目次
 
オープンアクセス NDLJP:324
 
太閤記 巻十
 
 小瀬甫菴道喜輯録
 
○筑紫陣之事
 
夫惟従文明于元亀比君威東西に衰へ、武命南北に微にして、諸侯大夫をのが国々領分に有て、自由の沙汰多かりけり、寔畿内遠境君なきに似たり、さればにや、島津修理大夫義久も、自国に有なから任官し、諸事任雅意不順之至甚以尾籠也、然間使者を差下し、如古代上洛、奉君命やうに可在とて、天正拾四年九月十二日千石権兵衛尉を先豊後まて被差遣、及其沙汰之処、彼藤吉郎猿冠者か分として、上洛せよとや、片腹痛き事なんめり、寔頼朝卿の近習大友一法師ヨリ爾来、上洛すへき事なとの触、近衛殿よりの外迨于今其例なし、書簡見るまてもなしとて投にけり、此有増千石ほの聞、以外腹立し、甚悪口して即豊後勢をくはへ六千余騎を卒し、国之堺に出張し、島津方人威(威疑伊)集院か領内に陣を取にけり、島津義久其由を聞同名中務丞を大将とし、二万余騎之勢をさし向、対陣に及ひ、既合戦をいどみ、互に武勇の程をみがき、数刻太刀うちし鑓を合せ、勝負まちなりし処に、長曽我部信親鑓を入、手の者廿二騎随左右打死してけり、敵此首を鑓十本計に貫き上て、大将之首を打捕て有そ、是見よやとて声々に呼る、痛しや元親は信親打死を不知して退し処に、竹内新助桑名太郎左衛門尉は元親に最後の暇を請、引帰(返イ)し信親にむかひし敵の備を問て、遂忠死たりけり、因之豊後勢堪りかね敗北して、十河新太郎、矢野、田宮初とし数多討死せしかは、千石も虎口を甘け這々退て豊後地へ引入にけり、如此なるに依て黒田官兵衛尉、〈後号如水小早川左衛オープンアクセス NDLJP:325門尉隆景八千余騎之勢を相随へ、同十月下旬至豊前発向之処、其国之一揆蜂起し、宇呂津と云所へ差出、要害を構へ、通路を取切、剰すきまもあらは夜討を入ん催も有よし、告知するもの有ければ、両人相議し、十一月五日逆寄に切てかゝり、要害をせめ破り、名士十一人其外雑兵五百三拾討捕凱歌をそ挙たりける、其夜は障子岳に陣を取、同七日河原か嵩に陣をすへ要害を拵へ、秀吉之出勢を待居たり、

評曰、件之使者には何れか宜からんと、其撰在衆評てこそ事も調ふべけれ、国朝之政務等に、事よする使者などに、権兵衛はおほつかなきか、千石素性腹あしく、武勇のみを専にして、弱き事を強て嫌ふ者なりき、か様の使者は智謀足て、武勇得其所者にあらずんば、諸事調ひかたかるべきか、

 
○筑紫陣御触之事
 
同十一月三日千石権兵衛尉かたより、島津方へ御肴を遣し、奉先規之旨急上洛可然之由申渡候処に、一向承引もなく、剰島津中務丞大将として、豊後の国堺に至て相働き、大友家中におゐて名ある者共、数多討捕畢、御出馬なきにおゐては、御為不然之旨、以使札申上しかば、秀吉公聞召此上は不是非、征伐せらるべきにぞ極られける、然間来三月朔日九州表可発向之条、無油断用意有て、二月廿日以前至摂州参陣之旨、十二月朔日より国々へ触まいる、畿内五ケ国北陸道之内五ケ国、江州濃州尾州伊勢伊賀南海道六ケ国、中国十六ケ国以上三十七ケ国、其勢二十万余騎とかや、遠国之事なれば兵粮米馬之飼料、下行あるべき奉行として、小西隆佐建部寿徳吉田清右衛門尉宮木長次、此四人は十二月十日に大坂を立出三拾万人之兵粮、二万疋之馬之飼料、先一とせの分用意可申旨被仰付にけり、即下奉行共国々御蔵入方より、兵庫尼崎辺へ其手寄に随て、御蔵米着可申由触にけり、御扶持方渡し奉行は、石田治部少輔大谷刑部少輔長束大蔵大夫也、数十ケ国之陣用意に、方々より京堺へ上りつゝ、異国之珍物、或弓鉄炮、同玉薬、或和州奈良之職人等に、其価をいはす兵具をあつらへ、事繁きさまにて、にきはひしかは、いつにすくれ、めてたかりし年の暮かなとて、町人等悦ひあへり、又しきしまの道、音曲の達者などはさひしき歳暮に遇て最静なり、又八幡愛宕の両山は、武運長久の祈りを国々より頼来りしかは、一山沢ひ渡て、千喜万悦の声々、霞を酌かはす院々多し、漸今年も日数なく成て、年の名残を問かはす足もと、しつかならぬさまも、時にしたかひ宜しきにや、秀吉公大坂にして御越年をはしまししかは、ちかきはらは云にも及はす、遠国より来り侍る使者なと、宿をかり侘るもあり、又挑灯あまたともしたて、小袖樽やうの物おひたゝしく持つゝけ、ときめく人たちの門々にみちて、にきはひぬる事も、此歳暮いいつに勝れてめてたふそ覚えしか、夜半の比より何方も音なく成て、しつかに夜は明にけり、

評曰、惟福神は一人に私し給はす、移かはりゆく(行イ)か、仮令信長公にしてときめきし寵臣のうち、生残り侍りつる矢部善七郎、秀吉卿につかへていとわびしかりしか、あまり不如意なるに依て切腹せしなり、又秀吉卿にて、ならひもなく威勢有し増田右衛門尉等、是も関東オープンアクセス NDLJP:326岩着におゐて、上意として切腹有しなり、福神は其世其人にして、多くとこしなへに守す、思ふに此幸にあひ、栄久にあらさる人々を見るに、只驕がちにしてをのか心をつゝまやかにし侍らず、民の費をいとはす、家などにきよらを尽し、調度もよき品を好しなり、然るゆへに久しく不守か、しかは云と夏商周は栄久に有し、されは倹は幸の基、賢は百福之宗と云伝へしもむへなるか、

明れは天正拾五年正月元旦之出仕なと、乱世ニ事かはり、式掌之沙汰に及て物ぶりてけり、二日之晩には御謡初とし、四坐の大夫とも召よせられ、御かはらけめくりにけり、諸侯大夫其外紹巴昌叱なとも御祝儀申上、一きはうたふ声々もゆたかにして、万歳をよはふ大夫共には小袖二重つゝ、坐のものにも一重つゝ引給ふ、めてたかりし事共也、

