人   羽柴安芸宰相 一万人   同小早川侍従 千五百人  同久留米侍従 二千五百人 同柳川侍従 八百人   高橋主膳正 九百人   筑紫上野介

     合四万五千七百人

   朝鮮国都表出勢之衆

一万人   備前宰相 三千人   増田右衛門尉 二千人   石田治部少輔 千二百人  大谷刑部少輔 二千人   前野但馬守 千人    加藤遠江守

     合一万七(九イ)千二百人

三千人   浅野左京大夫 千人    宮部兵部少輔 千五百人  南条左衛門督 八百五十人 木下備中守 四百人   垣屋新五郎 八百人   斎村左兵衛督 八百人   明石左近 五百人   別所豊後守 三千人   中村右衛門大夫 千四百人  郡上侍徒 八百人   服部釆女正 四百人   一柳右近将監 三百人   竹中絶介 四百五十人 谷出羽守 三百五十人 石川肥後守

     合一万五千五百(五百五十イ)

八千人   岐阜少将 三千五百人 羽柴丹後少将後号細川越中守
〈[#「越」は底本では「趣」]〉
五千人   羽柴東郷侍従元長谷川藤五郎也 三千五百人 木村常陸介 千人    小野木縫殿助 七百人   牧村(野)兵部大輔 五百人   岡本下野守 二百人   加須屋内膳正 二百人   片桐東市正 二百人   片桐主膳正 三百人   高田豊後守 二百人   藤懸三河守 百二十人  大田小源五 二百人   古田兵部少輔 三百人   新庄新三郎 二百五十人 早川主馬正 三百人   毛利兵部 千人    亀井武蔵守

     合二万五千四百七十人

   朝鮮国船手之勢

千五百人  九鬼大隅守 二千人   藤堂左渡守 千五百人  脇坂中務少輔 千人    加藤左馬助 七百人   来島兄弟 二百五十人 菅平右衛門尉 千人    桑山小藤太同 小伝次 八百五十人 堀内安房守 六百五十人 杉若伝三郎

オープンアクセス NDLJP:374     合九千四百五十人

  名護屋在陣勢合拾万二千四百十五人

  朝鮮国渡海勢合二拾万五千五百七十人

   都合三拾万七千九百八十五人

 
○朝鮮陣為御用意大船被仰付
 

東は常陸より南海を経て、四国九州に至て、海に添たる国々、北は秋田坂田より中国に至て、其国々之高拾万石に付て、大船二艘宛、用意可之事、

水手カコ之事、浦々家百間に付て、十人宛出させ、其手大船に用可申候、若有余之水手は、至大坂、可相越之事、

蔵納は高十万石に付て、大船三艘、中船五艘宛、作り可申之事、

舟之入用大形勘合候て、半分之通算用奉行方より請取可申候、相残分は舟出来次第請取可申之事、

船頭は見計ひ次第、給米等相定め可申事、

水手一人に扶持方二人、此外妻子之扶持つかはし可申之事、

陣中小者中間以下、女扶持其者之宿々へつかはし可申候、是は今度高麗名護屋へ立申候者、不残如此可遣之事、

右条々無相違用意、天正廿年之春、摂州播州泉州之浦々に令着岸、一左右可之者也、

  天正十九年正月廿日       秀吉

   朝鮮陣軍役之定

一四国九州は高一万石に付て六百人之事 一中国紀州辺は五百人 一五畿内四百人 一江州尾濃勢四ケ国は三百五十人 一遠三駿豆辺三百人、是より東は何も二百人たるへし 一若州より能州に至て其間三百人 一越後出羽辺二百人

右之分、来年極月に至て、大坂へ可参着候、出勢之日限重て可仰出候、守其旨宿陣不指合様に、成其意申者也、

  天正十九年三月十五日      秀吉

 
○就高麗陣掟条々
 

人数おし之事、六里を一日之行程とす、乍去在所之遠近、六里之内外、奉行計ひ次第たるへきなり、即宿奉行定之条、前後静論なく、万つ順路に可之事、

旅宿屋賃は出し申ましく候、薪秣等之代は、宿主と相対し出し可申候事、

津々浦々番等に有之者、屋賃之義出し可申候、鉄炮之者なとの義、其主人出し可申候事

とまりにて、扶持方馬之飼令下行之事、

オープンアクセス NDLJP:375おしかひ狼藉追立夫、其外万非義有ましき事、

泊々宿々にをひて、理不尽之義仕出すものあらは、当座にとかめかゝり、口論に及ましく候、其主人之仮名実名、能々記し付、其上を以可相理之事、

何方におひても、いたつら者、一揆之徒党かましき様子あらは、ひそかに、告知すへし、一廉御褒美可行之事、

一里に、はやみち二人つゝをき候て、名護屋と、大坂との用所、早速相叶やうに可之、

右条々堅可守此旨、若違背之義あらは、奉行人迄告知せ可申者也

文禄元年壬辰三月朔日より、先陣小西摂津守、賀藤主計頭、是を先として、毎日怠る日もなく打つゝく、其勢夥しさきもを消計也、漸々先勢も皆うち行けれは、同十六日将軍都を立て打せ給ふ、行列之法度正しき体、古今有ましき事になん侍るとて、見物の老若のゝしる声ちまたに洋溢せり、廿七日より跡備之勢、日々打つゝき、卯月五日六日比に行みちぬ、肥前国名護屋は、そのかみ松浦さよ姫か、唐土モロコシ船をしたひしみなと也、此所を旅館と被相定、九州勢としてこしらへ侍りぬ、惣軍勢に扶持方馬之飼料其外水手機取等に至るまて、四十八万人之兵粮無懈怠下行之事、寔蕭何も及ましきにやと思ひしられたり、

