Page:成吉思汗実録.pdf/79

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​率​​ヰ​て​來​​キ​つる​時​​トキ​ ​生​​ウマ​れたりとて、​帖木眞​​テムヂン​(親征錄 同じ。元史​鐵木眞​​テムヂン​、蒙古 源流​特穆津​​テムヂン​)の​名​​ナ​を​與​​アタ​へたること、かくあり。(この年は、我が二條 天皇 應保 二年 壬午、宋の高宗 紹興 三十二年、金の世宗 大定 二年、西紀 一一六二年 なり。


§60(01:41:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​也速該​​エスガイ​の四子 一女

 ​也速該 巴阿禿兒​​エスガイ バアトル​の​訶額侖 兀眞​​ホエルン ウヂン​より、​帖木眞​​テムヂン​、​合撒兒​​カツサル​、​合赤溫​​カチウン​、​帖木格​​テムゲ​、この​四人​​ヨタリ​の​子​​コ​ ​生​​ウマ​れたり。​帖木侖​​テムルン​と​云​​イ​ふ​一人​​ヒトリ​の​女​​ムスメ​ ​生​​ウマ​れたり。​帖木眞​​テムヂン​ ​九歲​​コヽノツ​なる​時​​トキ​、​拙赤 合撒兒​​ヂユチ カツサル​(元史本紀​哈撒兒​​ハツサル​、輟耕錄​淄王 搠只 哈撒兒​​シワウ シユチ ハツサル​。世系表​搠只 哈兒 王​​シユチ ハル ワウ​、撒の字を脫せり。蒙古 源流​哈薩兒​​ハツサル​)は、​七歲​​ナヽツ​なりき。​合赤溫 額勒赤​​カチウン エルチ​(輟耕錄​濟王 哈赤溫​​セイワウ ハチウン​、世系表​哈赤溫 大王​​ハチウン ダイワウ​、蒙古 源流​哈濟錦​​ハヂギン​)は​五歲​​イツヽ​なりき。​帖木格 斡惕赤斤​​テムゲ オツチギン​(世系表​鐵木哥 斡赤斤 國王​​テムゲ オチギン コクワウ​、蒙古 源流​諤楚肯​​オチユゲン​)は、​三歲​​ミツ​なりき。​帖木侖​​テムルン​(元史 諸︀公主表​昌國 大長公主 帖木倫​​シヤウコク タイチヤウコウシユ テムルン​)は、​繃車​​ウバグルマ​に​在​​ア​りき。(帖木眞 九歲なる時は、我が高倉 天皇 嘉應 二年 庚寅、宗の孝宗 乾道 六年、金の大定 十年、西紀 一一七〇年なり。


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​也速該​​エスガイ​と​德 薛禪​​デイ セチエン​の​出遇​​デア​ひ

 ​也速該 巴阿禿兒​​エスガイ バアトル​は、​帖木眞​​テムヂン​の​九歲​​コヽノツ​なる​時​​トキ​、​訶額侖 額客​​ホエルン エケ​(訶額侖なる母)の​外家​​サトカタ​なる​斡勒忽納兀惕​​オルクヌウト​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​にて、​彼​​カレ​(帖木眞)の​母方​​ハヽカタ​の​舅​​ヲヂ​だちより​息女​​ムスメ​を​求​​モト​めんとて、​帖木眞​​テムヂン​を​率​​ヰ​て​往​​ユ​きたり。​往​​ユ​く​時​​トキ​、​扯克徹兒​​チエクチエル​、​赤忽兒古​​チクルグ​ ​二山​​ニザン​の​閒​​アヒダ​にて、​翁吉喇惕​​オンギラト​〈[#ルビ「オンギラト」は底本では「オン ラト」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉親征錄 元史​弘吉剌​​ホンギラ​、蒙古 源流​鴻吉喇特​​ホンギラト​)の​德 薛禪​​デイ セチエン​(親征錄、元史 大祖︀紀​迭夷​​デイ​、元史 本傳​特 薛禪​​テ セチエン​、蒙古 源流​岱 徹辰​​ダイ チエチエン​)に​遇​​ア​へり。(二山の地は、いまだ考へ得ず。只、露西亞の地圖を見るに、呼倫 諾爾の西南 六十餘里、克魯倫 河の北岸に齊克提喇克と云ふ處あり、二山の名と音近し。


§62(01:42:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​德 薛禪​​デイ セチエン​ ​也速該​​エスガイ​の問答

 ​德 薛禪​​デイ セチエン​ ​言​​イ​はく「​也速該​​エスガイ​ ​忽荅​​クダ​(也速該なる親家 卽ち緣者︀)。​誰​​タレ​の​處​​トコロ​を​指​​サ​し