 
○九州御出勢に付御掟之条々
 

兵粮馬之飼料九州之地、令参着之日より可下行之事

別紙出勢之日次、二月十日より無相違立出、泊々不指合やうに、宿奉行次第可於其旨之事

喧嘩口論仕出来候はゝ、双方其罪遁ましき事

追立夫、をしかひらうせき等、有ましき事

奉公人先主に暇をもこはす、主取を仕有之処、先主見付候て理不尽に成敗仕候者、却て可越度、見付次第当主人に相理、其上を以急度可申付、又届有て奉公人を、にがし候はゝ、其主人越度たるへき事

城を打囲む事、相定る攻手之外一切令停止

合戦に出立先陣後陣之儀、軍奉行次第下知を相守可申之事

右軍法を背き、自由のかけ引有之におゐては、可厳科者也、依如

天正十五年二月朔日より、先勢打立つゝ、海道は多勢引もちきらす打しか共、軍法正しけれは宿等さし合、事もなく、いとしつかに、喧嘩口論の災もなし、かくて先勢半をすき、渡海して豊後豊前に充満たるに、後陣はいまた備前播磨之浦々にひかへたり、二月下旬には、後陣も渡海せしかは、秀吉公三月朔日洛陽を立て、うち給ふ、其日の装束には、緋威の鎧鍬形打たる甲を猪首に着なし、赤地の錦の直埀、いとはなやかに出立たまふ、供奉の人々老たるは猶若き出立、言語を絶したり、奇麗古今あるなしき事なりと云あへりぬ、

三月十七日芸州之地に至て参陣し給ふか、厳島御見物あるへき旨也、然共風あらましう海上も穏ならされは、二三日御滞留有し処に、廿日之朝なき、いつに勝れしつか也けれは、さらはをし渡らんとて、厳島さしてこき出ぬ、水手梶取共、欵乃の歌ことしくうたひ出、にきはひわたりつゝ、宮島に上り給ふに、社僧神主内侍とも罷出、御祝儀さまに取つくろひぬ、廻廊に登り給へは、蜑とも貝ひろひて奉る、寔にけしき面白かりけれは

 きゝしよりあかぬなかめのいつくしま見せはやと思ふ雲の上人

となん詠し給ふて、けに思ふ事有て見るよな、此景、都なりせはと、うらみにけり、いにしへ清オープンアクセス NDLJP:327盛入道の参詣し給ひつる事なと、是かれ内侍共由上しかは、御気色なり、かくて明神へ鳥目千貫つませ給ふ、其外神官等にも御引出物ねんころにそ、おはしましける、同廿五日赤間か関に御参陣有て、長門之浦々を御覧しけるに、折ふし風の音あらましう吹かはり、何と哉覧(やらむイ)物すさましけに、見えしかば、平家之亡魂、美しくや思ふらむと、おぼされて、かくなむ、

 波のはなちりにしあとの事とへはむかしなからもぬるゝ袖かな

かやうに口号給へは、何となく海上おたやかに成て、程なく筑紫之地へ着給ひぬ、翌朝当地之体を下墨給ふに、通路之自由も、又九州之要にも、此関戸之城に越たるは有ましきとて、増田右衛門尉長盛を番手とし入置たまふ、夜の嵐に海上いたくあれしかは、名残の波つよふして、波枕岸をあらひ、すさましく有けれは、都に似ぬを旅とおほされ、御心つからにうきを慰給ふ、当津之警固として毛利勘八毛利兵橘を置給ふ、両人奉行して渡之船共、おほくあつめおき、往還之渡海いとやすく有けり、門司之城之番手とし丸毛三郎兵衛尉城戸十乗坊をぞ居置給ふ、此城にして軍評定有けるが、秀次卿を大将となし豊前豊後へ勢を分、可差遣との事也、相随人々には蜂須賀阿波守六千余騎、尾藤左衛門尉三千余騎長曽我部土佐守五千余騎、宇佐郡さして働給ふ、中国八ケ国之大守毛利右馬頭輝元其勢四万余騎、羽柴備前宰相一万余騎、目代として、黒田官兵衛尉、亀井武蔵守相添、同国とき枝之城を拵へ、可申旨被仰付しかは、夜を日につき急けるほどに、三月廿八日出来し、即うつり給ふ、十日はかり御滞留ましまして、方々の人質を相卜、国中之仕置堅く定め給ふて、豊後国へ乱れ入にけり、島津方にも兼て用意やしたりけん、島津中務丞を大将として、二万余騎をさし添、豊後之府内之城を拵へ、楯籠相支むとそしける、秀吉公蜂須賀なとめしつれられ、城之南北を下墨サゲスミ給ふて、先遠巻にし、責具なと用意し、ひたと取巻、稲麻竹葦も物かはに打囲みしかは、難抱や思ひけん、浜の手より雨風之紛に、船にとり乗退にけり、然処を速舟にて追懸二艘追落し、首数多討捕ぬ、即府内之城番として、大友宗麟義統父子入置給ふ、此競に依て日向表征し給ふ、又筑後筑前へも勢を分て遣しけり、日向表着陣之由飛脚到来しけれは、其御返事に頓て其国へ乱入し給ふへきの間、一切人数を出すへからさる旨、かたく制しつかはされけり、三月廿九日秀吉公豊前之内、馬岳長野三郎左衛門尉要害に至て参陣し給ふ、翌日物見の馬上廿人許被召連がんじやくの城を見計はせ給ふに、諸木生茂、巌峙廻て、地之利、ことしうそ見えにける、頓て帰給ふて諸侯の人々被召寄、評議有、明れは卯月朔日せめらるへきに極りぬ、大手は羽柴飛騨守氏郷、搦手は羽柴肥前守利長、検見は谷大膳大夫、小野木縫殿助、大将は丹波少将秀勝也、城之麓へ寅刻許に推寄、ときを噇と舉たりしかは、城中にもときを合、つまりへおり下て、推つ圧れつ、戦事夥し、鉄炮之音、ヱイや声、太刀打、攻皷、先陣を名乗声々、寔に山をもぬくはかりにそ覚えたる、大手搦手揉合責上りしを、城中にも爰を専途と防戦ふ形勢アリサマ、たとふるに物なし、御旗本より使番衆度々来て、一旦に攻干へき旨いらて給へは、義に依て命を軽んし、名を惜て死を争ひ、南北に開き合せ、東西に追廻し、引組て頸を取も有、とらるゝも有、弓手妻手に相付て切て落すも有、落さるゝも有、しかはあれど、城中にはオープンアクセス NDLJP:328ナキは数そひ、攻上る勢は手負死人多しと云共、曽て事共せす、終に攻上り火を懸たりしかは、折節疾風甚しう吹て、本丸二丸一炬に焦土と成ぬ、氏郷利長へ忝御感状増田右衛門尉持参あり、肥前守内、河原兵庫頭、大平左馬允、坪内次左衛門尉、飛騨守内、坂小板〈一番乗之旨秀吉卿別して御悪状有後号蒲生源左衛門尉〉那古屋三三郎、蒲生四郎兵衛尉、高木助六郎、神田清右衛門尉、群を離て攻入し事、速かりしとて、金銭を被下けり、谷大膳も下知の致しやう宜しく侍るとて、御褒美厚かりし也、かくて是よりおくに秋月か居城小熊と云城有、かんじやく落城せしを聞て明退にけり、先陣として城を請取掃除等清らかに沙汰し侍りけれは、四月二日御陣を移されたり、秋月鉄炮をもならさすして明退つる事、思ふ子細有て也、秋月山中に在しか前廉不踈意趣誓紙を以申上、これかれ尽し御侘言申けれは、くはしく被聞召届御赦免有しなり、因之ならしばの茶入をさし上、御礼申上、即小熊へ帰参し、先陣の勢に加りけり、

