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九。​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​巴剌扯兒必​​バラチエルビ​。

 太祖︀十七年夏「​札闌丁​​ヂヤランヂン​遁去、遣​八剌​​バラ​追之、不獲」、十八年夏「​八剌​​バラ​之兵來會」とあるは、功臣の第四十九なる​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​巴剌扯兒必​​バラチエルビ​なり。憲宗卽位の前、​阿剌脫忽剌兀​​アラトクラウ​の會議に定宗の皇后​海︀迷失​​ハイミシ​の遺せる使者︀​八剌​​バラ​は​忙哥撒兒​​モンケサル​の傳に​畏兀​​ウイウ​の​八剌​​バラ​とあれば、​札剌亦兒​​ヂヤライル​の​巴剌​​バラ​とも、功臣の第三十五なる巴剌斡囉納兒台とも異なり。

 憲宗紀元年卽位の續に「​葉孫脫​​エスント​​按只䚟​​アンヂダイ​​暢吉​​チヤンギ​・​爪難​​ヂヤナン​・​合荅​​カダ​・​曲憐​​クリン​・​阿里出​​アリチユ​及​剛疙疸​​ゴンギタン​・​阿散忽都︀魯​​アサンクドル​等、務持兩端、坐誘諸︀王爲亂、竝伏誅」とあり。​葉孫脫​​エスント​は、實錄卷九、三七三頁と卷十二、六四八頁とに見えたる​者︀勒篾​​ヂエルメ​の子​也孫脫額​​エスントエ​にして、箭筒士千人の長となりし人なり。​按只䚟​​アンヂダイ​は、卷九、三七四頁に見えたる​亦魯該​​イルガイ​の親族​阿勒赤歹​​アルチダイ​にして、一千の侍衞の長となりし人なり。​暢吉​​チヤンギ​は卷十二、六三八頁に見えたる官人​掌吉​​ヂヤンギ​にはあらずや。​爪難​​ジヤナン​は、卷十二、六四六頁に見えたる​察納兒​​チヤナル​にして、太宗の時に​阿馬勒​​アマル​と共に宿衞の第二班の長となりし人なり。


十。​合歹古咧堅​​カダイグレゲン​

 ​合荅​​カダ​は、功臣の第八十四なる​合歹古咧堅​​カダイグレゲン​にして、實錄卷十二には、太宗の時に​豁哩合察兒​​ゴリカチヤル​と共に宿衞の第三班の長となり、公主表には延安公主位の處に「​火魯​​ホル​公主、適​哈荅​​ハダ​駙馬」とあり。​喇失惕​​ラシツト​に據れば、定宗の朝より​斡古勒該米失​​オグルガイミシ​攝政の時まで、​鎭海︀​​チンハイ​・​喀荅克​​カダク​二人政を執りしが憲宗二年に殺︀されき。この​喀荅克​​カダク​は、卽​合荅​​カダ​なり。


十一。​忽哩勒​​クリル​。

 ​曲憐​​クリン​は、功臣の第八十二なる​忽哩勒​​クリル​なるべし。


十二。​阿勒赤​​アルチ​。

 ​阿里出​​アルチユ​は、功臣の第七十一なる​阿勒赤​​アルチ​にして、​速不台​​スブタイ​の傳に、​滅里吉​​メリギ​征伐の命を受けたる時、「乃選裨將​阿里出​​アリチユ​、領百人先行、覘其虛實、​速不台​​スブタイ​繼進。速不台戒​阿里出​​アリチユ​曰「汝止宿、必載嬰兒具以行、去則遺之、使若掣家而逃者︀」。滅里吉見之果以爲逃者︀、遂不爲備」とあり。​剛疙疸​​ゴンギタン​は、​晃豁壇​​コンゴタン​にして、​阿散忽都︀魯​​アサンクドル​の姓なるべし。その人は外に見えず。


十三。​豁囉剌思​​ゴロラス​の​薛潮兀兒​​セチヤウル​。

 列傳第七なる​曷思麥里​​カスメリ​の傳に「命與​薛徹兀兒​​セチエウル​爲​必闍赤​​ビジエチ​」とある​薛徹兀兒​​セチエウル​は、功臣の第七十七なる​豁囉剌思​​ゴロラス​の​薛潮兀兒​​セチヤウル​なり。


十四。​豁兒豁孫​​ゴルゴスン​。

 又功臣の第十九なる​豁兒豁孫​​ゴルゴスン​は、實錄卷十、四一〇頁に​豁兒合孫​​ゴルガスン​と書きて、​古出​​グチユ​・​闊闊出​​ココチユ​・​種賽​​チユンサイ​と四人、太祖︀の末弟​斡惕赤斤​​オツチギン​に傅けられたりとあり。列傳卷二十一に「​撒吉思​​サギス​、​回鶻​​フイフ​人、其國阿大都︀督​多和思​​ドコス​之次子也。初爲太祖︀弟​斡眞必闍赤​​オヂンノビジエチ​、領王傅。​斡眞​​オヂン​薨、長子​只不干​​ヂブガン​蚤世、適​孫塔察兒​​スンタチヤル​幼。庶兄​脫迭​​トヂ​狂恣、欲廢適自立。​撒吉思​​サギス​與​火魯和孫​​ホルコスン​、馳白皇后(攝政​斡兀立海︀迷失合屯​​オウリハイミシカトン​)乃授​塔察兒​​タチヤル​以皇太弟寶、襲爵爲王。​撒吉思​​サギス​以功與​火魯和孫​​ホルコスン​分治、黑山以南、​撒吉思​​サギス​理之、其北​火魯和孫​​ホルコスン​理之」とある​火魯和孫​​ホルコスン​は、卽​豁兒合孫​​ゴルカスン​なり。