   名護屋旅館御作事衆

御本丸すきや                 長谷河宗仁法眼

山里すきや                  石田木工頭

 老松聳たりしを便として一興有、

本丸より山里へうらの露地           寺西筑後守

山里書院五間六間               太田和泉守

 座敷何も狩野右京亮画之尽善也、

同所 御台所                     河原長右衛門尉石河兵蔵

山里おうへ十間十一間               寺沢志摩守

御座の間 西王母 右京亮画

筑山遺水等之体、ちとせをもへたるやうに苔むし、興を尽したる事、言舌のをよふへきなし、其次之前耕作之有、其次之問、花鳥之色絵有、其外は不之、

山里台所六間四間                  観音寺

山里御座之間                           同人

児童之色絵有                           長谷川平蔵図

庭前をのつからなる岩堀を用、自然之美景更にいはん言の葉もなし、尾州内津虎渓之山水も、是にはいかて増らしと思ふ、

山里大台所九間十一間                              石河兵蔵

 取付に料理之間有

オープンアクセス NDLJP:376山里局六間十三間                                石田木工頭

 間毎に花鳥之絵有

山里局五間十五間                                建部寿得

同風呂屋                                   千石権兵衛尉

同御蔵六間十間                                 戸田清左衛門尉

同御蔵五間廿間                                 小西和泉守

同北矢蔵                                   御牧勘兵衛尉

同二之丸番所                                 同人

同くの木作番所                                同人

山里くの木作御門                               同人

同二階門                                   石田木工頭

同菜園                                    同人観音寺

御本丸と二丸ノ間北之門                            河原長右衛門尉

同大手之門                                  御牧勘兵衛尉

 右之わきに矢蔵有                                           観音寺

同取付にも二階之矢蔵有                            同人

同四間五間之矢蔵                               羽柴美作守

同矢蔵〈四問十間西角〉                            大和中納言

 取付 二間三間                                  同人

二之丸良角二階矢蔵四間五間                           溝口伯耆守

同殿守之下冠木門                               大田和泉守

同三階之矢蔵九間十二間                             伊藤長門守

同南ノ門三間七間                                龍野侍従後領若狭国

同升形七間四方石垣                               同人

同大手三階之鐘撞堂五間四間                           羽柴五郎左衛門尉

同大手東之矢蔵四間十間                             長束大蔵大輔

同北矢蔵四間八間                                大和中納言

同西方二階矢蔵四間十八間                            浅野弾正少弼

同南へ取付三間八間                               同人

二之丸大手矢蔵三聞十三間                            鍋島伊平太

三之丸西方矢蔵二間三間                             羽柴河内守

同冠木門                                   羽柴右近

同西門三間八間                                羽柴加賀宰相利家

同西北 角矢蔵四間五間                             同人

オープンアクセス NDLJP:377同取付二間四間                                 同人

同大手東門                                 羽柴右近

右作事等、其外之雑事に至るまて、結構を尽し、おひたゝしき事、中々言舌に絶る計なり、秀吉卿古今に独歩したる主君かなと、誉る声のみ多し、是心盲之人なり、又似たるを友とせし老人二三輩、思ふ事無隔云かはしつゝ誹けるは、誠に此君は武勇智謀度量なとの広き事は、離倫絶類之功あり、国病にしては、日本之賊鬼也、検地をし侍りて、万人を悩し、兆民をせたけ、しほり取て、其身の栄耀を尽せり、勿論盛なる時は、己に過分したる楽しみを極め、作したき事なと、一旦ほゐを遂る事は有けめと、天神地祇と云、直なる神のいまして、左様なる行ひを、にくみ給ひつゝ、ことしくたゝりをなし給ふ也、此とかめは、大臣小臣にも限らす、何れの上にも有と見えたり、易曰、天道虧満、而益謙、地道変盈、而流謙、鬼神害盈、而福謙、人道悪盈、而好謙とかや、伏見大坂之作事なとは、善尽し侍りても、聊はゆるす所も有ぬへし、これは仮の事なるを、万至極に及事、いかゝあらんや、かやうの事を讃人は、千人に九百九十人也、反之誹る智は、甚すくなく見ゆ、

 
○朝鮮陣人数賦之事
 
クガ之勢は、小西摂津守、賀藤主計頭を魁として、つゝく勢は、廿五万余騎也、船手之勢は、九鬼大隅守、島津陸奥守、賀藤左馬助、藤堂佐渡のかみ、脇坂中務大輔、来島兄弟、其勢三万余、船手之奉行は、福原右馬助、熊谷内蔵丞、毛利民部大輔、筧和泉守、其勢六千、総大将には、備前中納言秀家、総奉行は、増田右衛門尉、石田治部少輔、大谷刑部少輔なり、洛中之仕置等は、古田兵部少輔也、是彼皆同音にそ船を出しける、兼て名護屋にして、遂軍評諚、諸事可相定との事なれは、文禄元年卯月十日、悉く彼浦へ着ぬ、九鬼は昔より事旧たる舟大将なれは、大隅守船へ各寄集り、軍評諚あり、互に宜しき事共評論し、衆評一決之後、其かため無ては、叶はざる事なりとて、奉行衆、起請文之前書を出し、此外何も被思慮、忠言を尽し、可申となり、