 
○彦山之事
 
夫彦山は、豊前豊後筑前三州に蟠根して有じ高山なり、衆徒多き寺と云節所と云、守護不人之地にして、勅定と云事も武命と云事をも不知所也、数年任我意、国守の不手下知事は、往昔延暦寺の威勢甚つよき時にも越たり、因之隣国之徒者あつまりつとふて、動もすれは一揆蜂起之棟梁此山より出て、妨往還万民之条、此度被仰付下候様にと、隣国より訴申に付て、可打破之旨被仰出けり、彦山之大衆此事を伝へ承、驚き騒き、はやかねを鳴し、一山及衆評損益しけれ共、古しへより諺に、衆口区にして難調ものゝよし云しも、けにと思はれ、事行かたき処に、一和尚の法印申されけるは、歴々之城主さへ手を束ね、言を巧にし、降し属幕下つるなり、山徒数年一揆原二千三千にあふて、手柄をせし事はおほかめれと、上方之多勢に向て弓をひかん事、中々及ひなき事なるへし、唯何やうにも御侘言申、よきに拵へ候へし、急此儀に同し可然候はんと、衆徒中へ申けれは、悪僧共は、いなみぬる顔さかなれ共、其理当然たれは、任侠ウデタテせし衆徒も皆尻よはに成て、漸々夜半之比老僧次第に極けり、さらは明日浅野弥兵衛方を以、其旨申上んとて、明れは卯月三日御本陣さして尋行、浅野陣所へ案内を請、彦山御免之義御侘言被仰上候やうに、偏頼旨申上しかは、即使僧をは、をのか宿所へ帰しつゝ、施薬院を語ひ御前に出、彦山之儀大伽藍之事なれは、打破給ふても、無詮事にて御座候へは、同しくは御免なされ候へかしと申上し処に、秀吉公被聞召、さらはゆるしをくへきの条、此条子を使僧に申聞せ、一山同心ならは、衆徒中連判之誓紙を上候へ、其上を以可対面、先今日は使僧帰し可申旨因仰、即誓紙前書之案文を渡し帰されけり、
 
○彦山誓紙前書之条々
 

寺法礼儀申まじき事

隣国向後非儀仕まじき事

衆議判之時、正路なる分別をは取立、贔負偏頗之徒党を立申ましき事

悪行之衆徒御座候はゝ、山をはらひ可申候事

老僧を敬ひ、若輩之客僧を憐愍可仕候事

オープンアクセス NDLJP:329右条々於相背者、罰文は其山任古例調候へとの御事也、其後誓紙を持来り、彦山之大衆何も御礼申上、安堵之教書頂戴し万歳を唱へ、帰寺ゆゝしかりけり、

評曰、一和尚法印分別ふかきに因て、彦山恙もなく、剰後に寺領も如前々、安堵之御朱印出て栄えにけり、秀吉公誓紙の罰文は、古しへより有来を立させ給ふ事尤なり、其理当れり、

重て彦山掟等可申付旨に付て、富田左近将監奥山佐渡守参し、万任先規之旨、新法之自由を改しなり、

 
○数ケ所之城明退事
 
新納武蔵守楯籠る高迫〈肥後之内〉之要害、打囲可攻干旨に付て、五万余騎を段々にをしよせければ、難抱や思ひけん、同七日之夜明のきけり、同十一日南之関之城ニ御本陣をよせられ、十三日には堀尾茂助を番手として入置れけり、其より小代伊勢守居城筒か岳も渡しつるに依て、河戻肥前守を入をかる、肥後之内熊本之城は、城ノ十郎太郎居城也、先陣として遠巻にし、一むし蒸けれは、甲を脱て降人に成しかは、城を請取即掃除等よきに沙汰しけり、同十六日秀吉公移り給ふて御滞坐あり、
 
