て、高タカ溫都︀兒き位クラヰに傍カタヘ斡咧額列なる側ソバ額帖惕に坐スワらせたり、我等ワレラ。昔ムカシより翁吉喇惕オンギラトの民タミは、妃キサキ合屯の團牌ダンハイ合勒合(明譯に從ふ。楯、唐團扇の類︀、貴女の體を蔽ふ者︀)ある、女子ヲトメ斡乞惕らの奏事ミヤヅカヘ斡赤勒する、甥女メヒ者︀額の姿スガタ只孫、息女ムスメ斡勤の顏色カホバセ汪格に依ヨる處トコロなりき、我等ワレラ。
§65(01:45:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
息女ムスメを見せに德 薛禪デイ セチエンの導き
我等ワレラの男ヲ訥溫の子コは營盤イヘヰ嫩禿黑(明譯家道カダウ)を望ノゾむ。我等ワレラの女メ斡勤の子コは、顏色カホバセ汪格を見ミらる。也速該エスガイ 親家シンカ。我ワが家イヘに往ユかん。我ワが息女ムスメは小チヒサくあり。親家シンカ 見ミよ」と云イひて、德 薛禪デイ セチエンは、その家イヘに導ミチビきて、馬ウマより下オりたり。
§66(01:46:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
その女ムスメを見ミれば面メン你兀兒に光ヒカリ格咧あり目メ你敦に火ヒ合勒ある女子ヲトメ[なる]を見ミて、心コヽロに入イらしめたり(心に適へり)。帖木眞テムヂンより一年ヒトヽセ 大オホきく、十トヲなりき。孛兒帖ボルテ(元史 后紀表孛兒台ボルテ、蒙古 源流布爾德ブルデ)と云イふ。夜宿ヨルヤドりて、明朝アシタその女ムスメを求モトむれば、德 薛禪デイ セチエン 言イはく「多遍アマタタビ 求モトめさせて與アタふれば、貴タフトばる。少遍ワヅカニ 求モトめさせて與アタふれば、賤イヤシめらる。[されども]女人ニヨニンの命メイ(女となる天の命)に生ウマれたるは、門カドの內ウチに老オゆること無ナし。女ムスメをも與アタへん。その子コを壻ムコとし置オきて往ユけ」と云イへり。諾ウベなひ合アひて、也速該 巴阿禿兒エスガイ バアトル 言イはく「この子コを壻ムコとし置オかん。我ワが子コは狗イヌを恐オソる。親家シンカ、我ワが子コを狗イヌに勿ナ 驚オドロかせそ」と云イひて、その牽馬ヒキウマ(副馬)を結納ユヒナフに與アタへて、帖木眞テムヂンを壻ムコとし置オきて去サりて、
§67(01:47:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
也速該エスガイを塔塔兒タタルの民の毒害
也速該 巴阿禿兒エスガイ バアトルは、路ミチに扯克扯兒チエクチエル(卽ち前の扯克徹兒 山)の失喇 客額兒シラ ケエル(黃なる荒野)にて、塔塔兒タタルの民タミの筵會ウタゲし居ヲるに遇アひて、渴カワき