   敬白起請文前書之事

一船中軍評諚之義、各多分に付て其宜を、そだて可申之事、

一誰々之船によらす、難義に及ひなは、可助成之事、

一珍しき敵之行あらは、互可申談之事、

一忠節之浅深、依怙贔負なく、有姿可申上之事、

一他人之労を盗み、我手柄なとに仕間敷事、

一物見之疾舟、一大将より二艘宛出し可申事、

一名護屋御本陣ヘ注進仕候共、奉行衆之加判にて、可申上之事、

右条々相違有ましく候、若違背之義於之者、八幡大菩薩、愛宕山大権現之御罰を能蒙へき者也、仍起請文如件、

  卯月十日     各連判にて、宛所は奉行衆也、

オープンアクセス NDLJP:378右馬助申けるは、評議相調互に目出事也、さらは酒を物し、船祝ひせんとて、折二合、樽三荷出しけり、九鬼尤可然事にこそとて、湯漬なといとなみ、種々の肴彼是尽て、後は酒乱に成て、何方もうるはしき体、遊宴たり、佐渡守千秋楽は民を撫、万歳楽には命を延と、舞出、即座敷を立にけり、

 
○名護屋より各出船之事
 
先陣之大将、小西摂津守其勢二万、つゝく勢には、賀藤主計頭二万余騎、黒田中斐守二万余騎、其外二十万騎、卯月十二日名護屋を辰之刻に船を出し、石火矢をはなし立、鯨波を上、もやひの綱をとき、数千艘の帆柱ををし立、やざ声を挙、帆を上、何々とのゝしる声々、天地を動かす計なり、当浦を遥に出て、跡さきを見れは、多くの大船小船のかすに、家々の紋付たる幕を打まはし、思ひの旗小指物にてかさりたてしかは、よし野山の春を当浦に移し、立田川の錦を海に流し入たるか如し、実心も空になり、古郷の事も忘れつゝ、扨もと思ふ計也、欵乃歌〈[#底本ルビ読取困難]〉、棹歌の声、多の船中を慰めしに、順風いと心よけに吹出、翌朝壱岐のかざ本の湊にそ着にける、とかふせしまに風かはり、滞留せしほとに、旬余いかりをもおこさゞりしか、卯月廿五日の暁かた、風少ふきよはりぬ、しかはあれど名残の波あらふして、海上いまた穏ならす、小西思ふやう海上をたやかになりなは、何れの船も出なん、向ふ風であらはこそ、いさ渡り見んとて、夜半のころ船を出し、対馬をさして急ぎけり、明る午の刻まて順風なりしに依て、対州豊崎に着しなり、残りの船共小西か舟見えさるに驚き、急き船を出せよ、なと、のゝしる内に、其日も漸午前に成ぬ、とやかくやとして船を出し、五六里も越つらんとおほしきに、又逆風に成て、かざ本へ戻にけり、小西も豊崎に着岸せしかひもなく、逆風をうらみ有し処に、空のけしき聊かはりしかは、船を出すへき用意して待居つゝ、卯月廿八日の酉之刻、海上も静かならねと、船を出し、釜山海へ着とひとしく打上り、町をおし破らんとせしに、敵二万余騎、矢ふすまを作てまちかけ射ける所を、鉄炮を以うちすくめ、おし立込入、終に二三之丸へ追入、本城を辰巳之刻に乗捕、上下八千五百除人、撫伐にしてけり、其外生捕之者二百余人、即此者に通辞を以、近辺の様子を問に、是より三十里戌亥に当てとくねぎと云城有と答ふ、小西打きゝ、諸士に向て云けるは、今朝尽粉骨比類はたらき尤大切まり、然間今夜は是に休すへかむなれ共、此落城を先車のいましめとして、行をかへ用心きびしくしてんや、とても他之勢に渡すへき事に非す、いさとくねきを攻捕、他の国の名城を、一日のうちに、二ケ所攻ほし、多くの敵を討捕、日本に渡し、御所の御感に預らむやと、聊たゆむ気色も見えず、のゝしりけれは、何もうきやかに同しけり、さらは下々急其用意せよ馬の飼なとよきにこしらへよとて、其沙汰に及ひ、午之下刻に打出、とくねきに至て噇と時を作り立、町を打破しかは、釜山海之落城、諸勢を撫きりにしつるにやおそれけん、防き戦はんともせす、悉く落行にけり、小西主殿助、木戸作右衛門尉なと、手勢引つれ追懸、首九百余分取をもし、其夜は当城に陣をすへ、人馬の息をやすめにけり、其後ちくしうに敵多勢にて有よし、小西承届通辞にたより、敵の様子を尋ね侍るに、答ふ、左之如し、
オープンアクセス NDLJP:379
 