○大隅日向表之事
 
高城とて可然要害之地有、大和中納言秀長可攻との事に付て、遠巻にして在陣せし処に、同十七日薩摩太守義久、大隅日向之勢を并せ、一万五千騎を卒し、伯耆の南条小鴨か陣へ夜討をそしたりける、宮部善祥坊五千、木下平大夫亀井新十郎〈後武蔵守と号す〉垣屋隠岐守福原右馬助、彼是都合其勢一万五千取合せ、防き戦形勢アリサマ物に越て夥し、秀長は五十町余を隔ておはしましけるか、注進有つると等しく、夜半に打出程なく参陣し、助成し給へは、島津か勢敗軍しける処に、秀長の臣藤堂羽田岸田引付て数多討取けり、かくて降参いたし高城を渡奉り、先駆之勢に加りけり、十九日宇土之城も脱降人に成しかば、城を請取加藤虎助を被入置、同廿日熊庄之城も明渡すに付て、岡本太郎右衛門尉番手に定め給ふ、同廿一日高塚関之城八ッ城も退散したりけれは、即秀吉八城に御陣を居らる、暫御滞留有しなり、其夜にして沈思し給ふ事は、遠国之はてまで、毫髪も残さす退治せんと思ふは小志也、残る城々をは免しをき、急帰陣し四方泰平の謀計に及へしとて、或一揆大将或任俠せし僧坊、不残御免なさるゝ条、罷出安堵之御礼申候へと、高札を立られしかは、是は寛宥之御下知かなと、悦あへりつゝ、方々よりあつまり来り御礼申上んとて、門前市をなす事、恰朝礼のことし、其人々には壱岐、対馬、平戸、五島、筑後之筑紫、肥前之龍造寺政家、麻生重貞、高橋、立花左近、杉野十郎、城井弥三郎、安心院、草野、佐田、宗像、中八屋、原田、新納武蔵守、長野三郎左衛門尉、小代伊勢守等也、城を明渡し申せし者共も、其所存正しきをは、大かた本領之地安堵せさせ給ふ、五月四日薩州之内、千代川の流に添、太平寺と云大伽藍有、秀吉御陣を被居、京泊とて宜しき湊有、兵粮船数千艘着岸せしかは、諸勢に扶持方下行し給ふ、運送の事しけきに京泊之町人、事外にきはひつゝ、南去北来往反袖ふりもおほく、又本知(地イ)安堵せし人々は、枕を泰山の安にをきし故、其下々思ひの外なる君にあひ奉り、永く栄むとて悦ひあへりけり、千代のオープンアクセス NDLJP:330川に舟橋を掛させ、往還自由を得たり、奉行は九鬼大隅守、脇坂中務少輔、加藤左馬助等也、
 
○島津修理大夫義久降参之事
 
先陣十万余騎、島津か舘鹿児島近辺に取寄、段々に備を設て、将軍之御下知をそ待にける、島津家老之面々相計も云やう、今この秀吉之威、洪水滝なつて落るかことし、向ふ所無随順、責所無相傾、此来鋭を避て、当家相続の功を謀らんにはしかしとて、伊集院左衛門大夫、大和中納言殿へ走入て、義久事被一命下候やうに、偏に奉頼趣申けり、若御憐愍もなくおはしまさは、不是非切腹とふかうしみて申しかは、秀長よきに計ひ見んとて、福智三河守を金吾に相添、木下半介を以、秀吉へ歎き見給ふ、半介金吾に対面有て、条子を問侍るに、伊集院申けるは、義久落髪染衣の身と成て、御礼申上之条、前非之所、被御宥免候はゝ、向後異他可忠懃之旨、誠実に申上しかば、即其旨申上ぬ、秀吉卿聞召給ひ、島津事数十年公儀を蔑如し奉り、自由之好謀甚以不軽、然間此次幸に根を絶葉をカラし、雖仰付、頼朝卿以来より、連綿として久しき島津を、亡さんもいかゝしく思召、安堵せさせ給いんやうに宣ふ、さらは前野但馬守浅野弾正少弼、木村常陸介取次可申となり、三人金吾に対面し、条子を承届其旨言上しけれは、免許可成旨に付て、即此由、秀長へ三人かたより申まいらせけり、翌朝即伊集院に御対面有へき旨にて御礼申上けり、かくて御暇申上立帰り、可安堵との趣義久へ申達しけれは、各開喜悦之眉にけり、かくて島津修理大夫義久、かしらおろし侍りて、染衣を着し、太平寺へ参ける形勢、一着極られしさまに見えて、内々相伴に極り有し者、六七人是も又黒染のさまなり、誠に男なりけるは、廿許なる小性一人召連、太平寺に至り、方丈にしはし御対面の間待しほど、弥切腹の事もやあらんと、取しづめたる体、さすがに見えてけり、五月七日義久御礼申上し処、却て御懇の仰有て、本領安堵せさせ給ふ、是に因て島津家老七人、何も人質出し奉り、御礼申上けり、義久舎弟島津兵庫頭忠平、島津右衛門大夫俊久、島津中務丞家久、其外伊集院左衛門大夫、平田美濃守、本田下野守、野村兵部丞、如此義久舎弟三人家老四人、人質被召置帰し給ふ、此威風におそれ、流玖より使者を進上し、珍物数々捧奉る、高麗よりも青鷹五連献し奉り、和睦をそ請にける、
 
○大隅日向之内、人質を出さす、無随順城々へ勢を被差向、先陣は、筑紫衆申請向ふ事
 

大隅表打向人々には、龍造寺政家、筑後筑前肥後肥前之侍、其勢三万、羽柴肥前守、羽柴藤五郎、同左衛門督、青山修理亮、木村常陸介、浅野弾正少弼、戸田民部少輔、毛利壱岐守、村上周防守、溝口伯耆守、大田小源五、其勢五万騎さし添らる、向州表発向之人々には、羽柴少将殿 〈秀次公之舎弟大将分也〉徳川三川侍従、羽柴越中守、羽柴三左衛門尉、羽柴飛騨守、水野宗兵衛尉、羽柴五郎左衛門尉、稲葉彦六、羽柴下総守、同出羽守福島左衛門大夫、中川藤兵衛尉、高山右近、林長兵衛尉、都合其勢五万余騎、五月廿日太平寺を打立、日向へぞ押しける、向州之侍野村兵部丞が居城、山崎を先陣として、打囲まんと催しけれは、脱甲鉾を横へ、降人に成にけり、則此城を御本陣にし侍らんと相議し、掃除等申付、御注進申けれは、同廿一日山崎之城に入給ふ、翌日けだうゐん表御陣廻有て、軍法堅く制しをき、山崎へ帰り給ふ、同廿三日島津右衛門大夫オープンアクセス NDLJP:331俊久が居城、鶴田之城に至て御参陣、大隅表へ参りたる勢、彼国之人質悉く取て鶴田へ帰陣し、御前へ罷出候へは、速成之功、尤之旨御感有、日向表へ参陣せし人々も、不随順城をは攻平け、降人となりし城々は人質を取帰陣し、御前へ出しかは、是も苦労之旨御感なり、両国五六日之内に平均、いと目出たかりけり、