○忠州城之事
 
都を守護せんために、忠州城とて、地之利全き名城おはしまし候、剛兵之将数人軍勢六七万騎籠置、よき弓の達者あまた楯籠り、兵粮以下飽まで入置、都にも此城を専頼みとし、心を安し、粗静かなるとそ通辞申ける、
 
○備前の宰相秀家卿、小西を助成し、衆にこえ渡海の事、
 
さる程に小西摂津守は、惣軍勢に先立、事莫太にして、釜山海とくねき両城を攻落し、振猛威事甚以夥し、軍おしの次第を見るに、秀家は八番目なり、小西か先陣を秀家心元なく思ひ、家老の者共を呼集、評議あるは、小西か先陣抜群なり、弥深入して討死などせしかは、将軍の御為と云、某久々目を懸侍りししるしもいかゝなり、いさ救てんよと有し時、各承り是儀儀疑義のいます所にておはしまし候、幸今夜は海上もおだやかなり、船を出させ給はんやと申上しかは、秀家船奉行共を呼出し、ひそかに此湊を忍ひ出、釜山海へ急き候へ、誰かれと次第を定め、数百艘の舟ををし出しけれは、程なく順風いと心よけに吹出、夜もをし明かたに釜山海に至りぬ、小西か家来城番を勤め有しか、罷出御渡海之祝義刷ひけれは、まつ摂州忠勤の様子こまやかに語り候へと有しかは、有のまゝに申上けり、秀家聞給ふて、無比類働誰あつて小西か肩をならへんや、某参陣のよし飛札ヒサツをつかはすへきの条、案内の者を相添候へとて、

卒飛羽檄微志了、今度其表無比類、御手柄寔可御当家無二之忠功候、某令越序、渡海之義、其方先陣無心許存、今暁至于釜山海、明日其表令参陣、万事可申談候条不詳候、恐々謹言

 五月二日             秀家

         小西摂津守殿

摂津守秀家之書簡令拝見、不斜悦つゝ、忝事此上有へし共覚えす、寔千騎万騎之ちからとは、かやうの事なんめりと、笑を含みにけり、賀藤主計頭は、小西に先陣をこされし事を、無念に思ひ、摂津守か進みし跡を打むも、心うき事に侍るらし、こもかいへ船を着、陸に上り、小西か事をとへは、かくなん答ふ、主計頭承りふかく怒りつゝ、今日よりは先陣人には、さすましき物をとなり、日本勢大略渡海せし由、とくねきへ注進ありしかは、小西思ふやう、忠州之城をも乗捕、弥抽忠懃はやと、弟にて侍り主殿助木戸作右衛門尉なと呼あつめ、御勢悉く渡海し、諸勢今明日之中参陣有へきとなり、いさ明朝忠州之城を忍ひトラへきと思ふは、いかゝ有へしと云けれは、何も尤なり、急き給へとて、ひたと用意し、戌之刻に打立、漸く丑之時とおほしき比、城の麓に忍ひ寄、噇と時声を上、峻々声を挙しかは、城中寝耳に水の入たるか如く、驚きあへりつゝ、矢夾間なとをも塞あへず、忘却於親疎、我さきに退なんとのみせしなり、かゝる処へ攻上りしに、窮鼠還て猫を噬慣ひにや有けん、多くの勢の中より五六千弓を取合せ、鑓長刀を以防戦ふ事、甚以夥し、小西しのひの者とて、伊賀の者百人有しを、半を分、城の後へ廻し、山下を焼立しかは、敵度に迷ひ出けり、弱兵がちなるくせとして、退立オープンアクセス NDLJP:380たる勢は、一致せさる物なりし故、且裏くつれしたりけれは、防戦ふ勢共、はやうしろを見そめ、前よはに成たりし処を、小西馬しるしをふりつゝ、一揉もめや者とて、鯨波を挙捫、合せたれは、剛弱共に上を下へと争ひ落る体、我朝のむかし、一谷のおちあしもかくやと思ひ知れたり、かゝる処を得たりかしこしと、わり入こみ入、散々に切て捨、城をかつき取、勝時を挙、討捕し首を集、秀家へ持せ進しけり、忠州之城落去せし由、都へ聞えしかは、老臣之面々評して曰、此内裏滅亡之時至りぬ、敵不近前に重器をも退まいらせ、其後御殿に火を放ち、煙のまきれに何方へも忍はせ給ひ、可然おはさんやと諫め奉れは、上下此義に同し、上帝を鳳輦にのせ奉り、かた計の供奉之体、いと物さひし、かくて殿の旧臣、内裏に火をはなちけれ共、焼亡之時未至にや、焼ざりけれは、悉く帝の御跡をしたふて退にけり、寔に年久しく住なれし都をふりすて、をのかさまに分れ行形勢、中々物にこえてあはれなり、君を跡に見るも有、先立まいらするもあり、親は子を尋ね、子は親の行衛にこかるゝも有、日来属従ひし僕共声を限に頼みし人は、いづちまよはせ給ふらんと、呼ふ声にや有けん、其さまいと哀れなり、又老たる父母の手を引、我子を負てまよふも多く、父母をは弟に渡し、兄は主君の先途を助くるも有て、あはれさ絶入計也、

 
○上帝之御事
 
天子は第三の宮を御同道有て、義州をさして落させ給へは、二男の王子いかゝして、をくれさせ給ひつらん、きやうあん道さして落給ふ、彼国の官人二男へ附まいらせし老臣にて有し故なるへしと、案内者云けり、取分哀にも殊勝にも有は、八歳九才許のおさなきか、書籍を抱きかゝへ、是を御芳志あれかしと云体に見え侍るを、心有ものゝふにや有けん、其児を助取て、書籍をも日本へ届渡しつゝ、親しく撫育してけり、
 
○小西都入之事
 
忠州之辰巳に当て広野あり、此所にして都入え評議せんとて、賀藤主計頭、同遠江守、黒田甲斐守、鍋島加賀守等、増出右衛門尉、石田治部少輔、大谷刑部少輔に相理、小西摂津守方へ書簡を遣しけれは、五月六日之朝来し故、評談有けるに、都入之先陣は主計頭たるへしと思度計なけに云出ぬ、小西打聞て、当国之先陣は、日本にて御定めなされ候条、今更私に定られん事、御法なきに似たり、一向承まじき旨、言を放て申けり、主計頭とまれかくまれ、先陣は手柄次第にせんとて、既に同士軍あらんと見えぬ、加賀守さし出、勿論先陣は小西殿にて有けめど、三ケ所之城を只一人の手柄にて、かつき被申し上は、都入之先陣は、手を分て沙汰し給ふて宜しかるへく覚え候と云けれは、小西理に服し尤にこそとて、都入之海道二筋おはしまし候、南大門は行程百里計にして大河有、東大門は百有余里、遠く候へ共川なし、去共大山は多くある由聞え侍る、何れにても主計頭このみ次第たるへしと申けれは、鍋島もおとなしやかにおはしますと感しつゝ、主計頭へ其旨かくとあれは、大河有とも近かたより入なんとて、即南大門さして急きけり、小西は兼て生捕のうち二百余人、山川に達者なると、都の案内によし有者を、助けをき、よきに愛しけれは、万の自由乏しからず、此内川に意得たる者をオープンアクセス NDLJP:381二十余人、主計頭向ひける大川につかはし、近辺の船共を流しすてにけり、賀藤はかやうの事をは聊も不知、急き行、大河に着けるに、広き事十余町、滝なつて、すさましかりし事なれは、船や有と川上に上て見、下て見れ共、船一艘もなし、若渡瀬やあると、三里上下を尋させ侍しか共、なかりけれは、其日は空しく河辺に宿陣してけり、小西は五月十日の辰之刻に都に至て見れは、東大門をさしかため入へきやうなし、又防き戦はんとせし勢も見えす、然共四方石垣高くして、門の高き事十間計も有しかは、中々入かたうして立たりけり、とやせんかくやあらましと、のゝしる処に、こざかしき者さし出、門のわきなる水門より、ます五十人も百人も入て御覧あれかしと、いひしにこそ心は付てけれ、しかはあれと、五尺四方の水門に、鉄をうちのへ、能にこしらへけれは、心計は入ぬ、かゝる処に木戸作右衛門尉、しやうこそあれとて、鉄炮の台をはつし、筒にてはねをこし入て、門の戸ひらを明にけり、小西大の眼をいからかし、ぬけでかけすな、乱妨すべからされ、酒家に入ざれと下知して、軍法堅く物し、静り反て、もしやの合戦を心にそなへつゝ、入て其仕形尤よし、

評曰、大門あきつるを幸に、多は乱れ入なんに、宜しき法を云出、軍法正しくして都入せしは、一廉なり、寔泉州堺の地下人、如清か子としてかく有しは、尤長ある勇士ならんか、永禄の比はな譴をつきし人達は、おほかめれど、かやうの時しつまりかへり、法して入、異国に佳名有しはまれにこそ、

かくて洛中之体を見るに、人更になし、内裏に入て見れ共、監士宮門を守されは物さひてけり、小西先、外朝に在て、我勢を宜しく賦りをき、四門をも固め、番等きびしく沙汰し置、翌朝主計頭先手之勢進み来て、門を明よといひし時、是は小西都入之先陣して、大門をかため有しなり、用の事あらは、五三人は入べしと云しかは、立帰てかく告ぬ、賀藤打聞て、いきまきて腹を立、いや都に入なはあしかりなん、大王は退給ふ由なれは、せめて此行衛を追みんと、洛外に在て、其さまをだやかなり、