 
○大隅日向知行割之事
 
大隅八郡之内 七郡島津兵庫頭下  一郡伊集院右衛門大夫被

日向五郡之内 二郡島津兵庫頭息又一郎 二郡新納武蔵守 一郡御蔵入

蘇阿宮の山中は節所なるにより、徒者多くあつまり居て、動もすれは万民をなやまし、旅人を痛しむるよし聞召、可仰付之処、要脚をいたし、向後左様之非儀致すましき旨、誓紙をさし上御侘言申に付て、安堵せさせ給ふ、六月朔日肥後之内、八城より至同国熊本、両日御逗留有しか、国之大なる事共を能しろしめし、佐々陸奥守に肥後一職之守護職を給ふ、佐々面目を施しけり、同四日南之関御宿陣、今夜こそ御帰陣の初なれとて上下悦あへりけれ、五日筑前之内、甲良カハラ山、六日同国宰府安楽寺岩屋に御茶屋を義久より立置催一興しかは、即御泊有、七日博多に至り給ふて、箱崎之八幡宮宝殿を伏拝み給ふ、即此所に御殿を立させ給ふて、御逗留有、御備之衆前後左右、町屋作りに小屋をいとなみ、不我劣、と結構を尽しけり、秀吉八幡之宝殿にはしゐ(端居イ)し給ひて、慰み給ふついてにかくなん、

 千とせをもたゝみ入たる箱崎の松に花さくおりにあはゝや

古しへは、博多箱崎之在家十万間有て、泉州堺の津にもをとらさる富家おほかりしか、肥前龍造寺と、豊後之大友宗鱗と及鉾楯、其乱十余ケ年に及しかは、かたはかりに荒はて、あはれに見えにけり、秀吉絶たるを起さはやと覚され、竪横之町割、十町宛に定られ、博多之古老を呼出され打渡し給ふ、町人是は有難き御再興かなと悦ひ、昼夜を分す家々のいそき甚し、同十五日義久舎弟二人家老三人召連、御供せらるへきため、博多へ参着有しかは、其夜御対面有て、事之外御懇なる風情也、同十八日小早川左衛門佐隆景、豊後大隅之仕置よきに相調、博多に着船し御礼申上候之処、永々苦労せし旨御感なり、毛利右馬頭輝元へ為加増筑後国を恩賜有、立花之古城舟之かよひ自由を得、地之利全き所なれは、御普請なと丈夫に被仰付、兵粮済々入をかれけるか、同廿八日隆景居城にいたすへき旨被仰出、筑前一国恩賜有て、御朱印を成し下し給ふ、誠に一家之面を起しぬ、隆景才智たくましく、心まめやかなりけるか、果していみしき幸にあひ奉るよなと、人みなうらやみにけり、七月朔日秀吉箱崎を御立なされ、宗像に御宿陣、三日小倉之城につかせ給ふて、豊前八郡之内六郡黒田勘解由に被下、二郡は毛利壱岐守に被下、則小倉を居城に致し可申旨也、黒田は馬岳居城に宜しからんやと、自由せさせ給ふ、如此被仰付、関戸に至て御渡海有し所へ、御迎舟多く浮出たり、船しるしを問せ給へは、大和中納言殿大友宗鱗父子、毛利輝元吉川小早川等也、御甲のうち(内イ)、物すきなるを一羽(刎イ)、輝元へ思賜有、関戸の御泊にて、輝元一献捧たてまつり、ひめをきし千鳥之太刀進上有しかは、御感有て、御腰にさし給ふ、忠光の刀を輝元へ被下けり、大友は瓢簞の壺オープンアクセス NDLJP:332進上有、何も無双なる珍器なり、四日関戸を出船有しか、風あらましけれは陸を経つゝ、廿日市につかせ給ふて、為御休息、二三日御逗留おはしまし、同十四日大坂御帰城千喜万悦之声々しはしは止さりけり、

 
○幽斎道之記
 
ことし天正十五三月の初、博陸殿下九州大友島津わたくしの鉾楯をとゝめらるへきために、御進発之事有、息与一郎同玄番允参陣の上、家をのかれ、入道せし身なれは、供奉の事にてもなかりしを、はるかなる御陣の程を、いたつらに在国も空おそろしき心地して、四月十九日に舟をは熊野郡まて廻して、廿一日田辺を出て、其日は宮津にとゝまり、廿二日松井之城松倉に着て、明なは出立旅よそひせしに、雨ふり出て終日晴ま(間イ)なかりしかは、松井子禅門といふ、いでゝ抑留し、盃たひ出して慰みくらし、其夜はとゝまりて、二十四日いとよく晴て、風も追手になるといへは、出立とて足占山ちかけれは、

 必のたひの行衛はよしあしもとはてふみ見るあしうらの山

軍書に欲必則莫問軍吉凶とあれは、おもひよれり、かやうにして湊と云所より、辰時はかりに出船して、其日の暮ほとに但馬因幡のさかひ、居くみと云所に舟とまりしける、旅宿いと所せくて上なか下らうかはしき、かり枕し侍りて、

 主従者たひにしあれは里の名の居くみにしたるかりの宿かな

廿六日伯耆国みくり屋より船を出して、出雲国仁保之関に上り、見物し侍りて、それより磯つたひを行に、にしきのうらといへは、暫船をとゝめて、

 船よするにしきのうらの夕なみのたゝむやかへる名残なるらん

かやうに口すさひて、其わたりちかき、かゝと云所、漁人の家にとゝまりぬ、

 あはれにもいまた乳をのむあまの子のかゝのあたりやはなれさるらん

廿二日(二疑七)雨風あらき故に、かゝより船出成難かるへきよしを船人申侍れは、さらはいたつらにくらさんも物うしとて、船をは浪間をまちまはし侍へきよし申て、杵筑宮見物のためかちにてたとり行、道之程三里はかりへて、木ふかくて山のたゝすまひ、たゝならぬ社有を、見めくりて、神人と覚えたるに尋侍りしに、これなん佐の大社なり、神体いさなきいさなみのみことゝをしへけるに、しか物語し侍るに、日もたけ雨もいたくふれは、衣あぶらんほとのやとり、もとめて、とゝまりぬ、

 千早振神のやしろや天地とわかち初つる国のみはしら

廿八日佐を出て秋鹿アイカと云所にて、湖水の小船に乗て平田まて行に、エウノ浦なりと、船人のいふをきゝて、

 磯まくらうらみやたふのうら千鳥見はてぬ夢をさむるなこりに

かやうにして暮かゝるほとに、きつきの社に至て宝前をはしめ、末社等こなたかなた見めくりて尋るに、当社両神官、千家北島、何れも国造となんいひける、其家々見物して、其後旅宿をかりいてゝ、椎葉はかりにもりたる飯なとくひて、やすみ居たる処に、若州葛西と云者たつオープンアクセス NDLJP:333ね来りて、対面しける、太皷うつ人にて、わかき衆れほく同道有て、一番聞へきよしあれは、さらはとて催しけるに、両国造より所につきたる肴樽なと、使にて送られける程に、笛皷の役者共きこみて、夜更まて乱舞有けり、思ひかけぬ事なりき、