 
○王子を追掛奉る主計頭働之事
 
主計頭は、洛中評議の員(数イ)にも洩、王子を追懸とらへ奉らん工夫を費し、謀臣を呼集め計けるは、都入之先陣は某せんと、御法をも破り進にしか共、大河にサヽヘられ、小西に越れし事、無念之限なり、せめて太子を追懸んと思ふ也、明朝立出なは、はるかに落のびさせ給ふべし、亥之刻に出へきなり、其用意何となふ申付候へ、内々の案内者五人可召連、馬具等は好み次第に沙汰し、つよからむ馬を渡し、労せさるやうに心を添よとて、奉行を付にけり、其時にも及はん比、庄林隼人佑を呼て、ひそかにはや用意せよと有しかは、下々をおこし廻り、いらてしかは、漸事調り、亥の下刻に忍ひ出、きやうあん道へと急きけるほとに、夜の中に二十里を過ぬ、都に在し人々、主計頭陣所に尋ゆき問に、清正は夜半にかくと答ふ、各興さめて、扨もすきまなしかなと感するもあり、ぬかれけるよと恨むるも有、主計頭めしつれし案内者、知方に付て、又案内者を求め追懸行は、太子はきやうあん道イツレの県におはしまし絵ふとなり、清正天の与る幸かなと悦つゝ、頓て取かけ、弓鉄炮を射入、うち入おめきさけんて攻入むとひしめきオープンアクセス NDLJP:382あへりぬ、城中堪かねて和を乞給ふ、主計頭其求に応しつゝ、二男の太子十七歳、其外官人百余人請取奉り、清正も供奉の数に加て、御泊の御所を営み入まいらせをき、秀吉公へ其旨注進申上しかは、御機嫌大かたならずして、吉光の脇指黄金五千両被下けり、
 
○秀吉公就御母堂御異例御上之事
 

さる程に、殿下の御母堂大政所は、御とし八そぢにたけさせ給ひしか、秀吉公こまの国へなむ渡らせ給ふにやと、おぼしわつらいせ給ふ、かしつき奉る人々、いやとよ肥前国なごやと云所におはしまし、諸侯大夫をのみさしこし給ふよし、御けしき取々になくさめたてまつると云共、それをけにとおほさず、六月半より例ならず見え給ひしか、日にそへおとろへさせ給ふ、秀次公より、とみの事、毎日つけさせ給ひし御せうそこも、いよ頼みなく聞えさせ給へは、秀吉公此わかれは、二たびなき事なり、いきのかよふ内に、いま一たび見たてまつり、かて立帰らせ給いんとて、これかれ御留主之事、家康卿利家などへ仰をかれ、七月廿二日をしあけかたの出しほに、御船にて上らせ給ひし、御跡の在陣衆、つとめ侍りし番所、左のことし、

 
○名護屋御留主在陣衆
 

大和中納言 森右近大夫 勢州穴津少将 藤堂佐渡守 伊賀侍従 浅野弾正少弼 江州八幡侍従 同息左京大夫 播州龍野侍従 同舎弟木下宮内少輔 朽木河内守 小川土佐守 水野和泉守 伊藤長門守 伊藤弥吉 生熊源介 橋本伊賀守 千石権兵衛尉 河原長右衛門尉 石川出雲守 羽柴河内守 吉田又左衛門尉 日根野織部正 伏屋小兵衛尉 伏屋飛騨守 西川八左衛門尉 佐久間河内守 水野久右衛門尉 滝川豊前守 佐藤駿河守 鈴木孫三郎 大塚与一郎 鍋島伊平太 落合藤右衛門尉 鈴木孫一郎 蜂屋市左衛門尉 美濃部四郎三郎 安井次右衛門尉 吉田主水正 石河兵蔵 南部弥五八

関東衆

江戸大納言家康卿 会津侍従氏郷 結城少将 佐竹侍従 伊達侍従政宗 北条美濃守 北条助五郎 真田安房守 出羽侍従 真田源三郎 宇都宮弥三郎 成田下総守 那次衆 安房里見侍従 南部大膳 秋田太郎 北半介 佐野大夫 六卿衆 小介川治部少輔 小野寺孫十郎 滝沢又五郎 内越宮内少輔 三ノ屋伊勢守 高屋大次郎 由里衆四人

北国衆

羽柴加賀宰相利家 羽柴松任侍従長重 上杉越後宰相景勝 羽柴久太郎 羽柴美作守 青木紀伊守 溝口伯耆守 村上周防守

裏之御門番衆

オープンアクセス NDLJP:383

一番      有馬中務卿法印大野木甚之丞 二番      石田木工頭大田和泉守 三番      長束大蔵大輔江州 観音寺 四番      寺沢志摩守御収勘兵衛尉

西之丸御前備衆

七百人   富田左近将監 八百人   金森飛騨守 二百人   蜂屋大膳大夫 三百五拾人 戸田武蔵守 三百五十人 奥山佐渡守 四百人   池田備中守 四百人   小出信濃守 五百人   津田長門守 二百人   上田主水正 八百人   山崎左馬允 五百人   稲葉兵庫頭 二百人   間島彦太郎 二百人   市橋下総守 二百人   赤松上総介 三百人   羽柴下総守

東二之丸御後備衆

三百人   羽柴三吉侍従 五百人   長束大蔵大輔 百五十人  古田織部正 二百五十人 山崎右京進 二百人   蒔田権佐 百七十人  生駒修理亮 百七十人  中江式部大輔 百人    生駒主殿亮 百人    溝江大炊助 二百人   河尻肥前守 五十人   池田弥右衛門尉 百二十人  大塩与一郎 百五十人   木下左京亮 百人   矢部豊後守 二百人   有馬玄番允 百七十人  寺沢志摩守 四百人   寺四筑後守同 次郎分 五百人   福原右馬助 二百人   竹中丹後守 二百七十人 長谷川右兵衛(尉イ) 百人    松岡右京進 七十人   河勝右兵衛尉 二百五十人 氏家志摩守 百五十人  氏家内膳正 百人    服部上佐守 二百人   寺西勝兵衛尉

  右一日一夜宛無懈怠勤仕者也

御本丸大手御門番衆

一番    服部土佐守 二番    塩屋駿河守建部寿徳

本丸裏表御門番衆

一番   中江式部大輔 二番   山崎右京進 三番   石田木工頭 四番   長谷川右兵衛尉 五番   石河備前守 六番   寺沢志摩守 七番   長束大蔵大輔 八番   服部土佐守 九番   蒔田権佐 十番   福原右馬助

  右一日一夜宛堅可相勤者也

三之丸御番衆  御馬廻組

 一番   石川組

石川紀伊守 土橋右近将監 佐藤半介 金森掃部助 田丸勝八郎 今枝勝七郎 片岡喜藤次 中村七助 雲林院忠介 滝川助大郎 森村三平 坂井理右衛門尉 水野源左衛門尉 水谷次右衛門尉 坂井彦九郎 丹羽源大夫 落合新三 真田源次 山中五郎作 土肥久作 上田勝三郎 宮村清三郎 平井金十郎 立野孫十郎

オープンアクセス NDLJP:384 二番   中島組

中島左兵衛尉 青山勝八郎 斎藤新五 村上太郎兵衛尉 坂井平八 長谷川宗次郎 小沢喜八郎 桑原勝介 吉田彦四郎 萱野弥三左衛門尉 池山新八郎 宇野伝十郎 水原彦三郎 矢野十左衛門尉 塩野屋宗四郎 長坂三十郎 郡十右衛門尉 高田源十郎 薄田伝右衛門尉 河原勝兵衛尉

 甚内

 三番   長束次郎兵衛組

長束次郎兵衛尉木下小次郎 津田新八 赤座三右衛門尉 坂井平三郎 河副式部丞 一柳大六 安見甚七 岡村数馬助 山名市十郎 日比野小十郎 矢野源六郎 岸久七 広瀬加兵衛尉 大谷次郎右衛門尉 山羽虎蔵 長江藤十郎 山口三十郎 薄田源大郎 田中藤七郎 柘植次郎吉 五十表小平次 安西左伝次 山田半三郎 堺猪左衛門尉 田中三十郎

  四番   桑原組

桑原次右衛門尉 杉若藤次郎 木曽八郎大郎 多羅尾久八郎 村井吉兵衛尉 津田掃部助 平野九郎右衛門尉 河田九郎左衛門尉 平野新八郎 越智又十郎 前田大郎助 生熊丹左衛門尉 梶原兵七郎 中川長助 岡本清蔵 伊知地与四郎 大蔵五郎左衛門尉 岡本平吉 森権六郎

  五番   中井組

中井平右衛門尉 多賀長兵衛尉 松原五郎兵衛尉 溝口伝三郎 小出孫十郎 荒川助八郎 吉田三左衛門尉 吉田九一郎 石川長助 小原喜七郎 小崎兵右衛門尉 石尾与兵衛尉 山名勝七 安宅源八郎 矢野九郎次郎 薄田清左衛門尉 赤座藤八郎 松浦金平 茨木兵蔵 佐久間葵助 賀藤小助 吉田又七郎

  六番   堀田組

堀田図書助 上条民部大輔 野々村次兵衛尉 村瀬宗七郎 余語久三郎 伊木半七 賀藤清左衛門尉 大山勝兵衛尉 大津久兵衛尉 山本加兵衛尉 桑山市蔵 山田平兵衛尉 井上彦三 林猪兵衛尉 生熊与三郎 寺島久右衛門尉 矢野久三郎 団甚左衛門尉 村瀬喜八郎 吉田市蔵 粟屋弥四郎

本丸広間之番衆  馬廻組

  一番   伊藤組

伊藤丹後守 津田少兵衛尉 桑原将八郎 福原太郎左(右イ)衛門尉 木全又左衛門尉 長塩弥左衛門尉 吹田毛右衛門尉 村田将監 岡村弥右衛門尉 那須助左衛門尉 オープンアクセス NDLJP:385藤堂勝右衛門尉 上原次郎右衛門尉 三上大蔵丞 酒井助允 小栗助兵衛尉 三牧太郎右衛門尉 岡田勝五郎 尾関喜介 津田新右衛門尉 清水弥左衛門尉 竹内虎介 高橋弥三郎 吉田次兵衛尉 吉田彦六郎 松井新介 柴田弥五左衛門尉 三村九郎左衛門尉 山口藤左衛門尉 村上兵部丞

  二番   河井組

河井九兵衛尉 三好孫九郎 森宗兵衛尉 三好新右衛門尉 生駒若狭守 三好為三 石河忠左衛門尉 佐々喜藤次 生駒孫介 植柘平右衛門尉 飯沼五右衛門尉 跡部佐左衛門尉 宮島甚五右衛門尉 河井次右衛門尉 寺西半左衛門尉 加須屋与十郎 伊藤長蔵 能勢宇右衛門尉 林喜兵太 林助十郎 林長次郎 生島佐十郎 三宅善兵衛尉 溝口新介