廿九日朝なきの程にまはしつる者共順りきて、いそき舟にのれ日もたけにけりといへは、心あはたゝしくて、

 この神の初てよめることの葉をかそふるうたや手向なるらん

于素戔烏尊出雲国初有三十一字詠とあれは、やう字のかすをあはする計を、手向にあたりと云心さしけるに、両司なれは、一方へはいかゝとあるしのいひけるに、俄なれは同歌を書てやりける、又当社本願より、発句所望なれは、

 卯花や神のいかきのゆふかつら

かやうに書やりけるに、千家方より今の発句は北島にて連歌たるへし、吾方にては百韵興行すへしとて、船に乗所に追付て、発句所望なり、いそかはしきに難成よし、たひ申せしか共、所のならひにやわりなく申されける程に、人の心をやふらしとて、思ひめくらす折ふし、ほとゝきすの名乗けれは、

 郭公声の行衛やうらの浪

廿九日石見の大うらと云所にとまりて、明るあした仁間と云津まて行に、石見のうみあらきと云古事ともたかはす、白波かゝる磯山の、いは(巌イ)ほそはたちたるあたりを、こき行とて、

 これやこのうき世をめくる舟のみち石見のうみのあらきなみ風

それよりやかて銀山へこえて見るに、やまふきと云城、在所の上に有を見て、

 城の名もことはりなれやまぶよりもほるしろかねをやまふきにして

やとりける慈恩寺、発句所望、庭前に楓の有を見て、

 深山木の中に夏をやわかかえて

泉の津まて出て、宝塔院にやとりけるに、先年連歌之一巻見せられし事なと、かたみに申出侍しに、五月三日発句所望にて、其夜は百韵をつらね侍りぬ、

 浪の露にさゝ島しける磯部かな

五日出船するに、跡にても一折張行すへきよしにて、所望なれは当座に、

 うき草のねにひかれ行あやめ哉

七日浜田を出て行に、高角タカツと云処なりと云を舟より見やりて〈石見かたたかつの松の木間よりうき世の月と見はてぬる哉〉と、人丸の詠せし事思ひ出て、

 うつり行世々をへぬれとくちもせぬ名こそたかつの松のことの葉

とかくして長門国にいたり、磯の上島々を見わたして行に、かり島と云所有と聞、誰も世の無常なる事を思ひ出て、

 みな人のいのちなかとくたのめとも世はかりしまの浪のうたかた

おなしき国浦小畑と云湊に、唐船の着て有よしを、船人のうちにかたりけれは、さらは見物オープンアクセス NDLJP:334せんとて遥に舟をよせ、しはとゝめて、

 我もまたうらつたひしてこきとめぬもろこし船のよりし湊に

あこのうら波のたかく聞えけれは、

 小つゝみのとうにしらへやあはすらんうつ音たかしあこのうら浪

十日瀬戸崎と云所を出船せしに、風あらくて高波、半は船をもこし侍るはかりなり、召具したる者共、ゑひこゝちたゝならて、色をうしなへる体なれは、さらはこきかへすへきよしを云て、山かけて舟の入ほと廿町はかりには過す、されとも千里を行こゝちなんしける、からうしてやとりける在所に帰けるに、なを風あらくなりて、草木をも吹しほりて、海のおもては、ふすまをはりたるやうなり、何人の乗たるはしらねとも、先へ出たる舟は波に沈みたるなといへは、命ひとつをひろひたるこゝちして、其夜はねてのあさけも、昨日の名残(波イ)にや、なを雨風やます、波の音たかしほにきほひて見やれは、船の出へきやうもなしなと、船人わひあへり、さらはかちにて関渡まて行へきよしいひ合て、馬なとかり出して、十一日せとさきを出て、大寧寺大内義隆のはてられし所と聞し程に、立寄て一見し、それより深山をわけこえて、同国妙栄寺と云にとまりぬ、住持の和尚出られて、終夜仏法の物語なと有て、つとめてのあした出て行とて、

 かたちなき夢てふものを心とも法のむしろにふしてこそしれ

心法無形通貫十方とやらんいへは、思ひよれり、きこえかたくや、豊浦宮を行過るとて

 水もらぬ池のこゝろのふかさをもとよらの宮のつゝみにそしる

たらひと云在所にて、かれいひ侍らんとて、かりのやとりにあかるとて、下々あしをあらふに、まめのいてきて、いたきなといふをきゝ侍りて、

 さしいれてあらへるあしのまめおほみ馬たらひとや人のみるらん(いふらんイ)

関渡セキノトに着て、阿弥陀寺に参り侍るに、其かたはらに寺有、所の人は内裏となん云つたへ侍る、寺僧に案内して安徳天皇御影、其外平家一門之像共見侍ける、彼僧昔今の短冊なと見せられしに、知たる人の歌ともありしほとに、

 もしほくさかくたもとをもぬらす哉すゝりの海の波のなこりに

豊前国門司之関にて、

 古郷にことつてやせん一ふてもかきや絶なんもしの関守

兵粮船おほくつとひて有を見て、くらなしのはま当国なれは、

 米舟は国々よりも着にけりあけてもつまむくらなしのはま

豊前之柳浦名主とて発句所望せしに、

 豊国の山くちしるき早苗かな

同月廿三日赤間関を出て行けるに、雨の名残にや波風のあらき故に、小倉にとまりて明る夜をこめて舟よそひして、筑州箱崎をさして行に、船人のこれなん金か御崎といふ、昔鐘を求オープンアクセス NDLJP:335め船にのせてきたり、汀ちかく成て取をとして、今に有と云、日和のよき時は龍頭なと見ゆるよしをかたる、勅撰名寄には金と云字を書たりと覚えけるか、鐘にて有へきなとゝ、友たちなとに語りける次に、万葉に、我はわすれす、しかのすゑ神と哉覧読たる事なと思ひ出て、

 暮わたるかねの御崎を行舟にわれは忘れずふるさとの夢

かやうに云たはふれて、こき行ほとに、夕浪あらくなりて、やう志賀の島に着て、金剛山の宮司坊にやとるに、春日鹿島当社おなし御ちかひの神なりと物語有、

 みかさ山さしてやかよふしかのしま神のちかひのへたてなけれは

縁起なととり出して見せらるゝ次に、

〈波あらき塩干の松のかつらがた島よりつゝくうみの中道〉これ当社の御歌のよし社僧のかたられける、又香椎の神詠には、やまよりつゝくと一句かはりたるなとゝ有、立出見侍りけるに、砂の遠さ三里はかりも、海の中をわけて島につゝき、十四五間はかりも有と見えたり、文珠なともおはしませは、橋立の事なと思ひくらへられき、当社は安曇アヘノ磯良丸と云て、神功皇后異国退治之時、龍宮より出て兵船之カヂ取として、海上 しるへせし神なり、しはうち詠めて、

 名にしおふ龍の宮この跡とめて波をわけ行うみの中道

此両首をかきて奉納して、廿五日朝なきのほとに、箱崎にわたりて見るに、松原はるつゝきて、八幡宮は北面にむかひて立たり、戒定恵の三学の箱を、むかしうづまれたる所に、あるしの松とて古木あり、たちよりて、

 そのかみにをさめをきたる箱崎の松こそ千代のしるしなりけれ

日たかく侍けれは博多見にまかりけるに、爰を袖の湊と、里人のをしへけれは

 いさゝらはともにぬらさんたひころも袖の湊のなみのまくらに

 日も暮ぬいさ船よせてねもしなんひしきものには袖のみなとを

廿六日宰府は天神之住給ひし所と聞及しまゝ、為見物まかりける、彼宮寺は七とせはかりさきに炎上して、かたはかりなるかり殿有、旧跡の有様、松杉のおほくきられたるに、さすかに所々にのこり、うしろは青山そひえて、右の方七八町はかりもあるらんと見えて、観音寺有、寔に西都とも云へき所なり、飛梅も古木は焼てきりけるに、若はえのヲヒ出て有をみて、

 鶯のはねをやとひて飛梅のかこにはいかてのらて来にけん

それより染川を、里人にたつねて見に行侍るに、思ひしにはかはりたるに、河のあさきなかれなり、うちわたりて、

 老の波むかしにかへれ染川や色になるてふこゝろはかりも

思ひ川にて、

 くるゝ夜の蛍やしるへ思ひ川

こゝかしこ見めくりて、帰りける道に、かるかやの関の跡有(一本無有字)とて、をしへけるに、今度の陣衆なのらせて、かへさるゝ事有よしを、つたへ聞て、

 名のらせてやうとをす陣かへり兵粮米やかるかやのせき

オープンアクセス NDLJP:336此次にかまと山は何くそと、案内者にたつねしに、かへるさの右にたかき山有、是なんそれと云、昔は竈門山、賓重寺とて山伏の住ける所に有けるを、ちかきとし比より、高橋と云者城墎にこしらへて有けるか、去年島津出て、あたりちかき岩屋の城せめ落せし時分、あけにけるか、此比山伏の帰住と申せしに、五月雨の名残雲の懸りて、見えけれは、

 立つゝく雲を千里のけふりにてにきはふ民のかまと山かな

可也山にて

 しけり行かやの山辺に入しかは秋よりつゆにぬれてふすらん

浜より人の安吉の脇指をこせて、目利して銘なとも、能侍ならは、主に成へきとて文あり、その返事に、

 わきさしの代をしとへはやすよしのなかこたゝしきめいのはまかな

廿八日姪浜と云所にいたり、それより生松原見にまかりて、

 すゝしさを風のたよりにことゝはん今いくかあらはいきのまつはら

姪浜にて有人、宗養執筆せられし連歌の懐紙を見せて、奥書所望せしに、

 これも又ながれて末のみつくきのあとのかたみと書そくはふる

六月三日姪浜興徳寺住持、コン峰玄能和尚和漢興行有へきとて発句所望有しに、公儀此所まて御成の沙汰有は、張行はなりかたかるへしとて、発句を書つかはして、入韻所望せしに、

 風かほる南をまつのとほそ哉

  社同六月梅

同八日利休居士へ関白殿渡御あそひ有て、彼一折と被相催て、発句つかふまつるへきよしあれは、筥崎八幡の心を、

 神代にもこえつゝすゝし松のかせ

 雲間にとをき夏の夜の月           松

 ほのかにも明行空の雨晴て        日野新大納言

箱崎の八幡のうち関白殿をはし所になりて、各参上せしに、しるしのまつによせて、祝言心をよませられけるに、

 つるきをはこゝにをさめよ箱崎の松の千とせも君か代の友

関白殿箱崎の松原にてすゝまるへきよし有て、各召ぐせられ、しはし御遊興の事有、おほみきまいり、謡とも有て御当座有しに、

 立出る袖のみなとの夕すゝみかたしくほとのうら風そふく

暮はてゝかへらせ給ふをりに、松原に名残思ふ歌、人々つかうまつるへきよしあれは、

 松原にとまりからすの声をさへうらやまれぬるかへるさのみち

六月十日あまりのほとに、香椎の浦見にまかりて、

 うなはらや塩路はるかに吹かせの香椎のわたり浪たつらしも

帰るさには船をは、はるかなるひかたのさきへまはして、たゝら浜にかちにて行て、

オープンアクセス NDLJP:337 いにしへはこゝにゐもしのあとゝめていまもふみ見るたゝらはまかな

対馬守護宗対州より此歌一首送られて、歌発句所望有、すてにはや出船のよし使のいへは、当座に書つけてやりける、

 しきしまの道すなほなる御代にあひてめくみ久しき箱崎の松

卒因和歌韵

 始識逢フヿ君情所錘相約閑窓帝都門外莫平里同風一樹

 しら波のうつかた山のしほかせにすゝしさそふる夕たちの雨


    発句

 とを島に立くはゝるや雲の嶺

六月廿五日一折可張行とて、溝口大炊允所望に、

 浪の音も秋風ちかしにしの海

 あまさかるひなのすまひ(ゐイ)とおもふなよとつこもおなしうき世ならすや

と千宗易より云をこせける返事に、

 あまさかるひなにはなをそゐたむなきとつこもおなしうき世なれとも

廿七日関白殿花瓶あまたとり出されて、草花をいけられたる御座敷にて、俄に一折被催て、発句つかうまつるへきよしあれは、

 夏草に花のかならすたもとかな

 すゝしき夜半のさころもの月       松

 あら露の簾のひまをつたひきて      由巳

七月四日関白殿関渡より御帰陣なり、船にて参陣せしほとに、馬なともなし、船共は南の海を廻りて、上らむと定め侍るに、秋かせ日々にあらくなり、出船ならて、六日まて逗留し侍りて、思ひつゝけて、