  三番   真野組

真野蔵人 赤松次郎太郎 津田小平次 赤松伊豆守 小崎新四郎 堀田三左衛門尉 大田平蔵 堀田部介 平彦作 桜木新六 塚井新右衛門尉 堀田権八郎 佐々権左衛門尉 木村藤介 河北算三郎 清水喜右衛門尉 平塚因幡守 乾彦九郎 今井兵部丞 貝塚五兵衛尉 朽木六兵衛尉 真野左大郎 平野甚介

  四番   佐藤組

佐藤隠岐守 伊丹兵庫頭 長谷川甚兵衛尉 小笠原左京大夫 竹腰三郎左衛門尉 大屋三右衛門尉 福富平兵衛尉 赤座弥六郎 上野中務少輔 飯沼金蔵 安部仙三郎 河村図書助 飯沼二(仁イ)右衛門尉 寺町宗左衛門尉 大屋助三郎 青木善右衛門尉 河村彦三 佐藤助三郎 余田源三郎 橋本九右衛門尉 古田宗四郎 寺町新介 古田宗五郎 安見新五郎 飯尾兵左衛門尉 寺町孫四郎 佐藤孫六郎 舟津九郎右衛門尉 赤部長介

  五番   尼子組

尼子三郎左衛門尉 春日九兵衛尉 東条紀伊守 中村掃部助 高橋三右衛門尉 進藤新次郎 永原孫左衛門尉 山岡修理亮 上田勘左(右イ)衛門尉 三好助兵衛尉 井上新介 梅原伝左衛門尉 河毛九郎左衛門尉 田那部小伝次 野間久左衛門尉 青木左京進 渡辺九郎左衛門尉 河毛源三郎 岳村与八郎 松田源兵衛尉 水原又進 河副源次郎 伊藤半左衛門尉 田那部与左衛門尉 河毛勝次郎 野間長次郎 斎藤吉兵衛尉 荒木助右衛門尉 賀藤弥平太

  六番   速水組

速水甲斐守 佐々孫十郎 白樫主馬助 白樫三郎左衛門尉 山中又左衛門尉 渡辺半右衛門尉 本郷少左衛門尉 小坂助六 千秋又三郎 夫問甚次郎 北村宗左衛門尉 藪田伊賀守 森藤右衛門尉 森村左衛門尉 篠原又一郎 萱野左大夫 佐々十左衛門尉 佐々喜三郎 山内善助 山本太郎右衛門尉 宮崎半四郎 青山助六 竹内源介 南見孫介 安居伝右衛門尉 北村五助 鈴村与三右衛門尉

オープンアクセス NDLJP:386 右一日一夜宛無懈怠勤仕者也

  七月廿二日      御朱印

御母堂大政所、御異例日々におとろへさせ給ふに因て、医師衆評之上、其趣を秀次公へ申上あかは、毎日御注進有、将軍は御気色の様子被聞召届、扨はちかつかせ給ふにやとて、七月廿二日名護屋を立出させ給ひ、船頭明石与次兵衛を被召出、被仰付候は、今度御上洛継夜於日急思召間、精を出し水手巳下無油断申付旨、直に被仰付し也、毛利右馬頭輝元は、其比朝鮮在陣也、長子左京大夫秀元は、幼少故在国せしか、名護屋為御見舞、参上し侍りぬ、秀吉公御機嫌にて、則上方可召連之御上意にて、船中供奉し侍る、然処に秀吉公御座船、豊前国内裏之沖、爼板瀬といふ難所へむかひしかは、自然御一大事も可之哉と、右京大夫心を付乗し舟を急ける処に、如案彼瀬へ乗かけ、御船難儀に及ひ、船中過半沈水す、秀吉公御一命危く見えさせ給ひ、数百艘の供舟周章騒く半、右京舟を御座船へ乗よせ、是ヘ御移候へと申上る、秀吉公御機嫌にて、則秀元舟へ御移被成、其時右京大夫を被宰相、御聟に可成と、直御約束御懇情之御感不斜、さて明石を被召出、只今の仕合いかにと、御気色悪き処に、あはてつゝ申上候は、此難所兼て承及候へ共、中国悉御敵に罷成候由申間、むかひの地を伝ひ、御船を上せ可申と存候内に、如此御座候と申上しかは、秀吉公御腹立之余、中国殿の船に移り、一命を助る、扨々言語に及かたき申分かなとて、則内裏の浜にして、明石与次兵衛首を被列にけり、斯て昼夜を分ず、急かせ給ふ程に、同月晦日に上着し給ひつゝ、大政所へ入せ、いかにやと間はせ給へは、はや廿五日薨し給ふと、申上ぬるとひとしく絶入給ひてけり、医師等人こゝち出来給ふ御薬を、すゝめ奉れは、おほつかなきさまして、いまた御涙もみえす、あきれさせ給ひぬ、しはし有て、御なみたしは止さりき、かくても果ぬ事なれは、まつ広間へいて給ふて仰けるは、此度御最期の御いとまこひ不申事も、高麗もろこしを征してんと思ひしに依てなり、一入御残多侍るとて、くり返し悔給へともかひぞなき、御取おさめの事、大徳寺へ其旨被仰出、古今けつかうなる例にまかせ、とふらひ奉りたき由、徳善院玄以を以て、玉仲和尚に被仰付にけり、依之善尽し美つくしたる作善、とかう申に及れす、其後又九州に赴かせ給ひけり

 
 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。