 あきとふく風やせきの渡とまり舟

六日にも未た船の出難き風なれは、周防山口為見物、在所の荷をおふ馬かり出して、船木と云在所まて行て、七日に山口に到りぬ、今夜は七夕のあふ夜なりと思ひ出て、暁方の寝覚に、

 七夕の別の袖にくらへ見よ露なからかす旅の衣手

八日所々寺社見めくりて、同国こふの天神まて立出へき用意せしに、当所本国寺住持一会興行すへしとて、しきりにとめられ侍れは、ちからなく其日は逗留して、

九日に

 もる月もいま一しほの木間哉

十日山口をいて、国府天神へ着て、まりふの浦ちかき田しみまて、船のまはるを待てやすみいたるに、当社の供僧円楽坊発句所望有て、一面なりともつらぬへしとて興行あり、入あひの時分より初りて、夜半過ほどに百韵まんしける、其時船着たる注進あり、天神の御はからひとて、衆徒よろこはれける、

オープンアクセス NDLJP:338 色わけよまつこそ風のたむけ草

田しみ(しみ一本島ニ作ル)の湊にて、まりふの浦を見るに、網のおほくかけほしてあれは、

 真砂地にあみはりわたしもてあそふまりふのうらの風そたえつゝ

十一日暁田しみ(しみ一本島ニ作ル)を出て、其日は上之関と云所に船をかけて、明行空をもまたて、塩にひかれて、船出をもよほし行に、岩くに山といへは見やりて、

あらきその道なりとても帰るさは岩くに山もふみならしてん

それより厳島ちかくなりて社頭を見るに、鳥居は海の面二町はかりとおほしくて立たり、廻廊も、柱はみな塩につかりてあり、船よりみて、

 とを島の下津岩ねの宮はしら波の上より立かとそ見る

此歌をかきて当社棚守左近将監かたへつかはしける、とかく有て月に成侍れは、立出て更るまて見るに、塩干塩満目の前にかはりて、汀二三町はかりも遠近になりぬ、

みつ塩はたゝ大海の泉かなと宗祇賢作なり、理りなるかな、又大聖院良政発句所望有て、十三日一会あり、当社にかゝみの池と云あれは、

 影うつす月やかゝみの池の水

十四日にも棚守連歌興行すへきよしあれとも、玉まつる日にあたれり、心つきなきやうにや有へきとて、辞退みけるに、さらは発句はかりをと所望なり、思ひかけぬに郭公の鳴けれは、

 秋はまたは山しけ山郭公

かやうに申つかはしける、さらは晩にあるしすへきよしあれは行けるに、色々の肴もとめて盃いたされて、子息少輔三郎出座ありて、乱舞あり、脇指を出して罷帰しなり、やとりける所は奥坊と云ける、こよひの玉祭の手向なとかまへをかれけるに、時鳥の二声三声なけるを、こゝには何もかやうに有かと尋しに、めつらしき事なりと云、一首をよみてつかはしける、

 しての山をくりやきつる杜鵑玉まつる夜の空に啼なり

十五日宮島神前にて、延年と云事ありといへは、見物して夜半はかりに船を出し、たゝのうみにとまり侍りて、それより備後津へ公儀御座所に参上して、十八日朝鞆まてこし侍るに、竹田法印かりそめの宿なれと、亭なと有て凉しきよしあれは、立寄てタカムシロに終日有て、暮かたに船を出すへきよしを云は、発句所望なり、

 名残ある月やともつなみなと舟

それより終夜舟をいそきて行に、明方のほとに備中国にありと云、弥高イヤタカ山、たしかにはなけれとも、嶺つゝきのうちなりと云は、

 明ほのやふもとをめくる雲霧にいやたか山のすかたをそ見る

十九日備前のうち、ひらとゝ云所にとまり、それより暮ほとに、宇島門に着て、船をかけても、やかて出すへきしよをいへは、あかりもせてかち枕の月を見​ればイ​​る​​ ​に物うき旅ねなれは、

 船にねてなにをたのまん月にさへなをうしまとのとまりなりせは

其より月の夜船に乗て行に、虫明のさとといへは、

オープンアクセス NDLJP:339 秋風の身にしむ夜はゝなく音をも聞はかりなるむしあけのせと

風あらく成て、たてのうらと云所に上り、人さともなき所に旅ねし侍り、

 夕波(浪イ)のたてのうらよりゆみはりの月もひかりをはなつとそみる

とかくありて、波間に船をいたして、播磨の室まて行道に、坂を越しやくしと云在所あり、其近きあたりに鍋の島と云あれは、

 塩はたゝよき程なれやなへのしましやくしを中へ入てみつれは

廿一日明方をまちて舟を出し、家島をこきめくるとて、

 いかはかり船よそひしてこきよせん我家しまと思はましかは

ひめちと云城を船に見て過行ほとに、しかま川ちかきわたり、海の面にこりたるを、船人に尋けるに、水上(海上)に大雨ふり侍れは、かやうに有と云、

 水上にいくむら雨かしかま川にこりは海にいてゝ来にけり

かやうにうちなかめ、ひゝきのなたを漕過て、高砂の浦をかけて、其夜はとまり​にけり​​侍り​​ ​

 高砂の尾上のかねも松かせもひゝきのなたの波にたゝへて

是より松おのうら見物せんとて、廿二日の暁夜舟こかせて行に、あかしのわたり追風をかたほにかけて、はるとあはち島によりて、

 行船の追風きほふあかしかたかたほに月をそむけてそ見る

さてまつほの浦ちかくなれは、船をよせて見るに、明かたの月波にうかひてみえけるに、

 あらしふくまつほのうらの霧晴て浪よりしらむ有明の月

又絵島と云磯を見るに、山のかさなりてしまのあれは、

 いく重ともなみちはるかにたゝみなす山やまことのゑしまなるらん

須摩の浦にて

 すまのうらさとのうしろの山柴やあまのしほやくけふりなるらん

くれかゝるほと波のあらくなるに、わたの御崎をこぎめくり、生田の森を船より見わたして、

 こく舟の夕なみあらくなりにけりさそないく田のもりのあき風

去四月丹後を出船して九州をへ、帰陣の時は、南の海をまはりて、七月廿三日と云に難波に着ぬ、思ひやれはかきりなき日の本をも、なかははかりをめくり来にけることゝ、おとろきて、

 なには江のみちにひかれてはるかなる豊あしはらもめくり来にけり

  此道之記、いふかしき所もあんめれと、類本なければ、跡も正さずかく記し付畢、

 
 
 

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